『アジアと日本 ことばの旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧

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第8回 ブータンのスジャとガジャ(ブータン、ゾンカ語)

宮本万里先生のお写真

宮本万里(慶應義塾大学商学部・准教授)

塩味のお茶

 ブータンの人たちは茶をよく飲む。牧畜が盛んであった西ブータンでは、客が来たらたっぷりのバターが入ったスジャ(su ja)と呼ばれる茶を出す。これは一般に塩バター茶とも言われ、モンゴル地方やチベット、ウィグル自治区、さらにヒマラヤ北部などで飲まれてきた。穀物や野菜の栽培が困難で家畜に依存するこれらの寒冷高地では、茶は古くからビタミンやミネラルを補給するために不可欠な食材であり、中国との間の主要な交易品であったことが知られている。ブータンに入る茶は長らくチベットの市場を経由したものであったが、1959年にチベットとの国境を封鎖して以降は徐々にインド在住のチベット系コミュニティ等を経由して入手するようになっていったようだ。

 茶葉は黒茶の一種を押し固めたもので、ブータンでは三角形に固めたものをジャリ(ja ri)、板状に固めた物をジャバグチュ(ja bagchu)と呼ぶ。この茶葉を煮出してバターと塩を加え攪拌したものが塩バター茶であり、ブータンの国語ゾンカでは「攪拌/攪乳する(su)茶(ja)」という意味になる。

おもてなしのお茶

 20年ほど前、筆者がブータンでフィールドワークを始めた頃、初めて訪れたフィールドの一つがポブジカ谷と呼ばれる湿原の村であった。村の話を聞くために訪れた家々では、必ずこのバター茶が出された。攪拌されて乳化したバターが漂う大ぶりのマグカップを傾けると、その下にはグレーがかった濃い桃色の液体が見える。恐る恐る口を近づけると、バターの香りと塩味が感じられほんのりとプーアール茶のようなお茶の香りがする。お茶というよりもスープといった趣きだ。数口飲んだ後、インタビューに取り掛かる。10分ほどメモをとりながら聞き取りをして、再度カップに口をつけると、さっきまで液体であったものは固体に変化していた。表面に浮いていたバターが冷えて固まったのだ。試しに指先で厚いバターの膜を突き破るとようやく温かさを残す液体に辿り着いた。

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訪問した村の居間で出されたスジャ。上級のお客には陶器の茶碗。普段はプラスチックのマグカップ。
昔は皆自分用の木椀を一つ着物の胸元に潜ませていたが、今ではもち歩く者はほとんどいない。

 このように表面が固形化するほどのバターを使えるのは、ヤクやウシの牧畜が盛んで乳製品が十分に取れる地域の証でもある。バターは調理にも使う日用品であるが、家畜の少ない世帯の人々にとっては贅沢品でもあり、あのスジャの戸惑うほどの量のバターは、家主の気前の良さを示すものでもあったのだった。

 その後の調査で滞在したブムタン県の村の家では、毎朝滞在した家の主人がジャスム(ja sum)と呼ばれる大筒様の道具でバター茶を攪拌する音で目が覚めた。湯を沸かし、スジャを作ることは朝の最初の仕事なのである。農繁期の村では、昼食にはしっかりと米とおかずを食べるが、早朝にはスジャに生米を浸水後に空炒りして作るザオを一摑み入れて食べ、畑に向かうことが多い。大きなジャスムで作った大量のスジャは、大ぶりのアルミホイル製の蓋付きポットに移し替えられてストーブの上などに置かれ、客のカップに茶を注ぐ前に主人は必ずポットを前後に少しゆすり、バターが分離しないよう配慮する。多めに作ったスジャは中国製の大きな魔法瓶で保存された。

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ジャスムでスジャを作る村の女性。円盤つきの棒を上下させて液体を攪拌する。

 スジャは仏教僧院の日課においても不可欠な要素であり、早朝のスジャの後も、修養の合間の小休憩には、大きな蓋付きポットを持った僧侶が一列ごとに仲間の僧侶たちに茶汲みをして回る風景を見ることができる。村落の家や寺で行われる儀礼においても、読経の合間に僧侶たちに茶を供することは施主の義務となっている。

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村寺の台所。囲炉裏で保温されるスジャの入った蓋付きポットとガジャの入った鍋。
僧侶たちの休憩時間に合わせて提供される。

 中央アジアの牧畜社会では、人々は日に数十杯の塩バター茶を飲んでいたとされ、茶はビタミン摂取などの観点からも不可欠な役割を果たしてきた。そのため茶の供給源である中国との茶交易の停止は死活問題に発展した。中国側の記録では、茶葉は、モンゴルやチベットの馬と交換した時期には「馬茶」と呼ばれたほか、辺境のための辺茶、チベット(西蔵)のための「蔵茶」など、時代によって様々な呼び名が当てられていたようである。そして中国の歴代皇帝たちは茶葉の供給量を調節することで、チベットに対する政治的な影響力を維持し続けたという説もある。

 他方、国内で米や小麦、野菜等の栽培ができるブータンでは、スジャは比較的補助的な食材であったとも言えそうだが、それでも茶が人々の生活に不可欠であることは他の地域と変わりがない。村の中を歩いていると誰かが必ず「茶を飲んでいけ」と声をかけてくるような歓待の文化とスジャは切っても切り離せないものなのである。

甘いお茶も好き?

 チベットの政情が不安定化した1959年以降、ブータンはインドとの連携を強めていったが、その際に茶飲み文化にも大きな変化が起こっている。南アジアを席巻するアムール印のミルクパウダーとタージ・マハル印の紅茶と砂糖が、どんな小さな村の売店にも売られるようになっていき、ガジャ(nga ja)と呼ばれる甘いミルクティーを飲む習慣が広がっていったのである。ngaとは甘味をさしており、ガジャとはつまり「甘いお茶」という意味になる。毎食、必ず唐辛子を大量に使って食事を作るブータン人の伝統的な食生活において、「甘い」食べ物はほとんど存在してこなかった。だからこそ「甘いお茶」はミルクティーただ一つを指すものとなったのだろう。

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牧畜小屋の囲炉裏端。ヤクのミルクを使ってガジャを作る牧畜民の女性。

 ブータンでも核家族化が進み世帯の規模が小さくなっている近年、家庭で作る茶の量は以前ほど膨大ではなくなっており、早朝にスジャを攪拌する巨大なジャスムの音で目を覚ますことは稀である。スジャは台所のミキサーで少量作れば十分であり、こうした生活スタイルの変化は、小鍋で作るガジャの浸透にも貢献しただろう。調査で訪ねた山奥の村で老婆が「砂糖も買えない(から茶も出せない)」と呟いた20年前に比べ、砂糖が贅沢品であると考える者はもう稀だ。

 これら2種類のジャ(茶)に対する現在の人々の好みは、出身地や家庭の生活習慣のほか、食事時か喫茶時かなど状況によるところも大きいようにみえる。しかし、外国人やミルクティー好きのインド人に対するもてなしの場面では「ジャは? スジャかね? ガジャかね?」などと聞かれない限り、自動的にガジャが出てくる。これは、もちろん経験的に得た知識でもあるだろうが、既製食品(缶詰のスープや豆など)に旅行者の食の安全を依存していた以前の官製観光時代の名残もあるだろうと愚推する。自家製バターと(あまり洗われることのない)ジャスムを使った本場のスジャの野生味は、慣れるまでに少し時間がかかるのだ。

(2025年2月4日)
〈プロフィール〉
宮本万里(みやもと・まり)
慶應義塾大学商学部准教授。専門は、政治人類学、環境人類学、ブータン及び北東インド等南アジア地域研究。主な著書論文に、『自然保護をめぐる文化の政治:ブータン牧畜民の生活・信仰・環境政策』(風響社、2009年)、「剝き出しの屠りと匿名的な屠畜者たち:現代ブータンにみる屠畜規制と拡大する放生実践」田中雅一他編『インド・剝き出しの世界』(春風社、2021年)、「ネップ関係からみるブータンの高地牧畜民社会とその変容:北部国境防衛と定住化の狭間で」『地域研究』20巻1号(2020年)、“Animal Slaughter and Religious Nationalism in Bhutan” in Asian Ethnology, vol.80, no.1 (2021) など。