『アジアと日本 アジア伝統医学の旅』(研究者エッセイ・シリーズ)連載一覧

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第6回 鍼灸師のテレビ漂游 ~新史料に導かれて~

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長野 仁(森ノ宮医療大学大学院 教授)

1. 鍼灸師と医史学者

 第1回ワンダーランド・フェスティバル! 人生のターニング・ポイントとなった史上初のガレージ・キットの祭典。1985年の正月、都立産業貿易センター(旧・浜松町館3階)に展示された作品群のレべチに打ちのめされた私は、サブカル界での生存確率は0%と見切りをつけたのでした。

 崖っぷちに追い込まれた私は、獣医学部をリサーチ中の同級生が呟いた「へぇ~、鍼灸って大学があるんだぁ~」という一言をきっかけに、明治鍼灸大学(現・明治国際医療大学)の推薦入試にチャレンジ。あわよくば現役で合格できるし、そうなれば一人暮らしが待っているし、大卒になるから潰しも効くし……世俗的で短絡的な理由はもとより、私のことですから「オレはケンシロウになる!」というウケねらい(負け惜しみ)がメインだったことは言うまでもありません。

 ともあれ、バイト代で絶版プラモと初版マンガを買い漁り、宇宙刑事のコスチューム(写真1)製作に没頭したオタクの日々……。いま振り返れば、それが銅人形・明堂図の実物調査と鍼灸書・医方書の書誌研究の予行演習になっていたわけですから、驚くほかありません。

【写真1 オリジナル宇宙刑事シュガイザー デザイン・製作・演技とも筆者】写真1 オリジナル宇宙刑事シュガイザー デザイン・製作・演技とも筆者

 わが母校となった明治鍼灸大学は、鍼灸の科学化を標榜する医療系(理系)の単科大学で、歴史・伝統・古典は切り捨てるべき過去の遺物という校風でした。あまり考えずに入学した母校の得意技は通電パルス鍼で、そのビリビリ感が苦痛すぎて「こんなん本当に効くわけ?」という猜疑心に苛さいなまれ、2回生の夏休みに本気で中退を考えました。「辞めちゃう前に大学とは真逆の鍼を体験してみては?」と同級生に誘われるがまま、京都市社会教育総合センター(現・京都アスニー)で毎月開催されていた経絡治療学会の関西支部に連れて行かれました。あいにくの夏風邪で高熱だったのですが、モデル患者に最適とばかりに、昔ながらの鍼を初めて受けることとなりました。福本憲太郎支部長が右肩に刺した瞬間、小指の先まで鍼感が響き、左肩を刺し終えた途端、全身からドッと汗が吹き出したのです。午後にはすっかり解熱し、感動を禁じえないまま何で効いたのかとお尋ねしたところ、「学士さんとこ(母校を揶揄する言い回し)と違うて、手首の脈に現れた経絡の虚実に随うて刺したまでや」と。
 カッケー! ホンモノー! 母校が忌み嫌う歴史の中にこそ鍼灸の本質と真実が隠されている。そう確信した私は4回生の夏、東洋の医学史・科学史を深掘りするため、北里大学東洋医学総合研究所の小曽戸洋先生と京都大学人文科学研所(当時は信州大学)の武田時昌先生、東西の若手の両雄に手紙をしたためて教えを乞いました。爾来、恩師となった二大家の背中を追いかけ続ける中で、後述のようにNHK出演の機会が巡ってきたのです。

 若い今しか研究に打ち込めないと考え、卒業と同時に新設された母校の大学院に進学してからは、京都医学史研究会の重鎮、高島文一先生・宗田一先生・杉立義一先生(サンイチ・コンビ)の謦咳けいがいに接しつつ、国際日本文化研究センターの受託院生制度を利用して、山田慶兒先生(武田先生の師匠)の本草学・博物学研究班の末席を汚すようになりました。

 修士号を取得して1年間だけ母校の助手を務めたのち、本邦初の博士課程(鍼灸学)に進学しました。しかし、実験研究に乗り気になれずにくすぶっていた最中さなか、阪神淡路大震災に遭遇して人生観がガラッと変わり、1年で中退して東洋医学専門のオリエント出版社に転職しました。なぜなら、古典界にも所謂いわゆる「2000年問題」が存在したからです。それは、簡単な手続きで原本が閲覧できた一般書扱いの古医書が、世紀をまたぐと貴重書に格上げされて利用困難になってしまう……医書誌研究には死活問題だったのです。タイムリミットは5年! 時間の許す限り閲覧し、予算の続く限り複写せねば!という使命感に駆られ、僅か3年半で120冊(約7万頁)以上の影印本に携わりました。

 けれども、10日に1冊の超ハイペースに心身ともに疲弊して頓挫……1998年6月に退職し、8年間下宿していた京都府船井郡八木町(現・南丹市)に戻って鍼灸はりきゅう鴻こう仁じんを開業したのです。それにしても、時代の変化には抗あらがえません。デジタル・アーカイブによる‟大公開時代”の到来によって、当時の粉骨砕身は私個人の業績となった以外、完全に無意味化されてしまいました。

2. テレビ東京系《開運!なんでも鑑定団》

 第1期の博士課程を放り投げて大学の面子を潰し、古典研究の第一線からも離脱してしまった私でしたが、直属の上司だった篠原昭二助教授(当時)が翌1999年4月に非常勤講師のポストを用意して下さいました。改めて深謝する次第ですが、ここからテレビを漂游するシーズン2の「は~じまり はじまりぃ~」とあいなります。

 田中知新流を謳うこの木製の銅人形(材質にかかわらず経絡経穴を描いた人体模型は銅人形と称します)は、兵庫県揖保郡太子町の某寺院の人形供養で危うく処分されるところだったそうです。それに待ったをかけた町立歴史資料館の館長から、兵庫県鍼灸師会経由で母校に照会があり、加えて持ち主のご家族が《開運!なんでも鑑定団》に依頼していたことから、非常勤に返り咲いた私が同番組の取材を受けることとなったのです。

【写真2  田中知新流銅人形/森ノ宮医療学園はりきゅうミュージアム所蔵】写真2  田中知新流銅人形/森ノ宮医療学園はりきゅうミュージアム所蔵

 この銅人形は、現存最大級の木製品であること、江戸ガラスの玉眼入りであることが評価され、350万円の高値が付きました。満面の笑みの持ち主は、てっきり番組の鑑定士が「オープン・ザ・プライス」で買い上げてくれると思い込んでいたそうですが、下取りと売り値とのギャップに愕然とし、一転しょんぼり帰宅されたそうです。

 放映から数日後、館長から鑑定額での買い手を探して欲しいとの電話があり、はりきゅうミュージアムの開設準備中だった大阪鍼灸専門学校(現・森ノ宮医療学園専門学校)が、展示の目玉として購入することとなったのです。

 かくいう私は、この銅人形からお供を命じられたかのように、翌2000年4月に母校から森ノ宮へと移籍し(実際には森秀太郎名誉理事長のご推挙です)、展示準備と図録執筆の時間を捻出するために鍼灸院も神戸市に移転してしまいました。ちなみに、鍼灸界には昭和を代表する高木健太郎先生(医師/医博)・間中喜雄先生(医師/医博)・代田文誌先生(鍼灸師)の名を冠した三大賞があり、はりきゅうミュージアムの開設によって森ノ宮医療学園は第15回(2001年度)の間中賞に輝いております。

 ミュージアム開設の翌月(2001年2月)、今度はドイツのハンブルグ州立民族学博物館所蔵の銅製の網目銅人形について、番組からダイレクト・オファーがやってきました。依頼の銅人形は紀州藩医の飯村玄斎らが1669年に鋳造したもので、東京大学博物館が1660年頃に彫られた雛型と思しき小ぶりの木像を、東京国立博物館が1662年に鋳られた兄貴分の銅像を収蔵しています。番組収録のため一時帰国した銅人形には1500万円の超高値が付き、ある鑑定士が「重要文化財級の代物である」とコメントしました。その予言は見事に的中、兄貴分の東博の銅人形は、拙論が根拠となって2005年に重文指定されたのです(写真3)。

【写真3 (銅製網目)銅人形/東京国立博物館所蔵】写真3 (銅製網目)銅人形/東京国立博物館所蔵

 ちなみに、北宋の王惟一が天聖5年(1027)に鋳造した等身大の銅人形は、単なる人体模型ではなくて適格な経ツ穴ボに鍼を刺すと水銀が流れ出す臨床シミュレーターだったと伝えられています。かかる観点から、私は日本医科器械資料保存協会の第25回・青木賞(2016年度・奨励賞)に選出され、15年来の地道な研究が医学界に広く認められるところとなったのです。森ノ宮医療学園の清水尚道理事長のご推挙で現職に就いた翌年の慶事でしたから、ご期待に添えてホッと胸を撫で下ろしました。

3. NHK・Eテレ《おしゃれ工房》《まる得マガジン》

 時間を戻します。ミュージアムの準備に追われている真まっ只中ただなか、京大の武田時昌先生の出前講義を受けていた関西学院大学OBのNHKディレクターから、「ツボ健康法」の番組を作りたいとのオーダーが舞い込んできました。当初は多忙過ぎて固辞しましたが、メイン・ターゲットの主婦層には年下男性のウケが良いからと懇願され、武田先生の顔を潰すわけにもいかず、しぶしぶ引き受けました。その時は、足掛け5年のロングランになるとは思いもよりませんでした。

 最初のオンエアは2001年1月、ミュージアム開設の直後で、その時は解体目前のレトロな旧大阪放送会館での撮影でした。《おしゃれ工房》(現《すてきにハンドメイド》)と《今日の料理》の10分の隙間を埋めるスタジオ・コーナーに2日出演したのですが、テキストに載っておらず再放送もないため、もう一度見たい方や見逃した方から問い合わせの電話が殺到したのだそうです。手ごたえを感じた上役のプロデューサーのご指名で、その年の7月、今度はピカピカの新・NHK大阪放送局で撮影し、同じコーナーに倍の4日出演しました。やはり問い合わせ殺到となり、いよいよ本編に昇格! ということで、2002年(堀ちえみさん共演)と2003年(千堂あきほさん共演)の《おしゃれ工房》で「ひとりで簡単!ツボ体操」を放映したのです。この2回の間に、《金曜アクセスライン》という渋谷の生番組(宮崎美子さん共演)にも出演しました。

 高校時代には変身ポーズをカッコよく決めるために剛柔流空手道を習い、大学時代には身体操法に魅せられて心身統一合氣道に励みましたが、二つの武道のエッセンスをベースにして、番組用に朝・昼・夜の3パターンの「ツボ体操」を考案しました。これは一連のツボ刺激とストレッチで心身を整える、いうなれば「定食」的な方式です。『おしゃれ工房』誌の「ツボ体操」収録号が2年連続で完売となったため、いよいよ単体デビューの道が拓けたのです。

 2004年と2005年、やはりNHK《まる得マガジン》の一環として頻りにオンエアされた《癒やしのツボエクササイズ》は、神戸での診療と森ノ宮での週8コマの授業の合間を縫って、東京での写真撮影と大阪での番組収録を精力的にこなしました。

 さて、単体のテキストは「定食」方式から「単品」方式へと大きく方向転換。2004年のパートⅠでは、①疲れた目をリフレッシュ・②頭をすっきりさせる・③首のコリをほぐす・④肩のコリをほぐす・⑤手の疲れをやわらげる・⑥背中のハリをやわらげる・⑦腰のだるさをとる・⑧むくんだ足をすっきりとの8テーマを、2005年のパートⅡでは、①胃をすっきりと・②便通をスムーズに・③排尿をスムーズに・④冷えをやわらげる・⑤ほてりとのぼせ・⑥動悸と息切れ・⑦生理痛と生理不順・⑧快眠の8テーマを選定しました。

 大好評につき、2006年にはパートⅢが内定しておりました。企画書を作成していたところ、ディレクターから「ホット・ヨガのブームが到来しまして……パートⅢは没ボツになってしまい……」と恐縮しきりの電話があり、「その代わりといってはなんですが、2年分の総集編としてDVDを出したいのですが…… 」と代案を伝えられました。後日、わざわざ番組統括のエグゼクティブ・プロデューサーが神戸までお越しになって、その場で契約を交わしました。そして、『健康になる癒やしのツボ』と改題してポニーキャニオンからリリースされ、再販こそされませんでしたが、これも完売となりました。

写真4 『癒やしのツボエクササイズ』Ⅰ・Ⅱ(日本放送出版協会2004・2005刊)『健康になる癒やしのツボ』(ポニーキャニオン2006版)写真4 『癒やしのツボエクササイズ』Ⅰ・Ⅱ(日本放送出版協会2004・2005刊) 『健康になる癒やしのツボ』(ポニーキャニオン2006版)
4. NHK・Eテレ《歴史秘話ヒストリア》

 それから10年の歳月を経て、今度は医史学者として、北里の小曽戸洋先生の仲介でお声がかかりました。堺雅人主演の大河ドラマ《真田丸》とのタイアップで、《歴史秘話ヒストリア》が「戦国時代のスーパードクター曲直瀬道三」を企画したのです。日本医学中興の祖と目される曲直瀬道三(1507〜1594)はお灸を多用しており、毛利元就の中風を回復させたことは有名なエピソードです。

 現在は皮膚を焼かない温灸が主流ですが、旧来の直じか灸きゅうは蓬よもぎの葉裏の綿毛を集めた艾もぐさをツボに据えて着火します。1800年以降は艾を据えてから線香で着火するようになりましたが、それ以前は灸やいと箸ばしと呼ばれる専用の火箸で艾を摘み、燈とう明みょうで着火してからツボに据えていました。時代考証に基づく再現ドラマを撮るには、役者同士で灸箸を用いた施灸シーンを撮影することになりますが、もし火の点いた艾が転がったり落ちたりすれば火傷やけど(撮影事故)になってしまいます。よって、私はコメントを述べるだけでなく、現場でのハンドモデルも引き受けたのです。

 4年後の2020年、今度は長谷川博己主演の大河ドラマ《麒麟がくる》のタイアップで「あらためて知りたい!明智光秀」の企画が持ち上がりました。熊本県立美術館に寄託されている1566年奥書の『針しん薬方やくほう』は、「明智十兵衛」の初出文献であるとともに、光秀が医学に精通していたことを証明する第一級史料でもあったのです。ディレクターの要請で、東京大学史料編纂所のマイクロフィルムを閲覧して台本用の情報を提供し、後日、熊本での現地ロケに合流しました(熊本城が7月28日に再び被災しましたが、城内の県立美術館が8月5日に営業再開とのニュースを見てホッしました)。

 番組では、『針薬方』に関するコメントを述べたのと、「所労」の光秀が腹部に鍼を受けるシーンのハンドモデルを行いました。撮影用には、私の所持する幕末明治期の鍼の鍼柄(龍頭)に極太の中国鍼の鍼体を結合した鍼を製作し、1700年以降に主流となった鍼管は用いず、古式の撚鍼術で挑みました(写真5)。《麒麟がくる》では現行の中国鍼で撮影していましたから、この部分は《ヒストリア》に軍配が上がったものと自負しております。

【写真5 『鍼灸抜萃』(1676初刊)所載の撚鍼術の再現シーン】写真5 『鍼灸抜萃』(1676初刊)所載の撚鍼術の再現シーン
5. むすび

 ここでは挙げきれなかったテレビ出演や新聞・雑誌の取材も含めれば、マスメディアへの露出度は現役の鍼灸師で十指には入るだろうと思います。かといって、昭和の浪越徳次郎のような全国的(国際的)知名度を得たわけでは全くありません。ともあれ、大勢のメディアの方と関わったことで、永六輔のいう「俗談平話(難しい事柄を易しく嚙み砕く)」の習慣が身に着き、人前に立つ人間として大きな財産を得ることができました。一々ご芳名は挙げませんが、私を育はぐくんでくださったメディアの皆様に心より感謝の意を表します。

 以上、昔話の「藁わら蕊しべ長者」よろしく、ドンピシャのタイミングでヒトに呼ばれモノに招かれた結果、「オタク崩れが鍼灸とお見合い結婚したら教授になって受賞もした件ですが何か?的なラノベを綴ることになったとさ」……おしまい。

 

(2026年10月5日)
〈プロフィール〉
長野 仁(ながの・ひとし)
森ノ宮医療大学大学院教授(鍼灸鴻仁院長兼務)。専門は日本医学史・鍼灸史。『はりきゅうミュージアム:銅人形・明堂図篇』(共編、森ノ宮医療学園出版部、2001年)、「寛文九年製飯村玄斎考「銅人形」覚書:紀州は和製「銅人形」発祥の地か」上・中・下(『鍼灸OSAKA』17巻2・3・4号、2001年)、『日本腹診の源流:『意仲玄奥』の世界』(共編、六然社、2004年)、『戦国時代のハラノムシ:『針聞書』のゆかいな病魔たち』(共著、国書刊行会、2006年)、『虫の知らせ:九州国立博物館蔵『針聞書』』(共著、ジェイ・キャスト、2007年)、『実践小児はり法』(分担執筆、医歯薬出版、2012年)ほか、AERA、朝日新聞、西日本新聞など取材記事多数。京都大学人文科学研究協会賞(2007年)、東亜医学協会賞(2016年)、日本伝統鍼灸学会創立50周年記念賞(2022年)も受賞。