第5回未来への対話:AJI若手研究者へのインタビュー

李眞惠先生インタビュー

future_05_header  越境した人々に触れる越境する研究
~~韓国からカザフスタンへ、そして日本に渡った研究者生活~~

―― まず最初の質問として、職業として研究者を選んだきっかけはどのようなものだったのでしょうか?

李:研究者という職業を選んだ明確なきっかけがあったというよりは、私が育ってきた環境によって自然に研究者の道が開かれたように思います。まず、子供の頃から家にはいろんな種類の本がたくさんありました。それによって自然に本を読むことが遊びの一つになって、読書の感想を文章に残すことを楽しんだりしていました。私には作家になった姉がいますが、姉は私より本が好きでしたね。姉が幼い時に一人で本を読んでいる姿をいまでも思い出します。姉は、そういう環境の中から作家になったのだと思います。私は、本を読んで、その感想を書き残しつつ、よく分からないことに出会ったとき、関連する本を読んで、疑問を解消していく過程のほうに楽しさを感じていました。中学や高校、そして大学時代には、英語、日本語、カザフ語を学びながら、以前には知らなかった新しい世界が開かれるのがとても楽しく感じましたので、それは研究者の道にすすむ大きなきっかけだったと思います。とくに、学部生のときにはいろいろな授業を通して知らないことに出会い、そこから自分で探求していく過程がますます楽しくなりました。その頃から、研究者という存在がこういう探求に関わるならば、そこに向かって行きたいと思うようになりました。

――幼少期から本に親しんできたのですね。また、カザフ語の話も出ましたが、李先生は、カザフスタンにおける少数民族問題をご専門とされていますね。なぜその研究テーマを選んだのでしょうか?その経緯をお聞かせください。

李:カザフスタンは、1991年のソ連解体とともに独立を宣言し、カザフ人を基幹民族とした国民統合を進めていきました。ソ連時代の多様な民族構成をそのまま受け継ぎ、独立国家としてのネーションビルディングを行っています。カザフスタンは、現在130以上のエスニックグループで構成される多民族国家です。そのなかで、コリアン・ディアスポラであるコリョ・サラムはカザフスタン人口の0.6%を占める少数民族です。ソ連解体と旧ソ連諸国の独立は、当時の社会全般に混乱をもたらし、各国はそれぞれのやり方で国民統合を成し遂げました。とくに、当初の懸念とは異なり、独立以来、カザフスタンでは民族紛争がなかったので、そこでの国民統合とそれに対応する少数民族、特にコリョ・サラム社会の現状はどうなっているのかという疑問を持ったのが、研究のスタート地点といえます。

――カザフスタンにおけるコリアン・ディアスポラですか。そのような存在があることは存じませんでした。李先生は、コリョ・サラムの人々とどのような関わりをお持ちなのですか?

李:私は学部時代から修士時代に至るまで語学研修、交換留学、アジア大会での通訳など、カザフスタンに行く機会が多くありました。そうやって、自然にコリョ・サラムの人々とも交流する機会を持つことができました。最初、韓国で生まれ育った私は、彼らが私の同胞、または同じ民族だと韓国人としての視角から捉えていました。しかし、確かに、彼らは、韓国人と同じ名字を使いながら、見た目も似ていて、キムチを食べますが、実際に向き合ってみると、韓国人の私との共通点が全く見当たらないということが私にとってはかなり衝撃的でした。例えば、キムという名字を持った外国人と、お昼で一緒にキムチを食べる感じといったところでしょうか。同胞または同じ民族なら、当然共有すべきものがあると思っていましたが、私は彼らと私の間に何の共通点も発見することができなかったんですね。また、在日コリアン研究で私が知っているケースでは、本人が在日コリアンであり、韓国を訪問することで現地の人々との共通点を発見することで、研究を始めるという方がいらっしゃいました。しかし、私の場合は、逆にカザフスタンで会ったコリアンと私の間になんの共通点もないということに直面し、それが今の研究の出発点となっています。もちろん、大学院の修士課程、博士課程の時に、多くの先生の方々からの助言を得て、「カザフスタン少数民族問題」を専門にすることになったのは言うまでもありません。

――とてもおもしろい発見ですね。また、李先生の研究活動のなかでカザフ語をお使いになることも多いと思います。しかし、日本では、なかなかカザフ語のイメージが浮かびません。カザフ語とはどんな言語なんですか?

李:その質問はよく受けます。まず、カザフ語は日本語、韓国語と語順が同じです。日本語と韓国語は漢字文化圏の言語でもありますが、カザフ語はトルク語系統の言語です。また、カザフ語はスラヴ語系統のロシア語のアルファベット33個を借用し、カザフ語固有文字のアルファベット9個を加えた計42個のアルファベットで構成された言語です。2017年からラテン文字への転換作業が着手されていますが、依然としてかなりの部分がロシア語のキリル文字表記を併用しています。また、独立直後、歴史的な経緯からカザフ語の基盤自体が強固ではなく、カザフ人の中でもカザフ語を話せなかったケースも少なくありませんでした。独立前後の数回の改正を経た言語法(特にロシア語の地位の変更が中心となりました)により、1995年以来カザフスタンはカザフ語とロシア語の2言語を公式言語として定めています。

――カザフスタンでは、現在進行形で言語制度のかたちが変化しているのです。李先生はカザフ語をどのように勉強なさったのですか?

李:私は韓国での学部時代に中央アジア語学科に入学して、カザフ語を習い始めました。当時、カザフスタンは、韓国内でもあまり知られていない国だったため、その国の言語を学ぶことは簡単ではありませんでした。カザフ語のアルファベットの発音も不慣れだったので、入学して最初の1カ月はアルファベットを、暗唱しながら覚えることに集中した記憶があります。英語、日本語、中国語、スペイン語など、韓国で需要が多い外国語とは違い、カザフ語の場合、当時は需要がほとんどない時期であったため、これといった補助教材は存在しませんでした。それでひたすら、教科書と辞書に頼ってカザフ語を学んでいました。教科書は韓国語に翻訳された教材ではなく、カザフスタンで市販されているロシア語で解説されたカザフ語の教材でした。辞書は、カザフ語・英語/英語・カザフ語版を使用しました。私はその学科の2期生だったのですが、現在はより良い環境で後輩たちがカザフ語を勉強していると思います。私は、このように韓国で一回生の春学期を修学し、夏休みを利用して5週間現地で言語研修を受けて、3回生の時には交換留学生としてアルマトゥで1年を過ごしながらカザフ語を現地で覚えました。現地でカザフ語を体得することによって、言葉だけではなく、そこでのさまざまなことを経験しながら、カザフ語を学ぶことができました。それによって、ある国の言語を学ぶのにもっとも良い方法は、可能であればその社会に入ることだと考えるようになりました。その後は韓国とカザフスタン両国の国際的な行事に参加しながら多様な経験を積み、日本に留学してからは研究関連の資料に接したり、現地調査に行く度にカザフ語体験を向上させています。

――特に東アジア地域においては、大変習得が難しそうな言語だということがお話からも分かります。日本での研究生活はどうですか?日本への留学経験も含めてお話をお聞かせください。

李:はい。私は2013年に来日し、研究生の2年間を経て、2015年に博士課程に入学し、2019年に学位を取得しました。研究生の時には博士課程に入学することが目標であり、入学してからは学位を取ることが目標でした。また、2020年には学振(日本学術振興会)の外国人PDに採用されました。この過程すべてをふりかえると、私の分野に限ってみれば、日本は少なくともやる気を持っている人、能力がある人にさまざまな機会が与えられる環境であるように思います。私の経験に限った話になりますが、私が研究者として属してきた環境では、研究分野や対象地域が違っても、立派な先輩たちと同期たちがいて、時には私の研究の道案内人になったり、時には私にとっての良い刺激になったりして、より熱心に研究に打ち込めることができたと思います。いい環境で研究ができるということは、研究生活では重要な条件の一つだと思っています。また、私の韓国の知人でも、私より先に日本での研究生活を経験した方が、日本は理工系だけでなく人文社会学分野の研究環境もいいとしばしば言っています。私もその言葉にかなり共感しています。

――博士課程への進学から来日されたのですね。研究では、日本語も使われると思います。韓国語と日本語の違いについて、何か経験談をお聞かせください。

李:留学に来る前に韓国で日本語を勉強している時は、狭い了見から日本は韓国のような漢字文化圏であるため、日本語は韓国語と似ている部分が多いだろうと想像していました。実際、日本語の漢字表現がそのままハングル読みで使われる場合がしばしばあるからです。しかし、いざ日本社会に入ってみたら、それは一部にすぎず、日本語は韓国語には存在しない名詞と動詞の合成語があまりにも多いということが分かりました。また、日本社会でよく使われる和製英語、あるいは日本語で発音する英語そのままの表現は、一般的に韓国では使われないという点、その逆の場合も存在するという点などは、多様な角度で勉強が必要な部分でした。私は、日本語の表現を覚えるために、アルバイトで親しくなった人たちと積極的に会話をしたり、一つのドラマを繰り返して見たり(字幕の大きさを小さくしたり、字幕を無くして見たり)、ニュースを見るなどの努力をしてきました。そうしながら、テキストを通して学んではいましたが、女性と男性が使う表現の違い、口語体と文語体との違い、あるいは決まり文句などといった表現を少しずつ体得していったように思います。とはいえ、依然として日本語の形容詞、助詞、副詞などの表現を憶えるのは難しいですね。

――語学のテキストからだけでは見えてこない文脈に即した微妙な表現など、学ぶのがとても難しいだろうと思います。

李:当然のことかもしれませんが、外国人が外国語である日本語を使いこなす能力は、日本語式の表現をいかに自由自在に使いこなせるかが鍵ではないかと思います。ところで、私が経験したところでは、興味深いことに、ほとんどの人々は母国語を通じて外国語を習得し、母国語によって形づくられた考える習慣が、外国語を話すときにも表れるように思います。例えば、「正直に」という日本語をよく使う日本人が韓国語で話す時にも、日本語の「正直に」という意味の韓国語の表現である「ソルジッキ」をよく使うとか、「seriously」をよく使う英語が母国語である人は、外国語であるロシア語で話す時にも、英語の「seriously」と同じ意味のロシア語の表現である「Серьезно говорю」をよく使っているように感じました。私は母国語である韓国語で話す時に、「ウン、オ」、「シルゼロ」という表現をよく使います。日本語で話すときにも、同じ意味の「えっと」、「実際に」をよく使ったり、英語で話す時には同じ意味の「um」、「actually」をよく使ってしまいます。

――それはよくわかります。外国語を学んでも、母国語での会話の癖は直らないものですね。最近の研究についてはどうですか?最近の研究テーマについて教えてください。

李:私の研究は、カザフスタンの民族問題を中心として、多民族共存のあり方に焦点を置いています。独立とともにカザフスタンの国民統合は大きく二つの方向に進められてきました。カザフ人中心主義と多民族共存という二つの軸です。ソ連解体と諸国の独立による国民統合政策の変容という急激な変化の中で、エスニック・マイノリティの社会統合と変容のダイナミズムはいかなるものであったか、現代カザフスタンにおける多民族共存とはいかなるものであるかを、コリアン・ディアスポラを事例に明らかにすることを目的としています。
これからは、これまでのカザフスタンコリョ・サラム研究を基にウズベキスタンとクルグズスタン(キルギス)との比較を通じ、中央アジアにおける多民族共存について検討していきたいと思います。3カ国の国民統合の特徴、メディアの環境、そして各国コリョ・サラムのエスニックメディアの分析を行う予定です。

——これまでのカザフスタン研究から中央アジア諸国の比較へと研究を発展されるのですね。とても楽しみです。最近感じていらっしゃる研究の面白さは、どんなところですか。

李:2020年からポスドクをしてきて、博士課程のときとは異なる様々な経験をしてきました。博士号を取得する前までは、博士論文の完成のように、目の前のやるべきことに集中してきました。ところが、ポスドクが終わった今は、この先、もっといい研究をしたいという意欲とともに、どうすれば研究を進歩させるかを考えながら研究をしています。研究者として、今になってそうした姿勢が芽生えたことは少々恥ずかしくもありますが、それをきっかけに私の研究がもっと発展する方向に向かいたい、と思っています。韓国での修士課程の時代に、ある先生が「研究者とは読む・書く・聴く職業であり、書けないなら読むこと、読めないなら聴くことである」と話してくれたことをいまでも覚えています。私も研究を発展させる方法の一つとして、他の分野の研究を聴いたり、読んだりしながら、自分の研究と結びつくインサイト(洞察)を得ようとしています。もちろん、他の分野の研究を理解することは簡単ではありませんが、新しく学んでいく過程がとても興味深いです。これからは、これまでよりも視野を広げて、さまざまな分野の研究から得たインサイトを活用し、自分の研究を発展させたいと思います。

――ご自身のキャリア形成の自覚のなかで研究の発展を見通すようになったとということですね。また、他分野からの刺激を吸収して学んでいく姿勢は、先ほどお話された幼少期のころの姿勢と重なり合っており、それがますます活かされているように思います。これから、どんなプランを立てていますか。

李:ありがたいことに、令和4年度に、立命館大学で専門研究員に採用され、5年度からは助教に採用いただきました。博士取得後、立命館アジア日本研究所で学振外国人PDをしながらワークショップ開催、ブックレット出版、論文投稿、研究発表、ゲストスピーチなどのさまざまな経験は非常に勉強になりました。今後は、若手研究者として、これまでの経験を糧に、もっと研究者として成長したいと思っています。講義をすることは私にとって新しい経験ですが、真面目に最善を尽くして学んでいきたいと思います。
そして、昨年(2022年)の1月にカザフスタンで、液化石油ガスの燃料費の高騰に端を発する大きな抗議デモが起きました。カザフスタンを専門とする研究者として、私がフィールドワークで慣れ親しんだアルマトゥ市街で起きている事態を目にしながら、また、多くの犠牲者を伴うかたちで終息した一連の経過を見ながら、研究者としてできることは何かという問いに突き当たりました。同時に、独立以降のカザフスタンの長期的な独裁政権は妥当なのか、民主化とよりより社会の実現のために政権に様な集団および市民の要求を取り入れていくことは不可欠ではないのか、その過程で生じる犠牲は民主化と進歩のためにどこまで許容されるのか、などの問いに向き合いつつ、研究者としての社会的役割は何なのか、と考えてきました。例えば、ニュースを伝えるアナウンサーの役割とは、事件・事故の客観的な報道が中心となるでしょう。では、研究者の役割とは何でしょうか。これから立命館大学で教員としてのあり方を熱心に学び、研究者としての社会的役割が何なのか発見していきたいと考えています。また、人との出会いによってその役割について学べるとも思います。これからの目的といえば、そうしたことに集中することですね。もちろん、若手研究者としての目の前の課題を一つ一つ誠実に果たしながら、研究者の社会的役割とは何かを考えていければいいと思っています。

――非常にアクチュアルな問題とも向き合う姿勢から、これからどんな研究が生み出されるか非常に楽しみです。今後のさらなるご活躍を期待しています。

(2023.5.1)
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