第7回未来への対話:AJI若手研究者へのインタビュー

Dr.靳春雨インタビュー

future_07_header  漢籍の伝播と受容が生み出す「漢字文化圏」の歴史的実像を求めて
~日本への留学、そして詞学研究の最前線へ~

インタビューアー:現在、職業として研究者の道を歩んでいらっしゃるわけですが、そのきっかけはどのようなものだったのでしょうか?

Dr.靳(以下、靳 ):日本では、詞(宋代に発展した詞学)の研究者が少ないため、先行研究が多いとは言えません。一つの研究が広く展開されるには、基礎資料の系統立てた整理など準備段階の研究が不可欠です。この研究を自ら開拓するのは難しく大変なことですが、やりがいも感じています。大学院時代に、文献調査と一次資料の正確な解読といった基礎的な能力を鍛えることができたのは幸いでした。それをきっかけに、大学院後期課程を修了し、現在に結びつく研究者への道が始まりました。研究を継続するために、立命館アジア・日本研究機構に入りました。本研究機構には、研究者としての質を高めるための環境が整備されているだけでなく、漢字文化圏以外の国際的な学術交流が活発に行われています。また、本研究機構で勤務している異分野の優れた研究者たちとのコミュニケーションもでき、新発想や新知見を得る上でとても恵まれている環境です。これらのことが、研究の道を進む決意をさらに強固なものにしました。

――研究を継続するために、博士号取得後に研究を継続するための環境や人的ネットワークは非常に重要なんですね。Dr.靳 は、中国文学のなかでも宋代詞学をご専門とされていますね。まず、詞とは何でしょうか。その魅力は、どういったところにあるのでしょうか。

靳:詞は、詩余、曲子詞、長短句、楽府とも呼ばれていますが、もともと楽曲に合わせて作られた歌い手のための歌詞です。日本舞踊における端唄や長唄のようなものをイメージしてください。中国では、文学の歴史について各時代に成立した代表的ジャンルとして「楚辞(そじ)・漢賦(かんぷ)・六朝駢文(りくちょうべんぶん)・唐詩・宋詞・元曲・明清小説」と概括されることが多いですが、その中でも宋代に隆盛を極めた「詞」が私の研究の対象です。ちなみに、日本では、早くも平安初期に嵯峨天皇が詞を書き、日本の填詞(てんし)を始めました。詞の魅力は、その形式の多様性にあると思います。唐詩は五言や七言という整った形を持っていますが、詞はもっと変化に富んでいます。また、蘇東坡(そとうば)や李清照(りせいしょう)、陸游(りくゆう)のような文人が名作を残し、現代人はそれをいまだに読み、暗誦するだけでなく、新たに作曲して音楽に乗せて歌っています。千年にわたっても朽ちることがないところが、詞の魅力だと思います。

――宋代から現代まで歌い継がれているんですか。それは驚きです!なぜ、この研究テーマを選んだのでしょうか? その経緯をお聞かせください。

靳:高校時代から蘇東坡や陸游の詞に興味を持っていました。日本に留学してからは、詞が日本の文壇にどのように受け入れられたのか、どのような詞籍があるのかといった課題にとても興味がありました。これらの疑問を明らかにするために、日本で屈指の詞の勉強と研究ができる立命館大学文学研究科に進学しました。そして、書誌学がご専門の芳村弘道先生と詞学がご専門の萩原正樹先生のご指導のもと、中国と日本の詩詞や詞籍、漢籍について、考証的な研究方法から文献資料の調査まで非常に丁寧な指導を受けました。詞学を主たる研究テーマにした理由は、高校からの興味と好奇心が継続したことと、先生方の指導と影響を受けた結果であると思います。

――高校時代からの関心を育むには最適な研究環境に身を置けたのですね。立命館大学への進学の話が出ましたが、日本での研究生活はどうですか? 日本への留学経験も含めてお話をお聞かせください。

靳:毎日忙しくも、楽しい研究生活を送っています。論文が書き終わらなくて、締切に追われる日々も多いです。大学院前期課程の頃は、国語科教育漢文学専門でしたが、学部生と一緒に『論語』や『史記』「孟嘗君列伝」の「鶏鳴狗盗」、「商山四皓」などを読みました。その時は訓読の知識がゼロで、他の人の読みを聞いて頭が真っ白になったことが印象的でした。中国の大学では漢文の訓読方法を習ったことがなかったので、大学院在学中は、特に訓読を習得するのに力を注ぎましたね。大学院後期に入ってから、問題意識や研究方法、資料調査に重点を置いて、私の研究の道への第一歩を進み始めました。また、それでも、私にとって本当の「研究」が始まったのは現在の職場である立命館アジア・日本研究機構に所属してから後のことです。これまでの専門分野における蓄積を統一しながらも、専門分野の閉じられた枠組みを超えて、さらに広い視点で自身の研究を見直すことが大切だということを、本研究機構で学びました。振り返ってみて、研究においては、「99%の努力と1%のひらめき」が不可欠と私は思っています。

――ご自身が早くから持たれていた研究関心を追求するために、日本で一から膨大な努力を積み重ねてこられたのですね。中国から来たばかりの留学生がいたとしたら、生活や勉強、あるいは大学院での研究などについて、どんなアドバイスをなさいますか。

靳:そうですね。やはり「郷に入っては郷に従え」ですね。生活と勉強の両立は難しいですが、せっかくの機会でもあるので、言葉と風俗習慣が異なる国で暮らしていくことは人生の糧になると思います。また、健康を保ちながら成長していくのが一番理想の状態です。また、大学院での研究について、もちろん自身の努力、研究の力が重要ですが、積極的に指導の先生とコミュニケーションをとる力を育てることも大切です。また、私個人の経験では、研究においては自分の強みを生かすべきなのはもちろんですが、自分の無知な部分を無視することもできません。自身の弱みと研究に真摯に向き合うことが大切だと思います。

――研究の力を磨くだけでなく、日常生活の営み方や指導教員との関係を含めた社会性を大切にすることは、留学生に限らず課題となる部分ですね。詞学の韓国への伝播も研究対象になさっていて、韓国語もおできになるということですが、中国語、日本語、韓国語の「漢字文化圏」について、同じ漢字文化圏の中での異同とかについてお聞かせください。

靳:周知の通り、東アジアの「漢字文化圏」は、古くから漢字と漢籍をメディアに発展してきた文化ですが、昔の日本や朝鮮の知識人たちはオリジナルの漢籍を解読するために、それぞれ訓読、Ǒnmun(諺文)という方法を使いました。興味深いことに、そのように構成された文章には中国の漢字文化と自国の文化とが混在しています。単純に言葉の面から見ても、日本語と韓国語には中国語の発音に似ている音読みもあるし、韓国語にも日本語の訓読みのようなものがあります。そのほか、日本語と韓国語の語順はよく似ています。しかし、現在の日本では、漢字が多く使われているのに対して、韓国へ何度も文献調査に行きましたが、街を歩くと、ハングルがよく使用されていて、漢字はほとんど姿を消しました。それでも、漢字の発音に似ている単語は多く残されています。要は、数千年を経て、外来文化の摂取とグローバル化が強調されている今日に至っても、漢字文化圏の根底に流れるもの、つまり「漢字文化圏」のかたちは根強く残っているということです。

――漢字をメディアとした交流が何世紀も続いてきた結果として、各文化の独自性とともに「漢字文化圏」が形づくられてきた歴史はとても興味深いですね。最近の研究テーマは何ですか。

靳:最近は中国の金元明代の代表的な文人の作品集、主に詩集が日本に舶来した時期、和刻本の出版、日本の漢学者による受容過程について調べています。この研究過程で関連資料を調査した際に、面白いものを見つけました。かつて昌平坂学問所の儒官としてつとめた、名高い経学者である佐藤一斎に、詞の作品六首があることを発見したんです!私が好きで何度も読んだ本、神田喜一郎先生が書いた『日本における中国文学:日本填詞史話(I・II)』(1965‐1967年、二玄社)では、佐藤一斎のことを「固い経学者」と評しています。その経学専門家が「非正統派」といえる詞との関わりを持っていたということがわかり、とても面白いと感じました。佐藤一斎が参考にした漢籍や作詞の契機等を論じることで、「固い経学者」の固くない一側面が見えてきました。

——なるほど。日本での詞の受容過程を見ることで、ある人物を日本の知識人という枠を超えて、豊かな「漢字文化圏」の枠組みのもとで光を当てることができるのですね。とても興味深いです。最近感じていらっしゃる研究の面白さは、どんなところですか。 

靳:私の研究は「文化の伝承」に注目するものです。中国の文化がどのように伝承されているか。それを中国人である私が日本で研究するということに面白さを感じています。また、日本の漢文学のあり方は独特なかたちに発展を遂げており、非常に興味深いものがあります。最近は、江戸や明治期の日本の漢学者を取り上げ、和刻本の刊行とその作品を研究しています。日本の漢学者たちが中国から伝えられた古い文学を受け入れ、自分たちなりの注釈を加えて刊行した和刻本漢籍は、中国の漢籍ではないものの、完全に日本の文化でもないものです。そこが面白いところです。

――「中国」でも「日本」でもないですか。面白いですね。確かに、「文化の伝承」とは、単に一方から他方へ文化が伝わるのではなく、Dr.靳 がおっしゃられたようなことだと思います。これから、どんなプランを立てていますか。

靳:現在のプランは漢字文化圏における漢籍と文学上の交流を通じて、主に日本・中国・韓国の文化における連結点を明らかにすることです。それによって、文化の伝承と発展という広い視点から、漢字文化圏を再認識し、客観的な歴史観と文学史観を確立することを目指しています。そのためにいまは中国文学だけではなく、日本漢文学と韓国漢文学の研究にも力を入れて、まず事例研究に着目して研究を進めています。
また、近年は多くの学会発表を積極的に行いました。そこで発表した内容をさらに深めるべく緻密な調査を行い、成果を論文にして多くの人に読んでもらいたいと思います。

——2023年3月には『中國・日本の詩と詞:『燕喜詞』研究と日本人の詩詞受容』(朋友書店)を刊行され、さらに、最近では『雅詞的受容:中日文人對宋詞的期望』(松尾肇子著)を中国訳されるなど、大活躍されていますね。今後のさらなるご活躍を期待しています。本日はありがとうございました。

(2023.7.19)
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