アジア・マップ Vol.04 | インド

《総説》
タマーシャーからみるインドの大衆芸能

飯田玲子(金沢大学国際基幹教育院 講師)
はじめに

 インドには地域ごとに多様な大衆芸能が存在している。歌や踊り、笑いを通じて観客を楽しませるこれらの芸能は、人びとの娯楽であると同時に、その時代の社会や文化の変化を映し出すだけでなく、人びとがそうした変化を経験し共有する場でもある。

 本稿で取り上げるタマーシャーは、インド西部マハーラーシュトラ州を中心に展開してきた大衆芸能であり、ラーワニーとよばれる歌舞踊や、社会風刺、お色気などのコメディを組み合わせた上演形式を特徴とする。観客との近い距離のなかで上演されるため、演者と観客とのやりとりが重要な役割を果たしている。こうした特徴から、タマーシャーは単なる娯楽としてではなく、演者と観客の身体や感情の応答によって成立する芸能として捉えることができる。

写真1:舞台の上のタマーシャーの踊り子たち

写真1:舞台の上のタマーシャーの踊り子たち

 タマーシャーの歴史をたどると、都市文化の形成や映画産業の発展など、近代インド社会のさまざまな変化を読み取ることができる。実際、歌や踊りを重視するインド 映画は、大衆芸能や演劇文化を取り込みながら発展し、都市へ流入した人びとの感情を結びつける文化として広がっていった。また、タマーシャーそのものも時代の変化に応じて新たな担い手や観客を取り込みながら姿を変えてきた。このタマーシャーの性格に注目し、都市大衆文化や映画文化との関わりをたどりながら、大衆芸能がインド社会のなかで果たしてきた役割について考えてみたい。

観客とともにつくられる芸能

 タマーシャーは、歌や踊り、コメディ、寸劇などを組み合わせながら上演され、その大きな特徴は演者と観客との近い関係にある。観客は単に舞台を眺めるだけではなく、声をかけたり反応を示したりしながら上演に参加する。演者もまた観客の反応に応じて演目や踊りなどを変化させるため、舞台と客席は必ずしも明確に分離されていない。

 その代表的な演目である歌舞踊ラーワニーには、インド古典舞踊のような体系化された教則本が存在しない。踊り手たちは他の舞踊様式から身体所作やステップを取り入れながら芸を身につけ、それぞれの一座や地域のなかで表現を発展させてきた。そのためラーワニーは固定された型を再現するというよりも、上演の場で絶えず作り変えられる芸能である。観客の反応によって踊り方や演出が変化することも珍しくなく、その魅力は完成された作品を提示することよりも、演者と観客とのあいだに生まれる即時的なやりとりにある。

 また、タマーシャーは、移動式のテント劇場を用いながら巡業をおこなってきた。各地を移動しながら上演をおこなう一座は、農村から都市まで幅広い観客と出会い、その土地ごとの反応を取り込みながら芸能を発展させてきた。こうした観客との応答関係や身体を媒介とした表現は、後に都市や映画といった新たな文化空間のなかでも生き続けていくことになる。

都市大衆文化のなかのタマーシャー

 タマーシャーは農村部だけで親しまれてきた芸能ではない。19世紀末から20世紀にかけて、ボンベイ1では綿紡績工場を中心とする工業化が進み、多くの労働者が農村から都市へ移動してきた。

写真2:ムンバイーの街中の紡績工場跡。レンガ造りの煙突も残っている

写真2:ムンバイーの街中の紡績工場跡。レンガ造りの煙突も残っている

彼らが暮らした下町では、タマーシャーの興行も盛んにおこなわれていた。タマーシャーは工場労働者たちにとって重要な娯楽であると同時に、都市生活のなかで感情を共有する文化的な場でもあった。

 タマーシャーの舞台では、歌や踊り、笑いを通じて演者と観客が一体となる空間が生み出されていた。農村から都市へ移動してきた人びとにとって、そこは故郷の言葉や文化に触れることのできる場でもあった。急速に拡大する都市のなかで、タマーシャーは人びとを結びつける文化空間として機能していたのである。

 こうした下町の劇場や興行小屋には、工場で働く人びとが集まり、歌や踊り、笑いを楽しんでいた。工場労働者たちは長時間労働の後に劇場へ足を運び、舞台に描かれる都市の物語に耳を傾けた。20世紀初頭にタマーシャーの代表的な作家・演者として活躍したパッテー・バプーラーオは、多様な人びとやモノが行き交う大都市ボンベイの活気や魅力を、ラーワニーの詩のなかに描き出した。さらに後年、マラーティー語の詩人であり社会改革家でもあったアンナ・バウ・サーテーは、ラーワニーを通じてボンベイの労働者たちの苦境や貧富の差を描いている2。こうした歌詞は、都市で暮らす人びとの経験や感情を舞台の上で共有する役割を果たしていた。タマーシャーは単なる娯楽ではなく、都市で生きる人びとの喜びや不安、憧れや苦悩を共有する文化的な空間でもあったのである。

タマーシャーから映画へ

 こうした都市大衆文化のなかから発展していったのが映画である。インド各地で発展した映画産業は、タマーシャーをはじめとする大衆芸能や演劇文化を取り込みながら発展してきた。歌や踊りは映画において重要な役割を担い、観客はそれを通じて登場人物の感情を共有してきた。このように身体表現を媒介として感情を伝える構造は、タマーシャーにもみられる特徴である。

 その影響は表現形式だけにとどまらない。タマーシャーの一座で活動していた楽師たちが映画音楽の演奏に携わったり、踊り子たちが映画女優として出演したりする例も少なくなかった。映画は新しいメディアであったが、その担い手の一部は既存の大衆芸能の世界から供給されていたのである。

 一方で、インド映画の形成にはパールスィー演劇3も重要な役割を果たした。19世紀後半からボンベイで隆盛したパールスィー演劇は、ゾロアスター教を信仰するパールスィーたちによって支えられ、シェイクスピア劇やペルシア語詩、インドの民俗芸能などを融合しながら独自の大衆演劇文化を形成していた。歌やメロドラマを重視するその表現様式は、後の映画文化にも受け継がれていく。また、パールスィーの商人たちは、映画制作や配給への資本供給においても重要な役割を果たしていた4

 映画文化の拡大には映画館の存在も重要であった。パールスィーの資本家たちは、英領期にイギリス人たちが建設した映画館や劇場を取得し、映画館文化の形成に大きな役割を果たした。たとえば、現在もムンバイーの玄関口であるチャットラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(旧ヴィクトリア・ターミナス駅)の前にあったCapitol Cinema は、パールスィーの家族によって経営されていた映画館である。しかし、そこに集まったのはパールスィーだけではなかった。ヒンドゥーやムスリムをはじめ、多様な出自をもつ観客が映画を楽しみ、都市大衆文化を支える空間となっていた。Imperial Cinema もまた、当時のボンベイ映画文化を象徴する映画館の一つであり、映画産業と都市大衆文化とを結びつける重要な拠点であった。さらに、ムスリム街に位置していた New Roshan Talkies はパールスィーによって所有されており、異なるコミュニティに属する人びとが集う場となっていた。こうした映画館は、単なる娯楽施設ではなく、都市社会を横断する文化空間であったことを示している。

写真3:閉業したが現在も建物が残る New Roshan Talkies のエントランス

写真3:閉業したが現在も建物が残る New Roshan Talkies のエントランス

 映画館や演劇空間は、歌や踊り、物語を通じて都市の人びとの感情を結びつけていった。タマーシャーや演劇、映画館といった大衆文化の空間は、植民地期インドにおいて感情を共有する場として機能し、インド独立運動を支える感情的基盤の一部ともなっていった。映画文化もまた、そのような都市大衆文化のなかから生まれた新たな表現媒体であった。こうしてタマーシャーや演劇によって育まれた表現や感情の共有のあり方は、映画文化のなかにも受け継がれていったのである。

周縁化された身体とタマーシャー

 もっとも、タマーシャーの特徴は身体を中心とした表現形式だけにあるわけではない。タマーシャーは、在地社会のなかで居場所を得にくかった人びとを受け入れながら成立してきた芸能でもある。現在でも、一座のなかには女性の踊り子だけでなく、既存のジェンダー規範や性規範に収まりきらない人びとが少なからず活動している。

 ただし、こうした人びとが自らを「クィア」あるいは「性的マイノリティ」と呼んでいたわけではない。「クィア」という言葉そのものが比較的新しく、主として都市部の中間層のあいだで広がってきた概念であり、タマーシャーの担い手たちが用いてきた自己理解の言葉とは必ずしも一致しない。むしろ重要なのは、タマーシャーが規範からずれた身体や生き方を排除するのではなく、舞台のなかに位置づけてきたことである。演者は観客との掛け合いや歌・踊りの技量によって評価され、その身体や振る舞いもまた上演の一部として受け止められてきた。そのため、さまざまな身体や生き方が芸能の担い手として現れる余地があったのである。

 近年では、タマーシャーの一座とは異なる背景をもつ都市中間層出身の若いクィアな表現者たちがラーワニーを踊る例もみられる。彼らは必ずしもタマーシャーの家系や一座の出身ではない。しかし、ラーワニーを学び、その歌や踊りを、自らの経験や生き方を表現するための手段として用いている。こうした新たな担い手の参入は、タマーシャーが固定された伝統ではなく、その時々の社会状況のなかで、新たな担い手を迎え入れながら変化してきた芸能であることを示している。都市のクィアな表現者たちによるラーワニーもまた、その長い変化の過程の一部として位置づけることができるだろう。

おわりに

 タマーシャーは農村だけの芸能でも、過去の遺産でもない。工場労働者が集う下町の劇場で親しまれ、映画文化の形成にも影響を与え、現在では新たな表現者たちによっても実践されている。そこから見えてくるのは、大衆芸能とは固定された伝統ではなく、観客や担い手との関係のなかで絶えず創られ続ける文化である、ということである。

脚注
1本稿では、植民地期から1995年の改称以前については「ボンベイ」、現在の都市については「ムンバイー」と表記する。
2アンナ・バウ・サーテーやパッテー・バプーラーオの詩および、時代によって演じられた詩は、飯田玲子2020年『インドにおける大衆芸能と都市文化—タマーシャーの踊り子による模倣と欲望の上演』ナカニシヤ出版. を参照のこと。
3パールスィー演劇の成立と特徴については、Gupta, Somnath. 2005. The Parsi Theatre: Its Originsand Development. Kathryn Hansen (trans. and ed.). Kolkata: Seagull Books.に詳しい。
41930年代のパールスィーの商人たちによる映画製作や配給への資本提供や結びつきについては、Ganti, Tejaswini. 2013. Bollywood: A Guidebook to Popular Hindi Cinema, Routledge. に詳しい。

書誌情報
飯田玲子《総説》「タマーシャーからみるインドの大衆芸能」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.4, IN.1.02(2026年7月21日掲載) 
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji2/asia_map_vol04/india/country01