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  • ISSUE 13:
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個人史の中に見えてくる、知られざるイスラームの姿

黒衣に黒スカーフのムスリマの装いは伝統的な民族衣装ではなく「今のファッション」。

鳥山 純子国際関係学部 准教授

    sdgs05|

「イスラーム」と「ジェンダー」は、かつては多くの場合「女性たちを抑圧する宗教と家族制度からの解放」といった文脈で語られてきた。「しかしこれはあくまで外から見た一側面に過ぎません」。そう語るのは、文化人類学やジェンダー学を切り口にイスラーム世界の女性について研究する鳥山純子だ。

鳥山はエジプトやレバノンといった中東地域に生きる女性に焦点を当て、その暮らしや生き方から女性にとっての仕事や家庭の意味、生殖、さらには教育システムと社会構造の関係などを考えている。

研究において鳥山が重視しているのが、「現地に生きる人々の『日常生活』を『日常生活の文脈』で分析すること」だ。「『イスラーム』も『ジェンダー』も言葉は聞きますが一般の人には『その実よくわからない』という点が共通しているように思います。理由は、その実体である『人の姿』が見えないことにあるのではないでしょうか」と鳥山は言う。「とりわけ近年の中東やイスラーム研究では紛争やテロリズムなど社会問題の枠組みで現地の人々の幸せや痛みが論じられがちです。しかしそこに暮らす人々が何に幸せを感じ、何を求めて生きているのかを理解せずにその幸せや痛みに共感することはできないはずです」。そのためにあえて一般化を避け、具体的な時間、場所、文脈から特定の事例をていねいに観察・分析する手法を取ることで、従来のイスラーム研究では見えなかった側面を浮き彫りにしている。

その一つに、エジプトのカイロ郊外にある村に住む老齢のイスラーム教徒女性(ムスリマ)を対象に、そのファッションを検討した研究がある。ムスリマ・ファッションは概して宗教的要素に関心が寄せられ、社会的な文脈で語られることが多い。一方鳥山が注目するのは、それを身につけるムスリマたちのライフサイクルやライフコース、ライフステージといった「個人史」だ。

頭からくるぶしまで黒のスカーフと衣服に身を包んだムスリマの姿は一見どれも同じに思えるが、鳥山によると老齢期の女性のファッションはいくつかのタイプに分類できるという。しかもそれらの装いは彼女たちの娘時代とは異なっている。「現在60歳代後半の女性が若い頃にあたる1960年代にはワンピースやジーンズといった洋装が流行し、女性たちは現代の最もシンプルなムスリマの装いであるガラベイヤすら着ていませんでした。それが彼女たちが30歳代になってからムスリマ特有の黒衣に変化したのです」。

鳥山がムスリマたちの装いの変化と社会状況との関連を調べたところ、ムスリマたちがガラベイヤを中心とした生活にシフトした1970年代から80年代は、エジプトが第三次中東戦争に大敗し(1967年)、国家発展をけん引してきたナーセル大統領は急逝し(1970年)、以降イスラーム復興運動が高まった時期と一致する。この時期エジプトの都市部では女性たちが再びベールをかぶり出す「再ベール化」が見られ、またガラベイヤの丈が膝下からくるぶし下まで伸びるといった流行の変化も起こっているという。

「こうした社会状況の変化がカイロ郊外の村の女性たちの装いにも影響を与えたことは十分考えられます」としながらも、鳥山が注目したのは「そうした社会的、思想的な理由が村の女性たちの語りでは重視されていないこと」だった。村の老齢のムスリマは自らの装いを変えた理由を「年齢に伴って体形が変化したから」「子育てに追われて身なりを気にしなくなったから」など自らの生活や年齢の変化、あるいは着やすさなどといった利便性を挙げて説明したという。「大局的には『伝統への回帰』に見える現象も、当事者にとっては自身のライフステージの変化や流行の変化の中で行った、政治性の低い当たり前の選択の一つだとわかりました」と鳥山は言う。

さらに年代による違いだけでなく、現在の娘期の装いと老齢女性の装いにも違いが見られることも指摘した鳥山。現代の老齢のムスリマが纏う黒衣が昔から変わらない「伝統的」な衣服や「民族衣装」ではなく、特定の時期、状況のもとで個人のライフステージに合わせて選択された「今のファッション」だと分析した。「ファッションの変遷も必ずしも『伝統から西洋近代へ』といった直線的な流れにあてはまりません。女性の個人史的な軸と社会史的な軸が交差するところは非常に多様性に富んでいます」。

個人史的な視点でこそ歴史的な視点からは見えない「現実」を照射できる。その最たるものとして、鳥山は個人的な体験や個人の思いを学術的な枠組みで論じるという斬新な試みに挑戦している。それが鳥山自身の舅にあたるエジプト人男性の個人史についての論考である。その人柄や生きてきた過程、高齢になって病に倒れ、次第に体の自由を失って寝たきりになり、最後に亡くなるまで、舅と彼を取り巻く家族について記した。

「学問は専門化や普遍化の方向ばかりが強調されますが、もっと幅の広い豊かなものだと考えています」と鳥山。こうした眼差しが「イスラーム」や「ジェンダー」の知られざる側面を描き出すことにつながっている。

鳥山 純子TORIYAMA Junko

国際関係学部 准教授
研究テーマ

エジプトにおける女性の労働市場参入が意味するもの、中東のインターナショナルスクールにおける格差生成と自己成型、生殖医療時代のエジプトにおける家族

専門分野

ジェンダー、文化人類学、教育社会学