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  • ISSUE 15:
  • 宇宙

江戸時代の公家が建てた「宇宙」を手中に収める茶室

近衞家第二十代基凞の茶室「摘星閣」をめぐる文学を解きあかす。

川崎 佐知子文学部 教授

    sdgs04|

夜空に瞬く満天の星を見上げ宇宙をその手中に収めようと、自らの茶室に「星を摘む」の意で「摘星閣てきせいかく」と名付けた公家がいる。五摂家筆頭近衞このえ家第二十代近衞基凞もとひろである。その茶室にかねてより注目していたのが、日本古典文学を研究する川崎佐知子だ。近衞家伝来の資料を保管する公益財団法人陽明文庫(京都市右京区)が所蔵する一次資料の調査研究を基礎に、とりわけ江戸時代前期の近衞基凞、その息子で第二十一代の近衞家凞いえひろによる文学および文化的活動について、いくつもの研究成果を挙げている。

「近衞家は、藤原北家嫡流、つまり『御堂関白記』でよく知られた平安時代中期の藤原道長の末裔です。江戸時代のはじめには、第百八代天皇である後水尾院の弟宮が近衞家に入り、第十八代信尋となりました。天皇家に最も近い由緒ある家柄です。」と川崎は解説した。近衞基凞は慶安元年(1648)に誕生し、享保七年(1722)に薨去、公家の廷臣としての最高位、従一位関白太政大臣にのぼりつめた。だが、「基凞の多彩な文学的功績はあまり知られていません」と川崎。日記『基凞公記』(陽明文庫蔵)は近世の公家日記の白眉と称される。後水尾院や後西院(第百十一代天皇)の薫陶を受け、霊元院(第百十二代天皇)歌壇の宮廷歌人として活躍した。『源氏物語』など古典の注釈書を執筆するいっぽうで、長く後世に伝えるために数多くの作品を書写した古典学者でもある。また応仁文明の乱以来断絶していた賀茂祭(現在の葵祭)の再興に尽力し、元禄七年(1694)に実現してもいる。現代の我々が、千年前の古典作品を読めるのも、京都古来の伝統行事を体験できるのも、すべて基凞のお陰と言ってよいのだそうだ。

基凞の経営した茶室が、くだんの「摘星閣」である。茶の湯・茶室といえば、千利休の佗び茶や、草庵のようにごく簡素な茶室を連想してしまいがちだ。公家が好んだ茶の湯は侘び・寂びとは異なり、茶室もより華やかで大規模な遊興の場だったという。後水尾院の茶室は、茶を喫するだけでなく、月見などにも利用された高楼だった。後西院も数寄を好み、院御所の庭に「環波亭」「畳嶂台」を設けたらしい。それでは、基凞の「摘星閣」はどのような場だったのだろうか。

「『摘星閣』という呼び名は、『堯恕ぎょうじょ法親王日記』延宝九年(1681)七月十六日の記事に初めて出てきます」と川崎は指摘する。旧暦七月十六日は、盂蘭盆の最終日。現在は八月十六夜の五山の送り火が、江戸時代にはこの日におこなわれた。如意ヶ岳にともされる大文字を皆で一緒に眺めようと、基凞が、妙法院宮堯恕親王ら親戚数名を招待したということなのだろう。「摘星閣」は、その年、近衞家の今出川御殿内に新築されたばかりだった。今出川御殿は、今の京都御苑北西部の近衞邸趾付近である。「摘星閣」の建物は二層仕立てで、二階からは東山・西山を見渡すことができた。堯恕親王が訪れたその日はうららかに晴れわたり、十六夜の月が夜空に映えてくっきりと見えるほどであった。まさしく、送り火の見物にはうってつけだったといえよう。

基凞の室である後水尾院品宮常子内親王も、日記『无上法院むじょうほういん殿御日記』(陽明文庫蔵)に、「摘星閣」に関する記録をのこしているそうだ。延宝九年(1681)三月二十七日の記事によると、基凞の学問所として建てられ、二階のほか、一階にも座敷がしつらえられ、家人が茶の湯を楽しんだり、客人をもてなしたりするために用いられたらしい。元禄四年(1691)八月十五日の記事では、旧暦八月十五日、すなわち中秋の名月を祝っている。後水尾院品宮常子内親王は孫の幼い姫君と若君を連れて二階へ上がり、月が山の端より出る時分から夜更けまで、飽きることなく月を眺め堪能した。そばで、基凞は月十五首の和歌を詠じた。こちらは『基凞公記』の同じ日に記されているという。江戸時代のこのころ、二階を備えた建物は決して多くはなかった。眺望を楽しめる構造であるがゆえに、近衞家の「摘星閣」は、公家の遊興の場として特別な存在感をはなっていたようだ。

近衞邸趾(京都御苑・北側 今出川御門から入って右側)

それにしても、なぜ「摘星《星を摘む》」なのだろうか。まわりの邸宅よりもひときわ高く、天空により近い、手が届きやすいという意味なのだろうか。「たしかに、それもありますが、もうひとつ、この名まえに関係していると思われることがあるのですよ」と示されたのが、陽明文庫に伝わる漢詩の詠草(草稿)二枚である。法眼慶間作「摘星閣序幷詩てきせいかくのじょならびにし」と法眼慶安作「摘星閣詩」で、ともに基凞に献呈された。どちらにも「星辰分野之図せいしんぶんやのず」「列星分野之図れっせいぶんやのず」という語が見える。これは星座の図ということだ。「この星座の図が、『摘星閣』の二階の天井一面に描かれていたようです。さぞ圧巻だったでしょうね。」なるほど、物理的に空に近いのに加え、建物自体が満天の星空を取り込んでいるために「摘星閣」なのだそうだ。

これらの漢詩の作者、法眼慶間と法眼慶安は医師、基凞の子どもを診た小児科医だった。子どもの病気が癒えたお礼にと近衞家に招かれ、延宝九年(1681)春に建造されたばかりの「摘星閣」で饗応を受けたらしい。法眼慶間の詩は、比叡山の雄大な遠望と間近の鴨川の流れを対比している。法眼慶安の詩は、建物周辺から見渡せる風景に続けて、天井の列星にも目を向けている。やはり「摘星閣」の特徴をなぞった詠みぶりなのだろうか。「よく読むと、『摘星閣』の描写を通じて、その亭主である基凞を讃えているとわかりますよ」と川崎。「遠大な風光も、広大な星空の運行も、『摘星閣』では手に取るようにわかります。亭主は、自然を支配できたも同然なのです。こうした常套的な誉め言葉で、基凞の賢徳仁智を強調しているのですね。」

しかも、これらの詩は、基凞が命じて作らせたものだという。どうしてそんなことをしたのだろうか。「じつは、『摘星閣』という名称に、基凞は随分こだわっていたようなのです。『基凞公記』には一切出てこない。にもかかわらず、さいしょに紹介した『堯恕法親王日記』だけに、それも基凞からことさらに要請されて記したという事情が書き添えられています。それだけ執着していたという裏付けになりますね。」「《星を摘む》はもちろん比喩で、為政者の理想をあらわすのだろうと思います。『摘星閣』が完成した当時、基凞は左大臣で三十四歳。前年に、最大の庇護者、後水尾院を失くしています。だからこそ、政治家としての自覚を、茶室の名まえに託したのでしょう。あえて堯恕親王や医師たちに喧伝させ、自身を鼓舞していたのかもしれません。」どことなくロマンを感じさせる「摘星閣」という名には、「宇宙」の統治になずらえた自らの理念の具現を希求する江戸時代の公家の価値観が反映されていたのだった。

川崎 佐知子KAWASAKI Sachiko

文学部 教授
研究テーマ

平安時代物語文学の注釈・享受史研究、奈良連歌研究

専門分野

日本古典文学