「遊び」は、哲学において極めて重要な概念である。古代ギリシアの時代から古今東西を問わず多くの哲学者が「遊び」について言及してきた。
石原悠子はそうした「遊びの哲学」に着目し、近代日本哲学、特に京都学派の哲学と西洋近現代哲学との比較からその内実を明らかにしようとしている。大正・昭和期に活躍した哲学者一派・京都学派の哲学を「遊び」という観点から考察しようというこれまでにない試みだ。
そもそも西洋哲学には紀元前の昔から『根拠への問い』、すなわち世界の根本原理を探し求める形而上学の伝統がある。例えば古代ギリシアの哲学者・タレースは「万物の根源(アルケー)は水である」としたし、近代でもドイツの哲学者で超越論哲学の創始者といわれるカントは、その根拠を主観性に求めた。
石原はこれまで超越論哲学の伝統を批判的に受け継いだ西田幾太郎とハイデガーについて比較研究を行ってきた。「超越論哲学を乗り越えた後期西田と後期ハイデガーがその代わりに求めたのが、世界は何ものにも根拠づけられることがないもの、『無根拠』であるという考え方でした。ハイデガーがそれを『遊戯』という言葉で表現したように、『根拠がない』ことは『遊び』にも通じるところがあります。遊びは『なぜなし』とも性格づけられるように、遊ぶことに理由や根拠はありません。そうした『根拠のなさ』、ある意味で純粋さに惹かれ『遊び』に関心が移っていきました」と石原は「遊びの哲学」に興味を持った経緯を語る。
「遊びの哲学」を語る際の「遊び」には、大きく分けて三つの局面があると石原は説明する。一つは、単純に行為としての遊びだ。二つ目は、我々人間のあり方を規定する存在状態としての「遊び」である。ここでは、修行や鍛錬によって到達する人間の最高の境地として「遊び」が捉えられる。「例えばニーチェは、著作『ツァラトゥストラ』で、精神の『三つの変容』について述べ、人間のあるべき最高段階の姿を『遊戯する子供』の精神状態に例えています。また禅仏教では、自己を完全に『無』にした無我の境地を『遊戯三昧』と表現します。無我の境地に至ると、我々のすべての行為が『遊び』の性格を帯びてくることをこの言葉は表しています」
さらに三つ目の局面に、世界そのものを「遊び」と捉える思想がある。例えば古代ギリシアの哲学者・ヘラクレイトスは、「アイオーン(人生、時)は、駒を並べて遊ぶ子供である」という言葉を残している。
石原は、とりわけ後者二つの遊びの局面に注目し、近現代の日本と西洋の「遊びの哲学」を比較分析している。着目する一人が、西田幾太郎の弟子の西谷啓治だ。「西谷は『遊戯三昧』について論じていますが、彼の語る『遊戯三昧』と、ニーチェの言う精神の最高境地としての『遊戯する子供』は一見すると同じようで、その内実はかなり違います」と指摘する。ニーチェの「遊戯する子供」には、自らの意志で新しい価値をつくろうとする、いわば「意思に基づく自発的な在り方」が示されている。それに対して禅仏教の「遊戯三昧」では、自らの意志も自我の一部であると捉え、それを取り除いた先に「遊び」の境地を見るというのだ。「こうして西田や西谷の『遊び』に関する叙述を西洋近現代の遊びの哲学に照らしてみることで、京都学派における『遊びの哲学』とは何か、明確になってくるのではないかと考えています」
京都学派の「遊び」の思想に関連して、石原は“play with reality”についても述べている。“reality”は「実在」とも「世界」とも訳される。では「実在と遊ぶ」とはどういう意味か。石原はそれを説明するために“play of reality(実在の遊び)”という言葉を挙げた。「例えば波が光に反射して軽やかに揺れている様を“play of waves”と表現します。“play of reality”もそれに似たニュアンスで、『ランダムかつ軽やかに展開していく世界の動き』といった意味で捉えられます。そして、自らをそのようなダイナミックな展開の一部であると自覚したあり様が“play with reality(実在と遊ぶ)”です。『自分はランダムに動いて展開していく世界の一部なのだ』と自覚した時、その自覚には楽しさが伴う。それが“play with”と表現されると考えています」
しかし現実世界で“play with reality”の境地に達するのは容易ではない。「『実在』には自分だけでなく他者や周囲の環境が含まれており、私たちは自らが作った色眼鏡でそれらを歪めて見てしまっているために苦しむ」のだという。「ランダムに動く実在の一部である」と自覚し、その苦しみから脱するためには「色眼鏡」を外す必要がある。「現象学の方法論では、色眼鏡を外す作業を『エポケー』、日本語で『判断停止』『判断留保』と表現します。現象学の創始者フッサールは、信念や思い込みを退けるのではなく、ただ『カッコに入れる』と表現しました」
石原はフッサールが特定の文脈で使った「エポケー」を再解釈し、日常の実践的な文脈に位置づけ直して語ろうとしている。「臨済宗の僧侶で作家でもある玄侑宗久は、『遊戯三昧』の境地を指して『楽しいことをするのではなく、することを楽しむ』と表現しました。これこそまさに『実在と遊ぶ』こと。この境地では、皿を洗うといったありふれた日常の行為さえも遊びの性格を持ってくるのです」
「実在と遊ぶ」境地で人生を生きていくために、石原は今を生きる人々に「エポケー」という実践ツールを与えようとしている。