家族性筋萎縮性側索硬化症(ALS)の原因タンパク質であるFused in Sarcoma (FUS)をターゲットに研究している北原亮。FUSの水溶液に圧力を加える実験によって、これまで知られていなかった液-液相分離(LLPS)状態を発見。アルギニンなどが、危険な液-液相分離(HP-LLPS)を阻害し、FUSの異常凝集を遅らせることを見出した。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)の原因タンパク質FUSに着目
タンパク質は生命の維持に必須の物質で、数十から数百個のアミノ酸からなるポリペプチドである。一般的には立体構造を形成して機能するが、何らかの理由で構造が壊れると、不可逆な異常凝集体をつくって様々な病気を引き起こす。運動神経の変性により運動や呼吸が障害される筋萎縮性側索硬化症(ALS)もそのひとつだ。ALSに関わるタンパク質は複数知られているが、核内にあるタンパク質Fused in sarcoma(FUS)の細胞内凝集が家族性ALSの原因であることが解明されている。
細胞内では、FUSを含む複数の核内タンパク質が液滴状の柔らかな凝集体を作る。細胞内はタンパク質や核酸などの水溶液で満たされているが、その濃度は一様ではなく、濃い溶液の液滴が薄い溶液のあちこちに浮かんだ状態になっている。これを液-液相分離(LLPS)という。
薬学部教授の北原亮らの研究グループは、FUSの水溶液に圧力を加える実験により、FUSのLLPSには常圧から約2,000気圧までに多く生じる低圧型のLP-LLPSと、2,000気圧以上で多く生じる高圧型のHP-LLPSの二種類があり、HP-LLPSではFUSの異常凝集が加速されること、アミノ酸の一種アルギニンなどの低分子化合物がHP-LLPSの形成を阻害し、FUSの凝集を遅らせることを発見した。「タンパク質水溶液のLLPSは比較的最近の発見で、2012年頃から爆発的に論文の数が増えてきました。今では細胞の中は様々なタンパク質のLLPSだらけだと考えられています。LLPSを前提に考えることで、これまで原因が分からなかった現象が解明できるようになりました。」
圧力を実験のパラメータに用い
新たなLLPSを探索する
物質の状態は、圧力と温度で決まる。1気圧の世界では水(液体)を冷やすと氷(固体)になるが、1万気圧以上の高圧の世界では常温でも氷ができると北原はいう。幅広い温度と圧力環境でタンパク質の構造を調べることで、新たなLLPSを発見できる可能性がある。常圧の実験では、自然のほんの一部分、いわば明るいところしか見えていないのだ。
圧力を実験のパラメータとして用いるメリットは、見える世界が広がることばかりではない。対象を加熱する場合、熱源に近いところから温まるため温度勾配が生じるが、圧力は対象に対して瞬時に、一様にかかり勾配が生じない。北原は、数秒以内に圧力を1,000気圧以上変化させる圧力ジャンプ実験技術を分析装置や顕微鏡と組み合わせることで、LLPSの形成や消失のリアルタイム観測に成功し、HP-LLPSの形成と消失の速度が、LP-LLPSのそれらに比べ十分に遅いことを発見した。
高圧下に多いHP-LLPSが何故、常圧環境で家族性ALSの病因となり得るのだろうか。「常圧下でHP-LLPSが存在する直接的な証拠は見つかっていません」と北原は認める。だが北原らは、水溶液に加える圧力を少しずつ変化させ、二種のLLPSが物理的な平衡状態にあることを確認している。HP-LLPSは常圧下ではLP-LLPSに比べ不安定なため頻度は低くなるが、必ず存在するはずだという。
「タンパク質は、立体構造を持った状態と変性した状態の少なくともふたつの状態の化学平衡にあり、健康な細胞の中にも、変性したタンパク質は存在します。通常であれば変性状態は非常に稀なので、相互作用して凝集する可能性もごく僅かです。一方、家族性の疾患を持つ人では、変性状態のタンパク質が通常より高い頻度で分布しており、相互作用の確率が高くなっている可能性があります」。LLPSは化学平衡ではなく物理平衡だがシナリオはこれと同様で、家族性ALSの人では常圧下でのHP-LLPSの存在確率が高い可能性があるという。もうひとつのシナリオは、アミノ酸変異によるタンパク質の性質の変化である。アミノ酸配列がひとつ変わるだけで、タンパク質の安定性だけでなく、凝集する性質も大きく変わる。疾患型のアミノ酸配列では、HP-LLPSの凝集能がさらに高くなっている可能性があるという。
創薬を目指し、アルギニンのHP-LLPS形成阻害効果を検証
アルギニンは筋肉の増強や免疫の強化をうたうサプリメントとして一般販売されている。アルギニンでALSを予防する、そんな時代が遠からず訪れるのだろうか。「アルギニンの優れた点は、HP-LLPSに選択的に作用することです。タンパク質のLLPSの研究は日が浅く、LLPSには今後、細胞にとって必要な未知の役割が見つかる可能性があります。全てのLLPSを阻害してしまえば、思いもよらない副作用に繋がるかもしれません。まずは、HP-LLPSを標的とした凝集阻害という私たちの提唱する新しい概念について検証する必要があります。」
しかし残念ながら、今すぐにALSの予防や治療に使える段階でもないという。課題のひとつは細胞内のLLPSに薬効成分を届ける方法だ。アミノ酸の経口投与あるいは静脈注射を行っても細胞が取り込める量は血中濃度のごく一部だ。北原らのチームは僅かな量しか細胞に到達できなかった場合のアルギニンの効果について細胞実験による確認を始めている。また、僅かな量でHP-LLPSの形成を阻害可能な他の物質の探索や、共同研究により情報科学を利用した新規化合物の設計にも着手している。「既存の物質の新たな効果の発見や、新薬の候補となり得る物質の探索を通じて医薬品開発にも貢献していきたいと考えています」