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  • ISSUE 8:
  • こころ

文化の理解が促進する災害後のこころのケア

四川大地震後の心理支援に生きた日本のこころのケア経験と研究蓄積

吉 沅洪応用人間科学研究科 教授

    sdgs03|

対人関係の持ち方や疾病の症状にも文化によって違いがある。例えば、神経症症状には、日中米において著しい違いが存在している。内閉神経症と視線恐怖症は日本文化特有のものと考えられるが、中国人には直接身体に症状として現れる重症の心身症が多く、米国人には薬物依存や、暴力行動などが目立つ。つまり、神経症症状にはそれぞれの文化の違いを背景とした構造がある。「そのため心理的な援助や治療を行う際には、その人の文化的な背景を理解することが欠かせません」と話す吉沅洪は、在日外国人や留学生の異文化適応支援などの多文化間カウンセリング心理臨床活動と文化との関連性について研究してきた。中でも2008年に母国で起こった四川大地震をきっかけに、文化との関わりを考慮した災害後の「こころのケア」に関心を寄せている。

四川大地震は死者約7万人、負傷者約37万人、行方不明者約1万8千人を数え、中国史上未曾有の災害となった。吉は中国心理学会から要請を受け、被災者の心理的支援のために日本臨床心理学会の協力を橋渡しする役割を担った。自然災害の多い日本には災害危機後のこころのケアや心理的支援について数多くの研究蓄積がある。

現代では大規模な災害が起こると世界中から支援者が現地に集まる。「そうした多様な人が関わる支援の場で心理の専門家が果たす役割は大きい」として、吉は「ディブリーフィング」について警鐘を鳴らした経験を挙げた。「ディブリーフィングとは外傷的できごとを語らせ、それに伴う感情を吐き出させる支援方法の一つです。一時は災害事件の被害者に有効な心理的支援と考えられましたが、現在では災害事件直後はかえって被災者を不安にさせるため、『やってはいけない』とされています」。ところが四川大地震の被災地で、外国のボランティアチームがそれを知らずに子どもたちに被災体験を絵に描くことによって表現を促していたという。吉らはすぐさま中国心理学会を通じてその危険性を指摘し、災害直後の表現療法が適切でないことを周知した。

日本では阪神大震災後の研究蓄積から、災害後のこころのケアにおいて「文化と宗教を尊重する」重要性が強調されるようになった。「四川省では麻雀が盛んで人々の生活に根づいていますが、震災後、ボランティアが支援活動をしている横で被災者の方々が卓を囲んでひんしゅくを買ったという有名な話があります。しかしこれは日常の習慣を取り戻す心の余裕が出てきたことの表れであり、心理学的には良い傾向です」と吉。そうした文化や慣習への理解があって初めて「こころのケア」は促進されるということだ。

さらに吉らは、日本の臨床心理の専門家が作った災害後の「こころのケア」を学ぶ絵本を使って現地の子どもたちにストレスマネジメントを教える活動にも取り組んだ。その際にも、現地の子どもに馴染みやすいよう絵本の主人公をカバからパンダに変えるなど、細やかな工夫を凝らしたという。

日本の臨床心理の専門家が作った災害後の「こころのケア」を学ぶ絵本「かばくんの気持ち」。

加えて吉らが尽力したのが、こころのケアを担う「支援者を支援する」ことだった。西南大学で中国の心理専門家を対象にこころのケア研修を実施したほか、重慶の病院や被災地の徳陽で西南大学ボランティアチームにコンサルテーションを行った。また吉は被災地の中学校教師にインタビューし、喪失体験を持つ生徒に対してどのような配慮をしているかについて質的調査も行っている。その中で教師が積極的にコミュニケーションを図り、生徒の自尊心の回復に取り組んでいる様相を明らかにする一方で、教師がソーシャルワーカーや心理支援の専門家の役割をも果たそうとして本業である教育者としての役割が曖昧になるといった課題を浮き彫りにし、「支援者の支援」のあり方に示唆を与えた。

重慶市・西南大学心理学院での支援者研修の様子
四川省・都江堰仮設住宅での被災者支援活動の様子

吉の災害後の心理支援に関わる活動や研究は、2011年の東日本大震災でも生かされた。「とりわけ四川と東日本の被災者には『あいまいな喪失』という点に共通点がある」という。「あいまいな喪失」とは、自然災害などで大切な人が行方不明になり、身体的には不在であるにも関わらず、「どこかで生きているに違いない」と心理的には存在していると認知することで経験される喪失を指す。「災害の多い日本でもこれほど多くの行方不明者を出した経験はなく、『あいまいな喪失』は新たに提起された概念だったと思います」と吉は言う。

こうした喪失による心身の回復においても地域の文化や宗教を考慮することが重要になる。「課題はPTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療法やこころのケアの手法が西欧で生まれたもので、アジア諸国の文化にフィットしない場合があること」と吉。それを踏まえ吉らは今、日中や東南アジアの研究者と連携して文化を考慮に入れたアジア独自のこころのケアのあり方を構築しようとしている。

「日本に留学した学生時代から日本と中国の『かけはし』になりたいと思っていました。研究者になった今、こころのケアを通じてより深く日本と中国、さらに世界をつなぐかけはしになりたい」と夢を描く。

「かばくんの気持ち」の中国語バージョン、「パンダくんの気持ち」。
四川大地震の際、現地の子どもに馴染みやすいよう主人公をカバからパンダに変更して作り直された。

吉 沅洪JI YUANHONG

応用人間科学研究科 教授
研究テーマ

表現療法、多文化間カウンセリング、災害後こころのケアと文化

専門分野

臨床心理学