SF小説の世界が現実のものになったら? そんな空想を膨らませたことはないだろうか。
カルチュラルスタディーズの視点から科学技術とSFについて研究するドゥニ・タヤンディエーは「実際にSF(サイエンス・フィクション)は単なるフィクションではなく、現実の科学技術と影響を及ぼし合い、その発展に関わってきました」と言う。フランスの大学の日本語学科で学んだタヤンディエーは特に日本のSF作品に注目し、現実の「科学」とSF作品の中に現れる「科学」がどのように関係するかを分析し、科学技術にあふれる現代社会を捉えようとしている。
「SFは科学の分野からはフィクションだとして、また文学の研究分野ではエンターテインメントだとしていずれにも属していると見なされない傾向があります。しかし小松左京は『SFの持つハイブリッドな側面が文学の発展や科学技術の発達した社会を理解するのに貢献する』として、SFを科学に従属する『科学の文学』ではなく、文学の一領域『文学の科学』であると位置づけています」。そこに研究意義を見出すタヤンディエーは、先端科学領域の一つであるナノテクノロジーに関心を持ち、SF作品に描かれるナノテクノロジーの表象とその変容について考察している。
タヤンディエーの名が最初に知られたのは、荒巻義雄の初期のSF短編小説『柔らかい時計』についての評論だった。荒巻は1970年以降、ニュー・ウェーブSFやシュルレアリスムの影響を受けた幻想的なSF小説を執筆してきた。『柔らかい時計』はタイトルの通りサルバドール・ダリの有名な絵画をモチーフにした短編だ。タヤンディエーは作品に登場する「ブヨブヨ工学」という新事象を通してダリのシュルレアリストとしての美学と物性科学(レオロジー)、さらにナノテクノロジーとの接点を明示し、高い評価を得た。
「この作品は、目に見えないものに光を投げかけ、それを明らかにするという点でアートとテクノロジーを一つに結びつけている」としてタヤンディエーは、作品の中にシュルレアリスム的想像とナノテクノロジーのイマジネーションとの関連を見出し、背景にある概念の類似性を指摘した。「ダリの偏執狂的批判に基づくと、芸術家は妄想の中で見たものを通常それが現れないはずの現実世界にイメージとして表出し、現実レベルで感じられるようにできます。一方でナノテクノロジーの発達によって原子の微細な世界を覗き見て、原子表面のイメージを作製することができるようになりました。こうした原子のイメージングプロセスはダリの言う芸術家の創作過程と共通しています」。
タヤンディエーは荒巻のSF的手法が特定のイデオロギーの背景にある世界像を露わにすると評し、ダリの美的感性にSFの手法を当てはめることでナノレベルの世界をより深く洞察できると結論付けた。
「多くの科学者はナノテクノロジーにSFを結び付けることを否定的に捉え、ナノSFが描く世界を『妄想』だと批判します。しかし実はSFがナノテクノロジーの形成に多大な影響を及ぼし、ナノテクノロジーもまた新たなSFジャンルの誕生に大きく貢献してきたのです」とタヤンディエー。タヤンディエーによるとナノテクノロジーの起源は1959年、ノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマンの「遠い未来に原子を思い通りに並べることができるのではないか」というスピーチにあるというが、ファインマンが構築したアイデアの多くは当時すでにSFの世界に行き渡っていたメタファーを中心に展開されたものだったと指摘する。
また科学者が己の研究の有用性を示す際、SFのレトリックが利用されてきたことにもタヤンディエーは言及する。「例えば科学者が研究資金獲得のために提出する申請書で『この技術の浸透した未来がいかにすばらしいか』を訴える論調はまるでSFのようです」。
タヤンディエーはさらに「我々が科学技術をどのように利用し、その責任をどう考えるべきかを検討する上でもSFは大きな役割を果たします」と述べる。例えば伊藤計劃の『虐殺器官』では、ナノテクノロジーが軍事応用される物語を通してバイオテクノロジーとナノテクノロジーを巡る問題が提起されるという。加えて伊藤の『ハーモニー』ではナノテクノロジーが医療や社会に及ぼす影響が描かれ、科学技術の発展に対する倫理的な問題が指摘される。『ハーモニー』というタイトルには極端に調和のとれた均質な社会のいびつさに対する批判が込められている。
タヤンディエーは言う。「SFは科学技術の発展が社会にどのような影響を及ぼし、どんな倫理的・社会的問題を生じさせるかといった問いを投げかけてきます。作家の妄想の未来ではなく現実の世界と深くつながっている。SFに惹きつけられる理由はそこにあります」。