立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2019.01.16

<懐かしの立命館>宮城方位標・日時計物語~学園の“歴史の語り部”建設の経過と現在~

 戦前、立命館中学校・商業学校には日時計を兼ねた宮城(きゅうじょう)方位標というものがありました。現在の皇居である宮城注1)を正しい方角で遥拝(ようはい)(注2)することを目的として制作されたものでした。今はその姿を残しているだけですが【写真1】、立命館にとっては“歴史の語り部”である宮城方位標をご紹介します。

日時計1
【写真1 背後にJR東海道線が走る現在の姿】

 

1)宮城方位標建立の経過

1933(昭和8)年10月中旬、立命館中学校の坂井徳蔵教諭(注3)が、中川小十郎校長(注4)の意向を伝えに京都帝国大学の上田穣教授(注5)の研究室を訪ねました。用件は、「立命館では毎朝、皇居の方に向かって遥拝【写真23】をしているが(6)、その方位が正確ではない。これを天文学的に決定してもらえないか」というものでした。上田教授は即座に賛同され、研究室に居合わせた理学士で助手の森川光郎に手伝うことを指示されました。

日時計2

【写真2 立命館禁衛隊 第30号 1932(昭和7)年11月号】

日時計3

【写真3 中学校卒業アルバム 1933(昭和8)年】

 

 

方位を確定するためには、天体観測によって正確な子午線を求めねばならなかったので、その方法として、子午儀と呼ぶ器械で夜間の星を観測し、そこから計算して求めることに決まりました。そして、求められた宮城方位は、頑丈な花崗岩の標柱を建て、その上に刻み付けることになり、それらのすべてが上田教授に任されたのでした。

上田教授は、観測土台に用いたものを後に標石に用いることを考え、その土台となる花崗岩の大きさを60cm正方で高さ1mと決めました。この土台となる石を東西南北正確に置くため、1122日と25日の二度にわたって経緯儀観測が行われ、標石は12月初めに設けられました。

127日、標石上に観測器械を据付け、校長室に無線電信受信機を組み立て、その夜からようやく観測を開始しました。晴天の日でなければ観測できなかったため、日数は予定の2倍近くかかり、経度と緯度の観測が終了したのは1227日でした。この間、学校側で中心的に世話をしたのは幹事(現在の事務長にあたる)の竹岡彦市(注7)でした。

測定を終了後、中川校長から標高も求めることが追加されました。この測定を実施したのが1231日で、アネロイド・バロメーター(注8)を用いて付近の水準点との比較測量を行えば容易なはずが、この水準点を確認するのが当時では困難だったようでした。ようやくのことで見つけだし、この点と学校の標石の間を往復して測定を行ったのでした。

その後、上田教授たちには他での重要な調査研究があったため、データ整理と計算にも時間をとられ、完了したのは320日過ぎでした。

 

2)日時計併設の経過

  ここで、上田教授からは、「花崗岩の標石に矢を1本刻むだけでは惜しいので、これと兼ねて日時計を置いてはどうか」との提案がなされ、中川校長も賛成されました。その後、製作所と打ち合わせにも2ヶ月近い時間を費やすこととなり、製作所が作業に取り掛かったのは7月にはいってからでした。

  一方、経度緯度などの数値を記すために、別に金の文字板を貼り付けることが決まり、文案を上田教授が作成し、新任の吉田芳男教諭(注9)が揮毫を担当しました。

  日時計は、説明文字板は823日に完成して取り付けられました。共に、材質は砲金(注10)と呼ばれる硬い合金で作られていました。
 こうして宮城方位標を依頼されてから約10ヶ月の月日を要して、日時計と共に完成したのでした【写真4567】。

 

日時計4

【写真4 唯一の写真 1936(昭和11)年6月発行の立命館禁衛隊第65号】

日時計5

【写真5 現在でも文字がしっかりと読み取れる方位標】

日時計6

【写真6 全教職員・生徒による朝拝 立命館禁衛隊第46号 1934(昭和9)年10月号)】

日時計7

【写真7 昭和12年以前の木造校舎時代の宮城方位】

 

 

3)日時計の利用方法

日時計は文字通り、太陽によって知ることのできる簡易時計です。ここで紹介している日時計は、写真のように花崗岩の上に設置された丸い盤で、これが時計の文字盤に相当します【写真8】。数字が時刻を表し、その数字の間を12に区分してあります。その区分線で5分まで読み取れるようになっていますが、これが等間隔でないのは、影の動く速さが時間によって異なるからとされています。この円形平面盤の上に三角柱の金属が立っていて、日があたると三角柱の影が文字盤の上に落ちて時刻を見定めました。線と線の間に影が落ちた時は、大体の目分量で何分かを想像することになっていました【写真9】。

文字盤の上には日晷(にっき)時刻修正表とよばれるものが表示されていました。日晷とは太陽の陰という意で、昔は日時計のことをこのように呼んでいました。日時計の指す時刻は、毎日少しずつ違ってくるので、その違いだけを補正しなければならず、そのために修正表というものが必要となったのでした。横の行が左から右へ1月2月・・・12月。縦の行は上から下へ1日2日・・・31日まで数えられるようになっています。日時計は、この修正表の数値で補正すれば、一年中の時刻を知ることができたのでした【写真10】。

日時計8

【写真8 宮城方位標・日時計の全面】

日時計10

【写真9 宮城方位標の金具跡と時刻文字】

日時計9

【写真10 日晷時刻修正表】

 

 こうして完成し設置された宮城方位標・日時計でしたが、日時計は天候に左右されるもので、また、授業の始業・終業合図は職員が鐘をついて知らせていたので、日常の学校生活においては、それほどの役割はなかったはずです。立命館中学校・商業学校では、1938(昭和13)年に校舎をすべて鉄筋3階建てに改築しています。この時、北校舎(商業学校)の最上部に時計が設置されていたので、日時計の役目はすでに終わっていたことになります【写真11】。

日時計11

【写真11 戦前の正門からの北大路学舎】

 

4)すべての役目を終えて

 こうして、日時計までを兼ね備えて正確に製作された宮城方位標は、終戦によってその役目はすべて終わりました。戦後は、社会の復興と生徒たちの成長を見守るだけになりました【写真12】。1964(昭和39)年には、北大路通に面する校地南側に4階建の校舎が建築されることになり、一旦移動させられた宮城方位標は、日時計として北大路学舎正門を入った右側に移設されました。存在を示すことができたのは、中学校理科の授業で時折、日時計の教材として利用されたくらいでした。

日時計12

【写真12 北大路学舎全景1960年】

 

 1988(昭和63)年7月には深草キャンパスが完成し、立命館の“歴史の語り部”としての役目がくるだろうと宮城方位標・日時計もそのまま新天地へと移設されました。戦前には、生徒・教職員の先頭にあって存在感を誇示していましたが、日時計としての役目も終え、グラウンドの階段横で、ツツジに囲まれながら、生徒たちの元気な姿を見守り続けてくれていました【写真1314】。

日時計13

【写真13 深草でツツジに囲まれた宮城方位標・・日時計】

日時計14

【写真14 2012年深草キャンパス 第1グラウンド】

 

 2014(平成26)年、立命館中学校・高等学校キャンパスは更なる展開のために長岡京へと移転することになりました。すべての役目を果たし終えた宮城方位標・日時計は、線路と隣り合わせのキャンパスの片隅で、歴史の語り部として、西園寺公の石灯篭と共にひっそりと余生を送っています【写真1516】。

日時計15

【写真15 長岡京キャンパス 石灯篭とJR東海道線をバックに】

日時計16

【写真16 西園寺公望公旧邸の石灯籠】

 

2019116日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

 

1;江戸城内の天皇の居所を皇居と称していたが、1888年旧西の丸に宮城を新築されてからは、宮城と呼ばれていた。

2;宮城遥拝は、天皇への尊崇の念を高め、日本国民の団結力を強める意味をもって、宮城に向かって最敬礼する行為で、戦前には国内外で盛んに行われた。

3;和歌山県出身で数学担当。和歌山県、新潟県、奈良県、滋賀県や陸軍幼年学校の教員を経て、1933(昭和8)年に47歳で立命館商業学校に就職した。立命館では生徒監などを勤め、10年後に退職。

4;中川小十郎は、館長となった1928(昭和3)年4月から1929(昭和4)年2月までに中学校校長、1933(昭和8)年8月から1941(昭和16)年3月までは総長との兼任で中学校・商業学校校長。

5;上田 穣(18921976)日本の代表的天文学者。東京帝国大学理科大学卒業後にアメリカ留学。帰国後の昭和6年に京都帝国大学教授となる。その翌年に中川小十郎から方位標を依頼されている。その後、花山(かさん)天文台長や生駒山太陽観測所長を務めていて、1953(昭和28)年に発見された小惑星には「1619eta」という命名されている。

6;立命館中学校・商業学校では、1932(昭和7)年915日から、毎日始業前、禁衛隊記念として、既に実施していた合同体操に先立ち、職員一同が校庭に集合して、東方向に向かって朝拝という行事を行っていた。

7;京都府出身。師範学校卒業後に京都府下の小学校で訓導を務め、その後、4校での小学校校長を歴任して退職。1933(昭和8)年に48歳で立命館中学校・商業学校幹事で就職。戦後は大学の事務職員となって退職。

8;水銀を用いず、小型軽量の構造で取り扱いが簡単なため、温度計と一体化したものや、気圧と高度の対応ができる登山用高度計として使用されている。

9;三重県出身。書道担当。小学校や高等女学校の教員を経て、1933(昭和8)年12月に中学校・商業学校教員に40歳で就職。その直後に方位標の揮毫にあたっている。5年後に退職。

10;銅と錫の合金で、靱性に富むため大砲の砲身の材料などに使用された。

2018.12.26

<創立者・中川小十郎 講演会開催>中川が目指した女子教育についての講演会が亀岡市で開催されました。

2018年99日(日)13:3015:30 亀岡市「ガレリアかめおか」にて「明治時代の教育改革に取り組んだ中川小十郎の未来像~とくに女子教育について」と題する講演会が開催されました。

 講師は立命館大学文学部 山崎有恒教授。主催は NPO法人 中川小十郎先生亀岡顕彰会(共催:立命館大学校友会亀岡校友会、後援:亀岡市・亀岡市教育委員会)で、72名の参加がありました。

 

亀岡中川講演会1 

講演では、近世日本の女子教育はどのようなものであったか、そして明治維新を経てどのように変わっていったかのお話がありました。

 

明治初期、初等教育では男女平等の教育を実現したけれども、高等教育では男女平等論と男女職分論に分かれ、後者の流れで女学校が誕生します。

そのような背景の中で中川小十郎は、東京女子師範学校校長であった叔父・中川謙二郎の薫陶を受け、女子教育の重要性を認識していきました。

中川は、男女それぞれに得意分野があって、互いを認め合って琴瑟和合することが大切であるという男女職分論をとりながら、男は「漢文」女は「ひらがな」という今の教育方法は、女子教育を、ひいては国力の発展の妨げになると考え、男女の文体を同じにする必要性を説きます。

この考えを論文「男女の文体を一にする方法」として、文部省懸賞に応募し一等となり、その懸賞金を全て投資して、雑誌「いらつめ」を発刊、文体の統一だけでなく、話し言葉と書き言葉を一致させる「言文一致運動」をすすめていくのです。

 

中川が描いた理想の日本社会像は、「男性だけだと粗雑で争いに満ちた、ぎすぎすとした社会ができあがる。『優柔温和』な女性がいてこそ社会は調和し、穏やかにまわっていく」というものでした。

それは現代の男女平等の視点とはだいぶ異なりますが、明治の時代にあっては画期的な発想であったのです。

 

亀岡中川講演会2 

山崎先生は、後に広岡浅子の側近として日本女子大学創立を支援するなど「女子教育のパイオニア」としての中川小十郎という、あまり知られていない側面を、エピソードを交えながらお話され、会場も感心しきりのようすでした。

 

2018年12月26日 立命館 史資料センター 奈良英久

2018.10.31

<懐かしの立命館>立命館中学校・商業学校の「御楯の井」― 井戸をめぐる中川小十郎の教育観 ―

<被災者を救った井戸水>

 1938(昭和13)年7月31日、四国を襲った強力な豪雨は、松山で死者行方不明者23名の土砂崩れを起こし、翌8月1日は神戸・三宮で川の堤防を決壊させるなどの被害を広げ、1日夜から2日にかけての京都では暴風雨となって更に猛威を振るったのでした。

この豪雨によって、高野川が氾濫し、川底に引かれていた導水管(上水道のための大鉄管)が破壊したため、松ヶ崎浄水場(注1)からの送水が不能となりました。新聞報道によれば、高野川の氾濫による被害者が25万人にも達した原因は、鴨川の改修工事が行われている最中での豪雨だったため、土砂などがそのまま放置されてしまったことからでした(注2)。この時の市内では、他にも白川、天神川、安祥寺川などいくつもの川が決壊していました。導水管の破壊によって、北大路以北一帯の水道が82日夜から全部断水になってしまいました。

83日早朝、中川小十郎校長の判断と倉橋勇蔵主事(注3)の臨機の処置によって、学校の井戸水を付近住民に供給することとして、正門の他に非常門を開放し、給水を開始しました。そして、これを広報するために小使さんとよばれていた職員を学校周辺の住宅へ触れて回らせています(注4)。掲示板には次のように書かれていました。

「浄水道断水のため飲料水に御不自由の方は御遠慮なく本校の井水をお使ひ下さい」

これにより2,000人以上の市民が救われたといいます。

 

【写真1 1938(昭和13)年9月発行の『立命館禁衛隊』第86号の表紙で紹介された正門の様子】

 

写真2 京都日出新聞  1938昭和1386日付

 

<「御楯の井」と立命館>

非常用飲料水となった井戸水は、校内では「御楯の井」と呼ばれていました。

1933(昭和8)年10月に天皇が京都に滞在した時に立命館中学校・商業学校の校地内に掘削されたもので、名の由来は万葉集の防人の歌「今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つわれは」(注5)に因んで中川校長が命名したものです。

 

【写真3 『立命館要覧』1934(昭和9)年版に掲載された「御楯の井」】

 

【写真4 万葉集の歌が刻まれた「御楯の井」の碑 立命館 史資料センター】

 

井戸の開削後に京都市の衛生試験所で検査を受けて、飲料水にも適していると証明されていましたが、立命館中学校・商業学校では中川校長の指示によって、1934(昭和9)91日から「(みそぎ)」に使用されていました。その方法からすれば冷水摩擦で、昔からの健康法の一つでした。それを中学校・商業学校では、中川校長が(みそぎ)と呼んで、神官が神に奉仕する前に身を清めるという大切な行事と同じように心を清める修行とし、体も鍛え清める行事として生徒たちに励行させていました。

新入生は、朝7時前から登校し、この禊を行いました。正門を入って左手奥に「御楯の井」があり、禊が行われる校庭の西側は禁衛隊道場の「西の道場」(写真5)と呼ばれ、その禊が終われば、全生徒教職員が御所に向かって遥拝を行うのでした。

 

【写真5 禊を行う生徒たち『立命館禁衛隊』第58号 1935(昭和10)11月】

 

【写真6 運動場の境界に建てられていた禁衛隊道場の碑 立命館 史資料センター】

 

【写真7 禊の後、御所に向かって遥拝

生徒たちの向こうに並ぶのは禊のための個人用バケツ 1934(昭和9)年頃】

 

1938(昭和13)年8月に京都市が暴風雨に見舞われるよりも3ヶ月早くに、立命館中学校・商業学校では、耐火耐震に備えた鉄筋3階建で2,000名を収容する校舎が完成していました。地下道は、将来の戦争に備えて生徒たちや近隣住民が避難できる防空壕にもできるように造られていました。「御楯の井」もこれにあわせて更に掘削を進め、ポンプによる汲み上げと配水管と蛇口などが備えられていました。これによって、生徒たちが神聖な水として禊に使用していた「御楯の井」は、自然災害による緊急事態にあって、人々を救う水として役立つことになったのでした。

同じ年の5月、立命館中学校・商業学校では中川校長の発案で竹製のランドセルを生徒たちに使用させています。これは国策に沿った目的で皮革の節約をするもので、これに続いて6月には登下校での下駄や草履を京都府下で一番に実施しています。中川校長は、戦時だけを意識するのではなく、自然災害による非常事態への準備も強く考えるようになっていました。今回の「御盾の井」の給水は、こうした考えからであったといえます。 

 

【写真8 臨時の給水所の様子『立命館禁衛隊』第86号】

 

結局、断水期間は6昼夜続き、89日の朝、ようやく上水道の給水は復旧しました。
 中川校長は、公共建造物には井戸の設備が必要と説いていたそうで、今回のような断水がそのよい例となったわけで、「立命館中学校・商業学校の非常給水の状況は、鈴木敬一京都府知事を通じて荒木貞夫文部大臣(第一次近衛文麿内閣)へ報告」されたと記されています(注6)。

 

【写真9 「御楯の井」が刻字された碑 立命館 史資料センター】

 

<「御楯の井」の戦後>

この「御楯の井」は、連合国軍総司令部による検閲を恐れた学校関係者によって終戦後に埋め立てられてしまい、その姿を見つけることはできませんでした。その井戸に銃などの武器が投げ込まれて埋められたという話だけが、伝説のように長く語り継がれていました。井戸はなくなりましたが、「御楯の井」の碑は、北大路の校舎の片隅に置かれて生徒たちのベンチとして愛用され、深草キャンパス移転後は、通用門の横で誰にも気づかれない状態で放置されていました。現在は、戦前の貴重な学園史を語る資料として史資料センターに移され、ひっそりと保存されています。

2018年10月31日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博 

 

1 当時の松ヶ崎浄水場の送水は、三宅八幡、深泥ヶ池、上賀茂、鷹ヶ峰、蓮華谷、金閣寺、衣笠、宇多野、鳴滝、北白川、吉田、鹿ヶ谷と広範囲であった。

2 京都日出新聞 1938(昭和13)年86日付

3 1930(昭和5)年4月に立命館中学校教諭。中学校鍛錬部長、立命館第二中学校校長などを経て、理事、専務理事などを務める。

4 大阪朝日新聞 1938(昭和13)年86日付

5 万葉集巻二十・4373 作者は火長今奉部与曾布(いままつりべのよそふ)

6 立命館禁衛隊 第86

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