立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2019.10.29

<学園史資料から>立命館大学校友会大会で「なつかしの立命館」展示をしました

20191019日(土) 国立京都国際会館にて、「立命館大学校友会100周年記念 オール立命館校友大会」が全国から2,000名の参加を得て盛大に開催されました。

その会場内で「なつかしの立命館」と銘打ち、広小路と衣笠時代を中心に学園史展示を行いましたので、ご紹介します。

 校友会大会1

国立京都国際会館を会場に、100周年記念オール立命館校友大会を開催。

校友会大会2

学園史展示の「なつかしの立命館」全景。広小路世代を中心に思い出話に花が咲く。

 校友会大会3

明治2年西園寺揮毫の「立命館」(学宝)を1.5倍に拡大して展示。じっと見入る校友。近年、史資料センターでは、西園寺公望と中川小十郎の「定番」写真を変えて展示するようにしています。晩年の写真ではなく、そのことが起こったころの写真(例えば京都法政学校設立の時は、その頃の西園寺と中川というように)

 校友会大会4

創立者中川小十郎の少年期から京都法政学校創立までのパネル。毎回人気があるのは、モニターに映る当時の学生生活の姿。(今回は、校友の大城戸さんから寄贈いただいた1980年広小路で撮影された自主製作映画も上映しました)

 校友会大会5

学園史展示の一角で解説するのは、立命館大学校友会設立100周年記念事業 特別委員会副委員長の仲治實さん。仲さんは学園史について実地調査や史資料センターでの資料調査を重ねて精緻な学園創立史を研究され、パワーポイントを使って校友に話しておられました。史資料センターでも知らなったことがあり、本当に頭の下がる思いです。

 校友会大会6

1965年広小路学舎模型(1/150)の前で談笑する校友。中央はこの日講演された校友の古市 忠夫さん。(阪神淡路大震災で被災後、自らの復興のためプロゴルファーを目指し、還暦目前にプロゴルファーテストに合格-2006年公開映画「ありがとう」の主人公モデル)

 校友会大会7

1965年広小路学舎、1981年衣笠学舎、2019OIC模型に集まる。校友大会で必ず展示する「キャンパス模型」は「なつかしさ」の固まり。この日一番集まっていたのは衣笠学舎の模型でした。(この衣笠学舎模型は、当時の学生クラブ「立美会」が製作して学園に寄贈したもの)

 校友会大会8

今回初めて製作展示した、1980年広小路・衣笠周辺、1988年衣笠周辺の飲食店地図と学生生活の写真パネル。学生時代の思い出はキャンパスの外にも「なつかしさ」があって人気でした。史資料センターには学外の飲食店などの写真がほとんどないので、是非とも集めたいと思っています。

 校友会大会9

19651981年までの「学園祭パンフレット」「大学案内」の展示と末川名誉総長の色紙や言葉の実物展示。「学園祭」は強い思い出となっていて、自分の時代の表紙を撮影していく校友が多くいました。末川名誉総長の言葉は、キーフレーズは同じでも、時々で書き方が違うので、関心を集めたようです。

 校友会大会10

昭和13年に製作された「山陰道鎮撫行程図」実物大レプリカ。今回初展示の資料で西園寺が通った軌跡がすべて記載されています。あわせて、史資料センター久保田謙次調査研究員が同行程を2015年に辿った記録も展示しました。

 校友会大会11

1983年~2014年まで衣笠の体育館舞台にあった「一文字幕」の校章の展示。これも初展示ですが実物がいかに大きいかがわかります。展示をみて「あれ、こんなのあったっけ?」とか「でかいな」という感想が。


 201910月29日 立命館 史資料センター 奈良英久

2019.10.15

<懐かしの立命館>山陰道鎮撫隊の行路を辿る

 921日、NPO法人中川小十郎先生亀岡顕彰会主催の、「山陰道鎮撫隊の行路を辿る視察」に参加しました。

 今回の視察は顕彰会として第2回となります。参加者は30名、当日は雨模様の天候でしたが、鎮撫隊が山陰道を進軍した時も雨や雪の日もあり、当時の天候を思いながらの視察となりました。

 行路は、亀岡を出発、福住に立ち寄り、篠山城を通過、福知山城、田辺城(西舞鶴)、宮津・三上本陣を視察するというものでした。

 資料として、『西園寺公望公山陰鎮撫日記』(立命館史資料センター所蔵 昭和15)をもとに作成した「山陰道鎮撫の道を辿る」(詳しくは、史資料センターHP<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る(3部)参照)および「山陰道鎮撫使西園寺公望公鎮撫日記道程地図」の今回調査部分を参考資料としての現地視察でした。

 山陰道鎮撫隊の行路11

【山陰道鎮撫使西園寺公望公鎮撫日記道程地図】

※地図をクリックすると別ウィンドウが開き、大きな画面で見て頂けます。

≪亀岡駅出発、福住へ、そして篠山城≫

 亀岡駅を8時半に出発。

 亀岡の馬路は、西園寺公望山陰道鎮撫総督一行が、御所を出陣して最初の本陣とした地です。鎮撫隊一行は明智越えを進み馬路に宿陣しました。この時鎮撫隊の隊列に加わったのが、人見家や中川家をはじめとした馬路の人々でした。亀岡は当時亀山藩。山陰道で最初に鎮撫隊に従い、新政府に帰順した藩となりました。

 鎮撫隊は亀山藩を鎮定し、八木から鳥羽宿を経て、園部に本陣を張ります。園部藩はこの時藩主小出英尚が京都におりましたが、藩は勤王を誓いました。

 現在一部が残る園部城は、当時は陣屋でした。

 園部を後にした鎮撫隊は原山峠を越えて福住に入ります。原山の琴松寺で鎮撫隊は休憩しています。福住では幕府側の若狭小浜藩などの敗兵が帰藩のため当地を通るのではないかとの情報があり、弓箭士や山国隊による戦力の強化を図りました。こうした状況の中で酒井若狭守は謝罪書を奉じ、篠山藩は篠山城から福住の西園寺総督のもとに出向いて帰順しました。

 篠山では、二階町の河合七兵衛方に本陣を張りました。既に福住で帰順を申し出ていた篠山藩でしたが、藩主青山忠敏(ただゆき)、老臣らは連署して勤王無二及び徳川義絶の書を差し出しました。現在の篠山城は、堀を巡って大きな石垣が城址を取り囲み、復元した大書院が残っています。 

≪福知山藩・福知山城≫

 福知山城は明智光秀が天正7(1579)年頃に築いたのが始まりと言います。城主はその後幾たびか変わりますが、寛文年間に朽木氏に変わり、戊辰戦争時には藩主朽木為綱となっていました。

 鎮撫隊・西園寺総督は114日、菱屋町の吉田三右衛門宅を本陣とし、18日朝まで滞陣します。

 福知山藩は当初幕府側でしたが、戦況はいかんともしがたく、15日には藩老が吉田本陣に出頭して降伏しました。この間に西園寺総督は諸藩に命じ、出石藩、綾部藩、山家藩から勤王の誓書を提出させました。

 滞陣中、錦の御旗と鎮撫使の牙旗()が御所から届き、これによって鎮撫使一行は朝廷の権威を旗印として進軍します。

 鎮撫使一行は18日、福知山を発陣、是社神社畔の由良川を船で田辺(西舞鶴)に向かいました。

山陰道鎮撫隊の行路16 

【福知山城にて】

 田辺藩・田辺城≫

 鎮撫隊は藤津で下船し、陸路田辺(西舞鶴)に向かいます。

18日、福知山を発った鎮撫使一行は田辺に着き、田辺藩は城下の見樹寺で鎮撫使を出迎えます。田辺では大手交差点の西側にあった村田兵左衛門宅を本陣としました。鎮撫使一行総勢624名が34の町屋と寺院を宿所としたと言われています。本陣から田辺城はすぐ近く、現在は城の石垣が残り、彰古館と城門(田辺城資料館)が復元されています。田辺藩は、版籍奉還後、紀伊田辺藩と区別するため舞鶴藩となっています。

藩主牧野誠成(たかしげ)、老臣らは鎮撫使が到着するや恭順し、二心無き事を誓いました。滞陣中、総督は舞鶴湾を遊船、家臣濱崎和泉守が場内を見分しています。

121日、鎮撫隊一行は田辺を発陣し宮津に向かいましたが、田辺藩は「ます」や「このわた」を献上し、藤津や由良まで随従しました。

 山陰鎮撫隊の行路3

【田辺城にて】 

宮津・三上本陣

 宮津城は大手川から現在の宮津駅にかけての一帯にありましたが、今はほとんど遺構が残されていません。

 21日夜、鎮撫隊は宮津に入り西園寺総督は三上金兵衛方を本陣としました。宮津に到着した鎮撫隊は薩長両藩士に加え、鎮定した諸藩からも随従したため千人ほどの滞陣になりました。この日は大雪であったといいます。

 藩主本荘宗武は幕府側で江戸に滞在中でしたが、幕府側の敗色濃い戦況に一変して新政府側に帰順することとなりました。

 西園寺総督はこれまで帰順した藩を含めて、亀山・園部・篠山・柏原・山家・福知山・綾部・田辺・宮津・若狭酒井の諸藩の勤王無二および徳川義絶の誓書を濱崎和泉守、中川禄左衛門らに二条城太政官代に届けさせました。

 西園寺総督が本陣とした河原町の旧三上家住宅は現在も保存公開されていて、西園寺総督が滞陣した際の御座敷、勅使門が現存しています。また庭園には西園寺総督が短冊に詩を詠んだ老梅があります。その「老梅の詩短冊」と表札「御勅使様御泊」が京都府立丹後郷土資料館に所蔵されています。

 山陰鎮撫隊の行路4

【旧三上家(三上本陣)にて】

  今回のNPO法人中川小十郎先生亀岡顕彰会の「山陰道鎮撫隊の行路を辿る視察」は福知山城、田辺城、三上本陣などを実地視察し、亀岡馬路にて山陰道鎮撫に従軍した馬路の人々を顕彰した「清聲千古碑」を見学、山陰道鎮撫隊の行路の事蹟を学びました。

17時半、亀岡駅帰着。 

20191015日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2019.10.02

<学園史資料から>「立命館 スポーツと平和」 展示開催

史資料センターの展示企画

「立命館 スポーツと平和」

~戦前 二人のオリンピアンと戦場に散ったアスリート~

914日の立命館中学校高等学校(長岡京キャンパス)の文化祭からスタートしました。

この展示は、戦前の立命館に学び陸上競技に取り組んだ三人のアスリートたちが、戦争へと向う時代のなかでどのようにスポーツと共に生きてきたかを紹介するものです。2020年東京オリンピック・パラリンピック開催を前に、スポーツを通じて平和を考える機会としてもらえればと企画しました。

スポーツと平和1 

(立命館中高の学園展示コーナー)

権泰夏は朝鮮半島に生まれ、後に立命館中学(当時の正式校名)へと転校しました。立命館中学では徒歩部(後に陸上部)に所属し、長距離で活躍しながら修了まで通っていました。その後、明治大学へ進学し卒業後、1932年ロサンゼルスオリンピックマラソンの日本代表選手に選出されたのでした。戦後は祖国の若手マラソン選手の育成に生涯を投じました。

 スポーツと平和2

(権泰夏選手の展示)

市原正雄は京都府亀岡出身で、立命館大学専門部に入学後から本格的に400mハードルを始め、3年目で日本選手権や日本学生選手権に優勝し、以後、日本のトップで活躍するようになったのでした。大学3年生の時、1936年ベルリンオリンピックには立命館の学生として初めて出場しました。卒業後は北海道へ移り、そして戦場へ。戦後は、北海道の陸上競技協会を一つにまとめ、現在の北海道陸上競技発展の礎を築いたのでした。

スポーツと平和3 

(市原正雄選手の展示)

 高木正平は京都府福知山出身で、中学校入学から大学予科、大学卒業までの10年間、立命館で学び走り続けました。中学3年生の頃から本格的に走り始め、大学生になってからは、全国大会に上位入賞する実力者になりました。主将として陸上競技部を牽引し、大学駅伝では京都や関西の大会で連覇を達成し、「駅伝の立命館」と言われる伝統を築き上げたのでした。卒業後も走り続けましたが、応召により戦場へ。19398月ノモンハンの激戦地で戦死。26歳。未来のある青年ランナーが戦場に散った短すぎる生涯でした。

 スポーツと平和4

(高木正平選手の展示)

 三人のアスリートの紹介と併せ、1964年の東京オリンピック時に国際的に高く評価された公式ポスター(複製)を展示しています。この撮影を担当した写真家が早崎治(立命館高校卒・立命館大学卒)で、28歳の頃の作品でした。戦後19年で実現した東京オリンピックを世界の平和のスポーツ祭典として紹介した国際的写真家でした(60歳の時に撮影中に事故死)。

  スポーツと平和5

  1932年、1936年、1964年のオリンピックポスター)

  会場では、写真パネルや略年表による紹介、三名を紹介した写真集や雑誌、オリンピックを題材にした玩具類(大河氏寄贈資料)、ロサンゼルスオリンピック出場選手サイン帳等などを展示しています。

この展示は、以下の日程と会場で巡回します。立命館大学での展示は一般の方の見学もできますが、開館日時及び休館日は各開館スケジュールをご確認ください。

   2019914日(土)~1010日(木)立命館中学校・高等学校

   1119日(火)~12 9日(月)

立命館大学びわこ・くさつキャンパス メディアセンター風除室

開館スケジュール https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=87773

     1218日(水)~2020112日(日)

立命館大学いばらきキャンパス  ライブラリー展示室

開館スケジュール https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=191480

    117日(金)~29日(日)

立命館大学衣笠キャンパス 平井嘉一郎記念図書館ギャラリー

 開館スケジュール https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=87771

 なお、お越しの際は各種公共交通機関をご利用ください。

 

2019102日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

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