立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2019.11.13
<懐かしの立命館> 立命館中学校高等学校文化祭の始まり
立命館中学校高等学校では2019年9月14、15日に文化祭が開催されました。いくつもの学校行事が催されるなか、文化祭の歴史を辿ってみました。
1.第1回文化祭
記念すべき第1回の文化祭は、1947(昭和22)年11月に三日間にわたり開催されました。この年は、4月に新制の立命館中学校と立命館神山中学校(注1)が設置されて入学した1年生に加え、戦前からの立命館第一・第二・第三・第四中学校や商業学校、工業学校に在籍する生徒が、北大路と神山(神山と第二)の二つの学舎に通っていました。
この第1回文化祭の内容は、1947年11月27日発行の学校新聞「立命館タイムス」第1号から知ることができます。生徒たちの手による初めてのタブロイド版の新聞で、発行所は立命館中等部新聞部で、この時の見出しには「学芸祭」と書かれています。
写真1 第1号で学芸祭(第1回文化祭)を伝える記事
舞台上に立命館神山中学校5名の1年生女子生徒が写っている。
第1日目 (11月2日)弁論大会「全国中等学校優勝弁論大会」
立命館中学校の主催で、以下のような旧制中学校が参加しています。
京都府 京都一中、大谷、同志社、京都五中、京都二中、平安、四條商業、東山、
東寺、亀岡農林、立命二中
他府県 都島、宇治山田、市岡、北野、愛知、膳所、履正社、東邦商業、東海、
栗田農林、福島商業、東海今宮、堺
優勝弁論題名は「青年の使命」(優勝者とその校名は不明)でした。
第2日目 (11月3日)音楽大会「学芸祭音楽会」
時世を映し出して軽音楽団と呼ばれる生徒の演奏に人気があったと記されています。記事によれば、音楽会は前年にも催されていたようで、練習の進歩があったと評価されています。文化祭の原点は、終戦の翌1946年に誕生していたことになります。
音楽会と同時開催で、「名曲レコード鑑賞会」が普通教室で行われていましたが、来場者は音楽会へ流れて少なかったそうです。
第3日目 (11月4日)演劇大会「中等部総合学芸大会」
この演劇大会の主催は中等部父兄会(PTAの前身)で、旧制第一中学校演劇研究会が主たる公演を行い、旧制第二中学校は男子だけの演劇部と新制神山中学校1年生女子を加えた「しをり会」も参加していました。
写真2 演劇大会「中等部総合学芸大会」プログラム(B4サイズの表裏1枚もの)
この三日間にわたって化学・生物・書道・絵画の展示発表会も行われ、現在に続く文化祭の原点となる第1回はこのように実施されたのでした。
2.第2回文化祭
「立命館タイムス」第9号(1948年12月17日発行)の記事によれば、1948年の第2回文化祭は、前年度と内容も期間も大きく拡大した行事になっています。見出しは「堂々八日間の大行事 第二回文化祭盛大に終る」で、「文化祭」という語が初めて登場しました。
写真3 第2回文化祭を伝える立命館タイムス第9号
10月31日(日) 第1日目 連合大運動会 場所:京師運動場(注2)
五つの学校(高校の部は北大路の高校と夜間高校、神山の高校。中学の部は北大路と神山)が参加した第3回目となる運動会でした。新制の学校も含めた附属校の大運動会で、北大路学舎では狭かったため、近くにあった師範学校(後の京都学芸大学。現京都教育大学)の運動場を借用して開催されました。教員と生徒が共に参加する仮装行列が行われ、その後も長く伝統種目として続けられています。年に一度の大行事ならば、第1回は終戦の年、明るく楽しい学校行事が戦後復興へのスタートにされていったのでしょう
写真4 1949年の高校運動会仮装行列(卒業アルバムより)
11月1日(月) 代休
11月2日(火) 第2日目 文化講座とクラス会
午前中に末川博総長による講演が行われた後、講師による自由課題での文化講座実施。午後からはクラス会と題して、自由なプランで時間を過ごしました。
11月3日(水) 文化の日としての初めての祝日(注3)
11月4日(木) 第3日目 校内対抗競技会とコース別ハイキング、映画観賞会
野球(校庭)、卓球(講堂)、排球(排球コート)、庭球(庭球コート)で実施。
上記の球技大会に不参加の生徒は、2コース(六甲方面と芹生峠附近)から1つを選択してハイキングに参加。
この日は特別に中高新聞部主催でGHQ軍政部の特別配慮(当時は、学校新聞も含め校内での情報伝達には厳しい検閲があった)をえて校内映画観賞会を図書室内で開催しています。どのような映画であったのかは記録されていませんが、教員や生徒には好評であったと報告されています。
11月5日(金)第4日目 演劇鑑賞 会場:新聞会館 上演:高校演劇研究部
高校の部「トラック島」、中学の部「お人好の百姓」
11月6日(土)第5日目 他校招待弁論大会 会場:講堂 主催:中高弁論部
高校「全関西高等学校優勝弁論大会」
出場校は三十数校。岐阜市立や八尾など実力校が多数。
中学「全京都中学校優勝弁論大会」
11月7日(日)最終日 午前:音楽大会 午後:娯楽版 会場:講堂
音楽大会は音楽部主催で謡曲、合唱、独唱、軽音楽、独奏などが発表されました。高等学校の謡曲研究会というのは、全国的にも珍しい活動であったと考えられます。
午後からは新聞部主催の特別企画で、当時のラジオ番組(テレビ放送は1953年からなので、ラジオは最大の娯楽でした)で大人気であった「話の泉」「二十の扉」が生徒と教員の出演で行われ、最後には参加者二十数名による「のど自慢コンクール」で会場は大きく盛り上がって閉幕しました。仮装行列と同様に、生徒と教員が共に楽しめる行事であったのでした。
写真5 1949年の高校謡曲研究会(卒業アルバムより)
11月6、7日 展覧会とバザー
現在のクラブ展示にあたるもので、新聞部、文芸部、美術部、化学部、物理部、生物部、書道部が参加して好評だったと紹介されています。文化祭でのクラブ展示が本格的に行われるようになりました。
写真6 1949年の高校軽音楽団演奏(卒業アルバムより)
写真7 1949年 高校演劇部の上演(卒業アルバムより)
写真8 大バザー案内(サイズ12cm×18cm)
3.おわりに
立命館中学校高等学校の文化祭という名は、日本国憲法公布を祝して制定された祝日「文化の日」(1948年11月3日)と共にスタートしたことがわかりました。戦後復興に向けて、学校教育のなかで生徒と教員が共に新しい文化や体育を育んでいこうとするものでした。
あれから72年。パンフレットだけを見ても、その成長と進歩には目覚ましいものがあります。文化祭の意義や目的は、時代の移り変わりと生徒たちの成長と共に変化してきているようです。これからの文化祭がどのように発展していくのか楽しみです。
写真9 2019 立命館中学校高等学校文化祭プログラム表紙
2019年11月13日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1:立命館神山中学校は男女共学で設立されている。内容については以下の記事を参照。
「今日は何の日」3月 神山学舎の開設と上賀茂グラウンド
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=31
注2:学芸大学(戦前は京都師範学校)は、当時、北大路新町を下がった場所にあって、その後、伏見区深草へ移転した。1962年4月から京都府立鴨沂高等学校との共用で跡地を「紫野グラウンド」として 借用し、体育授業やクラブ活動で利用した。
注3:この前年までは、法的に戦前からの祝日が残っていて明治節(明治天皇の誕生日を祝う祝日)としての祝日であった。
2019.10.29
<学園史資料から>立命館大学校友会大会で「なつかしの立命館」展示をしました
2019年10月19日(土) 国立京都国際会館にて、「立命館大学校友会100周年記念 オール立命館校友大会」が全国から2,000名の参加を得て盛大に開催されました。
その会場内で「なつかしの立命館」と銘打ち、広小路と衣笠時代を中心に学園史展示を行いましたので、ご紹介します。
国立京都国際会館を会場に、100周年記念オール立命館校友大会を開催。
学園史展示の「なつかしの立命館」全景。広小路世代を中心に思い出話に花が咲く。
明治2年西園寺揮毫の「立命館」(学宝)を1.5倍に拡大して展示。じっと見入る校友。近年、史資料センターでは、西園寺公望と中川小十郎の「定番」写真を変えて展示するようにしています。晩年の写真ではなく、そのことが起こったころの写真(例えば京都法政学校設立の時は、その頃の西園寺と中川というように)
創立者中川小十郎の少年期から京都法政学校創立までのパネル。毎回人気があるのは、モニターに映る当時の学生生活の姿。(今回は、校友の大城戸さんから寄贈いただいた1980年広小路で撮影された自主製作映画も上映しました)
学園史展示の一角で解説するのは、立命館大学校友会設立100周年記念事業 特別委員会副委員長の仲治實さん。仲さんは学園史について実地調査や史資料センターでの資料調査を重ねて精緻な学園創立史を研究され、パワーポイントを使って校友に話しておられました。史資料センターでも知らなったことがあり、本当に頭の下がる思いです。
1965年広小路学舎模型(1/150)の前で談笑する校友。中央はこの日講演された校友の古市 忠夫さん。(阪神淡路大震災で被災後、自らの復興のためプロゴルファーを目指し、還暦目前にプロゴルファーテストに合格-2006年公開映画「ありがとう」の主人公モデル)
1965年広小路学舎、1981年衣笠学舎、2019年OIC模型に集まる。校友大会で必ず展示する「キャンパス模型」は「なつかしさ」の固まり。この日一番集まっていたのは衣笠学舎の模型でした。(この衣笠学舎模型は、当時の学生クラブ「立美会」が製作して学園に寄贈したもの)
今回初めて製作展示した、1980年広小路・衣笠周辺、1988年衣笠周辺の飲食店地図と学生生活の写真パネル。学生時代の思い出はキャンパスの外にも「なつかしさ」があって人気でした。史資料センターには学外の飲食店などの写真がほとんどないので、是非とも集めたいと思っています。
1965~1981年までの「学園祭パンフレット」「大学案内」の展示と末川名誉総長の色紙や言葉の実物展示。「学園祭」は強い思い出となっていて、自分の時代の表紙を撮影していく校友が多くいました。末川名誉総長の言葉は、キーフレーズは同じでも、時々で書き方が違うので、関心を集めたようです。
昭和13年に製作された「山陰道鎮撫行程図」実物大レプリカ。今回初展示の資料で西園寺が通った軌跡がすべて記載されています。あわせて、史資料センター久保田謙次調査研究員が同行程を2015年に辿った記録も展示しました。
1983年~2014年まで衣笠の体育館舞台にあった「一文字幕」の校章の展示。これも初展示ですが実物がいかに大きいかがわかります。展示をみて「あれ、こんなのあったっけ?」とか「でかいな」という感想が。
2019年10月29日 立命館 史資料センター 奈良英久
2019.10.15
<懐かしの立命館>山陰道鎮撫隊の行路を辿る
9月21日、NPO法人中川小十郎先生亀岡顕彰会主催の、「山陰道鎮撫隊の行路を辿る視察」に参加しました。
今回の視察は顕彰会として第2回となります。参加者は30名、当日は雨模様の天候でしたが、鎮撫隊が山陰道を進軍した時も雨や雪の日もあり、当時の天候を思いながらの視察となりました。
行路は、亀岡を出発、福住に立ち寄り、篠山城を通過、福知山城、田辺城(西舞鶴)、宮津・三上本陣を視察するというものでした。
資料として、『西園寺公望公山陰鎮撫日記』(立命館史資料センター所蔵 昭和15年)をもとに作成した「山陰道鎮撫の道を辿る」(詳しくは、史資料センターHP<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る(全3部)参照)および「山陰道鎮撫使西園寺公望公鎮撫日記道程地図」の今回調査部分を参考資料としての現地視察でした。
【山陰道鎮撫使西園寺公望公鎮撫日記道程地図】
※地図をクリックすると別ウィンドウが開き、大きな画面で見て頂けます。
≪亀岡駅出発、福住へ、そして篠山城≫
亀岡駅を8時半に出発。
亀岡の馬路は、西園寺公望山陰道鎮撫総督一行が、御所を出陣して最初の本陣とした地です。鎮撫隊一行は明智越えを進み馬路に宿陣しました。この時鎮撫隊の隊列に加わったのが、人見家や中川家をはじめとした馬路の人々でした。亀岡は当時亀山藩。山陰道で最初に鎮撫隊に従い、新政府に帰順した藩となりました。
鎮撫隊は亀山藩を鎮定し、八木から鳥羽宿を経て、園部に本陣を張ります。園部藩はこの時藩主小出英尚が京都におりましたが、藩は勤王を誓いました。
現在一部が残る園部城は、当時は陣屋でした。
園部を後にした鎮撫隊は原山峠を越えて福住に入ります。原山の琴松寺で鎮撫隊は休憩しています。福住では幕府側の若狭小浜藩などの敗兵が帰藩のため当地を通るのではないかとの情報があり、弓箭士や山国隊による戦力の強化を図りました。こうした状況の中で酒井若狭守は謝罪書を奉じ、篠山藩は篠山城から福住の西園寺総督のもとに出向いて帰順しました。
篠山では、二階町の河合七兵衛方に本陣を張りました。既に福住で帰順を申し出ていた篠山藩でしたが、藩主青山忠敏(ただゆき)、老臣らは連署して勤王無二及び徳川義絶の書を差し出しました。現在の篠山城は、堀を巡って大きな石垣が城址を取り囲み、復元した大書院が残っています。
≪福知山藩・福知山城≫
福知山城は明智光秀が天正7(1579)年頃に築いたのが始まりと言います。城主はその後幾たびか変わりますが、寛文年間に朽木氏に変わり、戊辰戦争時には藩主朽木為綱となっていました。
鎮撫隊・西園寺総督は1月14日、菱屋町の吉田三右衛門宅を本陣とし、18日朝まで滞陣します。
福知山藩は当初幕府側でしたが、戦況はいかんともしがたく、15日には藩老が吉田本陣に出頭して降伏しました。この間に西園寺総督は諸藩に命じ、出石藩、綾部藩、山家藩から勤王の誓書を提出させました。
滞陣中、錦の御旗と鎮撫使の牙旗(幟)が御所から届き、これによって鎮撫使一行は朝廷の権威を旗印として進軍します。
鎮撫使一行は18日、福知山を発陣、是社神社畔の由良川を船で田辺(西舞鶴)に向かいました。
【福知山城にて】
≪田辺藩・田辺城≫
鎮撫隊は藤津で下船し、陸路田辺(西舞鶴)に向かいます。
18日、福知山を発った鎮撫使一行は田辺に着き、田辺藩は城下の見樹寺で鎮撫使を出迎えます。田辺では大手交差点の西側にあった村田兵左衛門宅を本陣としました。鎮撫使一行総勢624名が34の町屋と寺院を宿所としたと言われています。本陣から田辺城はすぐ近く、現在は城の石垣が残り、彰古館と城門(田辺城資料館)が復元されています。田辺藩は、版籍奉還後、紀伊田辺藩と区別するため舞鶴藩となっています。
藩主牧野誠成(たかしげ)、老臣らは鎮撫使が到着するや恭順し、二心無き事を誓いました。滞陣中、総督は舞鶴湾を遊船、家臣濱崎和泉守が場内を見分しています。
1月21日、鎮撫隊一行は田辺を発陣し宮津に向かいましたが、田辺藩は「ます」や「このわた」を献上し、藤津や由良まで随従しました。
【田辺城にて】
≪宮津・三上本陣≫
宮津城は大手川から現在の宮津駅にかけての一帯にありましたが、今はほとんど遺構が残されていません。
21日夜、鎮撫隊は宮津に入り西園寺総督は三上金兵衛方を本陣としました。宮津に到着した鎮撫隊は薩長両藩士に加え、鎮定した諸藩からも随従したため千人ほどの滞陣になりました。この日は大雪であったといいます。
藩主本荘宗武は幕府側で江戸に滞在中でしたが、幕府側の敗色濃い戦況に一変して新政府側に帰順することとなりました。
西園寺総督はこれまで帰順した藩を含めて、亀山・園部・篠山・柏原・山家・福知山・綾部・田辺・宮津・若狭酒井の諸藩の勤王無二および徳川義絶の誓書を濱崎和泉守、中川禄左衛門らに二条城太政官代に届けさせました。
西園寺総督が本陣とした河原町の旧三上家住宅は現在も保存公開されていて、西園寺総督が滞陣した際の御座敷、勅使門が現存しています。また庭園には西園寺総督が短冊に詩を詠んだ老梅があります。その「老梅の詩短冊」と表札「御勅使様御泊」が京都府立丹後郷土資料館に所蔵されています。
【旧三上家(三上本陣)にて】
今回のNPO法人中川小十郎先生亀岡顕彰会の「山陰道鎮撫隊の行路を辿る視察」は福知山城、田辺城、三上本陣などを実地視察し、亀岡馬路にて山陰道鎮撫に従軍した馬路の人々を顕彰した「清聲千古碑」を見学、山陰道鎮撫隊の行路の事蹟を学びました。
17時半、亀岡駅帰着。
