立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2019.08.27
<懐かしの立命館>戦時下、専門学部工学科N君の学生生活 後編
(2) 定期試験
寄贈資料に在学中の定期試験の問題が残されている。一部試験問題も紹介する。
① 第1学年9月の試験(昭和17年)
1) 「物理学」 平松講師 17年9月21日施行
2) 「数学」 東尾講師 17年9月23日施行
3) 「分析化学」 松本教授 17年9月25日施行
3問のうちの1問は、「普通陽イオンの系統的分析に於けるイオンの分属及び各
沈澱剤を述べよ。」
4) 「修身」 武用教授 17年9月26日施行
一、職域奉公につきて記せ。
二、左につきて記せ。
1.齋庭の福穂 2.饒速日尊 3.布都御魂
(注:齋庭の福穂:日本書紀の天孫降臨の段で天照大神が下した三大神勅の一つ。斎庭の稲穂。)
5) 「有機化学」 室伏教授 17年9月26日施行
【写真2 有機化学試験問題】
② 第1学年3月の試験(昭和18年)
1) 「数学」 18年3月8日施行
2) 「修身」 武用教授 18年3月9日施行
3問のうちの三は、左につきて記せ。
(一)祈年祭 (二)新嘗祭 (三)氷川神社 (四)山陵志
3) 「無機化学」 松本教授 18年3月9日施行
4) 「物理学」 岩月講師 18年3月12日施行
5) 「満洲国語」 18年3月12日施行
満語日訳が5問、日語満訳が4問である。
6) 「分析化学」 松本教授 18年3月13日施行
その他「数学」と思われる断片
【写真3 満洲国語試験問題】
③ 第2学年9月の試験(昭和18年)
1) 「油脂工業化学」 宍戸講師 18年9月7日施行
3問のうちの1問は、「油脂の採取法三つを挙げよ。」
2) 「応用電気化学」 上井講師 18年9月21日施行
3) 「有機合成工業化学」 小田講師 18年9月22日施行
3問のうち1問は、「混融トハ如何ナル事ナリヤ。」
4) 「化学機械学第二部」 18年9月23日施行
5) 「物理化学」 堀尾講師 18年9月25日施行
6) 「電気工学」 竹屋講師 18年9月25日施行
7) 「燃料工業化学」 児玉講師 18年9月27日施行
8) 「無機工業薬品及肥料」 岡田講師 18年9月27日施行
9) 「機械工学」 今納教授 18年9月28日施行
10) 「臣道実践」 武用教授 18年9月28日施行
一、徳川義公の尊皇精神につき記せ。
二、本居宣長先生の思想につき記せ。
三、敢闘の精神につき記せ。
11) 「独逸語」 永安教授 実施日不明
④ 第2学年3月の試験(昭和19年)
1) 「化学機械学第一部」 19年3月10日施行
2) 「有機合成化学」 小田講師 19年3月11日施行
3) 「物理化学」 堀尾講師 19年3月11日施行
4) 「化学機械学第二部」 上山講師 19年3月13日施行
5) 「修身」 19年3月14日施行
(一) 左につきて記せ。
(一)樹徳深厚 (二)智能啓発 (三)恭倹持己 (四)斯ノ道
(二) 禅的修養につきて記せ。
6) 「燃料工業化学」 児玉講師 19年3月15日施行
4問のうち1問は、「航空燃料製造法に就いて記せ。」
7) 「機械工学」 今納教授 19年3月15日施行
8) 「応用電気化学」 上井講師 19年3月16日施行
9) 「珪酸塩工業」 磯松講師 19年3月16日施行
【写真4 臣道実践・修身試験問題】
(3) 残された学修の証明書
N君の入学は昭和17年4月5日であった。寄贈資料には学校が発行した学修に関する以下の証明書・証書・通知が残されている。
昭和19年4月13日付けで「卒業見込証明書」が発行されている。それによると、昭和19年9月30日第3学年卒業見込、となっている。入学は「化学工業科」としている。
昭和19年9月19日発行の「成績証明書」は、第1学年で14科目、第2学年で19科目を修得している。
第1学年 修身、数学、独乙語、満洲語、図学、物理学、分析化学、無機化学、有機化学、
実験第一部、実験第二部、教練、武道、製図
第2学年 修身、独乙語、満洲語、物理化学、化学機械第一部、有機合成工業化学、
珪酸塩工業化学、機械工学、燃料工業化学、電気化学、無機工業薬品及肥料、
電気工学、化学機械第二部、油脂工業化学、実験第三部、実験第四部、製図、
教練、体練
第3学年は科目の履修は記されていない。卒業直前の証明書であるから、3年次は科目の履修がなかったのであろう。昭和19年8月17日付けの専門学校工学科部長本野亨名で第3学年の学生宛の通知「卒業式は9月10日と内定。卒業判定参考資料として出勤先の報告書、従事する仕事の概要報告を至急発送するように」と、室伏先生からN君宛てに届いている。
授業に代えて勤労動員が卒業の要件となっていたのである。
また卒業に関わりもう一通の通知が保証人宛に届いた。昭和19年9月付けで、「本年9月に臨時短縮で卒業繰上げとなる第3学年の授業料は12月分まで追徴するので9月20日までに納付すること」
専門学校第3学年は36円(大学部は39円)。卒業は6ヵ月短縮となるが、授業料は卒業後も3ヵ月分支払わなくてはならなかった。
「卒業証書」は昭和19年9月20日、立命館専門学校工学科ニ於テ化学工業科ニ属スル科目ヲ修メ正ニ其ノ業ヲ卒ヘタリ と立命館専門学校長松井元興が授与している。
なお、卒業後の12月、立命館専門学校工学科より保証人宛に「勤労報国隊報奨金送金ノ件」の通知が届き、報奨金60円のうち報国隊費6円を差し引き54円を送金するとされた。
工学科は昭和17年4月に日満高等工科学校から立命館大学専門学部に昇格したが、昭和19年4月に立命館専門学校に転換(改組)された。このためN君は入学時は専門学部工学科応用化学科であったが、転換に伴い専門学校工学科化学工業科卒業となった。
この転換は、昭和18年10月12日の閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置方策」などにより文部省が教育の決戦即応措置を次々と実施したことによる。
昭和19年の工学科卒業者数は283名、うち化学工業科は39名であった(『立命館百年史』資料編一)。
(4) その他の寄贈資料から
① 「青少年学徒ニ下シ賜ハリタル勅語」および「勅語(昭和14年5月22日)」
昭和14年5月22日の「勅語」および「青少年学徒ニ下シ賜ハリタル勅語」を
配布したもの。文部省は勅語を配布し、戦時青少年の精神涵養を図った。
② 立命館日満高等工科学校「学校教練の目的および訓練要綱」
立命館日満高等工科学校が発行、学校教練の目的は「学徒に軍事的基礎訓練を施
し至誠尽忠の精神培養を根本として心身一体の実践鍛錬を行い以て其の資質を向上
し国防能力の増進に資する」ものとして訓練要綱を定め、昇格後の専門学部におい
ても生徒に配布し教練を実施した。
訓練要綱は、(一)、国体の本義に透徹し 国民皆兵の真義に則り左の徳性を陶冶
すべし
1.礼儀を重んじ長上に服従するの習性
2.気節、廉恥の精神、質実剛健の気風
3.規律節制、責任観念、堅忍持久、闊達敢為、協同団結の諸徳
(二)、旺盛なる気力、鞏固なる意志、靭強なる身体を鍛錬すべし
(三)、皇国民として分に応じ必要なる軍事の基礎的能力を体得すべし
というものであった(原文は旧字、漢字カタカナ混り文)。
③ 「戦時学徒体育訓練実施要綱」
昭和18年度の学徒体育訓練は本要綱により実施することが定められている。
基本方針の第一には、戦力増強。聖戦目的完遂を目標とし、強靭なる体力と不撓の
精神力との育成に力むること。第二は、特に男子学徒に在りては卒業後其の総てが直
ちに将兵として戦場に赴くべきを想い、之に必要なる資質の練磨育成に力むること。
基本方針はなお3点続くが、続けて訓練種目が詳細に定められ、また大会・試合等の
行事について文部省の承認が必要であり承認したものに限り参加することが認められ
た。附録として訓練実施上の注意が18項目について記され、行軍・戦場運動・銃剣
道剣道及柔道・射撃・体操・陸上運動・相撲・水泳・雪滑などについて定められてい
た。
④ 新聞「立命館」昭和17年6月29日発行
N君が入学した6月、学園が発行した新聞である。
一面は、「戦時下躍進!!立命館の全貌」「中川総長先生の喜寿を祝ふ」などの記事
であるが、新聞から、N君の入学した工学科関係の記事の概要を紹介する。
「高工新卒生大陸へ―第二陣進発」 3月17日に日満高工の第二回卒業式が挙行され、203名の卒業生中142名の委託生と多くの普通生が大陸開発の闘士として進出した。満洲国、内地朝鮮其の他の就職先が掲載されている。
「日満高工昇格理工科新設」 日満高工を立命館大学専門学部の一科とし、夜間の理学
科も新設した。日満高工の生徒は工学科の二学年に進級、新入生は志願者千百余名、定
員三倍強の競争に勝利を得た、としている。
(5) 卒業アルバムから
最後に『立大工学科 応用化学科 2604』のアルバムがある。2604は皇紀で、西暦1944年、昭和19年である。
アルバムは、教職員、校舎、授業・実験風景、校外での学生生活など55点ほどの写真が貼られている。そのうちの数点を紹介する。
【写真5 専門学部工学科校舎】
【写真6 専門学部工学科正門(通称赤門)】
【写真7 授業風景】
【写真8 実験室にて】
【写真9 校内競技大会】
【写真10 懇親会】
付記:
1.本稿で使用した寄贈資料
(1) 『日記』昭和18年
(2) 定期試験問題 昭和17年9月、昭和18年3月、同9月、昭和19年3月
(3) 証明書 「卒業見込証明書」「成績証明書」「卒業証書」
(4) 「青少年学徒ニ下シ賜ハリタル勅語」「勅語(昭和14年5月22日)」
(5) 立命館日満高等工科学校「学校教練の目的および訓練要綱」
(6) 「戦時学徒体育訓練実施要綱」
(7) 新聞「立命館」昭和17年6月29日発行
(8) アルバム『立大工学科 応用化学科 2604』
2.寄贈いただいたそのほかの資料で特に学生生活に関わるもの(一部、順不同)
(9) 講義ノート 8点
(10) 『速成満洲語自習書』
(11) 書簡(学生生活に関するもの)
(12) 昭和17年12月26日工学科より12月31日の「大祓式登校通知」
(13) バッジ「立命」
(14) 写真(授業風景、懇親会など)
(15) 製図抜冊
(16) 日本標準規格冊子(製図用)
(17) 授業用資料(図面等)
3.本文1の「専門学部工学科応用化学科入学」については、『立命館大学専門学部工学
科報告(第四回)』(昭和17年8月発行)による。
また、専門学部及び専門学校を知る資料として、
『理工学部六十五年小史』立命館大学理工学部発行(1980年)所収の
林義男「戦時中の専門学部工学科」
竹上信次「戦時下に学ぶ―専門学校時代の思い出」
がある。
以上
2019年8月27日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2019.08.07
<懐かしの立命館>立命館大学短期大学部(立命館短期大学)
目次
はじめに
1. 短期大学の設置
2. 短期大学の学科・課程
3. 短期大学の教育体制
4. 短期大学の入学試験(1951年度)
5. 在学生と卒業生
6. 短期大学の学費
7. 短期大学(部)の廃止
【写真 広小路学舎―1951・1952年頃―】
はじめに
立命館大学は、1948(昭和23)年4月、学校教育法による新制大学となった。新制となった学部は法学部、経済学部、文学部の3学部で、理工学部は翌49年に発足した。
一方で、大学令による旧制大学の学生も引き続き在学し、また専門学校令による立命館専門学校も存続、旧制大学と専門学校の学生募集停止は1949(昭和24)年度で、専門学校の廃止は1953年3月であった。
戦後、学制改革が実施され、新旧の制度の学生が同時に学ぶなか、立命館は1950(昭和25)年4月、短期大学を設置した。立命館創立50周年の年であった。大学名称については後述するが、その短期大学は2年後には学生の募集停止をし、1954(昭和29)年3月に最後の卒業生を出し、廃止された。
本稿は戦後の短期間ではあったが、立命館に設置された短期大学(短期大学部)について紹介する。
1.短期大学の設置
(1)戦後学制改革と短期大学の設置
文部省は戦後、様々な教育改革を実施し、1947年に教育基本法、学校教育法が制定された。この教育制度改革により、1948年から4年制の新制大学が発足し(国立大学は1949年)、1950年から短期大学が発足することとなった。
短期大学の設置については、旧制専門学校から新制大学への移行が困難な学校があったことや、専門職業教育、女子教育などを進める高等教育機関が必要とされたことがある。
新制大学が「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(学校教育法)としたのに対し、短期大学は、「高等学校の教育の上に二年または三年の実際的な専門職業に重きを置く大学教育を施し、よき社会人を育成することを目的とする」(短期大学設置基準)とされた。
設置初年度の1950年4月には、186校(公立21校、私立165校)の申請に対し、149校(公立17校、私立132校)が認可され発足した。国立短期大学については翌1951年からの発足となった。
(2)立命館短期大学(立命館大学短期大学部)の申請と設置
① 名称について
はじめに名称について述べる。理事会は「立命館短期大学」の設置を申請した。ところが、認可された名称は「立命館大学短期大学部」で、認可受領証を提出する際に訂正を願い出たが認められなかった。学内では立命館短期大学としたが、1951年4月9日の大学協議会で「立命館大学短期大学部」と認可された名称に「変更」することを決定している。
② 短期大学の申請と設置目的
財団法人立命館は、1949年9月17日の理事会及び9月24日の評議員会で短期大学の設置申請を決議し、10月15日に設置申請した。
申請書は、1.立命館短期大学設置要項 2.学則
3.校地(図面添付) 4.校舎等建物(図面添付)
5.図書標本機械器具等施設 6.学科又は専攻部門別学科目
7.履修方法 8.学科又は専攻部門別学生収容定員
9.教員組織 10.設置者に関する調
11.資産 12.維持経営の方法
13.現在設置している学校の現況 14.将来の計画
15.併設の場合の調
で構成されている。
設置要項は、立命館短期大学の目的及び使命を
「本大学は高等学校の教育の基礎の上に法政学、商学、文学、及び工学に関する二
年の実際的な専門職業教育に重きを置く大学教育を施し、優秀な社会人を育成するこ
とを目的とする。
本大学は一般教養との密接な関連において、前項の各部門の職業に必須な専門教育
を授ける完成教育機関たると同時に、大学教育の普及と成人教育の充実を計ることを
もって使命とする」
としている。
【短期大学設置認可申請書(控)】
2.短期大学の学科・課程
以下、申請書から短期大学の概要を示す。
③ 設置学科と学生定員
履修等については別項で述べるが、この申請に対し、1950年3月14日、以下の通り認可された。
大学の名称は、 立命館大学短期大学部
学科は、 法政科 第二部
商科 第二部
文科 第二部
工科 第一部・第二部
となり、短期大学専用の校舎・図書館を建設することや、教員組織の増設充実することなど7点と夜間学科設置にあたり3点の条件が付され報告が求められた。
文部省管理局管理課発行『短期大学一覧』(昭和25年5月1日現在)では、
名称は、立命館大学短期大学部
学科及び定員は、 法政科 第二部 50
商科 第二部 50
文科 第二部 国語専攻 30
〃 〃 英語専攻 30
工科 第一部 応用化学専攻 40
〃 〃 電気工学専攻 40
〃 〃 機械工学専攻 40
工科 第二部 応用化学専攻 35
〃 〃 電気工学専攻 35
〃 〃 機械工学専攻 35
〃 〃 土木工学専攻 35 (計420)
と、法政学科・商学科の第一部(昼間部)が認可されなかったとともに、学科名称も法政科・商科・文科・工科として認可された。
なお、短大の名称については、同年に開設された同志社大学短期大学部、明治大学短期大学部、法政大学短期大学部などから、総合大学については「○○大学短期大学部」としたものと思われる。また短期大学には学部はない。
④ 短期大学の校地・校舎
申請書では、位置(設置場所)を広小路学舎、等持院学舎、北大路学舎として申請した。
具体的には広小路の盡心館の3階・4階、北大路学舎の東校舎及び北校舎の3階の一部、等持院学舎(理工学舎)の一部を申請している(黄色で囲まれている建物部分)。
これに対し、1951年度の「入学案内」は、法政科・商科の所在地を「広小路通寺町東入」、文科の所在地を「河原町通広小路南入」、工科の所在地を「等持院北町」としており、法政科・商科は法学部・経済学部と校舎を併用、文科は河原町通の文学部校舎を併用、工科は等持院学舎で理工学部と併用したものと思われる。
【校舎配置図(広小路)―申請書添付図面―】
⑤ 短期大学での履修について
1951年3月9日評議員会・理事会承認の同年4月1日施行の同学則により、短期大学における履修について見てみよう(開設時の学則では若干開講科目が少ない)。
修業年限は2年、4学期制で、前期は4月1日から10月15日まで、後期は10月16日から3月31日まで。学期ごとに15週の授業が行われる。
開設科目は学科により異なるが、一般教養科目(人文関係・社会科学関係・自然科学関係)、専門科目、教職課程、体育の各系列があるのは同じである。
卒業に必要な単位数は科によって系列の単位数が少し異なるが、いずれの科も合計64単位以上が卒業の要件であった。
また教育職員の資格を得ようとする者は、教職部門の教科に関する専門科目、教職に関する専門科目を含め、法政科・商科・工科では合計70単位以上、文科では72単位以上を修得する必要があった。
免許状取得資格は、法政科で中学二級社会・高校仮免社会、商科で中学二級社会・職業・高校仮免社会・商業。文科国語で中学二級及び高校仮免国語、文科英語で中学二級及び高校仮免英語、工科は応用化学で中学二級職業・高校仮免工業、電気・機械・土木が中学二級数学・職業、高校仮免数学・工業であった。
3.短期大学の教育体制
学長は、立命館大学学長末川博が兼務した。4科全体の教授会が設置され、学部長には理工学部教授の羽村二喜男が就任した。各科には主任が置かれた。
1950年6月1日付で法政科主任に浅井清信教授、商科主任に高橋良三教授、文科主任に後藤丹治教授が就任した。翌年4月からは法政科主任に三島泰治教授、商科主任には引き続き高橋良三教授、文科主任には三田村泰助・教授、後期から国分敬治教授、工科主任には西村浩教授が就任した。
また各科に大学学部と兼務であったが、補導主事も置かれた。
専任教員が置かれたほか、大学の教員と兼務する兼任教員も置かれた。申請書では学長のほか、専任教員86名、兼任教員72名となっている。
4.短期大学の入学試験(1951年度)
1951年度の「入学案内」によると、短期大学の入学試験は3月11日に実施し、試験科目は大学学部と同じであった。
「国語・社会」は国語・一般社会・日本史・世界史・人文地理・商業経済の6科目から1科目を選択、「数学・理科」は一般数学・解析Ⅰ・幾何・物理・化学・生物・地学の7科目から1科目選択、外国語は英語であった。
学科試験のほか、進学適性検査および身体検査があった。
合格発表は3月19日に行われ、入学式を4月16日(月)、翌17日から授業が開始となった。
5.在学生と卒業生
まず、学生数と卒業生数を下表に示す。
(1)在学生数
≪1950(昭和25)年度≫
≪1951(昭和26)年度≫
≪1952(昭和27)年度≫
≪1953(昭和28)年度≫
『立命館百年史 資料編二』による。1953年度の科区分は不明。
初年度は420名の認可定員に対し、在学生数は179名。定員を上回ったのは商科のみで、他科はいずれも定員を下回り、全体では定員の42.6%の在学生数となっている。
2年目は、2年生がやや減少したが、1年生は全体で311名と、前年度より増加している。
3年目は募集停止となり、在学生が2年生のみとなった。前年の311名が252名となり、学年進行とともに減少している。
1953年度は73名が残っているが、1部は工科で、他科は学科区分不明のため学科の内訳はわからない。
(2)卒業生数
『立命館百年史 資料編二』による。科区分不明。
昭和45年『校友名簿』による。科名は資料のママとした。
昭和27年度(昭和28年3月)の卒業式は、3月21日に、新築されたばかりの研心館大
講堂(4階)で、立命館大学、専門学校とともに挙行された。
短期大学部の卒業生数は上記の通りとなっているが、後述の理事会報告とは相違がある。
さて、短期大学部の卒業生のその後の進路はどのようなものであっただろうか。
ここでは、1963(昭和38)年および1970(昭和45)年の『校友名簿』により概観する。
1951年度・1952年度の卒業生のうち、おおよそ1/3から4割ほどの卒業生が立命館大学の二部または一部に進学している。そのまま卒業し就職した者、大学編入後学部を卒業し就職した者で就職先が判明しているなかでは、京都府庁・京都市役所・同区役所・農林省・各地税務署・郵便局などの公務員、また高等学校・中学校・小学校の教員が比較的多く見受けられ、更に銀行・製造業など民間企業への就職も相当数見受けられる。
【短期大学卒業証書(見本)】
6.短期大学の学費
1951年度の「入学案内」によると、短期大学(部)の学費は大学学部と同額で、以下の通りとなっている。
戦後経済のすさまじいインフレーションにより、立命館の学費も甚大な影響を受けた。『立命館85年史略年表』および『立命館百年史 通史二』によると、1945度から1952年度の大学文系学部の学費のうち授業料の推移は次の通りであった。
1945年度 200円
1946年度4月 500円
同 10月 750円
1947年度4月 1,200円
同 7月 2,000円
1948年度4月 3,600円
同 10月 6,000円
1949年度 1部9,500円、2部9,200円
『略年表』・『百年史』とも1950年度・1951年度の記載が無いが、
1952年度は 1部15,000円、2部14,500円
となっている。
短大は大学学部と同額となっており、上記の大学の授業料の推移からは、
1950年度の短期大学の授業料は、1951年度と同額の 1部9,500円、2部9,200円 であったと思われる。
ちなみに、戦前戦後の基準卸売物価指数は、昭和9~11年を1とした場合、
昭和20年3.503、21年16.27、22年48.15、23年127.9、24年208.8、25年246.8、
26年342.5、27年349.2 であった(東洋経済新報社『昭和国政総覧(下)』昭和55年。
学費額が年毎、また半期毎に高騰したのは、戦後の社会経済状況の反映であった。
7.短期大学(部)の廃止
立命館短期大学部は、申請時には将来的に文学科に1部を設置し更に社会学専攻を、工学科に金属工学・物理技術の2専攻を設置し更に1部土木工学専攻を追加設置することとしていた。
しかし2年間の設置のなかで定員数を確保できず、所期の目的を達成することが困難となっていた。
1951年度当初は次年度も学生募集することとしていた。5月の大学協議会において全科とも募集し、入学試験科目は科により一部選択科目を少なくするなど変更している。ところが9月には入学試験実施日を決めるも募集部科を変更(縮小)することにした。そして12月には「種々の点」から全科に亘って募集を中止することを決定した。募集停止に伴い1952年2月には、在学生の取り扱いについて立命館大学学部への転籍等の措置を決めた。
最終的には1954年2月4日の短期大学打合会及び6日の大学協議会で残った学生の追試験や大学への編入学措置が決定した。
同年4月9日、理事会は「当初の予想に反し志願者の数も少く発展性の見込みがないので」同年3月31日をもって短期大学を廃止することを決定した。
このときの理事会報告では、卒業生は昭和26年度に134名、27年度に167名、28年度に18名、累計319名であった(前掲の表とは異なる)。
廃止は上記理事会の前日の日付で申請し、その認可は1954年12月22日であった。
2019年8月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2019.08.02
「今日は何の日」8月 学園初のプールが誕生した日
1970(昭和45)年8月10日は、立命館で学園初の水泳プールが北大路学舎の中学校・高等学校(現在は立命館小学校)で竣工した日でした。
中学校・高等学校では、戦前からの狭隘な敷地のなかで、以下のように一連の施設整備計画が進められていました。
1959(昭和34)年 図書館棟(教員室、事務室)の新築
1964(昭和39)年 南校舎(新館)と小体育館(東校舎屋上)竣工
1966(昭和41)年 講堂兼体育館改修工事ではクラブBOX、放送室や食堂も整備
1969(昭和44)年 図書館を約2倍に増改築
この中学校・高等学校には、学校施設としてのプールがなく、体育としての水泳授業もありませんでしたが、カリキュラム上、体育行事としての水泳大会が南禅寺プールや西京極市営プールなどへ出かけて開催されていました。
(1953年の中学校水泳大会 いろいろな水着姿)
そのため、プールを望む声は、生徒はもちろんのこと体育科や教職員からも年々強まっていました。
学校敷地からしてプールは不可能と考えられていましたが、設置委員会の懸命の努力によって、当時の自転車置場とゴミ焼却炉の設置場所(正門を入ってすぐの左側)に、長さ25m・幅10.8m(6コース)・最深1.8mのプールが完成しました。プールサイドは狭かったものの、洗眼所・滅菌水槽などの設備をもった立派なプールでした。
(南校舎と北大路通りに挟まれて完成したプール)
プールの使用規定としては、授業、クラブ活動、学校行事に加え、夏期休暇中の一般生徒利用の四区分とされていました。大学にもプールはなく、練習場所を転々と移動して活動していた大学体育会水泳部(「体育会の歩み 第一集」によれば創部1920年と大学体育会で四番目に古い)も練習に来ることになりました。
余談になりますが、プールのすぐ隣には中華料理店があり、営業時間が近づくと、調理の香りが風に流されてきて、食欲も旺盛であった男子校生たちにとって、プール授業中はその誘惑とも戦わねばなりませんでした。これも当時の懐かしい思い出です。