立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2019.07.31
<学園史資料から>ヘルシーキャンパスイベントが開催されました
6月28日(金曜日)、保健センターのヘルシーキャンパス企画で、ウオーキングイベントが開催されました。
衣笠キャンパスをウオーキングしながら、歴史と文化に触れる企画です。
8名の学生・教職員と保健センター、史資料センターでキャンパスを巡りました。
当日案内した歴史ポイントを紹介します。
※画像をクリックすると別ウィンドウが開き、大きな画面で見ていただけます。
出典:「ヘルシーキャンパス立命館」HP「活動記録」のページ(2019/7/10閲覧)
https://www.ritsumei.ac.jp/mng/gl/hoken/hcr/history.html
≪以学館前の市電の敷石≫
志学館の保健センターを出発、以学館前の広場に京都市電の敷石が敷かれています。
市電の敷石であることをご存じない方も多いと思われます。
この敷石は、1965年に以学館が竣工し、経済学部・経営学部が広小路学舎から移転した時に敷かれたものです。敷石は北野線廃止により利用されたものと思われますが、市電は当時の学生の通学の足でもありました。
市電は順次廃線となり1978年9月にすべて廃止となりました。40年以上前の学生には学生生活の一端を思い起こすものでもあります。
【以学館前の市電の敷石】
≪立命館その由来の碑≫
この碑は、2000年に立命館創始130年、学園創立100周年を記念し、父母教育後援会の寄贈により建立されました。
立命館の名称は『孟子』尽心章の一節「殀壽不貳修身以 俟之所以立命也」に由来していることが刻まれています。
1869年、西園寺公望は御所前の私邸に私塾「立命館」を創りました。立命館は1900年に前身が創立されましたが、1913年から西園寺公望の立命館の名を継承し、立命館大学、立命館中学となっています。
【立命館その由来の碑】
≪「未来を信じ未来に生きる」の碑≫
1981年、学園創立80周年と衣笠一拠点完成を記念し建立されました。衣笠一拠点化は1965年の経済・経営学部に始まりこの年法学部が移転して完成したのです。「未来を信じ未来に生きる」は広小路学舎に建立されたわだつみ像の台石の碑文から取られています。
「未来を信じ未来に生きる」は戦後1945年に学長となり、1948年から1969年まで総長を務めた末川博の再び戦争を起こしてはならない、青年・学生は未来に輝いて生きよとのメッセージです。
【「未来を信じ未来に生きる」の碑】
≪衣笠球場≫
図書館前から中央広場にかけて、かつて立命館衣笠球場がありました。球場は1948年に完成し、1951年頃までは外部に開放し、プロ野球、女子プロ野球、社会人野球、高校野球、中学野球にも使われていました。1952年には学校専用の球場となりましたが、1970年代には中央グラウンドとして姿を変え、現在は一部が中央広場となっています。
球場としての名残はキャンパス周辺のNTTの電柱に「衣笠球場」と書かれたプレートがあるのみです。
【衣笠キャンパスと球場位置図】
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≪創立者・中川小十郎の墓碑≫
有心館と研心館の奥に等持院の墓地があります。当日は中には入りませんでしたが、墓地には創立者・中川小十郎の墓碑と墓があります。
中川は等持院の総代をしていたことからと思いますが、実は衣笠キャンパス(等持院学舎)は、1939年に開設されました。今年で80年となります。開設時は日満高等工科学校のみのキャンパスでしたが。
清心門から墓地までキャンパス内にブロックで示された通路があります。これは等持院との間で決められた墓参道路の区画です。清心門の前には等持院の墓地を示す石柱が建っています。
また修学館の南側の銀杏並木は日満高等工科学校建設時に植えられたものです。
【中川小十郎墓碑】
今回、衣笠キャンパスについて現地で見るミニ歴史を案内しました。
参加者の方からは、市電の敷石、衣笠球場、等持院の墓参道路など、初めて知ったという方もおられ、健康ウオークをしながらキャンパスの歴史を知っていただきました。
2019年7月31日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
2019.07.30
<懐かしの立命館>歌い継がれてきた愛唱歌―立命館大学寮歌
立命人であれば知っている歌。その、哀愁をおびたメロディは、そっと、心をなぐさめてくれる。それが寮歌です。(注1)
寮歌をこう語る人もいます。「立命館大学寮歌は寮生のためだけの歌ではない。故郷はそれぞれ違えども、一つ学び舎に共に勉学に勤しむ立命館全ての学生の思いを表した」愛唱歌である。(注2)
以前、史資料センターHPで寮歌を紹介しました。(注3)HPでは寮歌について「現在の学生にはあまり歌われなくなりましたが、かつて多くの先輩たちが学び舎のそこ、ここで、・・・当時を懐かしみ、同胞であることを心に刻むために歌われる歌」と紹介しました。今回は、その寮歌に関係し記憶に残しておきたいことを、書き留めて置く事にしました。
写真1 1950年代の広小路キャンパス
写真2 1950年代の衣笠キャンパス
寮歌は前口上から始まる
前口上(巻頭言ともいう)と言えば旧制第七高等学校造士館第十四回記念祭歌「北辰斜に」(現在の鹿児島大学)などが有名ですが、立命館大学寮歌にも前口上(注4)はあります。 寮歌の前口上は寮祭のときなどに寮生の気持ちを一つにするため寮長がリズムをつけて述べるものです。前口上と寮歌はよく寮歌祭やコンパの最後に歌われることが多かったようです。また、一人静かに口すさむ寮生もいました。この前口上は、各寮祭や仲間、クラスコンパの雰囲気に合わせてアドリブで即興的に変えて述べられました。そのことが寮生だけでなく学生たちの愛唱歌として浸透していったのかも知れません。
立命館大学寮歌
(前口上)
大路下鴨 集い歩きし宮人の 春菜摘みつ
美しき鴨の流の育て はぐくみし 出町南北寮(注5)
学びては思わざれば即ち (全員で「くらし」)
思いて学ばざれば即ち (全員で「あやうし」)
衣笠 吉田の山並みも 霞にぬれて花とさく
いざ、歌わんかな立命館大学寮歌 1 2 3
(寮歌)
一、夕月淡く梨花白く
春宵(しゅんしょう)花の香をこめて
都塵(とじん)治まる一時や
眉若き子等相集い
希望の光を一にして
厚き四年を契りたり
厚き四年を契りたり
二、柴扉(さいひ)を排せば暁に (注6)
君は川流(せんりゅう)我は薪(まき)
他郷憂(う)しと云うなかれ
椎の葉陰に相倚(よ)りて
手をとり友と語らえば
春は四年に尽きぬべし
春は四年に尽きぬべし
三、秋陽落ちて野は寒く
たどる帰り路暗くとも
我待つ寮の灯は赤く
朔風天にどよむとも
来る日思えばあかあかと
希望は燃ゆる胸の灯や
希望は燃ゆる胸の灯や
四、学びの道は遠けれど
暮るるに早き春の日や
春風秋雨巡り来て
今此の丘を去らんとす
ああ我が友よ我が丘よ
いつかえりみん想い出ぞ
いつかえりみん想い出ぞ
写真3 憩う寮生たち
写真4 机を並べて勉強する寮生
寮歌の誕生
先輩たちから歌い継がれてきた愛唱歌には、誕生がはっきりしなくても名歌として残っていることがままあります。この立命館大学寮歌もその1つでしょう。
作詞作曲不詳とされ一度も作詞者、作曲者の名が登場した資料はありません。そこで、史資料センターに残されている資料と証言でその謎に迫まってみました。
写真5 1950年頃の学生生活
寮歌はいつごろ創られた
結論からいいますと、いまだはっきりしませんでしたが、大まかに次のようなことが分かってきました。寮歌がつくられた時期は1950年から1951年迄の間ではないかと考えられます。
史資料センターには1952(昭和27)年度『経済学部卒業アルバム』(1951年11月20日 編集後記)が保存されています。この卒業アルバムに寮歌(1番、4番)が紹介されています。史資料センターに現存する資料の中で、最も古く寮歌について紹介されたものです。このアルバムの編集後記には1951年11月20日と記されていることから既にできていたと考えられます。それ以前の資料には現在、寮歌について書かれたものは見つかっていませんので、ほぼこの時期と考えていいのではないでしょうか。
この時期(1950年代)は、現在も歌い継がれている応援歌や愛唱歌が数々創られています。応援歌(グレーター立命)や大学エール、学生歌(かがやける明日をのぞみて)(60周年記念歌)が創られました。この背景には、学友会や大学の動静がありました。
1950(昭和25)年、立命館大学応援団は学友会の中央パートとして認められます。同時に学友会は、学生みんなで歌える応援歌をつくろうと応援団に持ち掛け一般公募します。(注7)こうしてできたのが現在の応援歌(グレーター立命)と大学エールです。同じ時期、大学は急激に増える地方出身の志願者のため学寮を急速に増えていきます。(注8)そこでみんなで歌える寮歌を創りたいと学生達が自発的に考えても不思議ではありません。
誰が作ったの(作詞者、作曲者は?)
2004年8月頃、百年史編纂室(現在は史資料センター)の調査記録(注9)によれば、一旦はJASRAC(一般社団法人日本音楽著作権協会)(注10)に登録されていることがわかりました。その時は、作詞者A、作曲者B として登録されていましたが、現在は抹消され作詞者・作曲者不詳とされています。その理由は、作詞者、作曲者の登録根拠(例えば、楽譜等)が調査時点(2004年8月)で現存していないことから抹消されているとのことでした。逆に、根拠があればJASRACへの再登録ができると、調査記録に記されています。作詞、作曲不詳というのは、全くわからないということではなく、「詳しくわからない」ということです。
寮歌は歌い継がれていった
当時、立命館大学の学生数は、1949(昭和24)年は5,330人でしたが、1955(昭和30)年には10,296人と急増していました。また、立命館大学への京都府外志願者比率が、1951年35%でしたが1952年には55%と過半数以上が他府県の出身者となりました。こうした地方志願者の急増を背景に、大学は学生寮を急速に増しました。当然、寮生の数は1950年代以降、急増していきました。
それまでは、出町南寮(1939年)と吉田寮(1941年)だけでしたが、1950年代には衣笠寮(1950年)、出町北寮(1953年)、春菜寮(1951年)、百万遍寮(1954年)、下鴨寮(1954年)と毎年のように寮が造られていきました。
戦前の学寮は少なく、寮歌も存在しませんでしたし、また戦後、大学側が寮歌を公募した資料も見つかりませんので、寮歌は学生達の中から自発的に誕生し、寮生や応援団によって歌い継がれていったものと考えられます。
また、広瀬淡窓の詩を1部取り込んだ美しい詩と数々の映画音楽を手がけたB氏の美しいメロディーは「心をなぐさめてくれる歌」と評されるほど親しみやすい曲だからかかも知れません。こうしたことが、学寮の廃止された現在でも愛唱歌として歌われている要因ではないでしょうか。
寮歌が何時創られ、作詞者・作曲者は誰か、と調査してきました。その結果、ほぼ推察ができるところまで追跡できましたが、学生達の中から自然発生的に生まれた寮歌であれば、作詞・作曲不詳としているのも立命館大学らしいのかもしれません。
写真7 1950年代の広小路キャンパス
次回は立命健児の歌、山城節をご紹介します。
2019年7月30日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤重
(注1)パンフレット学園祭参加『応援の夕べ』では、寮歌・・・立命人であれば、誰でも口ずさむ、このメロディ。そっと、皆様の心を慰めてくれる歌と紹介しています。現在は、「Cheering Festival 応援の夕べ」として行われています。
(注2) 元理事長は立命館大学寮歌扁額除幕式典の挨拶のなかで、「立命館大学寮歌は寮生のためだけの歌ではない。それは、故郷がそれぞれ違えども、一つ学び舎で共に勉学に勤しむ立命館学園全ての学生の思いを表した愛唱歌である」と述べています。(「校友会ニュース」2004年07年15日)
(注3)立命館史資料センターHP 学園史資料から 「立命館大学学生歌」と「寮歌」を紹介しています。
https://www.ritsumei.ac.jp/data.jsp?database=R168archivesBlog&id=52
(注4)寮歌を歌う前に述べる前口上は、伝統的に寮長に引き継がれ寮長が述べることが慣例でした。現代では残っていませんが、元寮生の記憶をたどって掘り起こしました。
(注5)この前口上は、それぞれの寮の実情に合わせたオリジナルな口上を述べ、みんなの気持ちを高揚させました。この口上は出町南寮、出町北寮の寮生たちに伝わった口上ですので、このHPを読まれた方にはちょっと違うと思われる方もおられるでしょう。
(注6)二番は、広瀬淡窓の漢詩 「桂林荘雑詠(けいりんそうざつえい)諸生に示す四首」(七言絶句)の1詩の意味を歌詞にしたといわれています。広瀬淡窓は(1782年~1856年)江戸末期の儒者。豊後日田(大分県日田市)に塾舎「咸宜園」(かんぎえん)を建て、塾生の中から高野長英、大村益次郎らを排出しました。また、淡窓の養子広瀬青邨(青村)(ひろせせいそん)3代目塾長は私塾立命館の賓師(ひんし、現在の教授)とし塾生の教育にもあたりました。なお、広瀬青邨(青村)については立命館百年史紀要第1号「資料紹介 青邨公手沢日記―明治初年京都の文筵と広瀬青邨 福井純子」に詳しい。
(原詩) 桂林荘雑詠(けいりんざつえい) 示諸生 4首のうち1首 広瀬淡窓作
休道他郷多苦辛 道(い)うを休めよ 他郷 苦辛多しと
同袍有友自相親 同袍 友有り 自(おのずから)ら相親しむ
紫扉暁出霜如雪 紫扉(さいひ) 暁に出づれば 霜 雪の如し
君汲川流我拾薪 君は川流を汲め 我は薪(たきぎ)を拾わん
○休道 言うなかれの俗語的表現、愚痴をこぼすな ○同袍 同じ袍(どてら)袍を同(とも)にすとは、日夜一つの綿入れを譲り合って共用すること。友愛の象徴 ○紫扉(さいひ)細い雑木(柴)を集めて編んだ粗末な門扉、転じてわびしい住まい。 ○排す 押し開く ○君は川流 君は川の水を汲め ○我は薪 わたしは薪をひろいに山に行く
(注7)立命館大学応援団創団50周年記念誌『光の軌跡』座談会「記憶を風化させることなく次代へ引き継ごう 応援団魂」より
(注8)立命館の学寮(寄宿舎)の変遷については『百年史紀要第10号』の立命館の寄宿舎(学寮)の変遷(橋本弘之)に詳しい。この橋本氏の論文では立命館大学の学寮(寄宿舎)だけでなく旧制立命館中学校の寄宿舎、日満高等工科学校の寄宿舎にもふれており、立命館の学寮の変遷がよくまとまっている。
(注9)2004年8月、当時百年史編纂室(現在の史資料センター)と総務課は協力して、寮歌のみならず校歌、応援歌など学園歌の著作権について、JASRACの協力を得て調査した。その中で、今迄ほとんど何も分からなかった立命館大学寮歌の作詞者名、作曲者名をJASRACから知らされた
(注10)JASRACとは一般社団法人日本音楽著作権協会といい音楽の作詞者、作曲者の著作権を守っている。詳しくは同協会のHP作品データベースを参照ください。
現在、JASRACでの立命館大学寮歌についての登録状況は次のようになっています。
作品コード095-8986-4 作品名 立命館大学寮歌
著作権利者 不詳 作詞 不詳 作曲
JASRACへの信託状況 不明
さらに、演奏、出版、貸与、ビデオ、映画、広告、ゲーム、放送、配信、カラオケなどに対する著作権はJASRACでは管理されていません。
2019.07.03
「今日は何の日」7月 第1回全校教育懇談会開かれる~立命館中学校・高等学校PTAが変りだした日~
1977年7月6日は、立命館中学校高等学校にとって開校以来の記念すべき日でした。
当日は水曜日で暑い日ざしの午後。1学期末考査の最中で、生徒たちはすでに下校を終えていた午後1時半から、約200名の参加者で「全校教育懇談会」という名の教育研究集会が開催されました。
空調設備もない講堂(兼体育館)で細野武男総長、長谷川金市校長の挨拶に続いて、優しい凛とした女性の声が響き渡りました。戦後スタートした立命館中学校・高等学校PTAにおける初の女性会長木本昌子さんの挨拶でした。全国的にもまだ稀な教育研究集会と女性会長。立命館中学校・高等学校PTAの流れは、徐々に変りつつあることを実感させるものでした。
この「全校教育懇談会」は、1971年に父母がそれぞれ抱えている問題や悩みをお互いに出し合って十分に話し合える場を持って欲しいという声から始まった「中学2年PTA教育懇談会」に遡ります。
それが他の学年にも計画されるようになった1974年、父母の声を当時の立命館教職員組合北大路支部が受けとめて、「父母と教育を語る会」を開くことになりました。父母と教職員が共に気兼ねなく話し合えることで好評でした。
そして、1975年には高校2年で「地域別教育懇談会」が開かれるようになりました。ふだんのPTA学級会に出にくい父母(特に父親)にも参加していただくことで、地域的に結びつきの弱かった父母が強いつながりをもち、一人ひとりの父母ではなかなか効果の出ない子どもの指導の面で力になっていこうというものでした。
翌年の1976年には、高校全父母を対象に「子どもを育てる苦労と喜びを話す会」が開かれました。この時の「もっと早く聞いておけば失敗せずにすんだのに」「子どもは集団の中で成長しなければならないということがよくわかった」などの感想のまとめが中高の父母に回覧され、ついに全校での教育懇談会開催へと到りました。
「全校教育懇談会」は卒業生の父母も参加して行われ、中1から高3までの6ヵ年間の学校・家庭での悩み・喜びが語られ、指導のあり方・立命館の教育についても話し合われました。参加者へ深い感動を与え、教師も父母も自ら変革を迫られる場となったのでした。
その後、子育ての悩み・課題も増え、会の形態も変化しながら、2019年度は5月に43回目を終えました。