立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2020.01.23
立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <立命館の学祖・西園寺公望>
学祖 西園寺公望(1849~1940)
京都の名門公家に生まれた西園寺公望は、1869年、御所の西園寺邸に私塾「立命館」を創設します。
当時の著名な学者・文人を賓師(教師)とし、多くの若者が集まりましたが、活発な議論をする塾生に不安を感じた京都府によって、わずか1年弱で塾の閉鎖を命じられます。
その後約10年間フランスに留学しますが、帰国後政治家として活躍し、文部大臣や外務大臣、さらに内閣総理大臣を2度に渡り歴任しています。
政界を退いてからは最後の元老として名を馳せます。1905年、中川小十郎が立命館の名の継承を願い出ると、これを喜んだ西園寺は「立命館」の扁額を贈り許諾しました。
西園寺公望若侍姿18歳頃
西園寺公望は洋装のイメージが定着しているが、幕末にはこのような「侍」姿の写真を残している。
1870(明治3)年 フランス留学前の公望
西園寺公望は1870年~1880年までフランスに留学する。この写真は出発前横浜で撮影。
1896(明治29)年西園寺文部大臣
西園寺公望は1894(明治27)年文部大臣に就任し、1897(明治30)年京都帝国大学を設立する。立命館創立者中川小十郎は、西園寺文部大臣の秘書官として京都帝国大学の設立に中心的にかかわり、初代事務局長に就任している。
1908(明治41)年
西園寺は1906(明治39)年内閣総理大臣に就任、第一次西園寺内閣を組閣する。1908年総辞職。写真は総辞職後の撮影。秘書官であった文部官僚中川小十郎も、辞職のあおりを受け当時の植民地樺太庁の第一部長に赴任。経済・教育開発を主導することになる。
撮影年不明だが、西園寺晩年。私設秘書の中川小十郎と。
西園寺公望晩年は、「最後の元老」として政界の重鎮となった。居地は静岡県興津の「坐漁荘」(ざぎょそう)。中川小十郎はその私設秘書として、西園寺が逝去するまで蔭になって支えた。
最晩年の西園寺公望。興津の「坐漁荘」か京都の別荘「清風荘」での撮影。
西園寺公望は、公家としての教養を身につけ、様々な文化や書に秀でていた。
立命館には、西園寺の書や愛用品が学宝として保存されている。
1940(昭和15)年11月24日。興津「坐漁荘」で西園寺は逝去する。満90歳であった。
2019.12.18
<懐かしの立命館>立命館大学の門 前編
学校には門があります。学生・生徒・児童、教職員は学校の門、校門を通って登下校します。
日常ほとんど校門を意識せずに登下校すると思いますが、今回は立命館大学の各キャンパスの校門の
歴史を考えてみます。
Ⅰ.広小路学舎編
1.学舎開設初期の校門
広小路学舎の開設は、京都法政学校創立の翌年、1901(明治34)年12月です。上京区広小路通寺町東入中御霊町に、校地412坪余り、校舎1棟3教室で出発しました。
最初の校地・校舎と校門は、1902年7月11日付けの「未登記建物所有権保存登記申請書」の附属図面で知ることができます。
校門は広小路通に面していましたが、奥の校舎までは細い通路で、両側の民家の間を通り登下校するというものでした。
その後校地を拡張し、寺町通に通用門ができます。1905年6月発行の『京都法政大学一覧』の校舎配置図に、校舎から寺町通に面して通用門ができていたことがわかります。通用門に至る土地は1909年1月の取得のため、この土地は当初は借地であったと思われます。
【左 校舎配置図1902年、右 校舎配置図1905年】
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2.京都法政大学の校門
京都法政学校は京都法政専門学校と改称し、更に1904年9月、京都法政大学と改称されます。
1905年6月の『法政時論』(第5巻6号)に、大学校舎新築落成の記事があり、「石造門を建てん計画にして遅くとも来月十日迄には落成すべし」とあり、「校舎は石造門の落成によって、内容形式共に完全なる大学の光揮を発揚するに至れり」としています。下の写真が当時の校門と思われます。
写真には「京都法政大学」の門標があります。まだ中学校の門標は写っていません。
【京都法政大学校門】
3.京都法政大学・清和中学校の校門
現在の立命館中学校・高等学校の前身である、清和普通学校が1905年に設立され、翌年4月、清和中学校と改称します。
1911年12月の『清和』第1号に、校舎と校門の写真があります。同誌には、「校門の花崗岩の柱の右には京都法政大学、左には文部省認定認可私立清和中学校」と記されています。
【京都法政大学・清和中学校校門】
4.立命館大学・立命館中学の校門
1913(大正2)年12月、京都法政大学と清和中学校は立命館大学、立命館中学と改称します。
写真は大正2年撮影といわれ、右側の門柱に立命館大学、左側に立命館中学の門標が見られます。
大正初期の校門です。
【立命館大学・立命館中学の校門】
5.昭和初期の校門
大正末年には、門標に「立命館大学」「立命館高等予備校」と書かれた校門の写真もありますが、立命館大学は大正末年から昭和初めにかけて、それまでの木造校舎から鉄筋コンクリート造の校舎へと整備を図ります。
1924年の書庫設置、翌々年の書庫増設、1927(昭和2)年の盡心館、そしてその翌年の存心館がそれです。
書庫の増設が完成した当時の「正門」は下の写真です。1928年9月の『立命館学誌』第117号には
新装なった立命館大学の学舎配置図があり、広小路通に面して「正門」が配置されています。
この資料から初めて「正門」が確認できます。
この学舎配置図にはもう一点重要な「門」が存在します。門と言ってもそれは地下道なのですが。
校舎である養性館(本部事務室・書庫)・盡心館・存心館の名称は『孟子』を出典としていますが、
養性館と存心館、存心館と盡心館を結ぶ地下道は「入徳門」と名付けられました。
学誌では「入徳門」の出典は書かれていませんが、「入徳」は『大学』朱熹章句の
「子程子曰大学孔氏之遺書而初学入徳之門也」に由来するのではないかと思われます。
入徳門という同名の門は、湯島聖堂(昌平坂学問所)、足利学校にもあります。
地下道ではありますが、校舎を結ぶ門として、学問の場にふさわしい「門」の名でした。
【昭和初期の正門】
【1928年の学舎配置図】
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6.戦後の立命館大学正門
立命館専門学校のあった1944年から戦後にかけて、「立命館大学」と「立命館専門学校」の門標を
掲げている校門がありました。
さらに1953年9月には正門が改修され、新しい正門が夏休み明けの広小路にお目見えしました。
「7月20日から山本組が取りかかっている広小路学舎と理工学部学舎の校門改装工事は、総額202万円を使って進行中である。……9月新学期には一新して諸君の前にお目見えする。」(「立命館学園新聞」(1953年9月18日)
校門には書家・綾村坦園氏の揮毫した門標「立命館大学」が掲げられました。衣笠でも同時に校門を
改修して、やはり綾村坦園氏揮毫の門標「立命館大学理工学部」が架けられました。
綾村氏は京都大学卒ですが弁論部で末川総長の後輩にあたり、末川総長が揮毫を依頼したものです。
【立命館大学正門1954年】
【立命館大学正門1955年】
7.正門の門標おろし
1981年3月、衣笠一拠点が完成し、広小路学舎は80年の歴史を閉じました。
同年2月5日には「さよなら広小路」の祭典が行われ、正門から河原町通、円山公園へと
提灯行列のパレードが行われました。
3月30日、天野和夫総長によっておろされた正門の門標「立命館大学」は、後に衣笠キャンパスへと引き継がれていきます。
2019.12.18
<懐かしの立命館>立命館大学の門 後編
Ⅱ.衣笠キャンパス編
現在の衣笠キャンパスには、主な校門として、正門・東門・南門・清心門などがあります。名称の無い通用門や出入口、開かずの門扉などを含めると実に30ほどの「門」があります。
今回は、主な門についてその歴史を訪ねてみます。
1. 戦前の工学科校門「赤門」
衣笠キャンパスは1939(昭和14)年11月に開設しました。前年に開設された立命館日満高等工科学校が北大路学舎から移転したことによります。当時は等持院学舎と称しました。
キャンパス開設翌月の校舎増築設計変更図面に「門」があり、さらに1942年8月の『立命館大学専門学部工学科報告』の平面図に「正門」があります。この正門は、現在の清心門のやや西側、等持院と功運院の間の道路を北に向かった突き当りにありました。
その「正門」は、工学科報告から間もない同年9月、上京区千本通二条下ル東にあった元等覚寺の門を移設し、工学科の正門としました。木造瓦葺の四脚門でした。紅殻(べんがら)塗りの門で、通称「赤門」とよばれ、戦後1953年に改修されるまで親しまれました。
「当時、世間では立命館大学専門部工学科のことを、『等持院の赤門』と呼んでいた」(林義男「立命の赤門」『立命館学園広報』1970年10月31日)。
【専門学校工学科校舎配置図】
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【赤門】
2. 理工学部正門
1953年9月、衣笠キャンパス(等持院学舎)は理工学部のみでしたが、「赤門」を改修して、コンクリートの門柱となり、銅版製の門標「立命館大学理工学部」が掲げられました。門柱の上部には円球の電灯がつけられました。同時に広小路学舎の正門も改装され、どちらも書家・綾村坦園氏の揮毫になる門標が架けられました。
【理工学部正門】
3. 立命館大学正門
1981年4月、広小路学舎から法学部が移転し、衣笠一拠点が完成しました。立命館大学は、ここ衣笠キャンパスに法学部・経済学部・経営学部・産業社会学部・文学部・理工学部・二部全学部が集うことになったわけです。
このとき衣笠キャンパスの「正門」が完成しました。観光道路(現在愛称きぬかけの路、京都市道183号衣笠宇多野線)に面し、西側に第一体育館(現在は平井嘉一郎記念図書館)、東側に市バスの操車場があります。右側の門には、書家・秋山公道氏の揮毫で「立命館大学」と刻まれています。
「実は衣笠には「正門」がない。……いよいよ一拠点も完了し、全体としてのキャンパス整備と合わせて来年4月には「正門」を設置することとなった」(「立命館大学学園通信」第21号 1980年11月11日)。同紙は続けて「学生の強い要求もあり正門を設置することとなった。」そして「瀟洒で品よく、わが学園の気風にふさわしい正門に、全学生に親しまれ、市民にひろく開かれた庶民の大学の「門」としたい」としています。
翌年の「学園通信」23号(1981年4月14日)は、「一拠点計画関連の大工事完成に合わせて、……正門と正門受付が観光道路からの入り口に完成し、キャンパス出入口のすべてに門が出来上がりました」と報じています。
衣笠一拠点により、キャンパスの環境整備が進み、立命館大学の正門が完成したのです。
そして学生・教職員・市民の利用のみならず、構内から正門を市バスが出入りするという珍しい光景が生まれました。
【正門】
4. 東門
正門の完成からは遡りますが、衣笠一拠点の先駆けとして、1965年4月、経済学部と経営学部が衣笠キャンパスに移転しました。
「東門」は、1965年4月の以学館竣工パンフレットに出てきます。この頃の門の形状は不明ですが、現在の東門は1987年11月に改修・整備されました(「立命館学園広報」第191号 1987年11月)。右側の門塀には、綾村坦園氏揮毫の門標「立命館大学」が掲げられていますが、この門標は1981年3月まで広小路学舎正門に架けられていたのを移設したものです。
西大路通の平野神社前から西に進み馬代通を経て大学に向かうと東門に至ります。正門と共に多くの利用があり、衣笠キャンパスの東玄関となっています。
【東門】
5. 南門
等持院の東側を北に上がってきた、以学館と修学館の間の校門が「南門」です。現在の南門も衣笠一拠点事業で整備され、1981年1月に完成しています。
この門にも「立命館大学」と刻まれています。
しかし、1978年度の『学生生活』には南門の名称が出てきます。それ以前から南門はありました。
市バス52系統の終点・起点が等持院山門前だったので、このバスを利用して登下校した学生も多かったと思います。
【南門】
6. 清心門(および西門)
現在の清心門は、清心館東側と修学館西側の間の校門です。清心門の名称は1992年度の『クロスローズ』に出てきますが、清心館と修学館(三期工事)が完成するのは1977年9月です。門の名称は少し複雑な経緯をたどります。
清心門の東部分には石柱が建っており、表面に「万年山等持院墓地参道 天龍寺派管長関牧翁書之」、裏面に「修学館 清心館竣工記念 昭和五十二年九月九日 立命館大学」とあります。この門は等持院墓地への参道入口ともなっています。等持院と立命館は1980年11月に「等持院墓参道路に関する覚書」を結び、等持院墓地への参道として利用されているとともに、新たに門扉を設置し開閉の運用についても定めています。
西側には「立命館大学」と刻まれています。
清心門の名称となる前は、この門は「西門」と言いました。もともと赤門が、1953(昭和28)年のキャンパス整備による改修で理工学部の正門となり、清心館ができると場所がやや東寄りになり(今の清心門の場所)「西門」となります。
1990年には明学館が完成し、5月にその西側に門と受付を設置、この門を「西門」としました(「UNITAS」第221号 1990年7月)。こうした経過からすると「清心門」の名称は、明学館西側に設けた門を「西門」としたことによりこれまでの「西門」を新たに「清心門」としたのではないでしょうか。
2003年11月に「衣笠学舎旧理工学部正門(赤門)について」その経緯を調査した西岡成幸氏(当時百年史編纂室)は、「セイシン門という呼称はいろいろな資料を通じて現在のところは皆無である」としています。
なお、明学館西側の「西門」は2010年12月末をもって閉鎖、撤去されています。
【清心門】
7.その他の門
(1) 北門 現在はありませんが、1970年代の『学生生活』に登場します。
場所はアートリサーチセンターの南側の通用門の西、グラウンド(現在中央広場)
の東べりあたりにありました。一体どんな門だったのでしょうか。
(2) 敬学門 アートリサーチセンターの南側にある通用門の名称でした。
東に馬代通へと向かいますが、現在のアートリサーチセンターの場所に「敬学館」 があったことから呼ばれた名称です。
現在の敬学館は西グラウンド跡にある教室棟となっていることから、「敬学門」
という名は使用されなくなりました。
(3) 名称の無い通用門
恒心館西北の通用門、洋洋館北側の門(通常閉鎖されています。)、京都衣笠体育館
西北の通用門、この3つの門には綾村坦園氏揮毫の門標「立命館大学」が架けられて
います。
東門の門標が縦書きであるのに対し、これらは横書きの門標となっています。
付:西園寺記念館正門
衣笠キャンパスから離れた鹿苑寺(金閣寺)の西側に西園寺記念館があります。
西園寺記念館は1988年3月に完成し、国際関係学部の学舎として使用されましたが、
学部は現在は衣笠キャンパスに移転しています。その西園寺記念館の正門は下の写真です。
【衣笠キャンパス配置図 2019年】
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Ⅲ.びわこ・くさつキャンパス編
びわこ・くさつキャンパスは1993(平成5)年12月に竣工しました。そして翌年4月理工学部の拡充移転により開学しました。
現在は、経済学部・スポーツ健康科学部・食マネジメント学部・理工学部・情報理工学部・生命科学部・薬学部および各大学院が設置されています。
【びわこ・くさつキャンパス配置図 2019年】
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びわこ・くさつキャンパスには正門、そしてその東に東門があり、学生、教職員、研究者また市民や業者などが入構します。
そのほかかがやき通りに近い北門は工事用で通常は閉鎖、青山地区に面した南門は緊急時用で通常は閉鎖されています。
【正門】
【東門】
Ⅳ.大阪いばらきキャンパス編
大阪いばらきキャンパスは2015(平成27)年4月に開設しました。現在、経営学部・政策科学部・総合心理学部・グローバル教養学部および大学院が設置されています。
キャンパスの各出入口に門柱等はありませんが、それぞれの地域に面した名称が付けられています。
これらの出入り口は、岩倉門(北エントランス)・中条門(東エントランス)・穂積門(西エントランス)・春日門(南西エントランス)・奈良門(南エントランス)と呼ばれています。
【大阪いばらきキャンパス配置図 2019年】
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Ⅴ.朱雀キャンパス編
2006(平成18)年9月に開設した朱雀キャンパスの校舎は中川会館だけですが、学園本部および法務研究科(法科大学院)、教職研究科(教職大学院)、公務研究科が設置されています。
千本通に正門が設置されていて、学生・教職員・来客等の多くが利用し、学園の表玄関となっています。門柱の「立命館」の文字は学祖西園寺公望が揮毫した「立命館」から製作されています。
南門は車の来校者用で入構のための門。北門は車の出場および二条駅方面からの利用者の門です。
【正門】
おわりに
小稿では、各年度の『学生生活』『学生要覧』『クロスローズ』その他施設配置図などにより、立命館大学の各キャンパスの門について調べてきました。
校門は単なる建造物(構築物)ではなく、学生・生徒や教職員、卒業生、市民の方々の「学び舎の門」として、その姿は変遷を経ながらも存在し続けています。
そういえば、時に校門を背景にして記念撮影をする姿も見られます。
校門の名称については、資料からは学園で公式に命名されたことを窺えませんでしたが、広小路学舎でかつてあった入徳門のような、学校に相応しい名があるとよいですね。
校門もまた学び舎の歴史の一齣といえるでしょう。
2019年12月18日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次
