昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅴ)「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第34号 表紙写真「荒木陸軍大臣の立命館禁衛隊観兵式」(昭和8年6月)
【写真1】
1933(昭和8年)年4月14日午後5時、荒木貞夫陸軍大臣が広小路の立命館中央講堂国清殿の明治大帝聖像奉拝のために来校しました(注1)。その後、荒木大臣は夕暮れのそぼ降る春雨の中、京都御苑において立命館禁衛隊大学、中学校、商業学校各部隊の観兵式にのぞみました。建礼門前で大臣による激励の言葉があり、最後は荒木大臣の発声で「聖上陛下万歳」の奉唱が行われたのでした。
この後、6月1日には山本達雄内務大臣が、同じく明治大帝聖像奉拝のために立命館大学を訪れています。
(2)第35号 表紙写真「禁衛隊軍楽隊」(昭和8年7月発行)
【写真2】
1933(昭和8)年6月25日の日曜日午後9時、JOOK(NHK京都ラジオ放送局)の開局1周年の記念放送番組の一つとして、立命館禁衛隊軍楽隊の演奏が行われました。禁衛隊の軍楽は、明治維新の際に京都府下山国村の人たちが勤王(官軍)の従軍をした時に用いたもので、その曲が禁衛隊にも伝授され、中等学校の生徒にとって相応しい行進曲として立命館禁衛隊で演奏されていました。曲名の記載はありませんが、おそらく山国隊軍楽隊と同じ隊の行進曲が約20名の生徒たちによって演奏されたと思われます。
(3)第36号 表紙写真「中川校長就任式」(昭和8年9月)
【写真3】
1933(昭和8)年9月、中川小十郎総長は、1928(昭和3)年4月以来の2度目の中学校・商業学校の校長を兼任しています(注2)。【写真3】は、校長の前を隊列を組んで行進する生徒たちです。10月10日には天皇が福井県での陸軍大演習統監の帰りに京都へ立ち寄るということで、立命館禁衛隊は御大典(昭和3年10月)の時と同じように警備を行うことで緊張が高まっていました。中川校長は、9月9日から2度にわたって生徒全員に腸チブス(原文のまま)の予防接種を行っています。また、大阪造幣局に依頼して禁衛隊胸章【写真4】を作成してこれも生徒全員に着用を義務付けていました(注3)。
【写真4】
また中川校長は、就任早々、2名の生徒を成績特別優良で操行至極方正として、全国的にも聞かない特別進級を行ってもいます。
このようにして中川小十郎校長は、1941(昭和16)年まで総長兼務ながら中学校・商業学校の改革に大きく取り組んでいったのでした。
(4)第37号 表紙「立命館禁衛隊 宣誓」(昭和8年10月)
【写真5】
(5)第38号 表紙写真「禁衛隊宣誓文」(昭和8年11月)
【写真6】
「立命館禁衛隊」第37号本文には中川小十郎総長が「立命館禁衛隊の由来と国清殿に奉祀せる明治天皇の聖像」と題した文の中で、宣誓について次のように説明しています。
我々は禁衛隊を組織して微力ながら禁闕守護の微衷をいたしたいと云ふことになって、三千の學徒の間に何時の間にか、その評議が一決した、一決した以上は宣誓がなければならぬ、署名式がなければならぬと云ふので、十月の二十三日にいよいよその式があげられた。その宣誓の文句は左の通りであった。
1928(昭和3)年10月23日に発表された宣誓文を、中川総長が謹書したのが第38号の【写真6】でした。
(6)第39号 表紙写真「御楯の井」(昭和8年12月)
【写真7】
この【写真7】には以下のような説明文が加えられていました。
御楯の井は去る十月聖上京都御所御駐輦禁衛隊奉仕の際校庭に新に掘削されたもので、その名は萬葉集の「けふよりは かへりみなくて大君の しこの御楯といで立つわれは」によるのであって禁衛隊にゆかりも深い名称でもある。
立命館中学校商業学校では、毎朝、皇居に向かって遥拝を行っていましたが、就任した中川校長の指導によって2学期はじめから、この井戸から汲み上げられた地下水を使って、身を清める禊を行い、その後に遥拝を行うことになったのでした(立命館禁衛隊第58号で詳記)。
2026年3月31日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1: 1929(昭和4)年11月3日の禁衛隊全員集合の記念会合席上で、学園の守護神を明治大帝とすることに一決したと記されている(立命館禁衛隊第37号 昭和8年10月発行)。
注2:1929(昭和4)年2月まで総長兼任で校長に就いていた。
注3:立命館 史資料センター所蔵
