昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅶ)
「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第46号 表紙写真「朝拝」(昭和9年10月)
【写真1】
中川総長が兼務で二度目の中学校・商業学校校長で就任したのが1933(昭和8)年9月で、それから様々な改革や行事が実施されていました。その一つが【写真1】の「朝拝」です。中川校長は、生徒のなかに呼吸器系の疾病で休退学するのが目立つことから、冬季の感冒を予防し、健康増進する効果があると考え、「冷水摩擦」を全校生徒に課しました。中川校長の陣頭指揮で「冷水摩擦」用に生徒全員(約1300名)へ一人1個のバケツが支給されてもいました。この「冷水摩擦」後、皇居に向かって全教職員生徒で行われたのが「朝拝」でした(「朝拝」がいつから正式に実施されるようになったかの公式記録に残されていませんが、「禊」という表現と共にほぼ同時期から使用されたのではないかと思われます)。
(2)第49号 表紙写真 校庭立札 (昭和10年1月)
【写真2】
【写真2】の右は「今上陛下御大禮記念櫻樹」、左は「大正天皇御大禮記念橘樹」で、北大路学舎校庭に植樹されました。当時、京都御所に勤めていた保護者の一人が息子の中学校入学(昭和6年4月)記念にと贈ったもので、御所紫宸殿の南階段下に植えられていた「右近の橘、左近の櫻」からの実生のものであったと書かれていました。
(3)第50号 表紙写真 「新装成りし寄宿舎」 1935(昭和10)年2月
【写真3】
【写真3】は三代目となる中学校寄宿舎です。初代寄宿舎は、1906(明治39)年に清和中学校への改称と同じ時期に設立されていました(場所は不明)。しかし、学校との距離が遠すぎたという難点があったため、場所を新たな場所に移して1914、(大正3)年5月、校舎(大学と同じ広小路学舎)に近接の地である京都市上京区寺町通り今出川上がるの本満寺(日蓮宗)東南部の一角に二代目宿舎を設立しました(室数15、収容生徒50人)【写真4】。
【写真4】
この寄宿舎は、1934(昭和9)年9月の大台風被害を目の当たりにしたことで、耐震耐風補強し、内外を整備して生活の気分も一新するための工事に着手され、約2か月の期間で新寄宿舎が完成されたのが表紙の寄宿舎でした。
主に低学年生徒が対象で、室数10(8畳×8、6畳×2)で1室2名、全収容人員18名と収容数は縮小されましたが、図書室(自学習室兼)や食堂、炊事場などが整備され、中川塾と呼ばれた学生(立命館大学部と専門学部のなかから選ばれた一部の学生)も生活していました。屋内では卓球台があり、屋外にはテニスコートもありました。
立命館理事宅には竹上孝太郎(妻は中川小十郎総長の姪である孝で死別)が家族で暮らしていました。賄夫と呼ばれた専門の料理人がその家族と共に起居していました。毎月1日15日と生徒誕生日には赤飯で祝い、特別な料理が加えられました。
朝6時半起床、当番の生徒二人が廊下の掃除をしながら鐘をカンカンと鳴り響かせて各室の者を起こして廻りました。午前7時朝礼の後で朝食、7時45分登校(北大路の学校までは鴨川堤防を歩いて約1,5㎞)。当番の号令で隊伍を整え、舎監(教員)と舎長(生徒)が前後を引率して出発しました。
下校は個人差がありますが、夕食は午後5時。その後に入浴し、門限は午後6時。自習時間が午後6時半から9時半まで。消灯が午後10時。舎監の許可があれば、それ以後に図書室で時間外学習が認められ、夜遅くまで勉学に励んでいました。
【写真5】寄宿舎内面図
(4)第51号 表紙写真 「校舎の一部」 1935(昭和10)年3月
【写真6】
中央に写っているのは校庭に設置された炊事用の竈です。もち米を蒸して餅をついたり、禁衛隊勤務時の夜食や雑炊を作ったりするのに活用されました。背景に写っているのが校舎で、3年後には鉄筋3階建ての校舎に完全に建て替えられ、この竈も別の場所へと移動しました。
2026年4月2日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
