立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2015.03.17
『西園寺公望揮毫の扁額 石碑探訪』を発行しました。
「立命館」を始め学園内に所蔵・保存されているもののほか、全国各地に点在している西園寺公望が揮毫したといわれる扁額・石碑を調査しとりまとめた冊子、『西園寺公望揮毫の扁額 石碑探訪』を発行しました。
扁額や石碑の題額(篆額)により、幕末・明治・大正・昭和の時代を歩んだ西園寺公望の足跡や、立命館との関わりについて探訪してみてはいかがでしょうか。
【お詫びと訂正】
P10に掲載しております地図に示した番号の表記に誤りがございました。
正しくは、21番→20番
20番→21番
関係各位にご迷惑をお掛けしましたことをお詫びするとともに、ここに訂正させて頂きます。
今後の配布分に関しましては、準備が整い次第、順次訂正いたします。
2015.02.26
<学園史資料から>立命館中学校・高等学校の昭和24年秋季文化祭
立命館中学校・高等学校は2014年9月に深草キャンパスから長岡京キャンパスに移転しました。移転に際して一部資料が史資料センター準備室に移管されましたので、これらの資料のなかから、1949(昭和24)年の秋季文化祭の様子を紹介します。
新制間もない当時の立命館中学校・高等学校は北大路学舎にありました。
当時の『立命館タイムス』によれば、1948(昭和23)年の文化祭が第2回となっていて、第1回は1947(昭和22)年の「学芸祭」がそれにあたるのではないかと思われます。
第3回にあたる1949(昭和24)年、今から65年ほど前の文化祭はどのようなものだったのでしょうか。
保存されている2点の「集会届」で文化祭の様子が伺えます。
【資料1】
1点目【資料1】は、立命館夜間高等学校(注1)主催による秋季文化祭で、昭和24年10月31日から11月5日までの間、秋季文化祭を開催することを下鴨警察署長あて届けています。
種目は演劇コンクール、講演会、音楽コンクール、弁論大会、芸能祭です。
講演会では末川博総長が「学生道徳」と題して講演を行い、弁論大会では「犯罪と文化」他の演題で生徒24名が競ったようです。参加者は本校生徒約1000名としています。
届出は10月20日付けで夜間高等学校長城内辰尾の名で行っています。
同じところに綴られていた「夜間高等学校文化祭行事一覧表」によると、10月31日が演劇コンクール、11月1日が講演会及び映画、11月2日はのど自慢大会、11月4日弁論大会、11月5日演芸コンクールを開催することになっています。
【資料2】
2点目【資料2】は、立命館中学高校弁論部の主催による「弁論大会」です。昭和24年11月20日に立命館高等学校講堂で、弁士は高校生徒約60名(!)、参加予定は生徒約600名とし、11月9日に立命館高等学校長今小路覚瑞の名で下鴨警察署長あて届けています。
当時は学内で開催する文化祭(集会)も、警察署への届けが必要だったようです。
また文化祭の一環と思われる運動会のマラソン競争が開催されました。
2点の「道路一時使用許可願」でその概要を知ることができます。
【資料3】
1点【資料3】は、10月21日に開催する立命館高等学校生徒約30名によるマラソン競争です。コースは学校をスタートして烏丸今出川―百万辺―高野―学校をゴールとするものです。
【資料4】
もう1点【資料4】は、10月23日に開催する中学校生徒約30名によるものです。コースは学校をスタートして烏丸車庫―高野―元田中と往復するものでした。
この2点の資料は「届出」ではなく「許可願」のため、昭和24年10月13日付けの下鴨警察署の許可印が押印されています。
これらの文化祭やマラソン競争の当日の様子を詳しく知ることはできませんが、事前の届出や許可願、写真(注2)からその一端を知ることができます。
(注1) 立命館夜間高等学校(定時制)は、1948年4月から1952年3月まで開設されていました。
(注2) 写真は立命館中学校・高等学校から提供いただきました。
2015.02.18
<学園史資料から>卒業記念品 鹿の卓鐸
末川博先生書「相信未来為未来生」(「未来を信じ未来に生きる」の漢文体)が刻まれた卒業記念品の「卓鐸」です。
※過去に卒業記念品として配布された品。
制作者は村上炳人氏。
裏面には制作者のサインである「丙」の文字が刻まれています。
青銅製で、とても良い音が鳴ります。
末川先生の大きな写真が表紙の『ライフ・オブ・立命館』。
1952年に立命館大学一部学友会執行部が発行した冊子を併せて展示しています。
末川先生のページ。
学生生活を沢山の写真で綴ったページ。
当時の様子が伝わります。