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<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 後編

  • 2015年12月10日更新
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4.東京・駿河台邸


 明治31(1898)3月、住友吉左衛門春翠は東京神田区駿河台南甲賀町に地所と建物を買い、東京控邸とした。地積850坪余、建坪約200坪であった。

 春翠は明治33年になると内閣総理大臣臨時代理となった兄西園寺公望のために邸宅を新築し、公望がこの邸に入った。これにより駿河台邸は公望の東京本邸となった。

 明治から大正初期にかけての駿河台邸の様子を知ることのできる資料は少ない。

 この間の明治3411月末から翌年2月初めにかけて、国木田独歩が西園寺の知遇を得ていた竹越与三郎の紹介で駿河台邸内の長屋に寄宿した。西園寺は独歩に目をかけていたが、警備の巡査や家人が独歩の日頃の行状に不満を抱き2ヵ月余りで邸を辞した。

 西園寺は明治406月には、17日・18日・19日と3日続けて駿河台邸に小説家など文士を招いて宴を催した。泉鏡花、大町桂月、国木田独歩、幸田露伴、島崎藤村、田山花袋、森鷗外など著名な文士が参加した。夏目漱石や坪内逍遥、二葉亭四迷は出席を辞退したが、現職の総理大臣が自邸に文士を招いて宴の会を開いたことは世間の注目をあびた。この会はその後邸外に場所を変えて明治44年までの毎年と大正5年まで続き、雨声会と呼ばれた。

 この企画には国木田独歩や竹越与三郎などが関わったようだが、幕末期に青年西園寺公望が当時の錚々たる文人を御所の自邸に集め文筵を開いたことを彷彿させよう。

 

 大正8(1919)1月、西園寺公望は第1次世界大戦の講和全権委員に任ぜられパリに赴いたが、大任を終え帰国し東京に戻ったのはその年の824日であった。その日西園寺は東京駅から駿河台の「新邸」に帰った。帰国の様子を伝える新聞各紙から「新邸」の様子を知ることができる。

 読売新聞(大正8818日朝刊)は「新邸」の様子を、

 「……御主人の留守中に竣工した此の新邸は約一千坪あり、建築は中央に庭園を設け之れを囲みて方形に設計せられ、大表門は見るからに気持ちの宜い白木作り、敷き詰めし礫は左右の塀添ひの青々しき樹木の間を斜に表玄関に連ってゐる。玄関を左に入れば客間、応接間、食堂の三間何れも洋式設備で、右へ廊下を折れゝば二階建で階下四間は何れも洋式である。そして侯爵の居間なる階上は六間に分れ二間は書斎、四間は休憩室という。階下を右折すると三間続きの家族の居間があり、其の続きの小玄関の側までが下女使用人の居所、小玄関より表玄関の間の三間は書生、取次部屋の筈である。又中央の庭園は約五百坪に日本式の風致を凝らしたもの……」と伝えた。

 

 しかし大正2年に完成した京都の清風荘や、駿河台邸を新装した同じ大正8年に興津に別荘が新築されると次第にそちらを使うようになり、駿河台邸の使用は少なくなっていった。

 

大正1291日、関東大震災が発生し駿河台邸は全焼した。このとき西園寺は御殿場の別荘に滞在していた。

 駿河台邸の再建はやはり住友家によって行われている。住友合資会社の大正13年度の「処務報告書」(1)によると、

東京駿河台別邸の建築工事は、「京都衣笠別邸日本家全部及附属家ノ一部ヲ取毀ノ上駿河台別邸焼跡ニ移転改増築スルモノニシテ本館(元平家建ヲ二階建ニ改築)及番人運転手部屋ノ二棟移転改築(請負者氏名略)鉄筋コンクリート蔵(請負者氏名略)物置男部屋及自動車庫新築並ニ外部工事トス 本年三月衣笠別邸移築建物ノ取毀ニ着手順次運搬建築シ十月完成本家ニ建物ノ引継ヲナセリ」

としている。

この住友衣笠別邸は、住友春翠が長男のために京都の北野紅梅町に建て大正9年に竣工していたが、駿河台邸の再建のため大正13年に移築された。()

現在衣笠別邸の跡には平野通に面して当時の門衛所が残っている。

 

 昭和15(1940)7月、西園寺公望は校舎の拡張を図っていた中央大学の求めに応じ駿河台邸を譲渡することを承諾し、所有者の住友家が中央大学に売却した。こうして駿河台邸は中央大学の施設として使用されたが、昭和319月に住友本社の理事であった北沢敬次郎大丸百貨店社長に売却、建物は品川区大崎の花房義質子爵の所有地に移転され、清風荘と命名して利用されたが、その後昭和59(1984)年に解体された(2)

 中央大学『西園寺公追憶』によると、「表門より左斜に見える手前の建物が玄関で、その左隣に応接間がある。そして遠く見える二階建が母屋で、その二階には二間つゞきの客間があり、公は日常階下の座敷に起居されたのである。又玄関の後に当り、屋根に避雷針のある建物は洋館で、右の一半が公の書斎兼応接室、左の一半が専用の応接室である」とされている。

そして、その宅地    81221

   その建物総建坪 25528

      内訳    1. 木造瓦葺一部鉄筋コンクリート造2階建1

              此建坪18754勺、22158勺、

              同2816

            2. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪1625

            3. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪75

            4. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪95

            5. 木造瓦葺平家建1棟、此建坪475

であった(3)

 () 小泉策太郎は『中央公論』(193210月号)の「西園寺公の第宅」で「現在の建物は、地震後、

嵐山に在った住友の別荘を移せるもの」としているが、嵐山ではなく衣笠である。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 住友合資会社「大正十三年度処務報告書」 住友史料館架蔵複製本より

(2) 『中央大学百年史編集ニュース』 198912

(3) 中央大学『西園寺公追憶』 1942

 

駿河台邸 中央大学所蔵

 

5.京都・清風荘

 

 (1) 清風荘以前

 清風荘はもと徳大寺家の別邸で清風館といった。徳大寺家は平安時代後期には衣笠山西南麓(龍安寺のあたり)に別邸を営んでいたこともあったが、江戸時代末には本邸を御所の北側、烏丸今出川北東の地に営んでいた。

 文政2(1819)年、徳大寺(さね)()(公望の祖父)は田中村に別所を建て、清風館と名づけた。実堅はその清風館で安政5(1858)年逝去、その後実堅の子公純(公望の実父)が幕末の難を避けるため本邸から清風館に引き移った。明治4年には公純が隠居を受け入れ清風館に退いた。公望はフランス留学から帰朝した明治131012日から11月半ばまでと、明治16年に公純が亡くなった際に上洛し清風館を訪れた。

 明治40年春、住友春翠は誕生の地清風館を長兄徳大寺実則(さねつね)から住友家に譲り受け、西園寺公望上洛時の別邸とすることにした。同年8月に地所建物を登記し、附近の土地も購入した。

 

 (2) 清風荘

 明治44(1911)6月、西園寺公望は同地を視察、8月には新館建設が着手された。8月末には第2次西園寺内閣が発足した時期であった。1225日には工事中の別荘を視察した。

 大正2(1913)326日の京都日出新聞は、新装なった清風荘を紹介した。

 「(新別邸は)出町橋東詰を東へ五六丁ばかり愛宕郡役所の南側を通って美くしい白川の支流に添ひ、軈て百万遍知恩寺の方へ出やうとする南側の極広い邸宅()。西側の大通りに面して高さ四尺ばかりの石垣造りの土堤がつゞいて其の上には植えたばかりの檜苗で生垣が出来てゐる。道路に面して西向きに大きな表門もできる筈だが、北向きになっている綺麗な中門だけは立派に出来上がっている。……玄関前には白梅が今を盛りと咲き匂ふてゐる。……大玄関の前を通つて左へ折れると此処が侯爵の居間で其の隣が書斎、次が清洒な奥座敷となっている。総て南向きの日当たりがよく庭の植込みには紅梅が咲乱れて何所からか鶯の声がする。応接間の直ぐ横手から二階へ登るようになって二階にも客座敷、書斎と云ふやうに三室に別れて居り四方硝子窓で之れを放つと北は比叡山から如意ヶ嶽は元より東山三十六峰一眸の中に眺め、加茂の森に吉田山なども兎も角うらうら霞む洛陽の風光は居ながらにして望むべき。」

 西園寺公望は、大正2年に事実上立憲政友会の総裁を辞して政界を引退し、京都の田中村清風荘に落ち着いた。清風荘での日常は、政客もあったが、東京の駿河台邸や興津の坐漁荘と異なり、学者や文人との交流が多かった。

 

 <文人との交流>

 私塾立命館の賓師をした富岡鉄斎と大正51024日に八坂倶楽部で50年ぶりの再会をし、以後親交を深めた。鉄斎の子謙蔵も西園寺と親交があり、謙蔵の妻とし子氏も鉄斎と清風荘を訪問したことを語っている。

 また学者や文人も大正から昭和にかけてしばしば清風荘を訪れ西園寺と親交をもった。内藤湖南・狩野直喜・新城新蔵など京都帝国大学の学者や、長尾雨山・桑名鉄城・橋本独山などの文人である。とりわけ内藤湖南との交流は深く、これらの人々と清談をすることを楽しみにしていた。

 実業界で活躍し茶の湯をやるようになり数奇者と言われた高橋箒庵(本名高橋義雄)も清風荘を訪れた。もともと大正初めに伊香保温泉で避暑をしていた際に交流が始まったが、箒庵は大正51122日に清風荘を訪問したときの様子を記している(1)

 「門には羅振玉揮毫の「清風」と刻まれた扁額が掛けられていた。門内に入ると丈の低い竹が植えられ鍵の手の通路を通り玄関に達した。客間に案内されると上段八畳、次に六畳の部屋があり、横長の心字様の大きな池があった。松翠楓紅の間を通して大文字山を望み、池辺には雪見燈籠があり飛泉が石に激し、筆舌に尽くしがたい風景であった。……築山の裏手には花壇があり、芋畑があり、また田圃には稲が干されていて、四方の景色を見渡すと叡山が近くに見えた。書斎の前に戻ると鳥籠に雌雄の鶴と一羽の雛が佇んでいた。」

 

  <西園寺公望最後の清風荘>

 昭和7(1932)年は西園寺公望最後の入洛となった。公望はこの年915日から118日まで清風荘に滞在した。

 西園寺の入洛は立命館にとっても忘れることのできない年となった。922日のことであった。中川小十郎が桃山御陵参拝に随伴し、帰途立命館の広小路学舎に立ち寄った。私塾立命館の創設から63年、立命館の名を譲ってから初めての、そして最後の立命館訪問であった。工事中の中央講堂国清殿や授業中の教室を訪問し、そしてなにより存心館の正面に飾られた自筆の「立命館」の文字に感慨深いものがあったと思われる。

 滞在中何度となく清風荘を訪ねた中川小十郎は、118日再び興津に随伴した。

 

 <その後の清風荘>

 昭和15(1940)年に主を亡くした清風荘は、昭和19年に所有者の住友家から京都大学に寄贈された。西園寺公望が文部大臣の際に京都帝国大学創設に関わったことによる。

 清風荘で西園寺公の執事を務め、京都大学に譲渡された後も管理を続けられた神谷千二氏によると、清風荘は占領軍が接収して宿舎に改造しようとしたが、京都大学総長が折衝して接収を免れたとのことである(2)

 

 現在清風荘は、敷地面積12,535㎡、うち庭園部分が10,884㎡で、建物の延べ面積1,453㎡、本館ほか8棟からなる(3)。庭園は本館に南面し、やわらかな芝生が張られ、ゆったりとした曲線の園路を回遊すると築山の植生を通してわずかに大文字を望むことができる。もともとは東山を借景にしていたが、周囲の環境の変化によって困難となっている。庭は小川治兵衛(植治)の作で、園池の水は太田川の流れを取り込んでいる。

 邸内には、今出川通りを北に上がり正門(表門)を入る。門扉は割竹で設え徳大寺家の家紋である木瓜花菱浮線綾が彫られている。その正門から前庭を通り主屋の玄関に至る。主屋は客間や居間をもち、廊下で繋がる離れもまた居間となっている。主屋はさほど大きくはないが2階があり、離れもまた2階建である。主屋から独立して南側に「保眞斎」と呼ばれる茶室があり、その茶室に附属する「閑睡軒」という名の供待がある。その他邸内には数棟の附属屋・物置・土蔵などがある。

 建築は明治44(1911)年から大正2(1913)年にかけて八木甚兵衛により普請されているが、茶室保眞斎は古く江戸後期のものである。小川治兵衛による庭園は文化財保護法による「名勝清風荘庭園」として昭和26(1951)年に国の名勝に指定、建物は2007年に登録有形文化財に、平成24(2012)年に重要文化財に指定されている(4)

 () 当時は現在の今出川通はまだ開通していず、後に開通するにあたり敷地の一部が提供された。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 高橋箒庵 『東都茶会記』復刻版 淡交社 1989

  (2) 神谷千二「西園寺公を偲ぶ」 1960

(3) 京都大学パンフレット「清風荘」2012

  (4) ()京都市埋蔵文化財研究所「名勝清風荘庭園」2009年・2010

 

清風荘 立命館史資料センター所蔵

 

6.御殿場・便船塚別荘

 

興津の坐漁荘に住むようになってから、群馬県の伊香保温泉に代えて夏を過ごす別荘が探され、大正11(1922)8月、富士岡村の小林家を買い取り御殿場町の便船塚に移築し、西園寺公望の夏の別荘とすることになった。この移築は、中川小十郎が京都の岸田組を使い完成させた。庭先から富士が見える自然豊かな土地であった。

別荘には名前がつけられなかったので、地名から便船塚別荘と呼ばれた。所在地は御殿場町新橋字便船塚754番地(現在は御殿場市)である。ただし登記上は西園寺八郎の名義で大正11926日に33筆を取得した。

1年後の大正129月、西園寺公望は御殿場の別荘に滞在していたが、関東大震災に遭った。幸い西園寺は房子「夫人」(中西房子)、房子さんとの間にもうけた園子さんとともに無事であった。附近の竹藪で過ごし坐漁荘に帰ったという。御殿場の町も被災したため町に見舞金を贈った。

本館は木造亜鉛葺日本風で、玄関左手に14畳の応接間、居間が10畳・8畳・8畳の3部屋、右手に6畳の執事室、ほかに女中室2室、湯殿などがあり、洋風の別館は木造で、合わせて7575勺の建坪であった。

敷地は近親者が滞在する家の必要などから拡張され、新たに西園寺八郎の別荘なども建てられた。

北野慧は「東に箱根の青巒を仰ぎ、西に富岳を望むといったところ、南は遥かに開けて駿河湾方面からの涼風が颯々と訪れ、北は駿相を境する箱根連山の裾がゆるやかな起伏を遠望さしている。附近にこんもりした小丘便船塚があり」と別荘周囲の環境を記している(1)

 

公はこの別荘を夏の避暑地として昭和14年まで使った。政治向きのことは東京の駿河台邸や興津の坐漁荘で対応したため、御殿場に来訪する政客は少なかったようだ。

しかしそれでも警察による警備は厳重に行われた。

そんななか秘書であった中川小十郎はしばしば御殿場別荘に詰め、昭和12年に立命館中学校・商業学校の生徒が富士山麓滝ヶ原で野外演習をした際には表敬訪問をしている。

演習は81日に始まり10日まで行われたが、その86日、生徒一行は便船塚別荘に西園寺公を訪問した。その様子は「公爵訪問の記」と題して残されている。

「……あの維新の官軍の士気を鼓舞し幾多の逸話を生んだ山國隊の軍楽を先頭に御庭を廻る。維新の元老公爵と維新に関係ある軍楽とが結び附いて、色々な空想がぐるぐると頭を馳けめぐる。御庭は全くの自然の御庭園で昔の武蔵野も、かくやと思はれる。公爵の自然を愛され、自然を解される御趣味が偲ばれ、奥ゆかしい事極りなかった。」(2)

 

その後拡張をしたが、昭和151124日に公が亡くなると、翌昭和16920日に西園寺八郎氏から住友吉左衛門(16)に名義が移された。そして昭和3096日に住友家から大丸に売却している。現在跡地は大型ホームセンターとなっている。

 

【参照文献・資料】

(1) 北野慧『人間西園寺公』大鳥書院 昭和16

(2) 『立命館禁衛隊』第78号「富士裾野演習日誌」立命館中学校・商業学校 19379

 

便船塚別荘 小池辰夫様提供

 

7.興津・坐漁荘

 

 (1) 興津以前

西園寺公望が静岡県に別荘を求めたのは明治40年代に遡る。初め公は沼津に保養の地を求め、沼津公園(現在の千本浜公園)の一角の仙松閣ホテルに時折滞在した。明治42(1909)12月の大森鐘一あて書簡は仙松閣ホテルから出され、その後432月に成瀬仁蔵、442月には桂太郎・牧野伸顕あて出されている。温暖な地に冬の住まいを求めたと思われ、別館が西園寺専用に使われた。千本浜公園には現在も西園寺公望が揮毫した「沼津公園」(明治4012)の碑と間宮喜十郎を顕彰する「頌徳碑」(明治435)がある。

沼津には御用邸もあり、西園寺公はまもなく別荘用地を近くに取得した。現在の港口公園の東側である。ところが着工したものの大正382度にわたって台風が来襲し工事は中断、沼津を冬の住まいとすることを断念した(1)

西園寺は大正(3)1230日の中田敬義あての書簡で、沼津の地処の処分を依頼している()

 () 中田敬義は明治期の外務省官僚で、特に外相陸奥宗光の大臣秘書官として信任が厚かった。西園

寺とは明治20年代からの知己であった。

 

  【参照文献・資料】

 (1) 川口和子『思い出のふるさとの町並』 1987

 

(2) 坐漁荘  

大正5(1916)12月、西園寺公は興津に冬の保養地を求めた。興津は東海道の宿場として栄えた町で、江戸時代は脇本陣であった水口屋の勝間別荘に1230日から翌年の326日まで滞在、更にその年12月と、7年には3月と12月の2度滞在し、合わせて4度興津の冬を過ごした。

興津は南東に伊豆半島を、名勝清見潟を前にして沖合に三保の松原を望む景勝の地で、温暖な気候も合ったからか、西園寺公はこの地を気に入って別荘を建てることにした。その別荘は住友春翠の出資により大正8921日、清見寺町117番地に竣工した。そして同年1210日に坐漁荘に入った。もっとも坐漁荘という名は当初から付けられたのではなく、のちに別荘を訪ねた渡辺千冬が中国の故事に習って坐漁茅荘とすべきところを略して坐漁荘とし、太公望と公望を重ねたことによる(安藤徳器『陶庵公影譜』(1))

当初の敷地は約300坪で、興津にあった井上馨の長者荘や伊藤博邦(伊藤博文の養子)の独楽荘などに比べると格段にその所有地は狭小であった。

北側は東海道に面し、南側は駿河の海が広がっていた。建物は2階建であったが、1階に居間が2室、洋間が1室、そのほかに執事室、女中室、警護詰所、厨房など、更に2階に3室あったから余裕のある間取りではなかった。そのうえ昭和4(1929)9月に改造し応接間を、また避難場所を兼ねた書庫を造っている。

大きな邸ではなかったが、様式は京風の数寄屋造りで、建材は上質なものであった。好みの竹も建物に設えられ、また玄関先にも植えられた。

建物には割竹の格子、網代天井の竿縁に竹が用いられるなど随所に竹の意匠が採りいれられている。

大正13年に別荘に名が付けられると、高田忠周が揮毫した「坐漁荘」の扁額が掛けられた。

西園寺公はこの坐漁荘で大正8年から昭和15年までの16年間を過ごした。夏は御殿場の便船塚別荘、春や秋は京都の清風荘、時に東京の駿河台邸と季節や時々の元老としての政務で本邸や別荘を行き来したが、坐漁荘に滞在することが多かった。

坐漁荘は清風荘に比べ東京に近いこともあり、政客が頻繁に訪れた。また、大正1011月の原首相暗殺や昭和7年の犬養首相が暗殺された5.15事件、昭和9年の血盟団事件や昭和11年の2.26事件で西園寺自身が対象になったことで、静岡県警察部や時に憲兵による厳重な警護が行われ、悠々自適の余生というわけにはいかなかった。坐漁荘では元老としての政務が常に求められた。

北野慧の『人間西園寺公』(2)には「坐漁荘訪問客名簿」が搭載されているが、昭和4年から15年までの間の訪問者は延べであるが実に1,500人を超えている。政客ばかりではないが、「興津詣で」、「西園寺詣で」と言われた由縁である。

 

そうした生活のなかでも、坐漁荘には近所の子供との関係が窺えるエピソードがある。

興津坐漁荘の『坐漁荘余話』(3)に、昭和の初めごろの話であるが、当時少年であった方が坐漁荘や西園寺公の思い出を語っている。

清見寺から坐漁荘一帯の海岸を清見潟といったが、近所の子供が遊べる場所は坐漁荘の前の浜くらいしかなかったようだ。野球のまねごとをして遊んでいたがボールが坐漁荘の庭に入ってしまって謝りに行ったところ、西園寺公が出て来て、窓ガラスがドイツ製のものだから気をつけてやってくれと言われ、その後もそこで野球ができ、また西園寺公と話ができるようになったということである。

よその家の前で野球をしてボールが飛び込むなどはよくある話だが、何と西園寺公の別荘でそんな話があったとは。近所の子供とのそんな話が残っているのも意外な一面である。

 

お花さん(奥村花子)やお綾さん(漆葉綾子)、熊谷執事などと暮らした坐漁荘であったが、昭和15(1940)1124日、年初から体調を崩していた西園寺公は帰らぬ人となった。91歳と1ヵ月を迎えた晩秋であった。

主を失った坐漁荘は、その後高松宮に献上されるなどの変遷を経て、昭和26年に財団法人西園寺記念協会が設立されて、協会により維持管理されてきた。そして昭和45年から46年にかけて愛知県の明治村に移築復元され、更に興津の跡地には2004年に復元して現在に至っている。

 

【参照文献・資料】

 (1) 安藤徳器『陶庵公影譜』審美書院 1937

(2) 北野慧『人間西園寺公』 大鳥書院 1941

(3) 渡辺俊治『坐漁荘余話』 2015

 

現在の興津・坐漁荘 立命館史資料センター所蔵

 

おわりに

 誕生から晩年に至るまでの西園寺公望の主な「住まい」を訪ねてきた。清華家に生まれ育ち、総理大臣や文部大臣にもなり、更に最後の元老といわれた人物の住まいとしては、意外とも思えるものであった。決して豪壮でないどころか、どちらかと言えば質素・簡素な邸であった。政界に身を置いた人物の邸としての設えもあるが、しかしその造作は文人としての風雅な装い、高踏な趣味を感じさせる住まいであった。

 今その面影は清風荘と坐漁荘に留めるのみであるが、望緑山荘や隣荘、そして駿河台邸、御殿場便船塚別荘などもまた残された資料からそのことを思い起こさせてくれる。

 西園寺の人となりを彷彿させる西園寺の住まいであった。

 

 本稿作成にあたり、下記の機関・皆様から資料・情報をご提供いただきました。お礼申し上げます。

  京都府立総合資料館、京都府立図書館、東京法務局城南出張所、大磯町郷土資料館、大磯町立図書館、中央大学大学史編纂課、神谷厚生様、静岡地方法務局沼津支局、御殿場市立図書館、住友史料館、

小池辰夫様、J.フロント リテイリング史料館、沼津市立図書館、興津坐漁荘・渡辺俊治様、

清水興津図書館

 

【参考】

 1.御所西園寺邸  京都市上京区京都御苑内 地下鉄烏丸線丸太町駅下車

 2.萬介亭     京都市北区等持院東町  (現在跡を示すものは無い)

 3.大森・望緑山荘 東京都大田区山王    JR京浜東北線大森駅下車 (現在跡を示すものは無い)

 4.大磯・隣荘   神奈川県大磯町西小磯  JR東海道本線大磯駅下車 現在は池田成彬邸跡が残る                      

 5.東京・駿河台邸 東京都千代田区神田駿河台 JR中央線御茶ノ水駅下車 (現在跡を示すものは無い)

 6.京都・清風荘  京都市左京区田中関田町  現在一般公開はしていない

 7.御殿場・便船塚別荘 静岡県御殿場市新橋 JR御殿場線御殿場駅下車 (現在跡を示すものは無い)

 8.興津・坐漁荘  静岡県静岡市清水区興津 JR東海道線興津駅下車 一般公開している

 

 【駿河台邸について追記】

 本稿執筆後、千代田区立図書館より下記についてご教示いただいた。

 

 坂内熊治『駿河台史』(1965)に神田駿河台の写真が掲載されており、そのなかの邸について「南甲賀町五番地に在った住友控邸で後に西園寺邸となった処」という解説がある。また『図説明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(学習研究社2007)の「神田駿河台よりみた東京360度 南側大手町方面」パノラマ写真のなかに『駿河台史』と同じ「駿河台邸」がある。

 

 パノラマ写真は明治22年頃の撮影とされ、『駿河台史』は「住友控邸」と解説しているところから、写真は明治20年代から30年代初期の邸で、住友吉左衛門が明治31年に取得した際の「駿河台邸」と思われる。そして明治33年に西園寺公望が新築された邸に入った。その邸は明治43年頃新たに建て直し、更に大正8年に新邸を建てた。その後の経過は本文に記した通りである。

 

以上

 

201512月10日 立命館史資料センターオフィス 久保田謙次〕

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