立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>西園寺公望公とその住まい 前編

  • 2015年12月10日更新
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目次 

 はじめに

 1.京都の住まい

  (1) 御所公家町西園寺邸

  (2) 等持院の萬介亭

 2.東京の住まい

  (1) 帰国後の住まい

  (2) 大森不入斗の望緑山荘

 3.大磯の隣荘 

 4.東京・駿河台邸   

 5.京都・清風荘

  (1) 清風荘以前

  (2) 清風荘

 6.御殿場・便船塚別荘

 7.興津・坐漁荘

  (1) 興津以前

  (2) 坐漁荘

 おわりに

 

はじめに

 西園寺公望は嘉永2(1849)1022日に京都で生まれ()、昭和15(1940)1124日に静岡県興津でその生涯を閉じた。

 幕末から昭和にかけ、別の言い方をすれば孝明・明治・大正・昭和の四朝にわたる、激動の時代を生きた。その間西園寺はどこに住んだか。時代とともに過ごした場所は変転するが、本稿はそれぞれの時代の西園寺の住まいを訪ねることを目的とする。

 () 戸籍上は1023日生まれ。

 

1.京都の住まい

 

 (1) 御所公家町西園寺邸

 西園寺公望の父は右大臣徳大寺(きん)(いと)、生母は末弘斐子(あやこ)(千世浦)で、清華家である徳大寺家の次男として生まれた。2歳にして西園寺(もろ)(すえ)の養子となり、西園寺を名乗ることになったのである。

 したがって養子となってから御所公家町の西園寺邸に入ったのであって、幼名美麿((よし)(まる))が生まれたのは西園寺邸ではなかった。

 徳大寺家本邸は烏丸今出川東北(現在同志社大学の地)にあって、別邸を田中村にもち清風館といった。しかし美麿が誕生したのは徳大寺の本邸でも清風館でもなく、徳大寺家本邸に近い諸大夫堀川久民の家であった。

 『住友春翠』(1)は、「千世浦が美麿(のち)の西園寺公望を生んだのは、家の諸大夫堀川西市正久民の家であったことが糸屯記にって明かとしている。

 雅楽の普及に努めた堀川家は、明治の初期には武者小路新町西入ルの西無車小路町にあった。嘉永7(1854)46日に京都は大火に見舞われ、御所を始め百五十町、5,400戸が被災し、堀川家も焼失したと思われるが、美麿(のちの西園寺公望)は堀川久民邸で誕生したのである。

 

 公望は嘉永4(1851)年に西園寺家の養子となり、明治3(1870)年にフランス留学に旅立つまでのおおよそ20年間、御所公家町、蛤御門(新在家門)東南の西園寺邸を本邸とした。

 その地には現在「西園寺邸跡」の標柱が立ち、白雲神社がある。白雲神社はもともと西園寺邸の鎮守社であった。

西園寺師季は公望が養子となって間もない7月、25歳の若さで病死したため公望は幼くして西園寺家の当主となった。

 御所およびその周辺は江戸時代にたびたび大火に遭って、西園寺邸もそのたびに公家町のなかで移転したり規模も変わっているが、西園寺家の様子は、明治4(1871)11月に朝廷にその土地・家屋を返還する際に提出された「華族建家坪数書扣」(2)によっておおよそがわかる。その資料によれば、

 土地は、拝領地が1,3302厘、拝借地が551坪、合わせて1,8812(6,207)であった。

 建物は瓦平家建2698厘、瓦物入4025厘、土蔵10坪、瓦湯殿雪隠12坪、計33133(1,093)であった。

 したがって明治2年に開いた私塾立命館の建物は、概ね上記の通りであったと考えてよいだろう。

 

 嘉永7年の大火の際は、孝明天皇も御所から逃れ仮御所を聖護院に置いたが、このとき西園寺邸も焼失し、公望は諸大夫芦田兵庫助の家に寓居した。芦田家は鴨東の聖護院村にあり、垣根の向こうに儒家の中島棕隠が住みその家を銅駝余(どうだよ)霞楼(かろう)と称していた。少年公望は垣根越しに坊主の農夫(中島棕隠)が書生に何事かを講説する様子を物珍しく見ていたという(3)。西園寺は後にその農夫を儒者の中島棕隠と知る。後年公望と交流のあった富岡鉄斎はその頃熊野神社の近くに住んでいて「聖護院村略図」に棕隠の家などを描いている(4)

 

 少年期には漢学や書に親しんだが、やがて青年期に達すると自邸に文筵を開き、当時の著名な文人であった淡海槐堂、富岡鉄斎、神山鳳陽、谷口藹山、広瀬青邨、松本龍、梁川紅蘭などと交流した。

 時は幕末維新の激動の時代に入り、公望は新政府の参与となった。慶応4(明治元)年、年が明けると戊辰戦争が勃発し、公望は山陰道鎮撫使に任ぜられ、山陰から帰ると引き続き北越戊辰戦争に赴き越後や会津で戦った。

 戦争が終結すると公望は京都に戻り、明治29(7月とも)には西園寺邸に私塾立命館を開いた。この時集まった賓師の多くは先の文筵に名を連ねていた。淡海槐堂、神山鳳陽、谷口藹山、広瀬青邨、松本龍、富岡鉄斎らで、江馬天江が塾長として加わった。塾は大変な評判で100人を超す塾生が集まり、邸内に長屋を増築するほどであったという。

 しかし西園寺はこのころフランス留学を志しており、明治32月にはその準備のため西園寺邸を後にし、長崎に旅立ったのである。

 

【参照文献・資料】

 (1) 芳泉会『住友春翠』(再版)1975(初版は1955)。糸屯記は実父徳大寺公純の日記である。誕生

の地を清風館とする資料もあるが、本稿では『住友春翠』によった。

 (2) 京都府庁文書「華族建家坪数書扣」1871年 京都府立総合資料館所蔵

(3) 西園寺公望著 国木田独歩編『陶庵随筆』(中公文庫1990)

 (4) 京都市『史料京都の歴史』第8巻 1985 

 

西園寺公邸跡

 

(2) 等持院の萬介亭

 あまり知られていないが、西園寺公望は幕末期に時折「萬介亭」で過ごした。萬介亭は立命館大学衣笠キャンパスの東側にあたる等持院東町にあった。当時は等持院村と言って等持院の東に位置する。

 萬介亭は『西園寺公望自傳』(1)や『随筆西園寺公』(2)に登場する。

 「京都の等持院辺に西園寺池という池があるだろう、そこに別荘があって、萬介亭と称した」と『西園寺公望自傳』で西園寺が語っている。そのなかで西園寺は萬介とは竹であり、その別荘に竹が植えてあったから号を竹軒としたと語っている。

 また小泉策太郎は『随筆西園寺公』でも萬介亭を紹介している。同書所収の「坐漁荘日記」に「慶応の初年頃、新たに等持院の近傍に創建した別荘に瀟湘の風露を移して萬介亭と称し」、また「萬介亭は維新前、公の所作。此辺高島鞆之助のかくれ家あり。高島牛肉を持ち来り、云々。是より先、公私に牛肉を知れり」と記している。

 高島鞆之助は誤りで実兄の高島六三が正しいことは、西園寺公望が亡くなったときの中川小十郎の朝日新聞の談話『「竹軒」の由来』(3)でも語られていることなどから裏付けられるが、西園寺公望と高島六三の萬介亭での交誼は高島が薩摩から上洛した時期や西園寺が慶応4(明治元年)に戊辰戦争で山陰道に向かうことから慶応年間であったことは間違いない。高島は薩摩藩士で、近くに薩摩藩の調練所があり、萬介亭の北一丁ほどのところに住んでいた(4)。なお中川は、邸の名称を「萬亭」としている。

邸はおそらく御所の西園寺邸と同じ頃に返還されたと思われるが、邸に隣接していた西園寺池は昭和11年頃まで附近の灌漑用の池として残っていた。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 西園寺公望述/小泉策太郎筆記/木村毅編集『西園寺公望自傳』 講談社 1949

  (2) 小泉三申全集第三巻『随筆西園寺公』 岩波書店 1939

  (3) 中川小十郎『「竹軒」の由来』 朝日新聞 1940126

  (4) 高島健三『小松原附近郷土史』私家版 1989

  なお萬介亭の詳細については、久保田<懐かしの立命館>竹軒西園寺公望と「萬介亭」立命館史資料センターホーム

ページ 2014年 参照 

 

西園寺公邸址碑 もと等持院東町にあったものを西園寺記念館に移転

 

2.東京の住まい

 

 (1) 帰国後の住まい

 西園寺公望は明治13(1880)10月、10年ほどにわたるフランス留学を終え、東京に戻った。しかし、1030日に天皇から麹町区一番町の旧一条忠貞邸を貸与されて以降、10年余にわたって本邸といえる屋敷を持っていない。

 明治15年に築地二丁目35番地に屋敷を構え、明治19年には永田町二丁目20番地を新住所とし、明治19年から23年には尾張町二丁目15番地にも屋敷を構えた。

 明治251月頃、麹町区三番町74番地に屋敷を構え、明治261月頃には赤坂区氷川町53番地に屋敷を構えたが、明治281月には文部大臣となったため麹町区永田町一丁目19番地文部大臣官舎に居住した。

 明治299月頃は内幸町一丁目5番地に控家を、明治3111月頃は三田四国町2番地17号に控家を、また同年12月には内幸町一丁目3番地に新しい控家を構えている(1)

 この間西園寺は欧州出張や、ウィーン、ベルリン、パリで公使などを務め、外国に在った期間も長いことから、本邸らしい本邸をもつ間もなかったということだろうか。

 

 【参照文献・資料】

  (1) 立命館大学『西園寺公望傳』別巻二「西園寺公望年譜」1997

 

(2) 大森不入斗の望緑山荘

 ようやく屋敷を構えたのは、フランス留学による帰国から13年も経った明治26(1893)12月頃のことであった()。それも東京の中心部から外れた、当時の地名で、東京府荏原郡入新井村1475番地、大森停車場側の根岸、不入斗(いりやまず)とも言われるところで、駅から歩いて10分ほどのところであった。

 大森不入斗には明治32年半ばまでの6年ほど住み、その邸を望緑山荘と言った。望緑山荘の様子は、のちに住んだ随筆家の内田誠がその著『遊魚集』(1)の「望緑山荘の記」に残している。内田誠の父親は内田嘉吉といい、台湾総督を務めたことがある。望緑山荘跡はその父親が購入した。

 「敷地も千余坪に過ぎず、公の旧邸としては質素を極めたものであった。一体に京都風のものやはらかな平家普請で、座敷なども、茶室のやうに縁をとってしまひ、軒をひくくした、風流な構へだったり、部屋にかこまれた中庭があったりして、閑寂の趣きのどこやらにあるようなものではあったが、如何にも飾り気の無い家だった。

 間取りも決して広いものではなかった。記憶をたぐりながら、ここに書きならべてみても、座敷八畳二間、居間八畳六畳、茶の間八畳八畳六畳、表玄関三畳、中玄関三畳、書生部屋四畳半、女中部屋三畳、応接室十坪、土蔵二階共十五坪、外に湯殿、台所、位のもので、間違ひはあるかも知れぬが、大体に誤りはなく、公の簡易な生活が、之等の数字にしのばれるのである。

 建坪は案外そのように狭いのであったが、庭や周囲の空地は割にゆったりと取ってあった。庭も何の奇もなかった。芝生と四、五十本の梅の木があるだけであった。たゞ、梅の花の盛りの時分は見事だった。白い花が霞に銀粉を撒いたやうであった。」

 内田誠が住んでいたころ望緑山荘の名残は庭の梅の木と、応接室のシャンデリヤのみであったという。近くには梅林の名所八景園もあった。

 また、安藤徳器の『園公秘話』(2)に最初の「奥さん」であった玉八こと小林菊子による「玉八聞書」があり、公望の最初の子・新子さんと一緒に住んでいたことを語っている。また同書の「園公の趣味と教養」に西園寺公望が詠った

   数楹郊墅築方成 時欽農夫楽太平

   夏日読書冬射猟 曹公志未在功名

を掲載している。当時の生活の一面を詠ったものであろう。

 織田萬は『法と人』(3)の「嗚呼陶庵公」で、明治28年秋に大森不入斗邸を訪ねたことを記している。織田の訪問は、文部大臣兼外務大臣であった西園寺に、京都帝大創立に向けて教授を任用するための外国留学を願い出るものであった。

 所在地であった不入斗(いりやまず)は不居読(いりよまず)から転訛したといわれることから、この頃西園寺公望は俳名を不読と名乗った。

 現在望緑山荘の一部は大森郵便局となっており、旧土地台帳によれば、敷地面積は1,387.88坪であった。

 () 西園寺公望の伊藤輶斎あて明治(26)1224日書簡に、発信元を東京荏原郡入新井村第千四百

七拾五番地大森停車場側字根岸としている。(立命館大学『西園寺公望傳』別巻一)

 

 【参照文献・資料】

  (1) 内田誠『遊魚集』 小山書店 1941

  (2) 安藤徳器『園公秘話』「玉八聞書」 育生社 1938

  (3) 織田萬『法と人』 春秋社 1943

 

3.大磯の隣荘

 

 明治32(1899)228日、西園寺公望は伊藤博文に誘われて大磯の伊藤の別荘滄浪閣に泊まった()。そしてその年の11月、伊藤の紹介でその隣に別荘を普請した。大磯町西小磯68番地である。大磯駅から西に歩くことおよそ15分、大隈重信、陸奥宗光、山縣有朋などの別荘がすぐ近くにある。大磯には歴代総理大臣のうち8人が別荘を構えた。

 西園寺の別荘は「隣荘」と言ったが、その名の由来は伊藤博文の別荘滄浪閣の隣にあったことによる。また所在地の大磯が陶綾郡(淘綾郡・ゆるぎぐん)といったことから西園寺の号と同じ「陶庵」とも言われたようである。

 隣荘は北側が旧東海道で、南側は相模湾に面していた。敷地はおよそ4,400坪あった。

 

西園寺公望の孫公一は、子供の頃大磯の別荘で夏休みを過ごした。その頃の思い出を後

年、『貴族の退場』(1)で語っている。

 「家は、部屋数こそ多くなかったが、今から考えると、かなり広かった。御前様のお居間と呼ばれていたのが祖父の部屋、お部屋様のお部屋というのがおばあちゃんの部屋、それにお客間、お茶の間、玄関脇の詰所、女中部屋、風呂場、台所は土間付きで、駄々ッ広い台所であり、土間には、丈の高い雲雀籠や、鶉籠が吊(ママ)下げられていた。……家は茅葺きで、垢抜けのした百姓家とでも言うか、お茶がかった気取りはなし、庄屋さんの家みたいな格式張った、おどかしはなし、思い出の中にも快く浮び上って来る家である。庭は狭く、梅の木が数本と、竹の植込み――竹は業平という種類だったと思う。その庭の前から、大磯特有の高い砂山まで続いた松林が、この別荘の生命であり、また、子供たちに取っては、楽しい遊び場である

 西園寺公一は、「祖母」(菊子さん)についても書いているのだが、その祖母は普通の家庭のおばあちゃんではないことを子供ながらに気がついていた。孫や家人には結構厳しいが、祖父(おじいちゃん)やパパ(西園寺八郎)には頭があがらない関係であったようだ。

 

 西園寺と親しかった小説家国木田独歩が、「人物ト其平生」(2)で「侯の別荘論」を載せている。侯の語るところに依れば、

 「別荘は決して主人公の逃げ場処、隠れ場処に非ず、季節来れば朋友知己の家族を案内して自由に滞在せしめ、数家族こゝに落合へば一種の交際其間に始まり、日夕相会して談笑す、……学者来れば科学を談ずるが故に益し、政治家来れば政治を語るが故に利す、客も亦た面白ろく季節を過ごして得る処少からず……」

 大磯の隣荘といい、のちの坐漁荘や清風荘における西園寺公望の生活は文字通り西園寺公の別荘論そのものであったと言えよう。

 現在は松林と海岸との間に道路が走っているが、松林は今も周囲の地形より高いところにある。

 隣荘は明治45年頃まで使用し、大正6(1917)年に当時三井銀行常務であった池田成彬に譲渡した。池田はその後近衛内閣で大蔵大臣・商工大臣を務めているが、昭和7年に洋館に建て替え、現在その建物が残っている。

 () 西園寺公望の竹越与三郎あて明治(32)31日書簡。(立命館大学『西園寺公望傳』別巻一)

 

 【参照文献・資料】

  (1) 西園寺公一『貴族の退場』 文藝春秋社 1951

  (2) 国木田独歩 「人物ト其平生」『国木田独歩全集』第9巻 学研 1966(原文は「報知新聞」1900

5月~7)

 

隣荘 大磯町郷土資料館提供

 

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