まえがき
西園寺公望はその号を陶庵と称した。陶庵は印刻を趣味とし、自刻の印章のみならず著名な印刻家の印章も所蔵し、後に坐漁荘の執事であった熊谷八十三により「陶庵印譜稿」を残した。
このほど、立命館所蔵および国立国会図書館憲政資料室所蔵の「陶庵印譜稿」並びに清風荘の執事であった神谷家所蔵の「陶庵印譜」を調査する機会を得たので、ここに「陶庵印譜」について紹介する。
晩年の西園寺公望(陶庵) 昭和10年 興津坐漁荘書斎にて
1.陶庵印譜とは
「陶庵印譜」とは、陶庵西園寺公望が所蔵していた印章を用い、西園寺公の執事を務めた熊谷八十三が印譜に作成したものである。
作成の経過については、熊谷がその日記に記している。
昭和16年4月3日
「陶庵印譜作成ヲ原田男カラ注文アリ 今日取リ掛ル 序ニ五部作成ノ事トスル
原田・逗子・柿沼・手許控二」
昭和16年4月7日
「引キ続キ印譜作成ニ掛ル 跡一両日デ完成ノ処ニ漕ギ附ケル」
昭和16年4月8日
「印譜捺印ダケ結了 跡ㇵ帳面ヲ作ル事」
昭和16年4月9日
「印譜出来」
「陶庵印譜」は西園寺公の秘書であった原田熊雄男爵が熊谷に作成を依頼し、五部作成することとなった。作成した印譜は原田のほか、逗子の西園寺八郎公爵、柿沼はやはり興津に別荘のあった井上馨の執事柿沼昇に渡した。それに熊谷の手許に二部保存することにした。
続く4月10日・11日の日記に、作成した印譜を二か所に発送やら残存品に書き入れをし、陶庵印譜調べで得るところが多かったという。
昭和16年7月7日
「水口屋元一ノ懇望陶庵印譜作成第二回ニ取リ掛ル 今度ㇵ限定四部 懇望者ㇵ
浮月主人 原田男爵方デ見テ欲シクナッタトノ事 元一ハ之ニ便乗 第二回ノ事ト
テ初メヨリ稍ウマク出来ル」
昭和16年7月9日
「陶庵印譜稿限定四部成ル 第二回目デ前ノ時ヨリㇵ上手ニ出来ル 只肉色ガ稍
淡ク過グ 然シ其ガ為ニ対側ヲ汚損スル事は少カルベシ」
熊谷は、4月に引き続き、7月にも陶庵印譜を作成することとなった。
水口屋は坐漁荘の近くにあった旅館で、中川小十郎など西園寺公への訪問者がしばしば宿泊した。西園寺公ゆかりの宿である。その主人のたっての依頼で第二回限定四部を作成した。浮月主人というのは静岡の浮月楼の主人杉本宗三である。7月11日の日記に浮月楼主杉本宗三と水口屋元一が礼に来たと記している。
浮月楼は明治に入り徳川慶喜が屋敷とした跡で、明治26年に料亭として開業した。伊藤博文、井上馨、西園寺公望など名だたる政治家がしばしば利用した。
第二回目の陶庵印譜は第一回のものよりもやや印影が薄かったものの、上手にできたと言っている。
以上のように、陶庵印譜は昭和16年の4月および7月に限定九部作成されたのである。
「陶庵印譜」はその後、どのようになったのだろうか。
2.立命館所蔵「陶庵印譜稿」
立命館大学の図書館に「陶庵印譜稿」が所蔵されている。
熊谷八十三氏贈附 昭和十六年 と記され、中川小十郎の署名と花押があり、『西園寺公印譜』と題した和装の表紙が付けられている。
「陶庵印譜」作成後その年のうちに中川あて寄贈したもので、4月作成の手控二のうちの一冊と思われる。
熊谷は昭和15年11月の西園寺公没後も中川と交流があり、17年3月には立命館文庫長に就任している。
中表紙は、「陶庵印譜稿 昭和十六年四月三日作成」、また巻末に「限定五部ノ一」と記されている。
陶庵印譜稿と記された一葉ごとに袋とじとなっていて44葉が綴られている。一葉は表裏があり、1点から数点の印影が朱で押されている。
巻末に「一ノオ」(一枚目の表)、「一ノウ」(一枚目の裏)から「四十四ノウ」までそれぞれ印影・印材の説明や作者の名が記されている。
「一ノオ 三個揃ヒ黒木印」、「一ノウ 三個揃 石印田黄」などである。
「二ノウ、九ノオ」は桑名鉄城刻で桑名は西園寺公の篆刻の先生である。
「十一ノオ」は「三個揃石印櫛紐田白 缶道人呉昌碩 病臂」とあり、清代最後の文人呉昌碩が病をおして印刻したものと説明している。西園寺公望と呉昌碩の関係は後述する。
「十三ノオ」は「山陽刻 天草ノ詩」で、頼山陽の印刻である。
「十九ノオ」は蔵書印である。
巻末には、西園寺の偽印を二例あげており、偽物が出回っていたことを窺わせる。
【立命館所蔵 陶庵印譜】
3.国立国会図書館憲政資料室所蔵「陶庵印譜稿」
国立国会図書館憲政資料室に熊谷八十三関係文書が所蔵されている。関係文書は熊谷八十三没後の1984年および1986年に熊谷家から寄贈されたものである。熊谷八十三日記がそのほとんどであるが、関係文書の中に「陶庵印譜」と「陶庵印譜稿」がある。
「陶庵印譜」は断片的でそのうちの一葉に「昭和十六年八月十八日陶庵印譜稿用紙ノ堆裡ニ此数紙ヲ発見ス 依ッテ各印名一枚ヲ出シテ一綴トス」とあるが、内容については割愛する。
「陶庵印譜稿」については、表紙に「陶庵印譜稿 昭和十六年七月九日 第二回作成」としており、末尾に限定四部ノ一としている。
熊谷日記に第二回分は水口屋と浮月楼主人に渡した以外記されていないので、さしあたり熊谷が二冊保存し、そのうちの一冊が後に熊谷家から国会図書館に寄贈されたものであろう。
用紙の大きさは横16センチ、縦28センチほどで、立命館所蔵のものとほぼ同じである。
46葉がそれぞれ二つ折りになっていて、立命館所蔵の印譜と同じく、一葉にそれぞれ表と裏がある。
また別にバラで7葉がある。
立命館の印譜稿は巻末にまとめて簡単な解説がついていたが、憲政資料室所蔵の印譜稿はそれぞれの印影ごとに解説がつけられている。印影についても全く同一というわけではない。
印材については、一の裏が田黄、三の表が寿山などと記載され、他に木印、石印、銅印などと書かれたものもある。作者についても三の裏は桑名鉄城刻、また七の裏は「缶道人呉昌碩病臂作此 己未立春 行年七十有六」で、立命館所蔵十一ノオと同じ印影である。
十六には木印常用として、「静岡縣興津 公爵西園寺公望」「静岡縣御殿場町 公爵西園寺公望」と「静岡縣興津 西園寺公望」「静岡縣御殿場町 西園寺公望」「京都上京田中町 西園寺公望」がある。立命館所蔵のものでは十八ノウがこれにあたる。
全体に立命館所蔵よりも印影が薄いが、熊谷が「上手ニ出来」と言っているのは、それぞれの印影毎に解説をつけたことによろうか。
また挟み込みの7葉のうちには、偽印について書かれたものや、金印の比重について計算したものがある。
【国立国会図書館憲政資料室所蔵 陶庵印譜】
4.神谷家所蔵「陶庵印譜」
神谷千二は西園寺公望の京都別邸清風荘で執事をしていた。
その神谷家(神谷厚生氏)に西園寺公望関係文書が所蔵されている。その中に「陶庵印稿(白紙)」、「陶庵印譜稿」、2種の「陶庵印譜」、と計4点の印譜資料がある。
これらは西園寺公の遺品を整理する際に熊谷から神谷千二に贈られたものと思われる。
「陶庵印稿(白紙)」は、憲政資料室所蔵の「陶庵印譜稿」の挟み込みのうちの1葉と同じ用紙であるが、白紙とあるように印影、解説等何もなく文字通り陶庵印稿とあるのみである。
1枚の用紙の中央に陶庵印稿の文字、両側に印影を押す枠があり、袋とじにして表裏になるように作られている。
「陶庵印譜稿」は、袋とじにする予定であったであろうものがそのまま見開きで25枚ある。大方は朱の印影のみである。印影についての解説は無い。
「陶庵印譜」2点のうち1点は竪帳である。横14センチ、縦21センチで、それぞれの白紙に朱の印影が1から3個押されている。印影のみで解説は無い。
特徴的なものがもう1点の「陶庵印譜」である。133点ほどの印影(朱印)が横19センチ、縦127.5センチの台紙に押され、更に横30.5センチ、縦180センチほどの軸装となっている。
これらの印譜は、おそらく限定九部を作成する過程で作られたものではないかと思われる。いずれも印影ははっきりしていて、朱も鮮やかである。
【神谷家所蔵 陶庵印譜稿】 【神谷家所蔵 陶庵印譜】
【神谷家所蔵 陶庵印譜】 【神谷家所蔵 陶庵印譜部分】
5.竹越與三郎「陶庵公印譜抄」と呉昌碩の印
(1)竹越與三郎『陶庵公』「陶庵公印譜抄」
竹越與三郎の『陶庵公 西園寺公望公傳』(叢文閣 昭和8年)には、12件の「陶庵印
譜」が掲載されている。
①「道徳爲師友」 大正天皇御宸翰中の語から取ったもので、桑名鉄城刻
②「公望之印」 側面に巳未立春先一日製 呉昌碩時年七十有六、とあり呉昌碩の刻
③「陶庵」 側面に缶道人病臂作此、同じく呉昌碩刻
④「無量壽佛」 側面に巳未初春老正 同じく呉昌碩
⑤「陶庵」
⑥「明月淸風我」 桑名鉄城刻
⑦「悠然見南山」 自刻印か
⑧「公望 陶庵」 桑名鉄城刻
⑨「公望 陶庵 不讀 佛心 浩々乎 先酔」
⑩「陶庵 不讀 呵々 清風荘 自在 多病」 鉄城
⑪「煙横篷牕」 頼山陽刻
⑫「小石 笠懌 平安 伯海」
これらは①が憲政資料室所蔵の二ノ裏、②③④が七ノ裏、⑤⑥が四ノ表、⑧が十三ノ裏、
⑨が十二、⑩が十一、⑪が十八ノ裏、⑫が三十四ノ裏に当たる。⑦は見当たらない。
竹越與三郎は『陶庵公』で、西園寺公は清風荘で印刻を覚え、その師は小林卓斎や桑名鉄城などであった。西園寺の印刻熱は中々に激しく、印譜に関する名著も所蔵し、集めた印も数千顆、田黄田白をはじめとした名材を数百個所蔵し愛玩していた、という。
なお、「陶庵公印譜抄」は、伊上凡骨の摸刻で、石刻を木板で摸したものである。
(2)呉昌碩の印
松村茂樹は『呉昌碩研究』(研文出版 2009年)で、西園寺公望所蔵の呉昌碩刻印について述べている。
①「公望之印」〈己未立春先一日製 安吉呉昌碩 時年七十有六〉
②「陶庵」〈缶道人病臂作此〉
③「無量寿仏」〈己未初春 老缶〉
は三顆の組印(正方の姓名、正方の号、変形の雅句を組にしたもの)で、1919(大正8)年に西園寺公望が上海で呉昌碩と会談した際に依頼し刻印したものであるとしている。
1919年1月、西園寺は第1次世界大戦後のパリ講和会議の全権大使としてパリに向かった。その途次上海に立ち寄り六三園で呉昌碩と会談しているのである。
この頃呉昌碩は病臂のためほとんど代刻をしていたようだが、西園寺のために病をおして刻印をしたことが、その印に記されている。
呉昌碩は中国清朝最後の文人といわれ、書・画・詩・刻印の四絶に秀でた人物であった。
西園寺と呉昌碩の会談の模様は、池田桃川の『続上海百話』(1922年)に詳しい。
6.陶庵所蔵印
上記に見てきたように、陶庵印譜には西園寺の自刻印のほか、桑名鉄城、頼山陽、呉昌碩などの印もあった。
陶庵印譜には印影のほか、側款のあるもの、また熊谷による解説があり、印の作者、印材、鈕などのほか、その由来を知ることもできるものもある。
印材は、主に石材を使ったほか、銅印、木印、竹根などの印もある。石材は中国福建省寿山石、その中でも最高級品と言われる田黄や田白、寿山に近い月洋郷の芙蓉石、浙江省の昌化石の一つ雞血(鶏血)石などを用いた。水晶や琥珀などもある。
鈕には龍・象・亀・獣・羊などの動物、蓮など花果をあしらったものがある。
西園寺自身は、これらの印材を桑名鉄城や鳩居堂から手に入れていた。
先に述べたように桑名鉄城〔元治元(1864)年~昭和13(1938)年〕は西園寺の印刻・篆刻の先生であった。西園寺の桑名鉄城宛書簡が『西園寺公望傳』別巻一に31点掲載されている。その多くに印刀や墨・硯を依頼することや、篆文のお手本の依頼や批評を請うことなどが書かれていて、西園寺と桑名鉄城の印刻をめぐる関係が知られる。
そのなかの大正(11)年3月2日の書簡を紹介して結びとしたい。
陶庵西園寺公望は「陶庵」と「明月清風我」の印を桑名鉄城に依頼した。白文でも朱文でもよく字配りは如何様にも、としている。
その「明月清風我」は、立命館所蔵版では四ノオに「二個揃 石印平龍紐白更紗模様」とし、憲政資料室所蔵版ではやはり四ノ表に「平龍紐白更紗材」とし、側款をもとに解説が書かれている。この「明月清風我」は竹越與三郎の「陶庵公印譜抄」にも取り上げられている。
「明月清風我」は、陶庵閣下が散逸を惜しんで再刻を依頼し、壬戌(大正11年)秋に作成したものと桑箕(桑名鉄城)が謹んで記したとしており作成の由来がわかるのである。
陶庵公の印譜熱は並々ならぬものがあった。篆刻作品である印章はそれ自体が工芸品であり、印材に刻まれる印影はまた独立した芸術品である。
「陶庵印譜」は、西園寺公望の文人としての一面を伝えてくれる。
2017年10月18日
立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次