昭和20年代の付属校は文化・芸術の学び舎
文化は、戦後の荒廃した時代に新しい社会を建設していく若者たちに大きな希望を与えるものでした。立命館の付属校では、熱気に満ちた若き芸術家たちが教諭となって、個人の持ち味を生かしながら各分野の先頭に立ち、生徒たちと理解を深める努力を重ねていったのでした。
終戦直後の1945(昭和20)年9月早々、立命館第二中学校(後の立命館神山中学校・高等学校)では全校美術展覧会が数教室を会場にして開かれました。
写真1 立命館第二中学校全景
応召から帰ってきたばかりの教諭野崎龍吉は、「美術展覧会は美術科教員であった小西壽(注1)、澤村藤四郎(注2)、八木一夫(注3)、三教員の肝いりで行われたものであるが、戦争は終わったという感じが濃く、それまでの抑圧のなかで、生徒たちが希求していた何物かが強くにじみ出て、観る者の心を捉えた。」と振り返っています(注4)。
ここに紹介された三教諭と野崎は、共に同世代の青年たちでした。彼等と同時期の教諭として立命館第二中学校の書道を担当していたのが秋山公道でした(注5)。1943(昭和18)年4月から立命館第一中学校や夜間、商業夜間などで書道を教え、第二中学校でも1946年5月まで講師を勤めていました。
美術展覧会を開いた三人は、1945年10月から46年1月の間に退職していますが、それでも野崎が「一つの学校で短期間であってもこれほどの教員たちによって実現した校内美術展覧会は、生徒たちにとってかなり豊かな文化的雰囲気が醸成された」と語っています(前述、注4)。
写真2 立命館神山高校時代の顧問の野崎と美術部員たち
第二中学校が立命館神山中高時代となる1948年からは、演劇や放送活動でも生徒の活動が活発に展開していきました。文化祭の演劇では、中学の演出を高校の演劇部員が指導。教員劇「ベニスの商人」では、当時の教諭で後に文芸評論家として活躍した三枝洸一(注6)が演出を、舞台監督を同夫人の三枝和子氏(注7)が担当していました。
写真3 教員劇「ベニスの商人」の一場面(1950年 神山中学校卒業アルバム)
三枝が後に指導した放送部もユニークな活動を展開していました。放送設備・配線の一切から、テープレコーダーの組み立ても手掛け、毎日の昼放送では、伝達に続いて生徒たちの自主番組が、研究発表、音楽鑑賞、朗読、ラジオドラマと多彩に編成され、教員有志のリレーで創作連続ドラマも放送されていました。この頃の放送部員の中には後に俳優として活躍する玉生司朗(注8)も含まれていました(前述、注4)。
北大路の立命館第一中学校(後の立命館中学校・高等学校)にも画家の教諭が在職していました。安田謙(注9)は、野崎と同じ1943(昭和18)年に立命館第一中学校に採用され、1951(昭和26)年まで勤めていました。安田の退職と交代で野崎が神山から北大路へと移っています。独立美術協会会員であった安田が指導した中学生のなかに中井史郎がいました。中井は、立命館高等学校へ進学後、今度は美術教諭であった日本画の麻田鷹司(注10)から指導を受けました。そして、立命館大学進学後には本格的に画家への道を進み、在学中に二科展初入選を果たし、若くして注目される存在となったのでした。
写真4 1951年の神山高校の全校写生大会
後に立命館神山中学校高等学校の校長となった飯田五男(注11、写真4)が、廃校前の最後の学校新聞で語っている言葉に当時の立命館付属校が目指していた姿があるようです。
写真5 飯田五男 神山中学校高等学校長
私学は、その個性と伝統とに生きる。(中略)
学校は若い学生たちに夢を実現させる場所である。何もかも公の費用でまかなわれる官公立と、すべて自分でしなければならぬ私学とでは条件がちがう。しかし、この違いを克服しながら、私学は生長し発展していくのである。(中略)こういう困難の中にこそ本当に夢が育ち、実現されていくのであるかもしれない。温室の中でよりも、寒風吹き、厳霜下る山野にこそ、真に美しい自然の姿があるのではないか。(注12)
戦後10年という時間は、物質的にも極めて貧しく、世情不安の続いた時期であったにもかかわらず、文化的なものを求める意欲が積極的に進められていったと考えられます。以前に紹介した立命館高等学校新聞局の「立命館タイムス」(注13)など全国で学校新聞が活発に発行されていたこともその一つでしょう。自分たちの文化を創り上げ、自分たちの国を築き直さなくてはとのエネルギーが、付属校の文化芸術の分野から育ちつつあったと言えるのではないでしょうか。
2023年7月18日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1;
小西壽は1919年生まれ。1945年4月に立命館第二中学校教諭となったが、翌年1月に依願退職。その後に京都市立小中学校教諭を経て、1956(昭和31)年に再び立命館中学校講師となって美術を教えた。後に退職して小西画塾を主宰し絵画の指導にあたった。
注2;
澤村藤四郎は1918年生まれ。陶芸家として修業中の1941(昭和16)年に二代陶哉を襲名し、陶磁器制作の家業に従事。1944(昭和19)年8月に立命館第二中学校助教諭となったが、翌年12月に退職し、その後は家業と陶芸活動に専念した。
注3;
八木一夫は1918年生まれ。1939(昭和14)年5月に応召された翌年除隊。1944(昭和19)年5月に立命館第二中学校の講師を経て助教諭となったが、1945年10月に退職。その後,1948年に前衛陶芸団体「走泥社」を結成。作品「ザムザ氏の散歩」を発表し, オブジェ焼の元祖のグランプリ作家として活躍し、現代陶芸に新分野を確立した。1971年に京都市立芸術大学の教授となった。
注4;
野崎龍吉1918年生まれ。1943年に立命館第二中学校の教諭となる。応召から復員して、第二中学校で再び美術教諭として勤める。立命館中学校高等学校校長(1971年~74年)も務める。(「立命館学園広報」 1972年5月発行)
注5;
本名は秋山晴次。1904年生まれ。後に京都書道連盟理事長などを歴任。京都市芸術功労賞受賞。秋山の妻は立命館創立者中川小十郎の孫娘。
注6;
ペンネーム森川達也。1922年生まれ。1947年10月に立命館第二中学校の国語科講師として勤め、後に専任教諭となって1957年3月に退職。その後は文芸評論家として活躍。大学教授と実家の住職を兼務。
注7;
1929年生まれ。中学校の教師を経て本格的作家活動に入る。1969年に第10回田村俊子賞を受賞。日本ペンクラブ女性作家委員会初代委員長を務めた。
注8;
本名。立命館神山高等学校2年の時に最後の生徒会長として学校存続の請願書を学園評議員会宛に提出などした。3年生で北大路の立命館高等学校へ移る。俳優・声優としてテレビ・舞台・映画などで活躍。
注9;
本名は安田謙三郎。1911年生まれ。在職中に応召され、1945年10月から復職。1951(昭和26)年に退職。公立高校に勤めた後、京都市立美術大学教授となる。京都市文化功労者で表彰。作品「雪景伊吹山」は滋賀県立近代美術館に展示。
注10;
1928(昭和3)年生まれ。本名は昂(たかし)。京都市立美術工芸学校在学中に学徒勤労動員で負傷。1951年から1953年まで立命館高等学校に務めた。その後、法隆寺壁画の再現模写にも加わり、武蔵野美大教授となった。
注11;
飯田五男(はんだいつお)は1911年生まれ。1940年夜間の立命館商業学校教諭となる。1947年から神山中学校校長、翌年神山高等学校校長。廃校になる最後まで校長として存続に努めた。神山廃校と同時に退職。公立中学校校長などを勤めた。
注12;
立命館神山学園新聞 1952年2月21日発行
注13;
立命館 史資料センター ホームページ
「学校新聞にみる戦後初期の立命館高等学校の自治活動」前・後編