はじめに
「高校新聞が生徒諸君の自治活動の一環としてその自主性と創造力を現わす場となっていることは、戦後派の諸君のよい面を示すものといえるであろう」
1957(昭和32)年10月、当時の末川博総長は「立命館タイムス」発刊十周年を祝福した特別寄稿でこのように述べています(注1)。
学校新聞「立命館タイムス」は、戦後の立命館高等学校自治活動の歩みを知るうえで欠かせない資料です。その中に、現在も立命館高等学校生徒会の活動で重要な役割を果たし続けている「学内協議会」についての記事があります。敗戦から三年ほどで戦後改革が行われている時期にあって、全国でも自治活動の先駆的性格の「学内協議会」誕生の経過を、「立命館タイムス」から追ってみました【写真1】。
【写真1】戦後初期自治活動の中心となった第2代生徒会役員たち
前列左が上田勝彦教頭、右が名村源治郎教諭
(1950年 高校卒業アルバム)
「立命館タイムス」は1947(昭和22)年1月17日創刊から1976(昭和51)年12月15日の126号までを発行し続けました。完全に保存されていませんが、大部分は復刻版(注2)【写真2】で見ることができます。
【写真2】 立命館タイムス復刻版 表紙
その発行所は二年足らずの間に、
中等部新聞部が第5号 1948(昭和23)年3月11日発行まで
高等学校・中学校新聞部が第10号 1949(昭和24)年3月5日発行まで
高等学校新聞部が第11号1949年12月15日発行)以降
と変遷しています。これだけでも、当時の学校事情の複雑さが想像されます。また、初期には「学友会」や「自治会」という語が使用されていて、しばらくすると「生徒会」と変っています。その理由は「立命館タイムス」に掲載されていませんが、当時の文部省からの指導によるもので、「生徒自治」という表現では、生徒が直接に学校経営に参加してもよいという印象をもつのでよろしくないというものでした。そのためか、立命館高等学校でもお手本のように生徒会へと変更していますが、その活動内容からは、学校(大人たち)からの管理はあっても、生徒(若者)たちが戦後の日本、民主主義国家を自分たちの手で創り出していこうとするエネルギーに限りない可能性をもっていたことがわかります。
1)自治活動はゼロからの出発
戦後改革の一環として重要な課題であった教育の民主化は、連合国総司令部(GHQ)幕僚部の部局の一つである民間情報教育局(CIE)の主導のもとで強力に推進されることになりました。特に京都は、「静岡以西を管轄していた連合国第一軍団軍政部が、京都府を民主教育推進のモデル地区とする意向であったため、新学制発足に当たり、特にその圧力が強く加えられたという特殊事情」(注3)がありました。
「立命館タイムス」には軍政部関係の人物らによる寄稿や講演が紹介されています。
「立命館タイムス」の創刊を祝して 近畿地区軍政部(第1号)
聖書研究会講演 ランド大尉・ロイド神父 (第3号)
特別寄稿「学校新聞」京都軍政部民間情報課長マックファ-ランド女史(第7号)
教育改革では、自治活動も全国の小学校・中学校・高等学校で進められましたが、当時は全国的に戦前・戦中からの教師も、戦後に教職に就いた教師にも自治活動の体験も知識もないところで生徒集団を指導するような状況になっていました。立命館高等学校誕生前後でも同様であったことが、「立命館タイムス」に掲載された生徒記者の質問に対する平口正雄校長(注4)の回答から知ることができます。
生徒「自治会が活発でないのは生徒たちが『進歩に対する熱』がないからだと言われたが、その熱を喚起させるにはどうすべきか。」
校長「これから指令によって行われる三十時間にわたる先生に対する啓蒙運動が、その問題解決の根本となるだろう。」(注5)
平口校長が「啓蒙運動」と述べていることは、1948年12月に府下の校長、自治会指導の教員、男女生徒役員らを集めて、自治講習会が開催されています。このなかで、ケーズ教育課長は「自治会は先生、生徒間の理解が必要で、この理解によって完全なものとなるのである。学校長は学校運営の最高の責任を負うと同時に、自治会の正しい育成に充分の理解を持たれたい」と述べています(注6)。初期は、学校長も教師たちも戦前からの一方的な上からの教育を排除して生徒と協力していくことが未知なる自治活動を展開するのだと理解したようです。このような理解によって後の「立命館高等学校学内協議会」が誕生しました。
2)新制立命館中学校高等学校と教育基本法
敗戦から3か月も過ぎない時に開催された立命館理事会では、末川博を学長に迎えることと学園改革基本方針案を満場一致で決議しています(注7)。この基本方針「五」には次のような内容が決定されていました。(一部省略)
五 学園ノ自存自治ヲ強化スルコト
(イ) 教職員ト学生生徒トノ恩愛的結合スルコト
(ハ) 学園ヲ中心トシテ教職員、卒業生、学生、生徒及父兄トノ愛校的結集ニ基ク学園ノ自存自治ノ強化ヲスルコト
このような改革基本方針に基いて立命館の中等教育再編は、他校に先んじて徹底した改革を進めなければならなかったのでした。新制立命館中学校では、公立中学校開校(京都府下では1947年5月5日に一斉に開校式を挙行)よりも1ヶ月早く、1947年4月に発足し、新しい「中学校学則」を発表しています【写真3】。その第一条で新憲法の基本原理を指標とした教育基本法の基に教育を進めるとしています(注8)。この時点ではまだ学園の教学理念である「平和と民主主義」が述べられていませんでした。
【写真3】 1947年中学校学則
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3)戦後初期の学友会と課外活動
1947年4月、狭い北大路学舎で新旧学制の中学生が学ぶことになりました。同時に学芸部や運動部などの課外活動(クラブ活動)を共に進めるための組織として「学友会」が発足しました。戦後でも、依然としてこうした組織の代表は管理者である校長が務めることになっていました。自治活動の広がりによってこのような制度は全国的に改められるようになっていたため、このような改正は決して立命館だけに特筆されることではなかったのですが、生徒たちにとっては大改正に映ったようでした。「立命館タイムス」では
「先に学友会は大改革され、完全に生徒の手による生徒の学友会となった」(注9)と書かれています。「学友会」の長が初めて生徒に代わり、自分たちで生徒の代表を決められるようになったことに大きな喜びを感じていたからでした。こうして1948年5月、自治委員会の中から選ばれたのが初代学友会会長阿蘇登でした【写真4】。
【写真4】 立命館タイムス 第7号 1948年7月18日発行
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この当時の課外活動の形態は中高合同クラブのようなもので、上級生(旧制中学生)が下級生(新制中学生)を指導しながら活動していたようです。1947(昭和22)年度の初め、学芸部14、運動部10のクラブが活動していました(注10)。クラブの立ち上げには、興味関心のある生徒たちが集まり、顧問を引き受けてもらえるような先生を説得するという、生徒による一種の教師選択制のような形式で、自由な風潮が漂っていたといえます。この顧問依頼方式はその後も続きました。
4)自治会の誕生
1947年4月、新旧併せての中等学校では「学友会」と同様に「自治会」も合同で組織されていて、各クラスから自治委員が選出され、9月には「自治会」幹部が構成された、と当時彼らの最上級生であった初代自治委員長山本一馬(一中5年生)は回顧しています(注11)。一年下の学年は、1944(昭和19)年に5年制で入学していましたが、4年生の1948年3月で中学校修了となりました。この学年には、4月に誕生する新制立命館高等学校2年生へ編入するか(この学年が立命館高等学校第1期卒業生)、旧制立命館大学予科へ進学するか、または就職するかの三つの選択肢がありました。
5)自治会規約の成立
初期の合同自治会は、活動が低調で、規約も不十分なままで運営していたようですが、新制高等学校発足の1948年になって急速に規約大修正が進み(注12)、2学期に「立命館中学校・高等学校自治会規約」が成立しました(注13)【写真5】。生徒自身の自治活動に関する知識が少なかったことも規約づくりに時間を要した理由でした。自治委員長には山本から後に西原良次、林昭の二人が就いていましたが、いずれも全校生から選出する選挙形式ではありませんでした。
【写真5】 立命館タイムス 第8号 1948年10月23日発行
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自治会規約では目的を、第二条で「生徒の自治活動を通じ、学園の団結と学校生活の向上を図り、良き社会人としての資質を育成すること」とし、第四条では「生徒自身の手によって生徒の福利を図る権利を有する。但し、学校運営並びに教育方針を妨げ、或いは個人の自由を侵すことは許されない」としています。注目すべきは第四条で、権利をもつが学校運営に関わるようなことは生徒の権利として認められていないとしている点です。これは、生徒自治が自由に学校運営へ参加できないと自ら制御しているようにもとれ、文部省が生徒自治という表現には懸念すべき点があるとしていたことと一致します。
自治会組織では規約第五章学級、第六章学年、第七章全校の三段階に分け、第十七条で中高全生徒会員から委員長(高等学校最高学年から)副委員長(中高から各1名)を選出するとし、生徒大会は中高別と全校(合同)によって重要事項を決定していくとしています。ここにも戦後の民主主義の波は伝わっていました。翌年の1949年1月23日には衆議院議員選挙が行われることになっていて、男女普通選挙による結果が社会を大きく変えようとしている時でした。高校生たちが自治会役員選挙を直接投票で選出しようとした動きには、国政の揺れ動く雰囲気が影響していたことでしょう。
注1 「立命館タイムス」第63号 1957(昭和32)年10月7日発行
末川博 回顧と展望「高校新聞十年の歩み」
注2 立命館中学校・高等学校創立100周年記念として復刻版を制作
注3 『戦後京都教育小史』
注4 平口は理科(生物)教諭で、終戦直後の10月に第一中学校へ勤務。1947年4月には旧第一中学校最後の校長となる。1948年4月には新制立命館高等学校初代校長となったが翌月に退職。男女共学等の問題解決のために京都府教育課長に転身し、その後、滋賀県庁で各部長職を務めて退職。1956年から立命館に再就職し、中学校校長や高等学校校長代理を務めて退職。
注5 「立命館タイムス」創刊号 1947年11月27日発行
注6 「京都事務局月報」第21号 1949年1月5日発行
「占領下の京都」立命館大学産業社会学部鈴木良ゼミナール 文理閣
注7 理事会決議録 1945(昭和20)年11月6日開催
「学園改革ノ基本方針」
注8 立命館中学校学則第一条
「本校は教育基本法に則り、小学校に於ける教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする」
注9 「立命館タイムス」第8号 1948年10月23日発行
注10 「立命館タイムス」第7号 1948年7月18日発行
記事には学芸部数を15としているが誤植か。本文中の具体的部名は新聞部、文芸部、時事問題研究部、弁論部、軽音楽部、音楽鑑賞部、映画部、演劇研究部、美術部、英語研究部(聖書研究会)、物理部、化学部、生物研究部、書道部の14。運動部は野球部、庭球部、排球部(バレーボール)、卓球部、ラグビー部、陸上部、山岳部、相撲部、水泳部、スキー部。
学友会予算の主な収入は生徒からの会費(年間240円)入会金(200円)で総額545,400円。支出は学芸部122,400円、運動部285,600円。新聞部は別予算。
注11 「立命館タイムス」第3号 1948年1月31日発行
山本は旧学制最後の一中卒業生。
注12 「立命館タイムス」第8号
生徒論説
「低調である原因を挙げてみると、第一に生徒の無関心主義から学校や生徒に対し頼りすぎ、第二に昼食時に会を開催するために授業に差し支える。(中略)第四に生徒間に積極的な者を軽蔑する風がある。しかし、高校1,2年の一部にこれに目覚め、二学期から漸次見るべき活動を見せ始めてきた」
注13 注9に同じ
<懐かしの立命館>学校新聞にみる戦後初期の立命館高等学校の自治活動 後編~学内協議会の誕生まで~を読む