立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>戦後初期の立命館中等教育を支えた女性教職員たち

  • 2017年12月20日更新
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1945(昭和20)年815日は、新しい平和日本の出発点でした。教育の民主化も連合軍の占領政策の一環としてさまざまな政策が実施されました。新しい教育制度のもと、女性の教育への参加も急速に進みました。立命館学園においても「平和と民主主義」を教学理念に掲げ、多くの課題と向かいながら新たな学園づくりへと進みだしました。それは決して明るいだけの道ではありませんでした。

ここでは、戦後まもない頃に付属校の教育改革に参加してきた女性教職員の姿を紹介していきます。(なお、紹介する方々は、内容によって実名表記とイニシャル表記の方とに区別しています)

 

1)戦前までの立命館中等教育と女性教諭

 立命館の付属校の歴史は、1905(明治38)年、当時の大学敷地内に設立された清和普通学校に始まります。その後、校舎は北大路(当時の住所は上京区小山上総町)に移され、商業学校や夜間部などを設立し、また上賀茂(神山(こうやま))に拡大移転され、校名変更も経て第一から第四までの立命館中学校と工業学校に拡大していきました。

旧学制では、小学校以後は男女別学のため、立命館の付属校も男子校として発展をしてきました。そのなかにあって、極めて少数ながらも女性教諭が中等教育を支える一員として勤務していました。
 (ア)サウター教諭(1909年~1931年まで在職)英語科で主に上級生の英会話担当。

        詳しくは、史資料センターHP<懐かしの立命館>「明治・大正における立命館中学の英語教育とそれを支えた外国人女性教員」参照。

 (イ)H.T教諭(1928年在職)英語科で主に1,2年生の発音・綴り方担当

    上記サウター教諭と共に当時の新聞には「中学校に婦人教員を採用する例は他に一二あるが、我京都府下では立命館中学が最初のものであると云ふ」と紹介されています(注1)。翌年の教職員名簿に氏名が記載されていないので在職期間は不明。

 (ウ)S夫人教諭(1929年在職)英語科で商業学校の英会話担当

    当時の立命館大学で教鞭をとった講師のS氏夫人とだけ紹介されていて、名前も在職期間も不明。(注2

 (エ)M.T教諭(1944年まで在職)中学校と商業学校の武道(杖術)担当。

    薙刀術の指導者として高等女学校や女子師範学校、大日本武徳会薙刀術教員養成所主任教授などを歴任。立命館では1928(昭和3)年に中学校嘱託として指導を始める。その後に他校へ移るが、戦争の長期化によって武術を教えられる男性教員が応召されて減少したため、1941(昭和16)年から再び女性教諭が男子生徒に杖術を指導するような状況になった。在職期間は不明。

 

 2)戦後初の女性教諭たち

   戦後における中等教育の大規模な再編で、義務教育の年限延長の基本方向のもと、旧制中学校は新制の中学校(1947年)と高等学校(1948年)に転換されます。これによって立命館でも北大路に中学校・高等学校と夜間高等学校、上賀茂に神山中学校・高等学校と5つの付属校が開校されることになりました。但し、神山中学校は当時の四カ村(旧愛宕(おたぎ)郡の岩倉村・鞍馬村・静市野村・八瀬村)との委託契約で生徒募集を行ったため、立命館と名はつくもの男女共学で地元の公立中学校的位置づけになっていました。その他の付属校は男子校のままでした。

   新学制になってから立命館は女性教諭を採用しています。新憲法の下での男女平等と、中学校の教育課程に音楽や家庭の教科が新らたに設けられたことなどが理由と考えられます。1947新制中学校の設立に併せた女性教諭の採用は以下のとおりでした。

(ア)S.K教諭(中学国語担当)

S.K教諭は1943(昭和18)年に女子高等専門学校を卒業し、1947(昭和22)年4月に立命館大学文学部二部(夜間)の国文科に戦後初の立命館大学女子学生として入学。その9月に立命館中学校に就職。S.K教諭を知ることのできる資料が立命館タイムス(注3)に2つ残されています。1つは短編小説(注4)で、もう一つの記事は「先生の言葉」というコーナーです(注5)。そこには戦後の新しい時代を生きる女性らしい視点で男子生徒たちを励ます気持ちが表されていました。

「まあ、男のくせに度胸がないのねえ。間違ってもいいから堂々と大きな声で答えるんですよ。

授業中の態度==多分それは学業への熱心さを表しているんじゃないでしょうか。

電車の中でつまらない流行歌を歌っている学生がいるわ。立命館の生徒じゃないかしら。」 

S.K教諭は1949(昭和24)年8月退職後、立命館第一中学校時代からの美術教諭で後に公立高校へ移られたK.Y教諭(日本画家として後に京都市文化功労者表彰を受ける)と結婚されています。在職時代にロマンスが生まれていたのかもしれません。

(イ)A.T教諭(中学理科担当

女子専門学校生物科を卒業後に就職。戦後まだ北大路学舎に在籍していた旧制中学校の生徒たちによって発行された「立命館タイムス」第1号にはA.T教諭が顔写真入りで「生理学より見た良心について」と題した投稿をされています。新しい時代のなかで新しい良心が育っていくという希望に満ちた熱い論調の内容です。翌1948(昭和23)4退職

(ウ)Y.F教諭(神山中学家庭担当)

戦前に結婚、戦後に教職へ復帰。就職の翌年に神山中学校となってからも教諭を続けましたが、1952(昭和27)年の神山中高の廃止・北大路併合によって北大路中高事務職員となり、その後は大学職員として定年退職。

 

 3)新風を吹き込む女性教諭たち

   占領下の軍政部の強い指導や勧告により、公立の新制中学校が劣悪な施設・教員という条件のもとに発足しました。京都市では194755日に新制中学校が一斉にスタートするも現場は何もかもが大混乱であったようです。そのため、翌年にはこれを敬遠して多くの男子の優秀な志願者が、立命館へ殺到してきたと考えられます。1948(昭和23)年の中学1年の新入生を迎えるにあたって、立命館中学校では執行部の意気込みが違っていました。この年度に入学の新1年生たちは、以後、中高合わせて6ヵ年の間、さぞかし注目されたことでしょう。
 新しい教育は女性の働く場にもなりました。当時の様子は、時岡喜代治元教諭の回顧録(注6)には「この年から公立校のように男女共学にこそ踏み切れなかったものの、男子校の立命館に女性教諭を一挙に5名も採用するという英断が下され、新1年生の学級担任や教科担任の決定にもそれなりの配慮がなされたようです。」。また、次のようなことも述べられています。

  「教員室の雰囲気も、期待を担った紅顔の新1年生と女子教員の出入りによってガラリと明るく変わり、前年度に較べて、私たち職場の空気も180度の転換を余儀なくされたように思います。よかれあしかれ、この年度からGHQ(連合国軍最高司令部)指令の新教育ムードが北大路学舎にも漲り出して、カリキュラムとか、ガイダンスと言った耳慣れぬ言葉がよく口に出されました。」

 

 (写真1) 新制高校の第1回卒業生となる1950(昭和25)年の高校卒業アルバム

2列目の右から友松教諭、E.N校医、Y.I教諭、E.K教諭、A.N教諭

3列目の右から2人目は後に中高校長となった上田勝彦教頭

 

   194841日付で採用された5人の女性教諭は次の方々でした。

  (ア)友松とし教諭(中学国語担当)

     女子専門学校を卒業後、教職につかれるも結婚などで一時離職後の就職で、生徒たちにとって母親のような存在。就職後に図書館司書の資格も取得、司書兼任で図書館利用の啓蒙に務められました。高校新聞局発行の立命館タイムスに投稿された記事からは、当時の学校の様子もよく知ることができるので、以下に主な見出しを紹介します。

「図書館あれこれ」第47195411月発行

「愛の泉はここにあり」第4819552月発行

「武谷三男編“死の灰”について」第4919553月発行

「青春の日によせて」第501955423日発行

「高校生の読書と図書館―調査にあらわれた実態―」第5119555月発行

「スライド設備 本校図書館に完成」第5719567月発行

「第二回優秀学校図書館に本校指定さる」第59195612月発行

「図書だより・竣工の喜びと新刊紹介」第74195912月発行


    こうして、友松教諭は中高の女性教員として最初の定年退職者となりました。

(写真2) 1955(昭和30)年中学校卒業アルバム 学級担任として  

 

(イ)E.K教諭(中学音楽担当

戦時中に臨時教員養成所を終了。京都市内の小学校を勤務の後に立命館へ就職。新制の高校教育課程で「芸能」(芸術とは呼ばれず)として設けられていたのが図画と書道で、音楽はまだ設定されず、ピアノはあるが使用できないような学校設備でした。E.K教諭は、生徒の大半が戦時中の軍歌や流行歌くらいしか歌えない状況にあった高校に音楽部を創設、その後は合唱部や軽音楽部を指導して音楽普及に務め、高校合唱部を部員40名もの大所帯に育てあげられました。立命館タイムスへの投稿「合唱礼賛」(注7)にはその熱い思いが語られています。1959(昭和34)8月に依願退職

(写真3) 1950年高校第1回卒業アルバム 音楽部

 

(ウ)A.N教諭(中学数学担当

女子専門学校を卒業と同時に就職。1951(昭和26)8退職

(写真4) 1951年中学卒業アルバム 中学所属の教職員、2列目の左から2人目がA.N教諭で、その隣がK.I教諭。1列目の右から3人目が友松教諭。3列目の右端が小川看護婦で左端がM.S看護婦。2列目の右端がK.N職員、3列目の右から2人目がR.N職員

 

(エ)K.I教諭(中学理科担当

   A.N先生と同じ学校(生物科)を同期で卒業、就職。1954年5月退職

(写真5) 1950年高校第1回卒業アルバム 生物部

 

   (オ)K.U教諭神山中学体育音楽担当

東京の女子体育専門学校中退して神山中学校助教諭で就職。1952年の神山北大路合併によって高校(北大路)専任講師に。その年6月に退職。神山中高当時から同じ職場にあったS・T教諭と結婚されています。立命館中高で誕生した職場結婚第一号でした。

当時の厳しい教育環境や教員の労働条件の様子は、上田勝彦元教諭(教員生活3年目の31歳で高校教頭を務め、その後に中高校長となる)の回顧録に詳しく述べられています。

「授業では外部からの騒音のひどいのに驚かされた。市電に面してコの字型に建てられた校舎に交通騒音がもろにぶつかって反響しあった。そのうえ校庭即運動場であったので体育での掛け声や歓声も教室に入り込み、普通の声では後ろに届かぬことがしばしばであった。(中略)

生活物資の不足と激しいインフレにはいささか閉口した。(中略)年二回ベースアップをしてもらったこともあったが焼け石に水で、遅配の場合は前借や昼食抜きの日が続いた。耐えられなくなって学校をやめる同僚もあった。(中略)新制の中学校、高等学校及び夜間高等学校が生まれ、これにともない五人の女性教員が中学校に迎えられて清新の気がみなぎった。また、教員の再教育が始まり、新憲法・教育基本法に基づく新教育が真剣に追求され始めた。こうした動きのなかで起こったのが学校民主化の動きであった。(中略)平均年齢が府下で最も高く50歳を超えるような教員集団のなかで徹底した議論を行い、民主教育を推進した。」(注8

また、上島有元教諭は「教員間の意識格差があります。一方は戦前からの禁衛隊を正史と考えている教員がいる。他方は戦後の平和と民主主義を実践しようとする僕ら若い世代の教員がいる。民主主義論をめぐる両者のズレが歴然とありましたね。」と座談会で語っています。(注9

 

戦前戦中とさまざまな人生を送りながら同期となった5人の女性教諭たちは、戦後の新しい教育と時代づくりに挑戦してきたのでしょう。しかし、現実的にはすべての面で教育の道を歩み続けていくには厳しい条件がそろい過ぎていました。その結果、それぞれの人生へと分かれていくことになったと考えられます。

 

 4)生徒の成長を支えた医務局(保健室)と看護婦 
  1943(昭和18)年末から翌年にかけて戦局の悪化に伴う看護婦不足が叫ばれるようになり、立命館のなかでも第二中学校の状況は厳しく、1944(昭和19)年4月では「看護婦一人も勤務シ居ラズ。医務室ヲ利用センコト無シ」とあり、6月には「時局の影響ニ依リ看護婦ノ雇入レ困難ナル為」(注10)という状態にまでなっていました。この時期に立命館に就職し、北大路学舎で長く生徒たちの健康管理に務められたのが看護婦(現在は看護師)の小川ステさんでした。

  小川さんは、長野県出身で京都府立医科大学附属病院看護科を卒業後、満州の炭鉱の病院に一年間勤務。退職後、19444月から看護婦として北大路で勤務。その後、広小路と衣笠に勤務し定年退職。一緒に写真に写るのはM.K(旧姓S)さんです。小川さんと同期で看護婦として就職。長く北大路保健センター(保健室)に勤められました。

 

小川さんは、座談会と学園広報のなかで貴重な体験と大切な思いを語っておられるので、その一部を紹介します。
 「戦争も終りに近い頃で、生徒は工場動員で出かけたり、残された生徒は軍事教練の多い頃でした。勤務は大学とかけもちで、動員先へ救護班を編成して出かけた事もありました。」

 「私は今の二条駅の前に下宿していたのですが、中学校の医務室は『救護所』になっていましたので、警報が鳴ると真夜中でも北大路まで歩いていきました。あの頃は責任感を植えつけてられていました。」

 「そして終戦。MPが学園へ乗り込んで来て、何か隠していないか、麻薬はないということも調べて、校庭に武具類をみんな集め、ガソリンをかけて燃やしました。進駐軍が来て万一のことがあったら自殺するためにというので、青酸カリを持たされていました。『お国のため』と覚悟していましたので、それを何とも思わなかったですね。それでも炎を眺めながら、これから世の中どうなるのだろうか、学校は継続するかしらと不安に思っていました。」(注11

  北大路在職当時、クラブ活動でやんちゃだった卒業生たちは、小川さんを姉のように慕っていて、高校時代のよき思い出として忘れることのできない方だと話しています。

「中高生徒と共に遊び、学び、大学生たちからも多くのことを学んだことを振り返って、人の創る歴史の流れを重く尊く思います。(注12

  その小川さんが、北大路勤務の後半には卒業アルバムに「小川寿テ」と寄せ書きに記名されています。戦中戦後を生徒と共に歩んでこられた小川さんの感謝の気持ちだったのかもしれません。

(写真6) 1950年高校第1回卒業アルバム 医務局

左から小川さん、M.Sさん、E.N校医

(写真7) 1955(昭和30)年創立50周年記念の全教職員集合写真

女性の教諭で写るのは友松教諭とE.K教諭の二人で、他の女性は職員たち

 

    戦後の女性専任教諭は、友松教諭が退職されて以降はなく、次に専任採用されるのは20年後の1985(昭和60)年で3名(英語科・数学科・技術家庭科)でした。1988(昭和63)年の男女共学と学校移転を経てまもなく30年が過ぎようとしています。今では多くの女性教諭と女子生徒たちの姿が当たり前の光景となった立命館中学校・高等学校の教育には、こうした女性教職員たちが厳しい環境のなかで基礎を築いてきた歴史も忘れてはならないのでしょう。

201712月20日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

 

(注1)「日出新聞」192842日付 (立命館百年史 通史1 p.556

(注2)立命館学誌 第124号(1929515日)で紹介

(注3)「立命館タイムス」は1947(昭和22)年11月から1976(昭和51)年まで発行された生徒の自主発行の学校新聞。戦後の混乱期のなか、当時の高校生が何を考え、悩み、怒りをもってきたか。その苦闘の跡を如実に伝えており、戦後の立命館高校の歩みを知るうえで欠かせない資料。

(注4)「崩れた城壁」立命館タイムス 第2号(19471213日)

(注5)立命館タイムス 第3号(1948131日)

(注5)創刊第1号は19471127日発行。

(注6)時岡喜代冶「北大路学舎の思い出」立命館学園広報第127 1982120日発行

(注7)立命館タイムス 第6号(1948513日)

(注8)立命館中学校高等学校元校長上田勝彦著「昭和を歩む野の小径」p125

(注9)立命館百年史紀要第8号 立命館中学校・高等学校史研究会

     座談会「初期の立命館中等教育について」p86

(注10)「1944年 督学報告綴」(史資料センター所蔵)

(注11)立命館百年史紀要第11号 座談会「女性職員に聞く敗戦前後の立命館」P120137

(注12)小川ステ「定年退職にさいして」立命館学園広報第32号(1981321日号)

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