ようやく判明した9名
戦後初めて立命館における「学徒出陣の実態調査」(注1)をおこなったのは、1994(平成6)年のことでした。翌年が学徒出陣50周年の節目にあたっていましたので、本格的に調査をするには良いきっかけとなりました。その内容は常任理事会に中間報告され、概要は『立命館百年史紀要 第2号』(1994年3月)に掲載されました。しかし、その後追加調査はおこなわれず今日に至っています。すでに戦後72年が過ぎた今日、各学部に残されている勤労動員に関する諸資料は散逸し、その体験者も少なくなり調査を困難にしています。
今回、先の学徒出陣実態調査(1994年)をすすめている中で、勤労動員中に動員先で犠牲になった9名の方々が明らかになりました。それは、必ずしも空襲による犠牲者だけではありませんでした。勤労先の不衛生な住居環境やひどい食事によるであろう病死、また劣悪な労働環境、労働条件の悪さによる過労死などによって亡くなった人もおられました。
学徒勤労動員は、1938(昭和13)年4月「国家総動員法」の公布とそれに続く、文部省通達「集団勤労作業実施に関する件が端緒(注2)といわれますが、同調査で明らかになった点は、通年勤労動員が始まった1944(昭和19)年(注3)以降、終戦までの間に犠牲となった人たちでした。本稿は、これまでに判明した史資料センター所蔵の資料と証言を元に再構成したものです。
ひき続き、学徒勤労動員の「端緒」といわれる『国家総動員法』公布(1938年)から終戦(1945年)までの本格的調査、研究が前進することを願っています。
1.豊川海軍工廠空襲による犠牲者
豊川海軍工廠は、主に航空機や艦船に搭載する機銃やその弾薬包、信管を生産していました。さらに1941(昭和16)年12月には新たに設置された光学部では、双眼鏡や測定儀、磁気羅針儀などの航海兵器を製造していました。学生たちは主に光学部での勤労でした。
そのなかの学生の一人は「わたしは豊川海軍工廠ではフライス盤で長さ1m、直径10cm余の鉄管の中央部に7cm×10cm位の平面に削る作業でした。その作業は人間魚雷の潜望鏡のレンズにあたる部分を造っていた。」と語っています。(注4)
〔豊川海軍工廠の学生たちの寮にて〕
1945(昭和20)年8月7日、豊川海軍工廠は空襲を受けます。
10時13分~10時39分(26分間) 出撃米軍機131機、投下爆弾816.8トン
(注:詳しくは、HP「懐かしの立命館 OBが語った学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲」参照)
この空襲で4名の本学学生が犠牲になります。
「その爆撃が終わってみたら、立命館の一緒にいた連中が4人おらんということがわかり、早速探しました。私は、相原和男君が私の隣の部屋で寝泊りしていたもんですから、どうしても見つけたらなあかんと思って、工場の東から西まで3日、4日かけてずっと遺体を探し回りました。空襲が10時か11時ごろでしたから、何も食べずに広い海軍工廠の工場に転がっている遺体をずっと見て回りました。随分沢山の遺体の顔を見ましたが、『違う』『ここにはない』といって必死で探し回りました。結局4人はわからずじまいで、とうとう見つけ出すことができませんでした。本当に遺族の方々にお詫びしたい気持ちです。」(同級生T氏)
空襲の犠牲者となった学徒は次の方々(敬称略)です。
石川巌 津野森正 本田義次 相原和男
(愛知県豊川市に建立された慰霊碑)
最後の母への言葉
なつかしい郷里のお母さん
遠い豊川の地より
お元気で昭和20年1月1日の元旦を、お迎え下さる様お祈りします。
何時も思うことはお母さんのことであります。
僕の健康を祈って下さるお母さんお元気で
遠い豊川の生産戦線より 義次 (本田義次の「日記」より)
2.東洋高圧工業(株)における犠牲
1944(昭和19)年、立命館専門学部工学科化学工業科の学生達は、九州の3企業の工場に分かれて動員されました。その3つ工場は、東洋高圧工業株式会社大牟田工業所(福岡県大牟田市)34名、三菱化成工業株式会社牧山工場17名(福岡県八幡市枝光)、日産液体燃料株式会社若松工場17名(福岡県若松市二鳥)です。
(勤労動員(昭和19年)を前に化学工業科の仲間たちと)
この動員された3工場の1つ東洋高圧工業㈱大牟田工業所では2名の学生が犠牲になったと思われます。
一人は辻勇(敬称略)です。辻たちは1944(昭和19)年6月から1945(昭和20)年6月下旬まで勤務します。辻は1945(昭和20)年5月に過労が原因で死亡したと思われますが、学籍簿には「1945(昭和20)年5月27日大牟田ニテ動員中死亡、除籍」と事実のみが記載されています。しかし、その死を同級生は次のように語っています。
約1年間硫安硫酸の製造に従事。辻勇君を病気で失う。食料不足と闘いながら奮闘した。
(A 昭和20年専1電)
東洋高圧工業にて1名(辻勇)が過労死。製造機械が老朽のため生産量が低下。
(S 昭和20年專1化工)
動員先の労働は、昼11時間、夜間13時間の連続無休作業(注5)という過酷なものでした。また、食事は満州大豆を多く混ぜただけのお粗末な食事でした。(注6)おそらくは東洋高圧工業㈱大牟田工業所も同じように厳しい環境であったと考えられます。そんな劣悪な環境の中で辻は亡くなったと考えられます。
もう一人はH(敬称略)です。
「Hは爆撃で死んだと聞いた」(注7)と回想されていますが、Hは立命館の学生ではなかった、とも言われています。なぜなら、立命館の学生たちは東洋高圧工業㈱大牟田工業所を1945(昭和20)年6月下旬に引き上げたので、1945(昭和20)年8月7日の大牟田空襲には遭遇していません。したがってHは立命館の学生ではないのではないか、との見方(注8)です。
しかし、その後発見された『督学報告工学科動員実施調書』(1944<昭和19>年6月)には、小さく尚書として「派遣期間ハ成績良好ナル場合ハ1ケ年間ニ延長する予定」と記載されています。Hは成績良好者として1945(昭和20年)6月以降も残留し、大牟田空襲の被害を被った可能性もあります。現在も調査中ですが、事実を明らかにすることがHに対する鎮魂になると考えています。
厳しい勤労動員でしたが、動員先ではこんなほのぼのとした逸話も残っています。昭和19年6月、立命館専門学部工学科化学工業科の学生T・O(昭和20年工業化学科卒)は、日産液体燃料㈱若松工場(現・北九州市若松区)に勤労動員で勤務していました。その時の思い出がある雑誌に掲載されています。
「北九州もB-29爆撃機が飛来し、毎日が灰色だった。ある夏の宿舎の灯火管制の下、T・Oさんが弾くマンドリンの東京娘(注9)はわたしの胸にやさしく明かり点してくれた。この若き日の懐かしい思い出の色を今も忘れることができない。」(『ジパング倶楽部』2016年6月号)
3.名古屋造船所における犠牲者
名古屋造船㈱は1941(昭和16)年に設立され、1964(昭和39)に石川島播磨重工業㈱と合併し、同社名古屋造船所となります。その後、1972(昭和47)年に同社名古屋工場となります。現在はIHI愛知工場となっています。
1944(昭和19)年に名古屋造船㈱での勤労動員中にT(敬称略)は死亡します。同級生だったK・T、M・Tは同社の劣悪な労働環境をこう語ります。
「寄宿舎に入って夜の食事に食堂に行きました。豆粕(まめかす)のたくさん入ったご飯が丼鉢につけてあるが、蝿がいっぱいたかっていてとても食べる気がしないが、それでも上の方をすてて中の方を少したべましたが、とてものどを通らなかった。寄宿舎の部屋は蚊がぶんぶん飛び手足、顔までさされて一晩中蚊との闘いだった。寝不足と空腹、暑さに困惑した。」(K・T 昭和20年專1法)
「宿舎は埋立地の用水を飲料水としていたため、入寮すると全員下痢をしたが、診療もしてもらえなかった。全員で会社に待遇改善をもとめますが一向に改善されず、友人のTさんは亡くなった。Tさんが亡くなった日に初めて医師がやってきた。会社側と待遇改善を話し合いますが、一向に改善される様子もないので、全員学校に引き上げました。」(M・T 昭和20年專1法)
それまで会社に労働環境の改善を交渉していた学生達は、一向に改善しない会社に対して憤慨していました。その交渉途中にTは病気で死亡しました。この事をきっかけに学生達は「一同ハ此ノ会社ヲ引キ上ゲ」ました。学校に引き上げた後、リーダーは退学処分を受けました。また、学生たちの行動に理解を示していた立命館出身の先輩社員も社内の非難を受け、辞表を提出せざるを得ませんでした。学校に引き上げてきた彼らは、すぐに別の会社である愛知時計電機(株)に動員されました。動員先の愛知時計電機㈱では、会社の幹部や工員達がみな名古屋造船㈱での一件を知っており、彼らを白眼視したといいます。さらに、憲兵や特別高等警察(特高)も危険思想を持つ集団としてその動静を監視していました。その時の様子を『督学報告』では「立命館学徒ノ状況」として次のように報告しています。
「会社ノ幹部ヨリ工員ニ至ルマデ、名古屋造船ニ於ケル経緯ヲ知悉(ちしつ)シテ事毎ニ白眼視スルト云ウ」、その事実に対して大学側は、「不憫(ふびん)ニシテ涙ヲ催ス程ナリ」と学生に同情し、学生たちのとった行為を「名古屋造船ノ不誠意トソレニ依ル学友ノ死ニ同情シテ一時ニ感情ノ激発セルモノニシテ決シテ悪質ノモノニ非ズ」と断じています。(注10)
戦争末期の情勢を考えると学校側の学生たちに対する精一杯の弁護だったのかもしれません。名古屋造船㈱のひどい労働環境のために亡くなったTも犠牲者であると考えます。
4.㈱播磨造船所における犠牲者
兵庫県相生の村長唐端清太郎を中心に相生の繁栄を図って出資者が募られ、1907(明治40)年に播磨船渠(株)が設立されます。第一次大戦後1916(大正5)年に鈴木商店が買収し㈱播磨造船所となり、1918(大正7)年 帝国汽船(株)に合併し、更に1921(大正10)年には(株)神戸製鋼所と合併し播磨造船工場となります。1929(昭和4)年には同社から独立して(株)播磨造船所となり、戦後1960(昭和35)年12月に石川島重工業と合併します。
『㈱播磨造船所50年史』には、勤労動員された生徒たちの様子を次のように述べています。
「学徒動員(学徒勤労動員)は国家動員計画の最後のもので決死の段階に入った1944(昭和19)年より各学校の学生生徒が入社した。制服姿の青年学徒が船台(せんだい)上でハンマーやスパナを使い、炎天下あるいは寒風のもとで働く姿はりりしく、また悲壮なものであった。」(『㈱播磨造船所50年史』)
立命館第二中学校(京都市の上賀茂に設立され、戦後は立命館神山中学校・高等学校となる)の勤労動員数は278名で、その内訳は3年生138名、2年生140名、合計278名となっています。生徒達の大部分は播磨造船所興亜寮(のちに工和寮)(注11)に入寮し終戦まで勤労動員を続けます。当時、播磨造船所に勤労動員されたK・K(昭和21年二中)は、次のように回想しています。
「この寮は埋め立地で木造二階建て、満潮時は海水がすぐ近くまで押し寄せてくる劣悪な環境で衛生設備も悪く、また給食はとうもろこし入りの丼鉢一杯と一汁一菜とひもじい思いをした。昭和19年夏、赤痢が発生し二人の生徒が死亡した。また、同年10月鋳造(ちゅうぞう)工場で溶解炉のクレーンが転覆し数名の生徒が大やけどを負ったこともあった。昭和20年になると再三の空襲があって、終戦まで惨々な日々であった。」(立命館中学校・高等学校の同窓会報である「清和会報No11」1991年発行)
この死亡した学徒二名は勤労動員下での犠牲者といえます。調査では、このお二人はK・OとS・Tと考えられますが調査中です。
以上、勤労動員先で犠牲になったといわれていた9名の方々の調査をすすめてきました。まだまだ真実にとどかない部分もあり、引き続き調査が必要であると思っています。
今回の調査報告によって少しでも犠牲者への鎮魂歌となれば幸いです。
注釈
(注1)本学がおこなった「学徒出陣」調査では、全て在学中に兵役に就いたことを「学徒出陣」としており、1936(昭和11)年から1945(昭和20)年までの期間を調査範囲としています。一般的には1943(昭和18)年10月2日に「在学徴集延期臨時特例(勅令第755号)が公布された以降に徴集された学徒を「学徒出陣」と考えることがほとんどです。
(注2)学徒勤労動員は「1938(昭和13)年4月に『国家総動員法』が公布され、同年6月に文部省は全国の学校に対して『集団勤労作業実施に関する件』を通達し、後の学徒勤労動員の端緒を開いている。」(『立命館百年史 通史一』)としています。
(注3)1944(昭和19)年3月7日「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、4月17日に文部省訓令第11号「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒勤労動員ニ関スル件」がだされます。この訓令は「今や中等学校程度以上ノ学徒ハ挙テ常時勤労ソノ他ノ非常任務ニ服スヘキ」として、学徒勤労動員の通年化を各学校に命令しました。
(注4)立命館大学昭和22年専経同窓会「学徒勤労動員と豊川海軍工廠の空襲を語る」から引用
(注5)立命館は1944(昭和19)年6月に「立命館督学制度」を新設しました。この督学制度とは「決戦下ノ学園全般ノ教授、訓育、修練、勤労作業及ビ保健等ノ振興ニ付之ヲ査察、督励シ、(中略)戦時国家ノ緊喫要請ニ綜合統一セシムル」ことを目的として作られました。これにより勤労動員先の実態は毎月報告され、戦時下の限界はあるものの学生、生徒の労働実態、環境衛生などが一部分はわかりました。その『督学報告書』は発見され、重要な資料として史資料センターに保存されています。
(注6)『学徒出陣の実態報告書』の勤労動員体験者アンケートより
(注7)『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』(福岡県立伝習館動員学徒の記録)笠間万太編集 1977年より
(注8)大牟田市では、1944(昭和19)年7月8日未明の米軍B29が初めて来襲し写真撮影偵察して以来、米軍による空襲は、11月21日に三池・通町空襲、1945(昭和20)年 6月18日未明、7月27日未明、7月30日、8月7日、8月8日、8月8日夕刻と連続的に空襲を受けました。東洋高圧工業㈱大牟田工業所に勤労動員されていた学生達は、1945(昭和20)年6月18日の空襲に遭遇しますが、幸い学生達に被害はありませんでした。しかし、大学側は学生達の安全を考慮して6月下旬に京都に引き上げました。したがって『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』のいう8月7日の大牟田空襲に立命館の学生は遭遇していない、という見方があります。
(注9) 「東京娘」 当時流行した歌謡曲
(注10)昭和19年8月に督学報告マル秘『中京方面出動学徒勤労状況視察報告』(立命館)に「愛知時計電株式会社」視察報告書があります。その報告書の中で、いかに名古屋造船㈱の医療設備がひどく死亡したTさんが充分な治療受けることが出来なかったかを、同じように病気になったT・Sさんの例をあげて報告しています。
「本校T・Sハ大腸カタルニテ入院シ居レリト聞キ病床ニ之ヲ見舞ヒタルニ、充分手厚キ看護受ケツツアリ、・・・T・S君の父母交々、『名古屋造船ニテ立命館学徒1名死亡セシ時ノ実情ト比較シテ、之ナラバ安心シテ我ガ兒(子)ヲ託シ得ル、名古屋造船ハ誠ニ冷淡ニシテ何等ノ設備モ無ク、御話ニナラヌ会社デアル』ト申シ居タリ」
又,生徒たちが名古屋造船でおかれていたひどい状態と会社の体質についても報告され、抗議をして学校に引き上げた学生たちの行動を擁護しています。
「重役ハ・・・・学徒ノ心理ヲ知ラズ設備モ不完全ニシテ、名古屋地方ノ人々ハ名古屋ノ三大地獄ノ随一ナリト称シ、何人此ノ会社ニ働クヲ欲セズ」のような会社である。このような会社であるため医療設備が不備なため「立命館学徒1名ノ死亡者ヲ出シタリ、之ニ憤慨シテ一同ハ此ノ会社ヲ引キ上ゲタ者ナリ」
(注11)興亜寮(のちに工和寮)の入寮者は主に勤労学徒、一部一般工員でした。所在地は工場より少し離れた相生市千尋にあり、木造、瓦葺、2階建で、約4622坪の土地に19棟建設されていた。各地から動員された学徒が入寮していたと考えられます。参考
『立命館百年史通史Ⅰ』
『督学報告』 昭和19年度 百年史編纂室編纂
『百年史百年史紀要2号・別冊』 百年史編纂室
『播磨造船所50年史』播磨造船所50年史編纂室
「清和会報」11号(1991)立命館清和会
『むつごろうの歩み 殉難学徒の霊に捧ぐ』(福岡県立伝習館動員学徒の記録)笠間万太編集
『大牟田空襲の記録』大牟田の空襲を記録する会
『学制100年史』文部省
『学制120年史』文部省
『学徒』総員・学徒出陣』本間敏矩著