立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>立命館と中等学校野球(戦前・後編)

  • 2018年10月16日更新
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 中川小十郎校長と野球禁止

 

1.立命館中学の大正黄金期以降の中等野球

 1927(昭和2)年8月、小西学監が退任した後は学監という職はなくなり、主事が校長と改称されます。翌年4月には館長に就任した中川小十郎が校長を一年間だけ兼務しています。

その後の野球部の活動は、「立命館学誌」や「立命館禁衛隊」に紹介されています。監督には、かつて全国大会で主将としてプレーした卒業生の米田虎雄(大正12年旧中卒。京都薬学専門学校進学)が就任し、全国大会出場を目指して練習に励みました。その指導ではルールを守り、礼儀やマナーを厳しくされたようで、「立命館学誌」には次のような紹介が残されています。

 「規律の正しさと紳士的プレーは遂に朝日スポーツ記者をして、大会の亀鑑との賛辞を呈せしめ、運動競技を通じての人格陶冶の好模範とまで称せられた。特記すべきは我がナインが大会中、終始挙手の礼で通したことと、胸間に国字(ママ)(注16)のマークを印して群る各校選手中に異彩を放ったことである。本年の我が選手は何れも下級、殊に2年級を中心として作られた大会中、稀に見る愛くるしいチームである。」(注17)。

当時の野球ブームが全国的に過熱化していたにもかかわらず、選手登録13名中2年生

6名、3年生3名、4年生4名という編成は、中学校が5年制の当時にあっては、戦力的に厳しいものでした。

 

 中川校長の後任は、卒業生で教員となっていた塩崎達人でした(注18)。母校愛に燃える塩崎校長は「野球部を語る」と題した文章のなかで、当時の学校教育における野球部の課題と立命館精神とはどのようなものかを語っています。塩崎校長の次に再び中川校長が登場するまでの立命館中学校の教育の特徴をよく知ることができます。(以下は抜粋)

 

一、野球部の根本精神

 野球を介して立命館主義の訓練を行う。

二、選手の人選方法

    修学の都合上、主として下級生の中から学業成績「中」以上の者で、心身よく長期の鍛錬に耐えられる初心者を選ぶ。

三、訓練について

練習は雨でも毎日2時間実施。指導者には敬礼し挙手の礼をすべし。球場に於ける動作は全て学校教練に準ずべし。練習は中学生としての基本のもので、高等学校のようにハイカラなことは行わない。

四、服装について

野球衣(ユニフォーム)は質素なる無地白色で、胸章は立命館の三文字を用いる。現在のものは、カツラギ地の上下に白色の帽子、木綿の白色靴下で、その質素なこと天下無比と信じている。着るもので拙攻が定まるものではない。
 胸章は、以前はローマ字綴りでリツメイとしていた。米田監督が全国大会に出場した時もこれであった(注19)。その後、数ヶ年は帽章をそのまま胸章に使用してきたが、今回いよいよ立命館の文字を用いることにした。この胸章によって国粋チームの名を頂戴すれば、逆に、反動?や猟奇?などと批評もされた。われわれの心持はそのようなものではない。この文字は、2年前に学校の守り本尊として中川館長によって講堂正面に掲げられた扁額の文字で、立命館のすべての歴史はこの扁額のもとに展開されていく。人気取りのための策などではなく、立命ツ児の心持は立命ツ児のみぞ知るである。

これは野球部に限られた問題ではない。諸君ともどもに各方面に於いて立命館らしい立命館をつくりあげる工面をしようではないか。  以上が抜粋(注20) 

 

(写真4 1928年 中学校の講堂正面に掲げられた扁額)

 

 この時の立命館中学校について、当時の新聞が次のように述べています。

「出場34チームの中、異彩を放っているのが立命館チーム。ユニホームは漢字で右書き斜めに立命館と印し、挨拶は必ず軍隊式の挙手の敬礼。中澤委員長の訓示に対し挙手の答礼をなし、満場拍手して厳粛さに讃辞を呈す。」(注21)。

立命館中学校の野球部が、スポーツとしての技能向上よりも、心身練磨のための場と変化していたことがわかります。

 

 当時の野球人気は、日本全国、小学校から中等学校、大学まで過熱気味に広がり、文部省が規制の方向へと動いています。というのも、新聞社などがこの人気熱を利用して興業的に利用して大会を無秩序に増加していたのでした。文部省はこれらを制限して、府県の体育団体に管理されるようにしました(注22)。この点では、全国的野球ブームが過熱化していくなかにあって、立命館中学野球部の活動は異色の存在であったといえます。

 

(写真5 1930年 人々を驚かせた斬新なチーム名)

京阪電鉄京津線沿いを歩いて緑ケ丘球場(滋賀県大津市藤木)へ向かう生徒たち

 

 

(写真6 1931年 上段の中学校陸上部の胸には襷がけに書かれた校名

写真下段は商業学校陸上部。両方の中央に写るのは塩崎校長)

 

立命館中学校は、第11回大会以降の予選京津大会で上位に残れず、次にベスト8以内に名が出てくるのは、1932(昭和7)年の第18回大会での立命館商業学校(注23)で、これが戦前での最後となりました。その翌年の卒業アルバムでは校名のデザインが再び変更されていました。

 

(写真7 1933年 再び変更された胸の校名 中学校卒業アルバム)

 

ここまでに登場したユニフォームの胸の校名を見ると、30年ほどの間にローマ字表記の「KRHS」から漢字表記「立命館」へと移り変わっていました。その変遷のなかにも立命館中学校の目指していた教育の姿が見えてきます。

 

2.中川小十郎校長と野球(西洋スポーツ)

 ここまでの立命館中学校野球部の活躍は、創立者中川小十郎が館長として専念する1925(大正14)年8月以前のことでした。1931(昭和6)年になって中川が初代総長に就任し、学園の運営に本格的にのりだしました。そして、1933(昭和8)年8月から1941(昭和16)年3月までの間、中川は総長と中学校・商業学校長を兼務し、中等教育の経営とその発展に積極的に取り組んでいくことになります。

 

(写真8 校長兼務の中川小十郎総長)

この中川校長在職中に、立命館中学校では運動競技に対する方針が大きく変更されていきました。1933(昭和8)年1017日、就任早々の中川校長は、京都府男子中等学校陸上競技大会(植物園グラウンド)に3年生以下を全員参加、また同じ日に開催された全立命館学園大運動会(立命館上賀茂グラウンド)に4年生以上を全員参加させ、翌日にはその生徒たち約1,200余名全員(不参加者も含め)に演習的作文を書かせ、優秀作品には賞を与え、全員の作文を印刷して12月には全生徒の父母に配布するというような指導を行っています。

対抗戦や体育的行事に全生徒で取り組み、生徒たち一人ひとりの意識を高揚させ、教員全員で理解していこうというものでした。ここには、中川校長の運動・体育への積極的な受け入れ姿勢を見ることができます。


(写真9 中学校商業学校生徒全員に書かせた1933年の作文集)

   

ここでは、生徒に運動・スポーツを積極的に取り組ませようとする考えもあったかと思えますが、その後に中川校長は全く反対の方向へと進んでいったのでした。

 

1935(昭和10)年の9月からその変化がはっきりと示されていきます。

まず、「勉強の第二学期が来た」との題名で書かれた校長公示の中で、

「運動競技の場合などは最後の五分間を非常に重んずるが、人生の成効(ママ)はそんな軽々しいことで獲られるものではない。これも、私が競技運動に感心しない事由の一つである。(中略)最後の五分間主義は点取り主義だ。試験にさえ合格すればそれでよいとする主義だ。しして、この主義が進展する場合にはそれがカンニング主義となるのだ。」(注24

日々の努力をコツコツと積み上げる努力をするのが立命館の生徒であるとして、試験におけるカンニング行為は退学処分にするとしています。その年の9月には、毎朝授業開始前に冷水で上半身を清める「禊」行い、生徒たちの心身を清める行事として励行させています。

 また、1935(昭和10)年第2学期始業式で中川校長は

「本校では生徒の勉強の妨げとなる様な事は一切やらぬ積りである。即ち、運動会廃止は勿論、市内中等学校の連合競技会等にも参加を御断りするのである。(中略)

  立命館は天下の立命館である。区区たる京都一地方を目標としているのではない。従って市内各学校の連合競技会だの対抗仕合(ママ)などに依って、勝ったの負けたのと騒ぎ立てる様な根性ではだめだ。諸君の本校に学ぶ目的は、天皇陛下の為め、国家の為め、世の為め、人の為めに大いに仕事の出来る人間となる事である。諸君はその積りでしっかり勉強せねばならぬ。」(注25)

と改めて運動スポーツに対する考えを生徒たちに述べています。

  このような考えによって、立命館は翌10月に植物園グラウンドで開催された京都府男子中等学校陸上競技大会への出場を辞退しています。2年前には3年生までの全員に応援させた大会への不参加は、世間からも驚きの目で見られたようで、1936(昭和11)年3月に市内小学校長を招待した場で改めて、中川校長は学校としての方針を説明しています。

「私の考では学校が学校として行ふべき事は極めて多く、貴重なる時間と充分でない費用とを投じて迄スポーツを行ふ程スポーツそのものに価値がないと思ふのである。特にスポーツを選手制度の下に行ふことは極めて面白くない。学校はあくまで学業を主としスポーツとしては日本固有の武道によって身心を練る方が肝要である。」(注26

 

更に4月の中学校商業学校入学式でも父兄への挨拶のなかで

「この学校では、運動といふものを全然認めないのである。野球も、庭球も、陸上運動も一切やらない。何人かのものは運動を楽しみ、後の大多数のものが、応援団などといって騒ぎまはるのはくだらぬことではないか。この学校では運動はやらないが、武道をやる、武道は精神の鍛錬にもなるからである。武道の内剣道をやる。柔道はやらない。柔道は、武士道鍛錬の正規の課業になっていないからだ。」と述べ、明確に立命館の付属校では選手中心の西洋スポーツを断固実施しないことを表明しています(注27)。

 

 1936(昭和11)年4月、野球、庭球、籠球(バスケットボール)、排球(バレーボール)、陸上に柔道を加えた6つの運動競技が立命館中学校・商業学校の生徒スポーツから削除されました。当時の新聞には、「全スポーツを排撃する 日本唯一の愛国中学」の見出しで立命館中学校商業学校を大きく紹介しています(注28)。

これらの学校の決定に対して、生徒たちの反応はどうだったのでしょうか。これも同じ日の新聞記事の中で

 「当時、野球部員は学校横暴を(ママ)らして同盟休校などの措置に出ようとしたこともあったようだが、新時代の潮流の前には施す術もなく、今ではこれら選手が中堅に転じ皇室中心の奔流となっている。」

と、生徒たちの反応も協力的であったと伝えられています。こうして、野球のダイヤモンドは取り払われて教練場となり、庭球、籠球、排球等のコートは銃剣道、槍術の道場となり、ボールやネットがすべて銃、背嚢はいのう、飯盒に変わってしまったのでした。

 

(写真10 教練場や道場となった北大路学舎の校庭を整備する生徒と中川校長)

 中川校長の教育方針によって、中学校や商業学校の体育や運動は大きく変わってしまいましたが、立命館大学では違っていました。野球だけを見ると、1943(昭和18)年4に文部省が発表した「戦時学徒体育訓練実施要綱」によって東京と関西の大学野球連盟は解散となり、野球はできなくなりました。429日に京都の西京極球場で開催された「立同戦」が最後の大学野球となったのでした(注29)。
 中川校長の方針により、戦争による中断よりも早く1936(昭和11)年をもって中学校・商業学校に野球を禁止していますが、同じ立命館学園にあって、大学は1943(昭和18)年の政府の方針発表まで続けることができたのです。この差異はどこにあるのでしょうか。創立者中川小十郎が小西重直と共に目指そうとした立命館での中等教育が、大正から昭和にかけて大きく変化したことは、今回の野球部の歴史を辿るなかでも明らかになりました。中川総長が校長を兼務しながら目指した中等教育における生徒像の分析は、今後の中川小十郎研究にとっても大きな課題となっていくと考えられます。

 

(写真11 1939年の中学校卒業アルバム)

 現在、立命館中学校・高等学校(長岡京市)に残されている1939(昭和14)年の中学校卒業アルバムの中に1枚だけ不思議な写真が掲載されています。ユニフォームの胸には二つのチーム名。帽子には異なるけれどもRのマーク。立命館中学校の制服制帽姿のままの生徒もいます。背景の山々からグラウンドは植物園のようです。中川校長によって野球禁止が決定された後の学年の卒業アルバムで、学校の点検も受けているはずなのに、なぜこの生徒たちの写真が含まれているのか。禁止後もなお野球に取り組んでいた生徒たちがいたことは確かです。軍事教練の写真が多くを占めるような卒業アルバムの中に、このような写真が1枚含まれていることに救われます。


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