中等学校での野球復活と新学制での全国大会出場
1.戦後復興の中等学校野球
1945(昭和20)8月の終戦直後の国内の混乱は甚だしかったですが、軍国主義につながるとして武道が排斥されたことや、GHQ特にアメリカ駐留軍の影響もあって野球が流行しました。教材も十分揃わなかった六三制の義務教育では、体力のついてきた中学生に対して野球がもっとも取り組みやすい体育スポーツとなったことなどに助けられ、学校野球は指導者や関係者の努力によって復活への努力がなされます。当時に流行となった川柳「六三制 野球ばかりがうまくなり」が広まったように、野球ブームは中学生を中心に一気に巻き上がり、終戦一年後には早くも全国中等野球大会が復活されたのでした。なかでも、大きな戦災を蒙らなかった京都にあっては野球部の再建される学校が多く、立命館でも野球をやりたいという生徒たちが集まってきていました。
卒業生で野球経験者あった蜂谷留吉(昭和12年商業学校卒)が教員として母校に戻ったのは1945(昭和20)年10月のことで、すぐに立命館第一中学校に硬式野球部を復活させました。蜂谷は在学中に野球部に所属していて、最終学年の時に中川校長の野球禁止令によって野球を中断しなければならなかった生徒の一人でした。
1946(昭和21)年の復活予選京津大会には、立命館第一中学校と商業学校、それに上賀茂の立命館第二中学校(注30)の三つの付属校が参加した記録が残されています。
中川校長が亡くなったのが1944(昭和19)年10月で、その一年後には敗戦を経て民主化への改革が大きく進められていきました。しかし、学校環境が急激に変化することはなく、立命館の北大路学舎の狭隘な運動場は戦前のままでした(写真12)。それでも、生徒たちは荒廃した社会に向かい合いながらも、野球のできる環境に感謝して、蜂谷監督の下で日々練習に励んだのでした。
2.戦後の中学校・高等学校の活躍と全国大会出場
1948(昭和23)年、新学制によって誕生した立命館中学校・高等学校は、京都の中高野球界のリーダーとなりました。「立命館中学校(軟式野球)は京都府代表として甲子園球場で開催された連合国軍師団長杯争奪近畿大会に出場しました。単なる対校試合のような大会で、残念ながら一回戦で敗退」しています(注31)。GHQは、戦後の民主化改革にあって、青少年のスポーツをアメリカの野球主導で進めようと考えていたのでした。とはいえ、中学校が最初に甲子園の土を踏んだのでした。
この年に、高等学校硬式野球部は新制高校の第1回近畿高等学校野球大会(大阪・藤井寺球場)に府代表として出場し、決勝で延長19回を戦い抜いて優勝を遂げました。1954(昭和29)年の春には、戦前からの夢であった甲子園に立つことができました。蜂谷監督は、中学校と高校の両方で甲子園の土を踏んだのでした。
少し遅れて、高等学校軟式野球部も1970(昭和45)年と1987(昭和62)年の2回を北近畿代表として全国大会への出場を果たしました。また、中学校野球部(軟式野球)も2001(平成13)年と2011(平成23)年と2回の全国中学校野球大会に出場し、立命館中学校・高等学校野球部による全国大会出場が実現したのでした。
(写真12 戦前から変らない狭い校庭に作られたバックネット 1955年卒業アルバム)
(写真13 1948年の近畿大会優勝時の3年生 卒業アルバム)
前列中央が蜂谷監督 この時の校名は「RITUMEI」
(写真14 1955年選抜大会 甲子園球場)
(写真15 1955年の選抜大会 胸のローマ字校名は「RITSUMEI」
野球部の校名はローマ字で中高統一されている。
(写真16 1970年 高等学校軟式野球全国大会 大阪藤井寺球場)
2018年10月16日立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1 夏は1955年。選抜は1954年、1958年、1983年。春夏併せて4回の出場
注2 「立命館中学の過去現在及び将来」1918年3月発行
注3 学監とは、本校教育の方針を樹立し、且つ教育の全体を監督指導し、又本校と立命館本部及同大学とに関係せる重要なる協議に関与する。(前掲「立命館中学の過去現在及び将来」)
注4 「教育の3つの目的」のための「10の指導方針」(前掲「立命館中学の過去現在及び将来」)
注5 京都日日新聞 「青年の生命は運動だ」 1916(大正5)年1月12日付
注6 前掲「立命館中学の過去現在及び将来」
注7 旧制高校への進学者数は、府立中学校と肩を並べるほどになり、相撲部は団体・個人で全国・関西大会を制し、ラグビー部は全国大会準優勝、陸上部は府大会で上位入賞するなど(立命館百年史 通史第一巻)
注8 立命館中学同窓会誌「清和」第4号~第9号 の野球部報。
注9 第1、2回は大阪の豊中球場で開催。第3回から第8回までが鳴尾球場。
注10 三月までに進級しなかった者(わざと留年して出場する者の防止)、転校編入後満二学期を経過しない者(有力選手を引き抜いてすぐに出場させない)には参加資格が認められないこと、校医の診断による健康の保証が必要という2点が追加された。(高校野球優勝物語 廣瀬謙三・松井一之共著 恒文社 1975年発行)
注11 朝日新聞 1922(大正11)年8月15日、8月18日付
注12 前掲「立命館中学の過去現在及び将来」
注13 高校野球優勝物語 廣瀬謙三・松井一之共著 恒文社 1975年発行
注14 立命館学誌 第135号 1930(昭和5)年9月15日発行
注15 第9回全国中等学校野球大会で、観衆の大混乱によって試合運営が困難となったため、十分な観客席を備えた本格的野球場が早急に必要とされた。翌年の大会に間に合わせるように建設が急がれ、1924年8月1日に竣工したのが甲子園球場であった。
注16 国字とは、漢字の字体にならって日本で作られた文字のこと。立命館の文字は国字にあたらない。当時は、多くの学校が校名の頭文字だけをアルファベットで表示したり、校名をローマ字で表記していたようで、立命館が校名を漢字で表記したことを強調したかったのではないかと思われる。
注17 立命館学誌 第135号 1930(昭和5)年9月15日発行
注18 1911年清和中学校卒業。校長在任期間1929年4月~1933年7月。
注19 塩崎は、1921(大正10)年に立命館中学教諭となっているので、母校の2回にわたる全国大会出場をスタンドで応援していた。
注20 立命館禁衛隊 第10号 1930(昭和5)年9月発行
注21 大阪朝日新聞 1930年(昭和5)年7月25日付
注22 文部省訓令第4号「野球ノ統制並施行ニ関スル件」
1932(昭和7)年4月1日発令
注23 中学校と同じ北大路の校地に1929年(昭和4)年開校
注24 立命館禁衛隊 第56号 1935(昭和10)年9月発行
注25 同上「第二学期始業日に方て中川校長の訓示―中学商業三年生以下一同に対してー」
注26 立命館禁衛隊 第62号(昭和11)年3月発行
「小学校長招待日に於ける中川校長挨拶」要旨
注27 立命館禁衛隊 第63号(昭和11年)4月発行
新入学父兄に対する中川校長の挨拶
注28 京都日日新聞 1936(昭和11)年12月2日付
「皇室中心主義の旗幟を高く翳し千七百名の生徒と七十名の職員が一丸となり、在来のスポーツといふスポーツを悉く排撃し各人が満身これ“日本精神”に凝っているといふ全国に珍しい中等学校があり、国体明徴の巨弾を教育会に投げている。」
注29 立命館史資料センターHP <懐かしの立命館>戦前「最後の立同戦」
注30 1941(昭和16)年開校で、1946(昭和21)年には立命館神山中学校、翌年に立命館神山高等学校となっている
注31 「私と中学野球」蜂谷留吉 「京都市中学校野球50年史」京都市中体連野球専門委員会編