立命館中学校高等学校では2019年9月14、15日に文化祭が開催されました。いくつもの学校行事が催されるなか、文化祭の歴史を辿ってみました。
1.第1回文化祭
記念すべき第1回の文化祭は、1947(昭和22)年11月に三日間にわたり開催されました。この年は、4月に新制の立命館中学校と立命館神山中学校(注1)が設置されて入学した1年生に加え、戦前からの立命館第一・第二・第三・第四中学校や商業学校、工業学校に在籍する生徒が、北大路と神山(神山と第二)の二つの学舎に通っていました。
この第1回文化祭の内容は、1947年11月27日発行の学校新聞「立命館タイムス」第1号から知ることができます。生徒たちの手による初めてのタブロイド版の新聞で、発行所は立命館中等部新聞部で、この時の見出しには「学芸祭」と書かれています。
写真1 第1号で学芸祭(第1回文化祭)を伝える記事
舞台上に立命館神山中学校5名の1年生女子生徒が写っている。
第1日目 (11月2日)弁論大会「全国中等学校優勝弁論大会」
立命館中学校の主催で、以下のような旧制中学校が参加しています。
京都府 京都一中、大谷、同志社、京都五中、京都二中、平安、四條商業、東山、
東寺、亀岡農林、立命二中
他府県 都島、宇治山田、市岡、北野、愛知、膳所、履正社、東邦商業、東海、
栗田農林、福島商業、東海今宮、堺
優勝弁論題名は「青年の使命」(優勝者とその校名は不明)でした。
第2日目 (11月3日)音楽大会「学芸祭音楽会」
時世を映し出して軽音楽団と呼ばれる生徒の演奏に人気があったと記されています。記事によれば、音楽会は前年にも催されていたようで、練習の進歩があったと評価されています。文化祭の原点は、終戦の翌1946年に誕生していたことになります。
音楽会と同時開催で、「名曲レコード鑑賞会」が普通教室で行われていましたが、来場者は音楽会へ流れて少なかったそうです。
第3日目 (11月4日)演劇大会「中等部総合学芸大会」
この演劇大会の主催は中等部父兄会(PTAの前身)で、旧制第一中学校演劇研究会が主たる公演を行い、旧制第二中学校は男子だけの演劇部と新制神山中学校1年生女子を加えた「しをり会」も参加していました。
写真2 演劇大会「中等部総合学芸大会」プログラム(B4サイズの表裏1枚もの)
この三日間にわたって化学・生物・書道・絵画の展示発表会も行われ、現在に続く文化祭の原点となる第1回はこのように実施されたのでした。
2.第2回文化祭
「立命館タイムス」第9号(1948年12月17日発行)の記事によれば、1948年の第2回文化祭は、前年度と内容も期間も大きく拡大した行事になっています。見出しは「堂々八日間の大行事 第二回文化祭盛大に終る」で、「文化祭」という語が初めて登場しました。
写真3 第2回文化祭を伝える立命館タイムス第9号
10月31日(日) 第1日目 連合大運動会 場所:京師運動場(注2)
五つの学校(高校の部は北大路の高校と夜間高校、神山の高校。中学の部は北大路と神山)が参加した第3回目となる運動会でした。新制の学校も含めた附属校の大運動会で、北大路学舎では狭かったため、近くにあった師範学校(後の京都学芸大学。現京都教育大学)の運動場を借用して開催されました。教員と生徒が共に参加する仮装行列が行われ、その後も長く伝統種目として続けられています。年に一度の大行事ならば、第1回は終戦の年、明るく楽しい学校行事が戦後復興へのスタートにされていったのでしょう
写真4 1949年の高校運動会仮装行列(卒業アルバムより)
11月1日(月) 代休
11月2日(火) 第2日目 文化講座とクラス会
午前中に末川博総長による講演が行われた後、講師による自由課題での文化講座実施。午後からはクラス会と題して、自由なプランで時間を過ごしました。
11月3日(水) 文化の日としての初めての祝日(注3)
11月4日(木) 第3日目 校内対抗競技会とコース別ハイキング、映画観賞会
野球(校庭)、卓球(講堂)、排球(排球コート)、庭球(庭球コート)で実施。
上記の球技大会に不参加の生徒は、2コース(六甲方面と芹生峠附近)から1つを選択してハイキングに参加。
この日は特別に中高新聞部主催でGHQ軍政部の特別配慮(当時は、学校新聞も含め校内での情報伝達には厳しい検閲があった)をえて校内映画観賞会を図書室内で開催しています。どのような映画であったのかは記録されていませんが、教員や生徒には好評であったと報告されています。
11月5日(金)第4日目 演劇鑑賞 会場:新聞会館 上演:高校演劇研究部
高校の部「トラック島」、中学の部「お人好の百姓」
11月6日(土)第5日目 他校招待弁論大会 会場:講堂 主催:中高弁論部
高校「全関西高等学校優勝弁論大会」
出場校は三十数校。岐阜市立や八尾など実力校が多数。
中学「全京都中学校優勝弁論大会」
11月7日(日)最終日 午前:音楽大会 午後:娯楽版 会場:講堂
音楽大会は音楽部主催で謡曲、合唱、独唱、軽音楽、独奏などが発表されました。高等学校の謡曲研究会というのは、全国的にも珍しい活動であったと考えられます。
午後からは新聞部主催の特別企画で、当時のラジオ番組(テレビ放送は1953年からなので、ラジオは最大の娯楽でした)で大人気であった「話の泉」「二十の扉」が生徒と教員の出演で行われ、最後には参加者二十数名による「のど自慢コンクール」で会場は大きく盛り上がって閉幕しました。仮装行列と同様に、生徒と教員が共に楽しめる行事であったのでした。
写真5 1949年の高校謡曲研究会(卒業アルバムより)
11月6、7日 展覧会とバザー
現在のクラブ展示にあたるもので、新聞部、文芸部、美術部、化学部、物理部、生物部、書道部が参加して好評だったと紹介されています。文化祭でのクラブ展示が本格的に行われるようになりました。
写真6 1949年の高校軽音楽団演奏(卒業アルバムより)
写真7 1949年 高校演劇部の上演(卒業アルバムより)
写真8 大バザー案内(サイズ12cm×18cm)
3.おわりに
立命館中学校高等学校の文化祭という名は、日本国憲法公布を祝して制定された祝日「文化の日」(1948年11月3日)と共にスタートしたことがわかりました。戦後復興に向けて、学校教育のなかで生徒と教員が共に新しい文化や体育を育んでいこうとするものでした。
あれから72年。パンフレットだけを見ても、その成長と進歩には目覚ましいものがあります。文化祭の意義や目的は、時代の移り変わりと生徒たちの成長と共に変化してきているようです。これからの文化祭がどのように発展していくのか楽しみです。
写真9 2019 立命館中学校高等学校文化祭プログラム表紙
2019年11月13日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1:立命館神山中学校は男女共学で設立されている。内容については以下の記事を参照。
「今日は何の日」3月 神山学舎の開設と上賀茂グラウンド
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=31
注2:学芸大学(戦前は京都師範学校)は、当時、北大路新町を下がった場所にあって、その後、伏見区深草へ移転した。1962年4月から京都府立鴨沂高等学校との共用で跡地を「紫野グラウンド」として 借用し、体育授業やクラブ活動で利用した。
注3:この前年までは、法的に戦前からの祝日が残っていて明治節(明治天皇の誕生日を祝う祝日)としての祝日であった。