学祖 西園寺公望(1849~1940)
京都の名門公家に生まれた西園寺公望は、1869年、御所の西園寺邸に私塾「立命館」を創設します。
当時の著名な学者・文人を賓師(教師)とし、多くの若者が集まりましたが、活発な議論をする塾生に不安を感じた京都府によって、わずか1年弱で塾の閉鎖を命じられます。
その後約10年間フランスに留学しますが、帰国後政治家として活躍し、文部大臣や外務大臣、さらに内閣総理大臣を2度に渡り歴任しています。
政界を退いてからは最後の元老として名を馳せます。1905年、中川小十郎が立命館の名の継承を願い出ると、これを喜んだ西園寺は「立命館」の扁額を贈り許諾しました。
西園寺公望若侍姿18歳頃
西園寺公望は洋装のイメージが定着しているが、幕末にはこのような「侍」姿の写真を残している。
1870(明治3)年 フランス留学前の公望
西園寺公望は1870年~1880年までフランスに留学する。この写真は出発前横浜で撮影。
1896(明治29)年西園寺文部大臣
西園寺公望は1894(明治27)年文部大臣に就任し、1897(明治30)年京都帝国大学を設立する。立命館創立者中川小十郎は、西園寺文部大臣の秘書官として京都帝国大学の設立に中心的にかかわり、初代事務局長に就任している。
1908(明治41)年
西園寺は1906(明治39)年内閣総理大臣に就任、第一次西園寺内閣を組閣する。1908年総辞職。写真は総辞職後の撮影。秘書官であった文部官僚中川小十郎も、辞職のあおりを受け当時の植民地樺太庁の第一部長に赴任。経済・教育開発を主導することになる。
撮影年不明だが、西園寺晩年。私設秘書の中川小十郎と。
西園寺公望晩年は、「最後の元老」として政界の重鎮となった。居地は静岡県興津の「坐漁荘」(ざぎょそう)。中川小十郎はその私設秘書として、西園寺が逝去するまで蔭になって支えた。
最晩年の西園寺公望。興津の「坐漁荘」か京都の別荘「清風荘」での撮影。
西園寺公望は、公家としての教養を身につけ、様々な文化や書に秀でていた。
立命館には、西園寺の書や愛用品が学宝として保存されている。
1940(昭和15)年11月24日。興津「坐漁荘」で西園寺は逝去する。満90歳であった。