アジア・マップ Vol.01 | エジプト

《総説》
エジプトという国

竹村 和朗(高千穂大学人間科学部・准教授)

エジプトはどういう国だと、一言でいうのはむずかしい。乾いていて暑いのはたしかだけれど、ナイル川がゆたかな水をたたえているおかげで、いたるところに樹々が生い茂り、日陰に入ると思いのほか涼しい。カイロは「千のミナレット」の街だと称えられるが、同じくらい数多くのアホワ(庶民的喫茶店)があるのではないか。日中でも涼しい北向きや建物の陰に入る場所が好まれ、薄暗い店内に入ると、冷気と湿気の入り混じった独特の雰囲気を感じる。アホワでは、椅子はなぜか壁に背を向けて置かれることが多く、店の外の歩道にも並べられる。入口にほど近い席に腰かけ、店員に「アホワ・トルキ・スッカル・マズブート(トルココーヒー、砂糖は並みで)」とか「シャーイ・ビ・ナァナァ・スッカル・バッラ(ミント入りの紅茶、砂糖は別で)」などと声をかけ、買ってきた新聞を広げる。そうしたとき、私は「エジプトに来たな」と思うし、「マスル・アガベトニ(エジプトっていいな)」と感じる。


写真1. ザマーレクのアホワにて(2022年)

以下では、そんなエジプトの姿を、①国名、②面積、③人口、④言語、⑤民族の5点から素描してみる。この小文を読んだ皆さんがエジプトのイメージをふくらませる手伝いができれば幸いである。

①国名
エジプトは英語ではEgypt、漢字では埃及(アイキュウ。ピンインだとĀijíアィヂィ。ギリシア語のAiguptosアイギュプトスの音に当てた語のようである)と書く。アラビア語では「ミスル」というが、当のエジプト人たちは「マスル」と発音している。正式名称は、アラビア語で「ジュムフーリーヤ・ミスル・アル=アラビーヤ(エジプト・アラブ共和国)」という。英語でもThe Arab Republic of Egypt (ARE) と書くように、エジプト+アラブの共和国という作りになっている。

エジプトが「アラブ」の国であることは、自明に思われるかもしれないが、国名にアラブの語が入ったのは1958年である。エジプトでは1952年に共和革命(国内では「1952年革命」や「7月革命」と呼ばれる)が起きたが、革命前の国名を「アル=マムラカ・アル=ミスリーヤ(エジプト王国)」といい、革命後には「アル=ジュムフーリーヤ・アル=ミスリーヤ(エジプト共和国)」を名乗った。この革命およびその後の政治を主導したのが、ナセルである。

1956年憲法においても、腐敗した王制を廃止し、植民地主義、とりわけ中東におけるその象徴とみなされたイスラエルの建国とパレスチナ人の離散に対抗する「アラブの連帯」を訴える中で、アラブ性は強く明確に打ち出されていた(たとえば、第1条「エジプトは、主権を有する独立したアラブ国家であり、民主共和国である。エジプト人民は、アラブの共同体(ウンマ)の一部である。」)。1958年にはこれをさらに推し進め、エジプトはシリアとともにアラブ連合国家を樹立した。このとき、エジプトやシリアといった地域名を外し、「アル=ジュムフーリーヤ・アル=ムッタヒダ・アル=アラビーヤ(アラブ連合共和国、英語でThe United Arab Republic, UAR)」と称した。ただし、この連合体制は長くもたず、エジプトは再び一国に戻ったが、1964年に一国社会主義路線を定めた暫定憲法を制定した際にも「アラブ連合共和国」の名を使いつづけた。

国名に「エジプト」が戻るのは、1971年のことである。1970年のナセル急逝後の混乱を掌握したサダトが新たな政治方針を示した1971年憲法において、国名は「エジプト・アラブ共和国」になった。サダトはナセル主義者を排除し、ナセルの社会主義的政策をひっくり返したことで知られるので、ナセルが始めたアラブ連合共和国という名称をとりやめたことに不思議はない。しかしサダトにしても、「アラブの連帯」を放棄するまではいかず、ナセルの影響を受けてリビアに共和革命を起こしたカダフィによる「アラブ共和国連邦」構想を受け入れ、国名を「エジプト・アラブ共和国」に変えたのであった。そのサダトが1973年の第四次中東戦争の勝利をひっさげて当のイスラエルと平和条約を結び、このことを主たる理由の一つとして急進派に命を狙われ10月6日の戦勝記念パレード中に暗殺されたことは、歴史の皮肉であった。

②面積
エジプトの国土面積は、約100万km2(エジプト広報局State Information Service/al-Hayʼa al-‘Āmma li-l-Istiʻmālātによれば1,001,450km2だが、後述の表1に用いた別の統計では1,010,408 km2)である。日本の国土面積が約37.8万km2であるので、3倍弱(約2.65倍)に相当する。

図1. エジプト地図

ただし、国土の大半は年間降水量がきわめて少ない「沙漠」である。エジプトでは、人は古来よりナイル川がもたらす水と堆積土に依存し、ナイル川の水の届くところで作物を育て、暮らしを営んできた。1970年のアスワーン・ハイダムの完成以降、ナイル川の氾濫は完全にせき止められ、水資源が確保されるようになった。同時に、農地の住宅地転用やそれに代わる沙漠地の開発による農地・住宅地の増大が進んだ。

ナイル川流域の農地は、1950年頃の時点で600~700万フェッダーンといわれ(1フェッダーン=4200m2なので700万フェッダーン=29,400km2)、これは国土面積の3%弱に相当する。大小さまざまな沙漠開発計画によって沙漠の耕作地は200~300万フェッダーン増えたほか、政府による幹線道路や生活インフラの整備、官民の宅地・リゾート開発によって、沙漠の居住地は爆発的に広がった(cf. 拙著『現代エジプトの沙漠開発』2019年、風響社)。前述の広報局によれば、エジプト全体の居住地はいまや78,990km2に上り、全土の8%弱に相当するという。この動きはとくにカイロの近郊で目覚ましく、ニューカイロと呼ばれる地域には「新行政首都」が建設されており、完成による政府省庁の移転も間近といわれている。

エジプトの全土は、27の「県(ムハーファザ)」に分けられる(県は改廃されることがある。図1の地図には、いまはない10月6日県が描かれている)。ナイル川の形はしばしば蓮の花にたとえられる。ゆるやかにS字カーブを描く茎の部分が、ナイル川の上流にあたるため「上エジプト」と呼ばれ、扇を開いたような逆三角形をした下流域が「デルタ」または「下エジプト」と呼ばれる。扇のかなめにあたるのがカイロであり、扇の左上に「地中海の花嫁」たるアレクサンドリアがある。扇の右上の端がスエズ運河の地中海側の出入口にあたる港町ポート・サイードで、そこから南に下っていくと運河の中頃にイスマーイーリーヤの街があり、さらに下ると紅海側の出入口であるスエズがある。サイードはスエズ運河掘削計画を承認した支配者で、イスマーイールはスエズ運河を完成に導いた次の支配者であった。

スエズ運河の東岸には、モーセが十戒を授かったといわれるシナイ山があるシナイ半島がつづく。シナイ半島は運河周辺部を除き南北2つの県に分かれ、両県合わせて約6万km2である。国土全体からすればさほどの大きさではないが、数次の中東戦争における戦闘の舞台であり、国際会議が開かれるリゾート地シャルムッシェイフを有し(2022年末にはCOP27が開催された)、ガザ地区へと通じるラファハ検問所を有する。エジプトにとって、アジアとの重要なつながりなのである。

③人口
エジプトの中央動員統計局(略称CAPMAS)によれば、2023年1月9日時点の人口は、1億人(104,428,009人)を超えている。エジプトでは、5年ごとにセンサスをとっているが、2017年には1億に少し足りない、94,798,827人であった。人口ピラミッドの形からもわかるように(図2)、エジプトの人口はいまも増え続けているのだ。

図2. エジプトの人口ピラミッド(2022年)(CAPMAS『Miṣr fī al-Arqām (2022)』より筆者作成)

図2. エジプトの人口ピラミッド(2022年)(CAPMAS『Miṣr fī al-Arqām (2022)』より筆者作成)

なお、2017年のセンサスにおいても、約940万人が国外に居住していた。国内居住者に対して10分の1と少なくない比率であるため、近年では国政選挙や国民投票においても在外国民の投票を実施している。

国内人口の分布を見ると(表1、2022年1月1日推計)、ナイル川をはさんで東西に広がる首都カイロとギザの2県で全国の約2割、2千万近い人口が集中している。首都圏には環状道路が張り巡らされているが、その外側に膨れ上がるように住宅地が拡大している。第2の都市といわれるアレクサンドリアの人口がカイロの半分ほどの約550万人であり、県別人口数の順位としては第9位にあたる。カイロとアレクサンドリアの間には、デルタの諸県(第3位シャルキーヤ、第4位ダカフリーヤ、第5位ブハイラ、第7位カルユビーヤ)と上エジプトの諸県(第6位ミニヤ、第8位ソハーグ)がある。これらはかつて農村地域であったが、急速に都市化し、多くの人口を擁するようになっている。

表1. エジプトの県別人口と面積(CAPMAS『Miṣr fī al-Arqām (2022)』とStatista「Total Area in Egypt as of 2020, by governorate」より筆者作成)

表1. エジプトの県別人口と面積(CAPMAS『Miṣr fī al-Arqām (2022)』とStatista「Total Area in Egypt as of 2020, by governorate」より筆者作成)

他方、面積において第1位と第2位を占めるワーディー・ゲディードとマトルーフは、合わせて国土の半分を占める西部沙漠の県であり、第3位のバハル・アフマルは紅海と接する東部沙漠の県である。南・北シナイと同様に、これら「沙漠」の地域では、オアシス集落や港町の開発に加えて入植や産業振興事業が積極的に行われているが、ナイル川流域に比べれば、人口はいまだ低い割合にとどまっている。

④言語
エジプトの公用語は、アラビア語である。この種の規定は、古くから憲法に記され、現行(2014年)憲法でも、第2条で「イスラームは、国教であり、アラビア語は、公用語である」と定められている。

アラビア語が公用語であるため、新聞や法律、メディア、教育における言語はすべて文語(フスハー)のアラビア語であるが、エジプトでは、「アーンミーヤ」と呼ばれる話し言葉、すなわちエジプト口語アラビア語(エジプト方言)が発達し、日常生活のみならず、テレビや映画、詩や小説において用いられ、ときに政治指導者の演説でも口にされることがある。

かつてアラビア語は文語と口語に二分されるといわれたが、現実はそれほど単純でなく、教育水準や経済階層、地域や職業、ジェンダー、世代などのさまざまな要因によって複雑に影響されることがわかってきた。たとえば、『エジプト・アラビア語辞典(A Dictionary of Egyptian Arabic)』(Librarie du Liban, 1986年)の編纂者の一人、アッ=サイード・バダウィーは、教育水準から文語と口語を5つのレベルに分けた。歴史的な書き言葉である「伝統のフスハー」、現代の書き言葉である「現代のフスハー」から始まり、中間に高等教育を受けた「文化人のアーンミーヤ」を配置し、その下に初等・中等教育を受けた「読み書きできる者のアーンミーヤ」、教育を受けていない「読み書きできない者のアーンミーヤ」がならぶ。

ちなみに、筆者は最近になって「文化人のアーンミーヤ」を使えるようになりたいと思うようになり、エジプトに行ったときに集中的に勉強している。政治家や大学教員、弁護士や裁判官が話している動画の聞き取りをしたり、新聞記事などの文章を「文化人のアーンミーヤ」に組み直したりしているが、エジプトのアラビア語の奥深さに途方に暮れそうになる。

外国語は、19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリスの占領下(後に保護下)にあったためか、英語が初等・中等教育で広く教えられている。1919年に設立されたThe American University in Cairoが英語で教える大学として国際的に知られるであるが、近年大学設置法が変わり、October 6 UniversityやGerman University in Cairoなど多くの英語大学ができている。2010年には英語を主要言語とする「エジプト日本科学技術大学(E-JUST)」も開学した。


写真2. タハリール広場のレンタルバイクの看板(2022年)

法律に関してはフランスの影響が強く、1875年に設立された混合裁判所の法典はフランス語で書かれていた。現在でも国立大学法学部では、アラビア語、英語、フランス語の学科に分かれ、いずれか1つを選ぶ仕組みになっているようだ。余談だが、明治政府は、西欧との関係において先行していたエジプトの経験に強い関心を寄せており、エジプト混合裁判所諸法典を翻訳している。現在では、その全文を国立国会図書館デジタルライブラリーで閲覧することができる(箕作麟祥訳『埃及法律書 全』司法省、1878年、https://dl.ndl.go.jp/pid/2938448/1/4)。

⑤民族
エジプトでは「民族」が社会・政治言説の中で強調されることは少ない。(いまでは政治的に不適切になった)「人種」や「形質的特徴」からエジプトの肌の色や骨格の地域的特徴を述べることは可能であるが(たとえば、写真3でサボテンの実を見ている右のポロシャツの男性はデルタ北東部出身の筆者の友人で明るい肌の色をしているが、隣にいる売り子の男性は浅黒く、上エジプト出身者またはその子孫ではないかと想像される)、それが「民族」的な集団として強調されることはない(先祖がアラビア半島出身の「アラブ」であるという系譜に誇りを持つ人はいる)。

写真3. サイイダ・ゼイナブ前のティーン・ショウキー売り(2017年)

写真3. サイイダ・ゼイナブ前のティーン・ショウキー売り(2017年)

上エジプト出身者を「サイーディー」というが、古い伝統が残っているという意味で「いなか者」、「頑迷さ」の象徴とすることはあっても、あくまでエジプト人の一部として捉えられている。西部沙漠に点在するオアシス集落の人々や、シナイ半島からリビア国境にまたがる地域を移動していた遊牧民「ベドウィン」の末裔も独自の文化・伝統を有する集団としてみなされるが、近代史においても現代においても、これらの人々をエジプトに取り込もうとする力の方が強いようである。

アスワーン周辺またはアスワーン・ハイダム建設によって故地が水没してしまった上流の「ヌビア人」については、エスニック・マイノリティに近い印象を受けることがある(ヌビアのゆるやかで開かれた存在感については、奥野克己「時代のフロンティアをゆくこと、とは——ヌビア人」鈴木恵美編『現代エジプトを知るための60章』明石書店、2012年、63-70を参照のこと)。水没によってエジプトやスーダンへの移住を余儀なくされた経験や、政府による補償の対象として名が挙げられることが、ヌビア人というカテゴリーを意識させる背景となっているのかもしれない。

写真4. バッカール(ヌビアの少年を主人公にしたアニメ、左:シーズン5、右:シーズン6)

写真4. バッカール(ヌビアの少年を主人公にしたアニメ、左:シーズン5、右:シーズン6)

民族的区分にもとづくのではなく、宗教的なマイノリティとして認められているのが、「コプト(アクバート)」と呼ばれるキリスト教徒のエジプト人である。コプトは、大きくは東方正教会の中に含まれる、エジプトに根差したキリスト教徒のことで、非カルケドン派のコプト正教会信徒を大多数とする。1986年の人口統計ではコプトは人口の6%ほどを占めるとされ、その後は宗教・宗派別情報が公表されていないので不明だが、およそ10%前後であろうと考えられている(現代のコプトに関する情報は、三代川寛子「コプト・キリスト教徒——国民か、ズィンミーか」鈴木恵美編、前掲書、187-191にコンパクトにまとめられている)。

ムスリムとコプトの間で不信や緊張感が高まった時期もあったが(それを社会派喜劇に仕立てたのが、映画『ハサンとマルコス』2008年、監督:ラーミー・イマーム、主演:アーデル・イマーム、オマル・シェリーフ)、近年では社会内融和が強調されることの方が多い。たとえば、1月7日のコプトのクリスマス(イード・アル=ミラード)になると(ムスリムの)大統領が教会を訪問し、ともに祝う姿がメディアでしばしば報じられる。憲法においても、第3条で「エジプト人のキリスト教徒およびユダヤ教徒のシャリーアの諸原則は、その身分、宗教上の事柄および精神的指導者の選出を組織する諸立法の主要な源泉である」と定め、第2条の「イスラームのシャリーアの諸原則は、立法の主要な源泉である」を補う、例外的な位置づけにあることが明示されている(憲法条文については、拙著「エジプト2014年憲法の読解」『アジア・アフリカ言語文化研究』101: 19-140, 2021年を参照のこと)。

書誌情報
竹村和朗「《総説》エジプトという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』 1, EG.1.01(2023年3月22日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/egypt/country/