アジア・マップ Vol.01 | エジプト

《エッセイ》エジプトの都市
カイロ

嶺崎 寛子(成蹊大学文学部・准教授)

 カイロはアフリカ最大の都市である。通勤圏も合わせたカイロ都市圏は「大カイロ(グレーター・カイロ)」と呼ばれる。この大カイロの人口は約2200万、世界第7位の人口規模である。

 カイロは実に多彩だ。カイロを枠づけるのは、拡大・発展し続ける都市としての多彩さ、多様さ、混沌としたエネルギーである。
 カイロは長い歴史を反映し、拡大し続ける都市である。古代エジプトの都市ヘリオポリスも、アラブ軍が642年に建設した軍営都市フスタートも、今ではカイロの一区画である。その名は、ファーティマ朝時代に建設された軍営都市(ミスル・アル=カーヒラ)に由来する。エジプト土着のキリスト教、コプト教の教会の多いオールド・カイロはキリスト教の伝統を伝える。カイロにはマムルーク朝期のモスクやマドラサがひしめくイスラミック・カイロも、現代的でおしゃれなショッピング・モールもある。爆発する人口の受け皿として、近郊の砂漠は近年急速に開発が進む。

 そんなカイロに、私は約5年住んだ。今回のテーマは、モスクやピラミッドなどの建造物についてではない。今回の主役は、毛細血管のように張り巡らされた路地である。カイロは大都市なのに、実はこの路地には匿名性がない。アフリカ一の大都市なのに!

 2000年から2001年にかけて、私はカイロの地下鉄のロード・エル・ファラグ駅から徒歩7分位の場所にあるエジプト人のお宅に居候させてもらっていた。そこはカイロの庶民街のショブラ地区の入り口にあたる場所で―アラビア語ではアウゥィル・ショブラと呼ばれる―、カイロではお決まりの車の渋滞とクラクション、排気ガスの匂いと喧騒で、駅や大通りは賑やかだった。大通りの向こうはコプト教徒が多く住む、教会の多い地域だった。ラマダン時にはキリスト教徒が「ラマダンおめでとう」横断幕を、クリスマスにはムスリムが「クリスマスおめでとう」横断幕を通りに飾る。私にとってカイロの「始まりの場所」「ふるさと」と言えば、このロード・エル・ファラグ、アウゥィル・ショブラである。

 ただ正確に言うと、私の「始まりの場所」は駅周辺ではない。居候宅に面する小さな通り、野良猫が行きかい、時折ロバに荷をくくった果物売りが果物を売りに来る、カイロにしては静かな、小さく埃っぽい路地こそが私の「ホーム」である。こういう通りをカイロっ子は「私の通り(シャーリア・ビタアティー)」と呼ぶ。カイロっ子のホームは存外狭いのだ。

 バッカーラと呼ばれる、牛乳やガムやお菓子、電池や生理用品などを売る小さなキヨスクみたいな店がカイロにはあちこちにある。日々の紅茶や砂糖、牛乳などの生活必需品を、当時私は居候先から徒歩1分の、あるバッカーラで買っていた。居候先には滞在費を受け取ってもらえなかったので、こうした家族全員の生活必需品を私が買うことでさりげなくバランスをとる必要があった。だからこのバッカーラには3日と空けず通っていた。路地裏にある、何の変哲もない店だった。

 ある日、ロード・エル・ファラグ駅のそばの別の店でたまたま買い物をした。(ちなみにこの店の名前は「柔道」という。店の中にはエジプトの有名な柔道選手の写真が飾ってあった。おそらく店主が柔道経験者なのだろうが、名前の由来を聞いたことはない)。そして質問攻めにあった。お前はどこから来た、何でここにいる、日本人か、柔道をするか、柔道はいい…等々。そこで私はやっと、いつもの店では質問攻めにされたことが一度もないことに気づいたのだった。

 物見高く人懐っこいカイロっ子は人に話しかけるのが大好きで、地下鉄の車中やモスクではよく話しかけられた。外国人など一人も住んでいない地区の、路地裏の小さなバッカーラが、当たり前のように私をよく来る客として受け入れ、一言も質問を発しなかったのはなぜなのか。そっちの方がよく考えれば不自然だ。

 居候先の家族に聞いてみると、さも当たり前のように言われた。「だってあのバッカーラ、ヒロコがうちの居候だって知ってるもん」。聞けば、事前に居候先の建物や近隣の建物の門番、路地のバッカーラや薬局などには、日本人が家に居候に来るからよろしく、と挨拶をしたのだという。「こんな場所に外国人が突然現れたら怪しすぎるから。説明しておけばみんな分かってくれるし。だからヒロコのこと、この通りの人はみんな知ってるよ」

 通りの人々が「アラビア語勉強中の20代の日本人独身女性、某家の居候」として私をとっくに知っていることを、私だけが知らなかったのだった…。衝撃だった。

 ちなみに門番とは、カイロに欠かせない職業の一つである。住民の買い物代行、ごみ処理、建物の清掃などを一手に担い、管理費で生計を立てる。住民のいる建物には1階に門番がいるのが普通だ。多くの場合、ガラベイヤなどの民族衣装を着た地方出身の低学歴の男性である(一家で門番をしていることもある)。そして彼らの任務の一つが、よそ者や外来者をチェックし、不審者を取り締まることなのだった。人を訪ねて建物の一階で門番に見咎められたら、■階の●●さんを訪ねてきた友人の△です、などと関係を説明しなければならない。住民が迎えに出て、この人はイトコ、などと門番に説明することもある。いったん門番に認知されれば、出入りを見咎められることはなくなる。そして見知らぬ人について住民は「あれ誰」と気軽に門番に聞き、情報を得る。路地は、住民の知らない人がうろつくと不審がられる場所なのだ。

 門番という「装置」は、街区や通りの安全を守る仕組みと肯定的にも、排外的で、住民同士の相互監視、特に女性の行動の監視につながると否定的にも取れる。両義的なのである。確かなのは、門番が知っている範囲の人だけが、誰何されることも住民にガン見されることもなく自由に、安心してその通りを歩けるということだ。そしてそのように歩ける通りこそが、カイロっ子の言うところの「私の通り」なのだ。それは、住民がお互いのことをよく知っている、濃い人間関係に裏打ちされた安心感(あるいは、閉塞感)のある場所、ということでもある。

 あの通りで私は、質問攻めにされる、じろじろ見られるなど「珍しい外人扱い」をされなかった。子供に面白がって石を投げられるなどの面倒事とも無縁だった。だから居心地は本当に良かった。それが「街区監視網」に認知されていたからこその平安であったことを、当時は知らなかった。一方で、私の知らないうちに私の情報がその通りに知れ渡っていたということを知った時の何とも言えない薄気味の悪さも、忘れられない。

 大都市に共通する特徴の一つは、匿名性が確保できることだろう。その意味ではカイロは、やや趣を異にする。匿名性が確保できる空間と、ごく狭い範囲の、お互いをよく知る安全な空間とが両立しているのである。大都市カイロには、誰もが自分を知る場所から、自分を誰も知らない場所へと容易に移動できるという、都市としてはおそらく珍しい、不思議な特徴があるように思えてならない。

 都市の匿名性と顕名性は、掘り下げる価値があるテーマである。イスラーム圏の都市にはもしかしたら、似たような傾向があるのかもしれない。

バッカーラ「柔道」。アラビア語でバッカーラ・ジュウドウと書いてある。

バッカーラ「柔道」。アラビア語でバッカーラ・ジュウドウと書いてある。

ロード・エル・ファラグの「私の通り」。左手前の背の低い建物はモスク。カイロの路地は駐車場と化している。この路地で少年たちはサッカーに興じる。

ロード・エル・ファラグの「私の通り」。左手前の背の低い建物はモスク。カイロの路地は駐車場と化している。この路地で少年たちはサッカーに興じる。

ロード・エル・ファラグのコプト教会

ロード・エル・ファラグのコプト教会

書誌情報
嶺崎寛子「エジプトの都市 カイロ」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, EG.4.03(2023年3月29日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/egypt/essay02/