アジア・マップ Vol.01 | エジプト

エジプト21世紀年表  1999~2022年

竹村和朗(高千穂大学人間科学部・准教授)

1999年
4月 ムバーラク大統領が訪日した。
9月 大統領信任投票。ムバーラク大統領が信任され、4期目を開始した(任期は2005年まで)。
10月 アーテフ・ウベイドが首相に就任した。先のガンズーリー内閣では公的事業部門大臣兼行政開発・環境問題担当大臣。
2000年
2月 国家女性会議の設立が定められた。女性・ジェンダー問題の専門家や活動家をメンバーとし、女性に関する政策提言を行う。初代議長は大統領夫人のスーザン・ムバーラクが務めた。
8月 カイロ・アレクサンドリア沙漠道路のカイロ料金所横にIT産業集積地「スマート・ヴィレッジ」の設置が定められた。翌年に開場し、著名なIT企業の支社や事務所、小売店、工場、スポーツクラブが入った。
8月~11月 人民議会選挙。ムバーラク大統領が総裁を務める国民民主党(NDP)が454議席中353議席を獲得した。無所属で当選した議員72人のうち17人はムスリム同胞団のメンバーだった。
2001年
1月 1991年導入の「ドル・ペッグ制」を廃止し、1ドル=3.85ポンドを中央レートとして1%の上下幅を容認する「管理されたペッグ制」を導入した。
9月 アメリカ合衆国で9・11同時多発テロ事件が起きた。主犯格のムハンマド・アターはエジプト人で、ドイツへの留学経験もある工学技士だった。
10月 日本の無償資金協力により1997年に開始した「スエズ運河架橋建設計画」が完了し、スエズ運河橋(ムバーラク平和橋、日本エジプト友好橋)の供用が開始した。
2002年
3月 アメリカがサダム・フセイン政権の大量破壊兵器保持疑惑からイラクに軍事介入した(イラク戦争)。ムバーラク大統領はイラクへの武力侵攻に反対したが、アメリカの軍事行動を止めるには至らなかった。
5月 小泉純一郎首相がエジプトとサウジアラビアを訪問し、ムバーラク大統領と首脳会談した。
9月 ムバーラク大統領の次男ガマールがNDP執行部の政策局トップに就任し、ムバーラク体制の後継者とみなされるようになった。
12月 アメリカの覇権主義とイラク戦争への反対およびパレスチナとの連帯を訴える「カイロ反戦会議」の第1回集会がカイロで開かれた。
2003年
1月 ナセル湖西岸の沙漠地を開墾する大規模沙漠開発事業「トシュカ計画」の中心となるムバーラク・ポンプ場が完成した。
1月
変動相場制へ移行したが、銀行レートと市中レートの併存・乖離は続いた。1ドル=5~6エジプトポンド。
7月 4組の男女が抱える結婚や性の悩み、夫婦間格差、婚姻外性交渉などの現代的問題を描いた映画『サハル・アッ=ラヤーリー(眠れぬ夜)』が公開された(ハーニー・ハリーファ監督、題名はレバノンの歌手ファイルーズの同名の曲から)。
9月 アリー・グムアがエジプト国家ムフティーに任じられた。
2004年
7月 アフマド・ナズィーフが首相に就任した。規制緩和と市場主義を打ち出し、投資や輸出、通信環境を整えて高い経済成長率を記録したが、格差が拡大し、貧困率も上昇した。
9月 ムバーラク大統領の5選と息子ガマールによる権力世襲に反対する民主化運動、「キファーヤ(もう十分だ)運動」が結成された。同年12月に最初の街頭デモを行った。
11月 パリで死去したパレスチナ自治政府のヤーセル・アラファト議長の遺体がカイロに運ばれ、葬儀が行われた。その後、遺体はパレスチナのラーマッラーに埋葬された。
2005年
5月 憲法改正。大統領選挙規定が1人に対する信任投票から複数立候補制度へと改められた。
9月 大統領選挙。初の複数立候補者による選挙が実施された。現職のムバーラク大統領を含め、野党政治家のアイマン・ヌールら10人が立候補した。ムバーラクが再選し、5期目を開始した(任期は2011年まで)。
11月~12月 人民議会選挙。NDPが454議席中330議席を得たが、ムスリム同胞団メンバーも無所属として立候補し、88議席を獲得した。
2006年
4月 考古学博物館の老朽化から「大エジプト博物館建設計画」が策定され、日本からの円借款を得て第一期工事が進められた。2016年に追加供与(第二期)。
6月 エジプト社会における経済格差、政治とカネ、女性問題、同性愛などの問題を赤裸々に描いた映画『ヤコビアン・ビルディング』が公開された(マルワーン・ハーミド監督。原作はアラー・アスワーニーによる2002年出版の同名小説)。
12月 国営デパートのオマル・エフェンディが民営化され、資本の90%がサウジ企業に売却された。2011年に行政裁判所がこの取引を無効と判断し、同社はエジプトの公的事業部門省管轄下に戻った。
2007年
3月 憲法改正。大統領選挙規定を修正し、立候補要件を詳細に定めたほか、社会主義的な表現を削除して民主主義や市民権などの語に変更し、所有権の保護、環境保護義務、テロ対策規定などを追加した。
5月 安倍晋三首相がエジプトを訪問し、ムバーラク大統領と首脳会談した。
6月 200エジプトポンド紙幣が発行された。
6月 幼馴染の男女が女性大臣とその警護官として再会し、恋心を抱えつつもすれ違いと葛藤に悩む様を描いた映画『タイムールとシャフィーア』が公開された(ハーレド・マルイー監督)。
2008年
4月 ギザ県の西側に位置する沙漠の新住宅都市「10月6日市」が県に昇格した。同県は2011年に解消され、ギザ県に戻された。
6月 大エジプト博物館に併設される文化財保存修復センターに対し、保存技術の移転や収蔵品データベース構築支援を行う「大エジプト博物館保存修復センター」プロジェクトが調印された(フェーズ1が2008年~2011年、フェーズ2が2011年~2016年)。
10月 アレクサンドリア郊外に「エジプト日本科学技術大学(Egypt-Japan University of Science and Technology, E-JUST)」を設置する計画が合意された。2009年調印、2010年開学。「少人数、大学院・研究中心、実践的かつ国際水準の教育提供」をコンセプトとし、英語を主要言語とする。後に学部を拡充。
2009年
2月 カイロ旧市街の観光地ハーン・エル=ハリーリーで爆破事件が起き、フランス人観光客が1人死亡した。同月には同地区での刺傷事件とカイロの地下鉄駅での小規模な爆破事件が相次いで起きた。
6月 2009年1月にアフリカ系アメリカ人として初めてアメリカ合衆国大統領になったバラク・オバマ大統領がエジプトを訪問し、カイロ大学講堂で「A New Beginning」と題する演説を行った。
2010年
3月 アリー・グムア国家ムフティーが訪日。アズハル総長のムハンマド・タンターウィーが死去(享年81歳)。後任はアズハル大学学長のアフマド・タイイブ。
11月~12月 人民議会選挙。NDPが508議席中439議席を獲得した。大規模な選挙妨害工作と不正があったとされ、ムスリム同胞団メンバーの立候補者はほとんど当選することができなかった。
12月 エジプト社会におけるセクシュアル・ハラスメントの実態、加害者・被害者男女が置かれた状況、被害者女性による司法への訴えを描いた映画『678』が公開された(ムハンマド・ディヤーブ監督)。
2011年
1月~2月 「1月25日革命」。1月25日の「警察の日」の抗議デモを発端として、ムバーラク・NDP政権に対する全国的な抗議運動に発展した。ムバーラク大統領は、1月29日に総合諜報局長のオマル・スレイマーンを副大統領に任じ、1月31日に民間航空大臣のアフマド・シャフィークを首相にした。また、2月5日に息子ガマールらNDP幹部を解任、2月10日にスレイマーン副大統領に権限移譲して対応に当たらせたが、事態は収まらず、2月11日に辞任した。タンターウィー元帥率いる軍隊最高評議会(SCAF)が国権を掌握し、1971年憲法を停止、憲法改正委員会を設置、議会を解散させた。NDPも解散させられた。
3月 憲法改正。大統領選挙規定などを改めた。改正成立後にSCAFが63条の憲法原則からなる憲法宣言を発出し、政治体制再構築の工程表を示した。
7月 イサーム・シャラフが首相に就任した。カイロ大学工学部教授で、かつてナズィーフ内閣で一時期運輸・通信大臣を務めた。
11月~1月 人民議会選挙。ムスリム同胞団を母体とする自由公正党が498議席中218議席、サラフ主義者が集合したヌール(光)党が108議席を獲得し、イスラーム主義政党が大躍進した。
12月 カマール・ガンズーリーが首相に就任した。ムバーラク期には首相や計画・国際協力大臣を歴任した。
2012年
1月~2月 諮問評議会選挙。自由公正党が180議席中105議席、ヌール党が45議席を獲得した。
3月 コプト正教会総主教シュヌーダⅢ世が死去(享年89歳)。タワドロス司教が後任に選ばれた。
4月~6月 大統領選挙。「1月25日革命」後初の大統領選挙で、複数の立候補者が出馬した。決戦投票では、ムスリム同胞団/自由公正党のムハンマド・ムルスィーが、軍出身のアフマド・シャフィークとの接戦を制した。ムルスィーは6月30日に大統領に就任した。ムルスィー大統領は、議会議員を中心に設置された憲法制定起草委員会の活動を後押しし、軍や司法と対立した。
7月 ヒシャーム・カンディールが首相に就任した。宗教的シンボルとみなされるあごひげをたくわえた歴代最年少首相。シャラフ、ガンズーリー内閣では水資源・灌漑大臣。
12月 外貨割当制度(事実上の固定相場制度)を導入するもポンドの下落は続き、銀行レートと市中レートの乖離も始まった。1ドル=6~7エジプトポンド。
12月 新憲法制定(2012年憲法)。ムバーラク長期政権への反省から大統領権限を弱め、議会の独立性を高めた一方、人権と宗教の重視、ムルスィー・同胞団政権が志向するイスラーム的表現が混在したものとなった。
2013年
2月 シャウキー・アッラームが国家ムフティーに任じられた。
6月 「6月30日革命」。就任1周年の6月30日を期限とするムルスィー大統領辞職を求める全国的署名運動・抗議デモが発生した。7月3日にスィースィー国防大臣をトップとする軍が介入し、ムルスィー大統領と政権幹部を拘束・解任し、2012年憲法を停止した。翌日、最高憲法裁判所長官のアドリー・マンスールが暫定大統領に就任し、憲法起草委員会を設置した。
7月 カンディール首相の解任を受け、経済学者で大臣経験者のハーゼム・ビブラーウィーが暫定首相に就任した。
8月 ムルスィー政権支持者がカイロのラバア・アダウィーヤ広場とナフダ広場などで抗議デモと座り込みを行った。警察と軍が強制排除し、デモ隊に900人以上の死者、警察に43人の死者が出たとされる。
10月 エジプト出身の大嶽部屋の力士、大砂嵐(本名アブドゥッラフマーン・シャアラーン)が新入幕を果たした。アフリカ出身、ムスリムとしても初。
12月 ムスリム同胞団がテロ組織に指定された。
2014年
1月 新憲法の制定(2014年憲法)。2012年憲法の包括改正の形をとったが、内容的には事実上の新憲法といえる。イスラーム的表現は抑えられ、エジプト・ナショナリズムにもとづく国民の団結が謳われた。
5月 大統領選挙。スィースィー元帥が大統領選挙に出馬し、選出された。6月8日就任(任期は2018年まで)。
6月 ビブラーウィー首相の辞任を受けて、イブラーヒーム・メヘラブが首相に就任した。カンディール内閣では住宅供給大臣。
11月 シナイ半島を拠点とするイスラーム武装勢力「アンサール・バイト・アル=ムカッダス」がイスラーム国(IS)と手を結び、「シナイ州」を名乗った。
2015年
1月 安倍晋三首相が中東を歴訪し、エジプトでIS対策のため2億ドル供出を発表した。これを受けてISは拘束した日本人ジャーナリスト2名の身代金として2億ドルを要求した。
5月 ムルスィー元大統領が2011年の同胞団囚人脱獄幇助の罪で死刑を言い渡された。
6月 イスラーム武装勢力の爆弾攻撃により現職のヒシャーム・バラカート検事総長が殺害された。
8月 スエズ運河の一部複線化(「新スエズ運河」の掘削)工事が完了した。スィースィー大統領が着任後の2014年8月に呼びかけた計画。
9月 シェリーフ・イスマーイールが首相に就任した。カンディール、メヘラブ内閣では石油・鉱物資源大臣で、国営石油会社の経営理事経験者。
10月~12月 代議員議会選挙。スィースィー大統領はNDPのような与党を作らず、選挙では自由エジプト人党や祖国の未来党、新ワフド党からなる選挙連合「エジプトへの愛」が多くの議席を得た(それぞれ65、53、35議席)。後にこれら政党と325議席に上る無所属議員の多くが合同し、親大統領の議会内最大会派「エジプトの支え」を形成した。
2016年
2月 第6代国連事務総長を務めたブトルス・ブトルス・ガーリーが死去(享年93歳)
2月~3月 スィースィー大統領が訪日し、安倍晋三首相と首脳会談を行った。「エジプト・日本教育パートナーシップ(EJEP)」を締結し、日本は教育・保健部門でエジプト人学生・教員の留学・研修を受け入れることになった。
11月 エジプト政府はIMFから120億ドルの融資を受け、自由変動相場制に移行した。これ以降、1ドル=15~18エジプトポンドで推移。
2017年
3月 ムバーラク元大統領が2011年のデモ隊239人殺害指示の件について無罪判決を得た。
4月 棕櫚の主日にタンターとアレクサンドリアの2つの教会で自爆攻撃事件があり、少なくとも45人が死亡した。
11月 イスラーム過激派が北シナイのビィル・エル=アブドのモスクを爆破・銃撃し、少なくとも305人を殺害した。スーフィー(神秘主義者)が集まるモスクとして知られる。
2018年
2月 エジプトに日本式教育の学校を開く「エジプト・日本学校支援プログラム」に対する円借款契約が調印された。同年9月に「エジプト・日本学校」が35校開校した。
3月 大統領選挙。1期目を終えたスィースィー大統領が再選し、6月から2期目を開始した(任期は2022年まで)。
6月 ロシアで開かれたサッカー・ワールドカップ本戦にエジプト代表が出場した。
6月 ムスタファー・マドブーリーが首相に就任した。メヘラブ、イスマーイール内閣では住宅供給・インフラ・住宅都市大臣。
2019年
4月 憲法改正。議会内最大会派「エジプトの支え」が発議した憲法改正で、スィースィー大統領の任期延長(2024年まで)と3期目の大統領選挙出馬が可能となった。そのほか上院として元老院が設置され、二院制議会となった。
6月 ムルスィー元大統領が公判中の心臓発作により死去(享年67歳)。
6月 スィースィー大統領が来日し、大阪で開かれたG20に出席した。
8月 横浜で開催された第7回アフリカ開発会議(TICAD7)に、アフリカ連合議長国代表としてスィースィー大統領が出席した。
2020年
2月 エジプトの人口が1億人を超えた。
2月 ムバーラク元大統領が死去(享年91歳)。
3月 エジプト国内でCOVID-19感染者が初めて確認された。
7月~9月 元老院(上院)選挙。スィースィー大統領支持を掲げる祖国の未来党が300議席中149議席を獲得した。
10月~11月 代議院(下院)選挙。祖国の未来党が596議席中317議席を獲得した。
2021年
1月 2017年以来途絶えていたエジプトとカタルの間の直行便が再開した。
3月 台湾の長栄海運(EVERGREEN)が運行するコンテナ船Ever Given号がスエズ運河で座礁し、一時通航が止められた。船主である日本の正栄汽船とスエズ運河庁は損害賠償交渉をし、7月に友好的な形で最終合意に達した。
8月 ある年配女性が誤って自らの氏名を捺印した200ポンド紙幣をめぐる人々の保身と自己犠牲、夫婦・家族間の愛と裏切りを描いた映画『200ポンド』が公開された(ムハンマド・アミーン監督)。
9月 「1月25日革命」でSCAFを率いたタンターウィー元元帥が死去(享年85歳)。
2022年
1月 初の女性裁判官となったタハーニー・ゲバーリーが死去(享年71歳)。30年間弁護士を務めた後、2003年に最高憲法裁判所副長官に任命された。
3月 エジプト中央銀行がIMFの支援協議を背景に為替レートの柔軟化を示唆したため、市中の相場は1ドル=15~16ポンドから18ポンドへ急落した。10月、政府はIMFとの実務者間合意に達し、中銀は変動相場制への移行を発表した。これにより、1ドル=19ポンドから23ポンドへと急落し、年末には25ポンド、年明けには30ポンドへと下落が続いた。
4月 ロシアのウクライナ侵攻により小麦輸入が滞り、国内価格が急騰した。
6月 エジプト原子力・放射線規制局(ENRRA)がマトルーフ県に位置するダバア原子力発電所(VVER-1200原子炉4基)の建設を許可した。
9月 エジプト出身でカタル在住のイスラーム学者ユースフ・カラダーウィーが死去(享年96歳)。
11月 COP27(第27回気候変動枠組条約締約国会議)がシャルムッシェイフで開催された。

書誌情報
竹村和朗「エジプトの21世紀年表 1999〜2022年」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・ マップ』1, EG.3.02(2023年3月22日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/egypt/timeline/