アジア・マップ Vol.01 | シリア

《総説》
シリアという国

末近浩太(立命館大学国際関係学部・教授)

シリア・アラブ共和国は、地中海の東岸に位置するアラブ諸国の1つである。首都はダマスカス、面積は日本の約半分の18.5万平方キロメートル、人口は約2000万人である。公用語はアラビア語であるが、民族的にはアラブ人(75%)のほか、クルド人10%)、アルメニア人などの少数派(15%)から構成されている。宗教的にはスンナ派イスラーム教徒が大多数を占めるが(74%)、アラウィー派やシーア派(13%)、さらには、キリスト教徒(10%)やドルーズ派(3%)なども存在する。シリアは、アラブ諸国のなかでも民族的・宗教的な多様性を宿した国の1つである。

シリア写真

ハミーディーヤ市場(ダマスカス、2002年)

シリアの国家形成は、20世紀初頭の第一次世界大戦の時期に遡り、戦勝国となった英仏両国による領域分割と国境線の画定が発端となった。歴史的には、「シリア」とは、ダマスカス(アラビア語では「シャーム」)を中心とした広大な領域を指す言葉であり、現在のシリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ/イスラエル、イラクとトルコの一部を含む緩やかな地理的概念であった。

この「歴史的シリア」(アラビア語で「ビラード・アッシャーム(シャームのくにぐに)」)は、16 世紀以降オスマン帝国による支配を受けていたが、第一次世界大戦での帝国の敗北・解体後に英仏による委任統治下に置かれた際に現在の国境線が創出された。こうして上記の諸国の国家形成が進んだものの、この地に暮らす人々の意思よりも西洋列強の思惑が強く働いた結果、いずれの国においても領域、国民、主権をめぐるポストコロニアルな問題を抱えることとなった。このような西洋列強による「シリア分割」の問題が最も悲劇的なかたちで露呈したのが、21世紀の今日まで続くパレスチナ/イスラエル紛争であろう。

現在のシリアは、「歴史的シリア」の中心地であるダマスカスを首都として1946年に独立した。だが、そこまでの道のりは決して平坦なものではなかった。

第一次世界大戦が終結した1918年、ダマスカスはオスマン帝国からの独立を果たしたアラブ人の国家、「シリア・アラブ王国」が成立した。しかし、これを不服とした英仏の軍事介入によって、王国はわずか2年で崩壊、その後は戦勝国によるサン・レモ会議での決定に従い、英仏の両国が「歴史的シリア」を領域分割・支配した。そして、ダマスカスを含む北部をフランスが、現在のヨルダンとパレスチナ/イスラエルを含む南部をイギリスが委任統治下に置いた。

新たな国家としてのシリアは、このフランスによる委任統治時代に憲法、議会、軍といった法制度が整備されることで形成が進んだ。そして、第二次世界大戦後の1946年にフランス軍が完全撤退し、「シリア共和国」として独立を果たした。

シリア写真

アラブ料理レストラン・アル=ヤサール(ダマスカス、2009年)

しかし、シリアにおけるポストコロニアルな問題は、独立後の政治に暗い影を落とし続けた。すなわち、領域、国民、主権をめぐって人々が異なる思想や理想を抱えることで、シリアという国の輪郭は変化を繰り返すことになった。

1958年には当時中東を席巻していたアラブ民族主義への傾倒から、統一アラブ国家建設への第一歩としてエジプトとの合邦に踏み切り、「アラブ連合共和国」となった。だが、それもわずか3年で解消され、元の国境線に基づく「シリア・アラブ共和国」を名乗るようになった。さらに、こうした国家の輪郭を変化させた一連の動きについてはシリア国内も一枚岩ではなく、むしろ領域、国民、主権をめぐる様々な意見の相違から政治的な対立が助長され、短期間のあいだに政権交代やクーデタが繰り返される事態となった。もともとの民族的・宗教的な多様性に加えて、人々の意思が十分に反映されていないポストコロニアルな国家形成の歴史が、独立後のシリアの政情不安を引き起こしたのである。

こうした混乱のなかで登場したのが、今日まで続くアラブ社会主義バアス党(以下バアス党)による権威主義体制であった。バアス党は、マルクス・レーニン主義の影響を受けた反植民地主義と階級闘争論を掲げ、アラブ民族主義のもとに多様な人々をまとめ上げる必要性を謳った。そして、1963年の軍士官たちによるクーデタを通して政権を奪取し、一党独裁型の権威主義体制を築き上げた。1971年には、軍出身のハーフィズ・アサドが大統領となり、2000年にはその次男バッシャールが後を襲うことで、今日まで続く「アサド家」による統治が確立した。それは、不安定で多様なシリアという国を独裁によって安定させ統治する試みであったと見ることができる。

興味深いのは、その試みが、英仏による「シリア分割」によって形成された国家としてのシリアを所与の存在としていなかった点である。バアス党による独裁に対しては、主にイスラーム主義の立場から異を唱える勢力が存在し、1970年代末には全国規模の武装蜂起を敢行した。バアス党政権は、これを武力によって鎮圧し、その後はイスラーム主義勢力に対する取り締まりや弾圧を強化した。しかし、現行のシリアという国を――少なくとも理論上は――受け入れていないという意味では、アラブ民族主義を掲げるバアス党政権も同様であった。それを象徴するのが、「アラブの大義」としての「パレスチナ解放」、すなわち、パレスチナのアラブ人の土地を占領支配しているイスラエルの破壊を目指してきたことである。他のアラブ諸国がイスラエルとの和平や国交正常化を実現するなか、シリアが、4度の中東戦争を戦い、今日でもなおイスラエルに対する戦時体制をとっているのは、そのためである。

シリア写真

「エルサレムは我々のものだ。」パレスチナとの連帯を示す土産物(ダマスカス、2004年)

2011年に「アラブの春」の一環で始まった内戦は、シリアの抱えてきたポストコロニアルな問題が暴力的なかたちで噴出した現象であった。長年の独裁に対する抗議の声がシリアの各地で上がるようになったが、バアス党政権は軍や治安部隊による弾圧でこれに応じた。その結果、シリアは内戦状態に陥った。

重要なのは、この内戦が体制転換の是非をめぐるものではなく、シリアという国の輪郭のあり方それ自体をめぐる考え方の相違と対立によって進行したことであった。現状維持を目指すバアス党政権に対して、反体制のグループは、民主化を目指す勢力、クルド人の自治や独立を目指す勢力、イスラーム主義による国家建設を目指す勢力など、それぞれ異なる領域、国民、主権についての考え方を掲げて戦った。さらには、これらのグループとの利害関係にしたがって、トルコやイスラエルなどの中東諸国、そして、アメリカやロシアといった域外大国までがこの内戦に介入するようになり、戦火は拡大・長期化した。

そうしたなかで急速に勢力を拡大したのが、「イスラーム国(IS)」であった。ISは、北東部のイラクとの国境付近の広大な地域を実効支配し、そこを拠点に過激で独善的なイスラーム法解釈に依拠した国家を歴史的シリアに建設し、中東の全域に広げていくことを掲げた。それは、20世紀初頭の「シリア分割」以来のシリアという国の輪郭を根本から改変しようとする企てであった。

本稿執筆時点(2022年9月)においては、シリア内戦はバアス党政権の優勢により膠着状態にある。ISは、ロシアが支援するバアス党政権とアメリカが主導する「有志国連合」による軍事作戦の前に敗走し、2017年末までにほぼ壊滅した。反体制のグループによる実効支配地域も、今やイドリブ県の一部のみとなっている。

シリア写真

カシオン山からのダマスカス眺望(ダマスカス、2009年)

しかし、首都ダマスカスやアレッポ、ヒムス、ハマーなどの主要都市こそバアス党政権の支配下に戻ったが、その他の地域では領域的な分断が常態化している。北西部の国境地帯はトルコ、南西部のゴラン高原はイスラエル、南東部は米軍によって占領されており、また、北東部の広大なクルド人地域は事実上の自治区となっている。

10年以上にわたった凄惨な内戦を経て、「アサド家」の独裁によるシリア・アラブ共和国は存続することになったが、そこで暮らす人々にとっては、シリアという国をめぐる考え方においても、実際の政治においても、「シリア分割」に遡るポストコロニアルな課題は未解決のままに置かれ続けている。

書誌情報
末近浩太「《総説》シリアという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, SY.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/syria/country/