アジア・マップ Vol.01 | シリア

《エッセイ》シリアと私
スライマーン・アッワードのこと

新妻仁一(亜細亜大学名誉教授)

  ガラス越しに手招きする男性がいた。情報省で見たおじさんだった。入ると大声で給仕を呼び、お茶をごちそうしてくれた。1970年代末のダマスカスの中心部、サールヒーヤ商店街と交差するアービド通りにあるカフェ・ラウダ。人民議会の近くにあり、多くの政治家や文化人が活動拠点とした由緒あるカフェだ。当時は、第一線を退き、時間を持て余した感のある老人たちがのんびり水たばこを楽しむ姿が目立つ一方、誰かを探しているのか、あるいは何か情報を集めようとしているのか、あわただしく目くばせしながら歩き回る人たちの姿が印象的だった。そうした人たちからアブー・リヤードと声をかけられていたこのおじさんとの出会いは情報省の検閲局だった。日本へ書籍を郵送する際に必要な許可印をもらうため、何度か中央郵便局の裏手にある検閲局に足を運んでいると、日本人がこんな本を読むのか、と声をかけてきた人物だった。

  アブー・リヤードは、カフェ・ラウダではいつも窓際の席にぽつねんと座っていた。シリア人とは思えないくらい上着もシャツも靴も、身に着けるものには無頓着。そしていつもハマの水車がパッケージに描かれている安たばこのナーウーラをくわえていた。ときおりポケットから紙切れの束を出すと、何か書き込んでいた。分かりやすい書体だった。印刷業者が間違えないようにね、とのこと。この人は何か書く人?と思ったまま、世界を見放したような寂しげな表情、そしてナーウーラの煙のせいか、たまに発する絞り出すようなかすれた声が気になって、何も聞くことができなかった。ある日、いつものように声をかけてくる新聞記者のアフマド氏が言った。お前、アブー・リヤードのこと知ってるのか。この人、スライマーン・アッワードだよ。聞いたことのない名前だった。いいか、スライマーン・アッワードは、シリアで初めて散文詩を書いた人。あのアドニスやマフムード・ダルウィーシュもみんなこの人から学んだんだ。そうだよな。アブー・リヤードは、そう、そう、と言いたいのか、はにかみながらも嬉しそうに笑った。詩に生きると言っては大げさかもしれないが、アラブ世界の人々は、詩を人生の糧とし、言葉が醸し出す空気、それに酔う快感を知りつくしている人々である。シリアの人々もその例に漏れない。人を酔わせる言葉を届ける人、詩人は、人々のあこがれ、尊敬の的である。とんでもないことを聞いてしまった。新聞や雑誌の文芸欄に注意すると、ときおりアブー・リヤードの詩やインタビューが掲載されることがあった。韻律に縛られた古典詩の殻を打ち破り、言葉を解放した散文詩の先駆者は、1940年代から作品を発表し始めていたらしい。一度、ダマスカス中の女性が私の詩集を抱きしめていたことがあったかな、と遠い昔を懐かしむかのようにつぶやいたことがあった。1979年、前年久しぶりに出版されたという詩集にサインをしてもらったとき、巻頭の言葉についてちょっと説明してくれた。詩人に無理強いしてはならないということ。書くべきときは詩人が知っているということ。

  1982年6月、イスラエルのレバノン侵攻が始まり、キャンパスの上空を超低空飛行でゴラン高原方面へ飛び去るミグ戦闘機の轟音にただならぬ空気を感じていた頃、カフェ・ラウダにアフマド氏がかけこんできた。今だよ、アブー・リヤード。みんな書いてるぞ。今書かないと。新聞紙上にはシリア軍を鼓舞し、賛美する言葉があふれていた。ここで書いておけば何かメリットがあるようなことをアフマド氏は言いたかったようだ。するといつものように寂しげな表情で遠くを見つめていたアブー・リヤードが、ぎょろっと目を開くと、床に唾を吐きつけ言い放った。イスラエルだろうが、シリアだろうが、レバノンだろうが、人を殺せと叫ぶ人のために詩は書かない。啞然として天を仰ぎ、お手上げという表情でアフマド氏は去っていった。何があったのだろうか。1960年代、そして70年代を通じて、アブー・リヤードは不遇の時代を送り、自らを世捨て人とし、その怒りと苦しみをアラク(酒)とナーウーラで紛らわすしかなかったのだ。アフマド氏は、今が詩人の失われた時代を取り戻すチャンスだと言いたかったのだ。しかしアブー・リヤードにとって、そんなことはもうどうでもよかったのだ。

  1984年1月18日、アブー・リヤードは、いつものようにカフェ・ラウダでお茶を飲んだ後、立ち寄った親戚の事務所で詩作中床に崩れ落ちたという。62年の生涯だった。新聞にはアラブ作家連盟の発表として詩人の死を伝える記事が掲載され、追悼文が寄せられた。数日後、手書きのまま発表された最後の詩は、孤独と悲しみという二つの単語で結ばれていた。詩を味わうにはあまりにもアラビア語に無知なことを承知で思い切って尋ねたことがある。なぜ詩を書くのかと。バラが咲くのに理由がいるか?これが答えだった。

  没後40年が迫る近年、シリアではこの散文詩の先駆者を正当に評価しようとする動きがあるようだ。故郷のサラミーヤに眠るアブー・リヤードは何を思っているだろうか。そしてアレッポから自作の詩を抱え、教えを求めてやってきた若者のように、酔わせる言葉の探究者たちは、今もカフェ・ラウダの窓際の席に師となる誰かを探しているだろうか。

スライマーン・アッワード

スライマーン・アッワード。1981年3月17日。バーブ・トゥーマ(旧市街の一角)の著者の部屋にて。

スライマーン・アッワード

1984年1月22日、最後の詩を掲載したサウラ紙。

スライマーン・アッワード

著者がサインをしてもらった詩集。ルーマニア詩の紹介も手掛けた。

書誌情報
稲妻仁一「《エッセイ》シリアと私 スライマーン・アッワードのこと」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, SY.2.02(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/syria/essay01/