アジア・マップ Vol.01 | シリア

《エッセイ》シリアの都市
ダマスカス旧市街のシーア派

安田 慎(高崎経済大学地域政策学部・准教授)

 シリアの首都、ダマスカスの中心に位置する旧市街の一角に、奇妙な雰囲気を醸し出す地区がある。旧市街の西側に位置するスーク・ミドハト・パシャを貫く「真っすぐな道(al-Shāri' al-Mustaqīm)」を東に歩いていくと、旧市街の中ほど、南へと向かうアミーン通りと交差する地点で、他の地区とは明らかに異なる景観が姿を見せる。普段は通り沿いに土産物屋や小売店、レストランが立ち並び、観光客で大いに賑わう場所であるが、一年のうちのある特定の時期になると、通りが黒い旗や横断幕、劇画調の人物画に埋め尽くされ、人びとの服も黒いものが多くなる。さらに、モスクや公共の場でさまざまな宗教行事が行われているが、旧市街の他のイスラーム地区では、同様の行事が行われる様子は全くない。

 さらに注意深くこの地区の動向を観察してみると、何故かアザーン(礼拝の呼びかけの音声)が他のモスクと違う時間に聞こえてくる、礼拝の回数が異なる、といった奇妙な光景に出くわす。他にも、モスクや公共施設の掲示板に、イランやイラクの聖地ツアーのポスターが貼られている点でも、他地域とは著しく異なった景観を見ることができる。当初は単なる間違いか突発的なものであると考えていたが、何度も見聞きするうちに、どうやらこれは突発的なものではなく、この地区の特徴なのだ、ということに気づく。

写真1:アミーン地区にはためく装飾たち(2010年12月、筆者撮影)

写真1:アミーン地区にはためく装飾たち(2010年12月、筆者撮影)

 いったいこれは何であるのか。ダマスカス旧市街が西側から中央にかけてイスラーム地区が位置し、バーブ・トゥーマ周辺の東側にキリスト教地区が位置するということや、過去にはユダヤ教地区が旧市街の一角に存在していた点は知識としては知っていたが、どうやらそうした一般的知識とは異なる宗教宗派の構成が旧市街には見られるようだ、ということの徐々に気付いていく。シリアにフィールドワークに入った当初、知識の浅かった筆者は、本の中の姿と現実の差異に、ひどく戸惑ったことを覚えている。

 ここで察しのいい読者であれば、この地区がシーア派住民の集住する場所であることと答えるであろう。すなわち、シーア派ではアザーンの時間や礼拝回数がスンナ派と異なる点や、アーシューラ―やアルバイーンといった、シーア派独自の宗教行事が行われていることが、他の旧市街のイスラーム地区とは異なる景観の答えになる。

 実際、アミーン地区(Ḥayy al-Amīn)と呼ばれるダマスカス旧市街の一地区と、その外縁に位置する領域は、ダマスカスにおいて歴史的にシーア派住民、そのなかでも12イマーム派の住民が集住し、独自の宗派コミュニティを形成してきた。現代のレバノンやイラク、イランに信徒が多いこの宗派は、シリア国内では圧倒的な少数派であるにも関わらず、ダマスカスのこの地区に数世紀にわたって独自のコミュニティを形成してきた。実際、現在のシリア全体の人口のなかでは1%未満でありながらも、アミーン地区に集住する住民たちは、シリアにおけるシーア派の歴史において、重要な役割を果たし続けている。シリア国内のシーア派参詣地となっている旧市街・アマーラ地区のサイイダ・ルカイヤ廟や、旧市街に隣接するバーブ・サギール墓地、郊外のサイイダ・ザイナブ廟も、アミーン地区のシーア派住民たちの関与によって維持管理されてきた。

写真2:「真っすぐな道」沿いのアミーン地区(2010年12月、筆者撮影)

写真2:「真っすぐな道」沿いのアミーン地区(2010年12月、筆者撮影)

 しかし、アミーン地区に在住するシーア派を、日本における一般的なシーア派理解を当てはめて理解しようとする、途端に更なる困惑の渦に巻き込まれていくことになる。アミーン地区のシーア派住民たちは、イランやイラクをはじめとする他地域のシーア派とは異なり、とにかく「寡黙」なのである。世界各地のシーア派の間で幅広く見られる殉教語りの儀礼の際も、泣くことも叫ぶこともなく、ただひたすら物語を聞き入っているだけなのである。あるいは、朗唱士の語り口調も淡々と歴史物語を語るだけで、そこには感情を揺さぶるような動きは一切見られない。いわゆる「シーア派的な」構図を期待していた筆者にとって、特筆すべき動きが一切ないこの光景は、何とも居心地の悪さとともに、時に苦痛を感じる一時でもあった。

 しかし、この動きのない宗教実践の数々は、むしろダマスカスのシーア派を特徴づけるものとして論じることができる。ダマスカスのシーア派が他地域とは著しく異なった特徴を保持してきた背景には、20世紀初頭にダマスカスに招聘された南レバノン出身のシーア派法学者、ムフスィン・アル=アミーン(Muḥsin al-Amīn, 1867-1952)と、その後継者のシーア派法学者たちの影響がある。西暦1900年にダマスカス旧市街のシーア派住民の招聘に応じて、イラクのナジャフから移住してきたムフスィン・アル=アミーンは、当時のダマスカスのシーア派住民たちの間ではびこっていた「後進性」を嘆き、住民たちの宗教生活の抜本的な改革に着手する。慈善活動や教育施設の充実に伴うシーア派住民の生活レベルの向上とともに、「正しい」シーア派の宗教実践の普及に努めてきた。その際、ムフスィン・アル=アミーンはアラビア半島をはじめ、各地をめぐって収集した歴史史料の編纂作業を通じて描き出した「史実」に基づく、正しいシーア派の語りを普及させるいった。さらに、宗教儀礼のあり方についても、身体を傷つける行為や、過剰な演出を厳しく戒める動きを徹底していった。

写真3:ダマスカスのシーア派の改革者、ムフスィン・アル=アミーン(左)とダマスカスのシーア派コミュニティの後継者たちの肖像画(2010年12月、サイイダ・ザイナブ廟内にて筆者撮影)

写真3:ダマスカスのシーア派の改革者、ムフスィン・アル=アミーン(左)とダマスカスのシーア派コミュニティの後継者たちの肖像画(2010年12月、サイイダ・ザイナブ廟内にて筆者撮影)

 ムフスィン・アル=アミーンが20世紀前半に行った一連の改革は、後のダマスカスのシーア派住民や法学者たちの間でも引き継がれ、現在にまで至っている。むしろ、シリアが20世紀後半に世界各地からのシーア派参詣客を受け入れるようになり、21世紀に入ってからも観光振興を図っていく中で、ダマスカスのシーア派は外部のまなざしに晒されていくことになる。外部のまなざしに晒されていく過程で、アミーン地区のシーア派住民たちは、自分たちの独自性をグローバルな文脈のなかに位置づけなおすことによって、宗派コミュニティの結束を強めてきた。一連の歴史的事実を知り、寡黙に淡々と行われるアミーン地区のアーシューラ―・アルバイーンの行事を見るにつれ、ダマスカスのシーア派が積み重ねてきた歴史の蓄積を感じることになる。

 2011年のシリア騒乱以降も、アミーン地区におけるシーア派住民たちは、自分たちの宗派コミュニティを維持するために、独自の宗教実践を行い続けている。むしろ、外部のまなざしに晒されていくことが、彼らの独自性を担保する、一つの強い原動力となっていることを感じている。

書誌情報
安田慎「《エッセイ》シリアの都市 ダマスカス旧市街のシーア派」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, SY.4.04(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/syria/essay02/