アジア・マップ Vol.02 | フィリピン

《総説》
労働移民大国としてのフィリピン

細田尚美(長崎大学多文化社会学部 准教授)

 現代フィリピンの特徴の一つは、北米、中東、アジア、オセアニアなど世界各地の様々な産業分野で働いている人の多さだ。フィリピンの地方私立大学の学生に「家族や親戚のなかに現在外国で暮らしている人はいますか」と尋ねてみたことがあった。すると、約4分の3の学生が「いる」と答えた。滞在先で多かった国は、米国と中東(特にサウディアラビアとアラブ首長国連邦(UAE))、次いでアジアの国々だった。続いて、「自分自身も海外で働きたいですか」と尋ねると、約3分の2の学生が「働きたい」と回答した。理由は「給料がフィリピンより高いから」「外国で暮らしてみたいから」「家族を助けたいから」など様々だった。

 以下では、労働移民送り出し大国として知られるようになったフィリピンの様子について、その特徴、労働移民拡大の歴史、世界に散住して暮らす人たちの生活、フィリピン社会への影響――の4点からみてみよう。

労働移民大国フィリピンの現状と特徴
 海外就労は、フィリピンにとって大きな意義を持つ現象だ。国外在住のフィリピン人は1000万人を超え、その割合は総人口の1割に達しているとされる。その内訳は、米国を中心とした欧米などで永住権を得て長期滞在する人たち(約5割)、中東やアジア等において就労などのために国外に一時的に滞在する人たち(約4割)、非正規の身分のまま国外に滞在する人たち(約1割)と考えられている。フィリピンの中央銀行が発表した国外在住フィリピン人からの送金額は、2022年の時点で、361億米ドルだった。この額は同国のGDPの約1割に値する。コロナ禍初期の2020年は、送金額が前年よりも約5%減ったが、翌2021年には増加に転じ、過去最高を記録した。国外在住者からの送金は、フィリピン経済の動向を左右する重要な要因の一つとみなされている。

 フィリピンと同様に、国外在住者からの送金額が大きい国として、人口が多く、長い移住の歴史がある中国やインドがよく知られている。また、米国と陸続きのメキシコも米国への大量移民送出国として有名だ。これらの国々と比べたときに際立つフィリピンの特徴として、①政府が海外就労を国策と位置付け、海外就労者(overseas Filipino workers)の送り出しや管理に積極的に関与している、②海外就労先が、ほぼ全世界(2015年現在170ヵ国以上)に広がっている、④職種も技師や看護師といった専門職から家事労働などの単純労働者まで多岐にわたる、⑤女性の割合が半分かそれ以上と高い、⑥船員として働く人の割合が高い(海外就労者全体の2割程度)――といった点が挙げられる。

フィリピンからの移民の歴史
 フィリピンが労働移民大国になった背景には大きく二つの流れがある。一つ目は先に述べた欧米への永住型の流れである。19世紀末、フィリピンが米国の植民地となった直後から始まり、農園労働者から医師、看護婦、技師、歯科技工士までもが米国へ渡り、その多くは定住した。この流れは、カナダやオーストラリア、さらには欧州の移民受入国にも広がった(写真1)。近年は受入国側で移民の定住化に慎重になる傾向がみられ、フィリピンから欧米への移民の増加は鈍化している。

 もう一つは、現在主流となっている契約期間だけ国外で働くための一時的な流れだ。始まったのは1970年代である。1973年のオイルショックで経済的打撃を受けたフィリピンでは、政府が不況の打開策として、仕送りを目的とした国民の一時的な海外就労を「労働力輸出」と呼び、これを促進し始めた。1995年には海外就労者を保護する体制も法律で明文化した(写真2)。海外就労現象の広がりに注目してみると、前者の流れは基本的に個人的な移動や家族の伝手によるもので、規模としては限定的だった。だが、後者の場合、国家や民間の職業あっせん業者が積極的に介在した。ゆえに、それまで国外に伝手のなかった国民も、多種多様な職種や国の雇用機会に手が届くようになった。その結果、当初は不況時の一時的打開策として始まった海外就労者の流れは国民の間に定着し、恒常的なものとなった。2022年には、海外就労者にかかわる政府部署を一カ所にまとめる目的で「移民労働者省」が設立されたほどだ。

 移動する人たちの視点からすると、これら二つの流れは別々のものとしてとらえられてはいない。欧米で暮らせることは多くのフィリピン人にとって憧れだが、外国で永住権をとることは今の時代、容易ではない。そこで初めに、仕事を手に入れやすい中東やアジアへ行き、そこで経験を積んだり、幸運な出会いを探したりして過ごしながら、欧米に行ける日を待つという考え方がある。

 さらに近年、欧米での移民排斥や人種差別の顕在化の一方で、アジアや中東の一部の大都市では便利で安全な生活が一時滞在の外国人でも享受できるようになった。くわえて、中東やアジアでは一定水準の給与を得ている専門職系の外国人には、家族帯同を認める国が増えている。結果として、海外就労者などの一時的な滞在身分のまま、アジアや中東で長期にわたって暮らす人も出現している。

ディアスポラ生活
 そこで注目したいのが、ディアスポラ(diaspora)という考え方だ。ディアスポラとはギリシャ語で「散らされている者」を意味し、かつては特にユダヤ人の離散状態を指す言葉だった。だが、その後、ユダヤ人に限らず、越境移動し世界各地に住む様々な民族集団についても使われるようになった。輸送通信技術の発達などによって、現在では、国境を越えて移動することも、つながりを維持することも容易になった。このような時代に、ディアスポラという言葉が表現しようとしているのは、別の国に長期間暮らし、ときには世代が代わっても、祖国に対して強いつながりを感じる移民たちの複雑なアイデンティティや思いである。

 その例を、海外就労者がもっとも集中している、中東の湾岸アラブ諸国(UAE、オマーン、カタール、クウェート、サウディアラビア、バハレーンの6カ国)からみてみよう。産油国として有名なこれらの国に、約250万人のフィリピン人が家事労働者、販売員、ホテル従業員、工場労働者、事務員、看護師、技師などとして働いている。かれらのなかには、先述のように、一時的滞在者という身分のまま、契約を更新して長期に働き続ける人が多く、ここでは多様なディアスポラの生活風景が見られる。

 かれらの話によると、湾岸アラブ諸国での仕事は長時間労働を強いられ、解雇になれば即刻国外退去となるなど滞在身分が不安定なうえに、生活面では結社の自由や表現の自由が制限されているためストレスがたまるという。他方、フィリピンに比べて高い給与が得られ、治安が良く、都市インフラも整備されているため、職場や生活環境に慣れてしまえば、住み心地は悪くないと語る。湾岸アラブ諸国では受入国への社会統合はなされないため、長期滞在者にとっては「仕事だけで、楽しみがない」ことが問題だが、地域内に無数にあるフィリピン人コミュニティがディアスポラ生活を送る間の大家族の役目を果たしている。

 コミュニティの核となっているのは、職業、趣味、出身地、宗教(宗派)、出身大学等に基づく団体である。各団体は、結社の自由の制限に注意を払いながらも機会があるごとにメンバーが集まり、神へ感謝しながらフィリピン料理を食べ、情報交換や助け合いをする。助け合いはメンバー内にかぎらない。雇用主の家で虐待されシェルターに逃げてきたフィリピン人家事労働者に対し炊き出し(写真3)や帰国費用のカンパといった支援をしたり、フィリピンでの災害時には義援金を送ったりする。

フィリピン社会への影響
 海外就労が日常生活の一部となったフィリピンでは、それをいかに社会の一部としてとらえ、国民のよりよい生活や幸せに結びつけるかが課題になっている。たとえば、長期にわたる親の不在が子どもの養育に与える影響、配偶者の不在がもう一方の配偶者との関係に与える影響などは、海外就労の負の側面だとしばしば指摘されている。また、世界各地で頻発する災害や紛争に巻き込まれたり、コロナ禍のような感染症の世界的流行時には容易に帰国できなくなるなどのリスクも高まる。さらに、本来ならフィリピンの発展に直接的な形で貢献するだろう優秀な人材が流出しており、フィリピン国内の発展が阻害されているとの見方もある。くわえて、国外で稼いだ資金や、得た技術・知識がフィリピン国内の産業育成や地域振興に結びつくことが期待されているが、それが実現しているとは言い難い。海外からの送金は生活費にあてられるほかは、自宅の改築、子どもの教育、零細ビジネスへの出資、貯蓄や不動産購入などに使われ、海外就労者が主導する形で、社会全体の発展に結びつくような動きにはなかなかならない点も課題である。

 このような海外就労の負の側面のために、労働移民大国として知られるフィリピンを経済発展に失敗した国とみなす見方は存在する。だが、21世紀の今日、世界各国は、急速に進むグローバル化に適応する方法を模索している。フィリピンでは世界に先駆けて、政府の積極的関与のもと、人々が国外で働くことが広まった。その結果、政府は、世界各地の多様な職種で働く国民を管理し、自国の発展へと結びつける道を模索しているのである。フィリピンの経験と将来は、日本を含む世界の国々にとって人の労働移動の加速化といかに付き合っていくかを考えるうえで学べる面が多いともいえるだろう。

写真1

【写真1】マニラ首都圏にある私立大学の看護学部での授業風景。看護は海外で働きたい若者にとって人気の学部。授業はすべて英語で行われている。

写真2

【写真2】マニラ首都圏で実施されている海外就労者向けの渡航前セミナーの様子。海外滞在中の心構えや自身の身の守り方について学ぶ。海外就労者は本セミナーを受講しないと出国できない。

写真3

【写真3】UAEにおいて、シェルターに逃げてきたフィリピン人の家事労働者(右側)と、その人たちのために炊き出しを行うフィリピン人コミュニティのメンバーたち。

書誌情報
細田尚美,《総説》「労働移民大国としてのフィリピン」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, PH.1.02(2024年5月7日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/philippines/country/