アジア・マップ Vol.02 | フィリピン

《エッセイ》フィリピンの都市
英語学校のまちとなった「クラーク」と若者たちの移動

李 定恩(立命館大学衣笠総合研究機構・専門研究員)

 フィリピンは、労働力の送り出し国としてもっとも知られた国の一つである。東アジアから中東、そして欧米諸国にいたるまで、フィリピン人はホスト社会の不足する労働力の一端を担っている。他方で、アメリカ統治時代に軍事戦略の一環として導入され(岡田 2014)、現在もなお広く使われている英語は、グローバルな経済の拡大とともに「再発見」され、今日海外の資本や人々をフィリピンのさまざまな都市へ惹きつけている。

 フィリピンの首都・メトロマニラから車で約2時間北上するとたどり着くクラーク(Clark)は、まさにそうした都市である。正確にいうと、クラークは、1993年に地域の経済発展を目的に設置された「特別経済区」であるが、その成り立ちを知るには、アメリカの統治時代にまで歴史をさかのぼる必要がある。

 1903年、フィリピンの先住民であるアエタが先祖伝来の土地として暮らしてきた土地に、「クラーク」と名づけられた米軍基地が設立された(吉田 2018)。おおよそ15万6千ヘクタールにもおよんだこの基地は、アメリカ国外にある基地としては最大のものであるといわれた。またクラークに隣接するパンパンガ州アンヘレス市は、米軍がもたらす基地産業の影響を大きく受けており、とくに性産業が盛んだった。

 ところが、ピナトゥボ山の噴火の影響や基地の使用期限の満了によって、1991年に基地はフィリピン政府に返還された(ibid. 2018)。その2年後の1993年、クラーク基地には「クラーク特別経済区」としてグローバル化時代にフィリピンの商業・観光ハブを担う新しい役目が与えられるようになった(Gonzalez 2013)。しかしそれはクラークにおける米兵や基地に依存する経済構造がなくなることを意味するものではなかった。クラークは観光客や投資家たちを惹きつけるために、基地のインフラに依存したり、引退した元米兵たちを再び招き入れたりしようとしたのだった。

 一方で、昔とは大きく変わった風景もある。クラーク国際空港は、韓国や台湾、日本などアジア諸国との定期便を増やし、アジアからの観光客をこのまちへ運んでいる。次第にアンヘレス市の一角には、観光客を対象に商売をする韓国人が集まるようになり、「コリアタウン」が形成されるようになった。

写真1. アンヘレス市の一角に位置するコリアタウン
  2000年代初めに韓国とクラーク間の定期便の運行が始まると、韓国人観光客が急増し、韓国人観光客を対象にする食堂やホテルなどが増え、コリアタウンとよばれるようになった(筆者撮影)。

写真1. クラークとアンヘレス市の境界に位置するコリアタウン
2000年代初めに韓国とクラーク間の定期便の運行が始まると、韓国人観光客が急増し、韓国人観光客を対象にする食堂やホテルなどが増え、コリアタウンとよばれるようになった(筆者撮影)。

 2010年代以降、クラークにはもう一つ著しい人の移動が見られるようになった。英語留学を目的にクラークへやってくるアジアの若者たちである。日本でもお馴染みのフィリピン英語留学は、フィリピン人の英語力にいち早く目をつけた韓国人移住起業家たちによって始まった。フィリピン英語留学は、手頃な留学費用に加え、「マンツーマン授業」や「全寮制」などが、アジアからの留学生の間で人気をよんでいる(李 2020)。とりわけクラークは、ここ数年フィリピン国内の中でもっとも人気のある留学先の一つとなっている。英語学校の周辺には次々とお店ができたり、交通信号などのインフラが整備されたりするなど、まちの風景をも大きく変えている。

写真2. 筆者が調査していた「クラーク」の英語学校
   英語学校の敷地には、教室や寮だけでなく、学生たちが外出せず余暇時間
  を過ごせるようにカフェやプール、バスケットゴールネットなども揃っている。

写真2. 筆者が調査していた「クラーク」の英語学校
 英語学校の敷地には、教室や寮だけでなく、学生たちが外出せず余暇時間 を過ごせるようにカフェやプール、バスケットゴールネットなども揃っている。

写真3. 英語学校の「マンツーマンの授業」が行われるキューブ型の教室
   この教室でフィリピン人英語講師と留学生は肩を並べ、午前から午後遅くまで英語を勉強する(筆者撮影)。

写真3. 英語学校の「マンツーマンの授業」が行われるキューブ型の教室
 この教室でフィリピン人英語講師と留学生は肩を並べ、午前から午後遅くまで英語を勉強する(筆者撮影)。

 皮肉にもクラークが新しい留学先として人気を集める理由もまた、基地の歴史とかかわっている。英語学校の経営者たちや留学代理店などが、クラークの基地の歴史と英語学校を結びつけ、クラークのことを「ネイティブ」英語話者が多く暮らし、「ネイティブ」英語が学びやすい地域であると積極的にアピールしているのである。なかには、アンヘレス市にある英語学校がアンヘレス市の性産業のイメージを払拭し、クラークのポストコロニアルなイメージに便乗するため、自らを「クラーク」の英語学校として宣伝することもある。実際このまちの英語学校が「ネイティブ」講師として雇用しているのは、元米兵などで今は引退移住者としてこのまちに暮らす欧米出身の高齢の男性たちである。

 ではなぜ留学生たちはクラークを留学先に選んでいるだろうか。ここで学ぶ留学生たちの多くはこのまちを経て、第3国でのワーキングホリデーや留学の予定を控えていることが多く、手頃なフィリピン英語留学を通して、「ネイティブ」英語にいち早く慣れておきたいのだと話していた。アジアの若者たちがこのような複数の国際移動を計画する理由は、競争の激しい雇用市場や社会的プレッシャー、決められたライフコースから抜け出して、新しいライフスタイルを試すためであり、その上で彼らは、「コスパがいい」フィリピン英語留学、その上「ネイティブ」英語に触れることができるクラークを選んでいるのであった。

 ところが、私が英語学校での調査をつづけるうちに、クラークの英語学校を経て複数の移動を経験するのは留学生たちだけではないということがわかった。フィリピン人英語講師たちもまた複数の移動を経験し、新しい移動を控えながら、英語学校で働いていたのである。2000年前後から、フィリピンの若者たちは英語コミュニケーションスキルを駆使し、アメリカなど英語圏企業のコールセンターで働くことが多くなった。英語を使うという共通点もあり、英語学校で働いている講師の多くがコールセンターと英語学校の間を移動しているのであった。英語講師たちは、契約の打ち切りやコールセンターの厳しい労働環境、あるいは英語学校の安い給料などを理由に、二つの仕事を行き来していた(Lee 2022)。クラークの英語学校の学生たち、そして英語講師たちの関係は、英語を教え教わる関係を超えて、英語を媒介に複数の移動を経験する若者同士の、英語学校という場での邂逅として位置づけることができる。

 この出会いは、ただ同じ空間にいることを意味しない。フィリピン人講師たちと日本や韓国などから集まった若者たちは、互いに学び合い、影響しあう存在であった。気があった講師と学生たちは週末もカフェで一緒に勉強したり、モールへ出かけたり、ふだん英語学校では経験できない現地の生活を楽しむ姿を見かけることも度々あった。留学生たちはこのような経験を通して、メディアが描くステレオタイプ化したフィリピンのイメージから、立体的なフィリピンを経験するようになっていた。最初にこのまちを選んだ理由であったはずの「ネイティブ」講師よりも、フィリピン人講師の方が親身でやさしく、授業もわかりやすいという学生たちの声も次第に多くなった。経営者や留学代理店などのビジネスマンたちは基地とまちと英語を結びつけ、「ネイティブ」英語への願望を掻き立てていたけれど、留学生たちにとってもはやそれは大事なことではないようだった。

 英語講師たちもまた留学生たちとの出会いを通して、「さまざまな国の文化と価値観を知って、まるで人生を学んでいるみたい」と筆者に語るなど、英語学校で得た価値観で新しいライフスタイルを形成することへの喜びと誇りが感じられた。これは同じ英語を使う仕事でも、コールセンターやデータ入力の仕事では決して得られない経験だと、笑顔で話してくれたのだった(ibid. 2022)。

写真1. アンヘレス市の一角に位置するコリアタウン
  2000年代初めに韓国とクラーク間の定期便の運行が始まると、韓国人観光客が急増し、韓国人観光客を対象にする食堂やホテルなどが増え、コリアタウンとよばれるようになった(筆者撮影)。

写真4. 調査で出会った英語講師Jと筆者
   (筆者撮影)

 しかしそうした出会いの中でも、フィリピンと日本や韓国などの諸国間に横たわる構造的格差はさまざまな形で現れる。留学生たちの持ち物や消費行動は、若い講師たちに先進国の消費文化を間接的に体験させ、新しいライフスタイルへの欲望を掻き立てる。現地調査の中でも次第に、英語講師たちから海外へ働きに行きたいという話を聞くことが増えてきた。実際筆者が調査を終え日本に帰ってから、数人のフィリピン人英語講師たちが日本や中国、ベトナムなどへ英語講師として旅立った。

 また、留学生の中には、今ではアジアの男性たちが主な消費者となっているアンへレス市の性産業の新たな消費者となる者もいる。一部の留学生たちは、「安いから」「日本ではできない経験」として、金曜の夜になると気軽にアンヘレスの夜の街へ出かけていったのだった。

 これまで述べてきたように、元々先住民の土地であったクラークは、アメリカの軍事主義を象徴する「基地」、そしてグローバル化と新自由主義の要請を受けた「特別経済区」へと、時代によりその形を大きく変容させてきた。今日では、クラークのポストコロニアルな遺産を引き継いだ英語学校を舞台に、フィリピンへやってくるアジアの若者たちとフィリピン人英語講師たちの複数の移動が繰り広げられている。そんな中で出会う留学生たちとフィリピン人英語講師たちは、他者を新たに発見する契機を見出すと同時に、両者の間に横たわる現実を突きつけられ、新たな欲望を掻き立てられることもある。

 今日もクラーク(とアンヘレス市)の英語学校には英語を教え学びながら、新しい他者と出会い、次の移動を見据え新しい夢をみる若者たちがいることだろう。

 【参考文献】
李 定恩「フィリピンの英語学校のトランスナショナルなネットワークと実践:フィリピンの英語学校はどのように留学生を引きつけているか」『移民研究年報』26, 65-80, 2020。
岡田泰平『「恩恵の論理」と植民地:アメリカ植民地期フィリピンの教育とその遺制』法政大学出版局, 2014。
吉田 舞 『先住民の労働社会学 フィリピン市場社会の底辺を生きる』風響社, 2018。
Gonzalez, Vernadette Vicuña. 2013. Securing Paradise: Tourism and Militarism in Hawai'i and the Philippines. Duke University Press.
Lee, Jung-Eun. 2022. English Ability, Transnational Business, and the Global Labor Market: The Case of Instructors in English Language Schools in the Philippines Promoted by Korean-Filipino Enterprises, Journal of the Asia-Japan Research Institute of Ritsumeikan University, 4 , 18-35.

書誌情報
李定恩「《エッセイ》フィリピンの都市(クラーク)」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』2, PH.4.01(2024年4月1日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/philippines/essay02/