お笑いブームなどといわれ、さまざまなメディアでお笑い芸人が人気を博している。鳶野克己は、「生きること」「死ぬこと」の根幹を貫く「おかしさ」を解き明かしつつ、日常的でありながら、人生の絶望と希望、さらには魂の救いにまで及ぶ人間学的問題として、「笑い」について探究している。
滑稽な・いぶかしい・すばらしい
「おかしい」の三つの意味
「笑うと、元気になる」などといわれることがある。
「笑い」は、医療や教育、福祉など多様な領域で研究され、その効能についても実証的なデータが蓄積されている。「心身の健康や、円滑な人間関係・コミュニケーションにおける笑いの意義や価値に異論をはさむつもりは毛頭ありませんが、そうした効能や機能を超えて、笑いは、人間としてのあり方の深いところにつながっているのではないかと考えています」。そう語るのは、人間学の観点から「笑い」を研究する鳶野克己だ。「笑いは身近で日常的な経験でありながら、人生の絶望と希望、果ては魂の救いの問題にまで及ぶ極めて興味深い人間学的事象です」と言う。
「まず笑いを呼び起こす『おかしい』という言葉を国語辞典で引いてみると、総じて大きく三つの語義が示されます」と鳶野。一つ目は「笑いたくなるようなおもしろさ。滑稽なさま」、二つ目は「いぶかしいさま。奇異だ。変わっている。怪しい」、そして三つ目は「心が強く惹かれるさま。すばらしい。美しく魅力的だ」となる。「笑いは、『滑稽なおもしろさ』に接した時だけに現れるものではなく、『奇妙ないぶかしさ』や『魅力的なすばらしさ』に感応して生じる笑いがあります。この三種の『おかしい』は、人間として生きる上での根源的な感覚なのではないでしょうか」と問いかける。
「生きること」の根幹にある「おかしさ」をひも解く
「生きること」の根幹を貫流する「おかしさ」の一つとして鳶野は、「生まれてきたことのおかしさ」を挙げる。
例えば、子どもが親に「なんでわたし(ぼく)のこと産んだん?」と訊いたとする。子どものことを思いやった常識的な回答は、「あんたが欲しかったから」だろう。しかし、この応答には欺瞞が潜んでいる。他でもない「このわたし(ぼく)」が生まれてくることは、親にはわからないからだ。次に「子どもが欲しかったから」という回答もあるだろう。これは親にとって真情に近い物言いかもしれないが、「ほな、別にわたし(ぼく)やのうてもよかったんちゃうの」というツッコミを免れない。最後に鳶野は、「なんでやろ、ようわからん、おかしいなあ」という言い方を提示する。「別にあんたやなくてもよかった」というのだ。一見突き放した表現だが、この後に、親は次のように語り添えることができるという。「誰でもよかったのに、どういうわけか、たまたまあんたが生まれてきた。それが見事に大当たりや。大当たりはみんなたまたまや。説明なんかつかん。説明つかんたまたまのあんたやからこそ、ほんまにうれしい」と。
「下調べをして、品定めして選んだわけではない、たまたま生まれてきた子を、無条件に『大当たり』と喜んで受け入れる。それが最も値打ちのあることだと思うのです」と鳶野。自分がこの世に生を享けた根拠を問い質しても、答えを得ることはできない。「『わからない』という応答に接することは、子どもにとって、人間として生まれてきたことの根源的な『おかしさ』の感覚に触れることでもあります。いくら問うても、生まれてきたことは『いぶかしい』。だからこそ『すばらしくて魅力的』だといえます」

「あの世」に込められた「おかしさ」と救い
一方で鳶野は、「死んでいく」ことにも「おかしさ」を見る。
「死んだら『あの世』へ行くという言い方があります。『この世』と対をなす言葉ですが、『あの世』という語も『おかしい』」と言う。「この世」の誰も、「あの世」を知らないのに、「あの世」と言い表して話が通じる。ある意味、これほどばかばかしく滑稽な言葉はない。「しかし『あの世』という語には、人が『この世』を生きていくための切実で深い知恵が込められているように思います」と続ける。大切で身近な人の死に接することは、泣いても泣き切れないほど辛く悲しい。その時、人は「あの世でまた会える」「あの世で待っていて」と言うことで、救われる心地がするというのだ。
人は例外なく、否応なく死んでいく。「でも誰も帰ってこないところを見ると、『あの世』は、よっぽどええところなんやろうなあ。いっぺんくらいは行ってみたいもんです」と笑う鳶野。死ぬことにさえ「おかしさ」を見出す感覚に救われ、人は生き続けることができるのだろう。
最後に鳶野は、「生まれてきたこと」から「死んでいくこと」までの、いかんともしがたい人生の「おかしさ」を生き抜くすべとして、「ぼやき」を挙げた。「ぼやく」とは、辞書的には「ぶつぶつと不平を言う。小言を言う」という意味である。例えば、社会や世間の理不尽を前にして、人はしばしば、特段有効な行動に出ることなく、ただひたすらぼやく。それはややもすれば非生産的で、後ろ向きな振る舞いに見える。「しかし、ぼやくことで、思い通りにならない現実を、その思い通りにならなさのまま、『しゃあないなあ』と受け入れるのです。『ぼやき』は、単なる不平や小言ではなく、理不尽な現実を、生きる上でのどうしようもなさとして噛みしめ味わう言説のような気がします」と言う。「ぼやくことは、『いぶかしさ』と『滑稽さ』に溢れた人生のいかんともしがたさを痛切に自覚しつつ、それを『生きることのおかしさ』として深くいつくしみ、いとおしむこと」と語った鳶野。「生きること」そして「死ぬこと」に注がれる鳶野の眼差しは、柔らかな笑いに満ちている。