立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2014.05.13
<学園史資料から>広小路存心館を模したオルゴールたち
こちらの小さな展示ケースが、現在史資料センター準備室の唯一の展示スペースとなっています。
見て頂きたい資料は沢山あるのですが、なにぶんケースが小さいため、一月一資料のペースで展示を行っております。
今月の展示は、広小路キャンパス時代の存心館を模したオルゴールです。
色や模様が少しづつ違う、オルゴールを3つ展示しています。
底にあるネジを回し、左下に付いた引出しを開けると学生歌が流れてくる仕組みです。
「広小路キャンパスの存心館と学生たち(1979年)」の写真と共に展示しています。
2014.04.22
<懐かしの立命館>小林祝之助の生涯 ―異国の大空に翔けた夢― 前編
目次
はじめに
1.清和中学校から立命館大学へ
2.飛行機との出会い―フランスへの決意
(1) 武石浩玻との出会い
(2) 荻田常三郎を知る
(3) フランスへ
3.第1次世界大戦に参戦―仏国陸軍飛行隊
4.その後の小林祝之助
(1) 南座での活動写真上映
(2) 追悼―立命館中学『清和』の記事
(3) 顕彰―小林君之碑
(4) ポアンカレの勲章
むすび
はじめに
左京区浄土寺真如町の真如堂境内に「小林君之碑」(おばやしくんのひ)が建っている。小林祝之助(おばやし・しゅくのすけ)(注1)を顕彰する碑である。第一次世界大戦の際にフランス軍航空兵としてドイツ軍機と戦い戦死した小林祝之助の記念碑である。
戦死したのは大正7(1918)年、生年は明治25(1892)年であり26歳を迎えようとする若さで異国の地、いや空で亡くなった。しかもヨーロッパの戦争で。
明治36(1903)年ライト兄弟が初飛行に成功し、大正3(1914)年の第1次世界大戦開戦により初めて飛行機が軍用機として使用されるようになった時代であった。
そのような時代に、遠い異国の空で若い命を終えた小林祝之助とは、一体どのような人物だったのだろうか。
1.清和中学校から立命館大学へ
小林祝之助は明治25年7月15日、京都市上京区(現在は左京区)鹿ヶ谷の大豊神社の神職小林忠一の長男として生まれた(注2)。
父忠一は鳥取県の出身で、祝之助が鳥取県で生まれたのち京都に移住した(注3)。忠一は大豊神社の宮司となる前に、一時期宇治市木幡の許波多神社(木幡神社)の神職をしている。祝之助が錦林小学校にあがる前のことである。
大豊神社は哲学の道から疏水に架かる大豊橋を渡り参道を東にのぼる。神社は平安時代前期の仁和3(887)年に東山の椿ヶ峰を御神体として創建され、現在の地に鎮座したのは寛仁年間(1017~1021)という。祭神は少彦名命、菅原道真、応神天皇である(注4)。境内には珍しい阿吽の狛ねずみがいて子歳の初詣は大いに賑わいをみせる。狛ねずみは昭和44年の建立で、小林祝之助の実弟常喜氏の考案という。他にも狛猿や狛鳶がいる。
大豊神社で育った祝之助少年は学齢になると岡崎町入江(平安神宮北側)の京都市第一錦林尋常小学校(以下、錦林小学校とする)に通った。2年の高等科修学を経て(注5)、明治40(1907)年に寺町広小路にあった清和中学校に進む。のちの立命館中学である。無試験で第1学年に入学、入学の日は4月18日である。しかし明治42年9月27日に家事都合ということで一度退学している。
明治45年補欠試験に合格し4月8日再び清和中学校に入学、学年は第3学年に入学することとなった。
しかし祝之助少年は大正2(1913)年3月25日、清和中学校を再度退学した。退学理由は校則第15条第5項となっている。清和中学校は大正2年12月に財団法人立命館が設立されるとともに校名を立命館中学と改称したが、このときの立命館中学規則の同条同項は「出席常ならざるもの」となっているから、出席日数の不足によるものであろう。
祝之助少年の学業成績表には、明治41年第1学年と明治42年第2学年の履修科目が記録されている。明治41年はおそらく明治41年3月時点での第1学年時の、明治42年は明治42年3月時点での第2学年時をさしていると思われる。
2年間にわたり履修している科目と1年のみの科目があるが、祝之助少年だけでなく他の生徒も同様であり、同一科目を2年続けて履修するのは当時の履修制度によると思われる。
祝之助少年が2年にわたって履修した教科・科目は修身、国語及漢文(国語、漢文、作文習字)、英語(読方解釈、文法作文、会話書取習字)、歴史(日本)、地理、数学(算術)、図画、体操である。また1年のみの履修は、1学年で博物(鉱物)、2学年で数学(代数)、博物(植物)であった。
再入学した明治45年(大正元年)の履修については記録されていない(注6)。
大正元年12月発行の『清和』第2号に掲載された「在学生一覧」によると、小林祝之助は第4学年2組に名を連ねている。同じ4学年の1組には宮崎周三、南部吉郎、2組には大野木秀次郎らの名が見える。南部吉郎は、2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎の父である。大野木秀次郎は、戦後参議院議員・国務大臣などを務めた。なお第3学年に安田嘉一の名が見える(注7)。
翌年の『清和』第3号には小林祝之助の名は見当たらない。
前述のように大正2年12月に財団法人立命館が設立され清和中学校が立命館中学になると、同時に京都法政大学も立命館大学と改称した。西園寺公望の私塾立命館の名を継承したのである。大正4年3月発行の『立命館学報』第2号に小林祝之助の名が掲載されている。同号の「立命館大学部並専門部学生氏名(大正4年1月末調)」の専門部第一学年法律科に名を連ねている。同期には後に立命館専務理事となった竹上孝太郎の名もある。
それ以外に資料が確認できないので推測であるが、当時の学制からすると立命館大学には大正3年9月に入学し(立命館大学の名称となって最初の入学である)、翌年の2月から5月頃の間に退学したか、在学のままフランスに渡ったと思われる。なお、当時専門部への入学資格は中学を卒業していなくても同等の学力があればよいとされていた。
2.飛行機との出会い―フランスへの決意
小林祝之助の退学のきっかけは何であったのか、飛行機への夢をどのように育んでいったのだろうか。
(1) 武石浩玻との出会い
日本における飛行機の初飛行は明治43年12月、徳川好敏、日野熊蔵両大尉に始まるとされ、この頃から日本では飛行機への関心が高まっていった。そうした中で飛行機に魅せられた一人に茨城県出身の武石浩玻(1884~1913)がいた。武石は明治35年旧制水戸中学の卒業を前に外国への志を抱き、翌年アメリカに渡りその後飛行術を習い、明治45年アメリカにおいて万国飛行免状を取得した。翌大正2年4月に帰国すると、大阪朝日新聞社は武石浩玻に成功すれば功労金1万円を出すという約束で京阪都市連絡飛行を計画した。
飛行は西宮の鳴尾競馬場を発ち大阪城東練兵場を経由して京都の深草練兵場を往復するというものであった。
5月4日、その日は日曜日で快晴であった。10時22分に鳴尾を発ち、10時40分大阪城東練兵場に着陸。12時31分に京都深草練兵場に向けて飛び立った。12時50分には練兵場から機影が見え練兵場に接近したが、12時55分過ぎに墜落し、武石浩玻は搬送された病院で絶命した。28歳7ヵ月であった。
錦林小学校、清和中学校と最も親しい友人であった高見孝一(注8)によると小林祝之助が飛行家になろうとした動機は武石浩玻が深草で犠牲になった頃からというから、小林祝之助も深草練兵場でこの事故を目撃したと思われる。
深草練兵場は陸軍第十六師団の軍事施設の一つで、明治41年に設置された。現在の龍谷大学深草学舎の南側で、師団街道と竹田街道に囲まれた周囲約4km、35万坪ほどの広さがあり、東に稲荷山を望むことができた。
その深草練兵場に初めて飛行機が飛来したのが、上記の武石浩玻による京阪都市連絡飛行であった。
練兵場は武石を迎えようと、久邇宮連隊長、長岡外史師団長、知事、市長などをはじめ観衆山の如くであったという。
武石は国内での民間飛行初の犠牲者となった(注9)。
(2) 荻田常三郎を知る
武石浩玻に影響を受けて飛行家を志した青年に荻田常三郎(1885~1915)がいた。荻田は滋賀県愛知郡八木荘村(現愛荘町)の生まれで京都で呉服屋を継いでいたが、帝国飛行協会の磯部鈇吉を訪ね欧州の航空事情を知ると、大正2年9月フランスに渡り、飛行学校に入学して万国飛行一等免状を取得した。
大正3年5月に帰国、6月には西宮の鳴尾競馬場で開催された民間飛行競技大会に参加し1等となった。この大会には番外として磯部鈇吉も参加した。荻田は10月には滋賀県で初の飛行を行った。
滋賀県での初飛行に先立って、荻田の講演が8月10日に小林祝之助の母校錦林小学校で行われた。小林は荻田にフランス航空界の様子を尋ね、また世界で一番よい飛行機は何かと尋ねると荻田は自分が持ち帰ったモラーヌ・ソラニエだと答えた。小林は自分もフランスへ行くつもりだと言って益々飛行家になる決意を固めた。
しかし荻田は、翌大正4年1月2日、大阪から深草練兵場に飛来し、翌日練兵場から京都上空に飛び立ったが発動機の故障で助手とともに墜落、即死した。奇しくも武石浩玻と同じ地で最期を遂げたのである。荻田もまた30歳という若さで亡くなった(注10)。
なお、小林がフランスに発った翌年のことであるが、大正5年5月11日、深草練兵場でスミス氏の飛行があり、立命館中学の職員生徒一同は午後の授業を休み参観している(注11)。
大正6年12月には、『清和』第7号に「武石荻田二氏を懐ふ」として詩歌17首が掲載された。そのうちの3首に次の歌がある。
さまざまの術を尽くして深草の 野を飛ぶヒコーキに心空なり
天翔ける鳥も驚き地に仰ぐ 人も魂消す飛行機いみじや
深草の野を吹く風の悲し悲し 其のひびきにも益荒雄のしのばる (鶴田 多)(注12)
立命館中学の教員であった鶴田は、飛行機に魅せられながらその飛行機を操縦して逝った武石や荻田への思いを詠った。
一部の青年のみならず多くの人々が深草練兵場に飛行機を一目見ようと集まったことから、飛行機に対する当時の関心の高さが窺える。
(3) フランスへ
大正3(1914)年6月オーストリア皇太子がサラエボで暗殺された事件をきっかけにして、7月オーストリアがセルビアに宣戦布告して第1次世界大戦が始まった。戦争はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアの同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国の戦いに発展した。
日本も日英同盟を結んでいたことから、大正3年8月23日ドイツに宣戦布告し、第1次世界大戦に参戦した。当時の立命館中学の生徒が、「軍国の青年」というテーマで決意を語っている。「8月23日から日本帝国は軍国となった。我々も軍国の青年となった。我々は国家の為に確乎たる覚悟と責任を持たなくてはならない」と(注13)。
小林祝之助は武石浩玻や荻田常三郎の墜落死を身近で目撃したにもかかわらず、フランスに行く決意を変えなかった。それどころか一層決意を固めたとも思える。父親は最初のうちは反対であったが、武士気質の人で、最終的には家宝の書画を売って渡航費用1,000円を用意し祝之助を送りだした。
花園に住んでいた山名男爵(注14)が小林家の遠縁で、その遠縁に滋野男爵がいるということから山名男爵の紹介で滋野男爵を頼ってフランスへと旅立った。
滋野男爵とは、滋野清武、通称バロン滋野という。明治43年に渡仏したがもともとは音楽の勉強をすることが目的であった。ところが当時の飛行機熱の影響を受けてフランス各地の飛行学校で操縦術を学び、明治45年日本人飛行家として徳川好敏に続きフランス飛行クラブ発行の万国飛行免状を取得した。一時帰国するが、大正3年に再びフランスに渡った。滞仏中に第1次世界大戦が勃発すると従軍を志願しフランス陸軍飛行隊に入り陸軍飛行大尉となった(注15)。
【注】
(1) 姓の「小林」は、オバヤシであるが、祝之助自身はフランスにおいてコバヤシと名乗っていた。(平木国夫『鳥人たちの夜明け』朝日新聞社 1978年)(2) 小林祝之助の生年月日は7月26日とするものもあるが、本稿では清和中学校の学籍簿によった。(3) 小林忠一・祝之助は、鳥取県気高郡青谷村字青谷(現鳥取市青谷町青谷)の出身という(大豊神社の宮司さんによる)。
(4) 「大豊神社由緒略記」
(5) 明治36年6月、第一錦林小学校は修業年限2年の高等科を併置し、錦林尋常高等小学校となった。しかし41年4月には義務教育期間が4ヵ年から6ヵ年となったため高等小学校は廃止となった。
(6) 清和中学校における小林祝之助の履歴は「学籍簿・学業成績表」による。
(8) 高見孝一は、『清和』第1号(明治44年12月)によると第5学年に在学している。
(9) 武石浩玻については、前掲 平木国夫『鳥人たちの夜明け』、日本航空協会『航空と文化』98号(2009年1月15日)、同103号(2011年7月15日)
(10) 荻田常三郎については、前掲『航空と文化』98号
(11) 『立命館学誌』第4号 立命館大学 大正5年7月15日
(12) 鶴田多は鶴田多八。明治15年生まれ、明治40年東京帝国大学卒業。同年9月清和中学校教員、大正9年まで改称となった立命館中学教員。同年9月に京都府立医学専門学校教授となり同年12月に医専から昇格設立された京都府立医科大学予科教授(国語)となる。昭和2年6月現職で死去、45歳。(『京都府立医科大学八十年史』『京都府立医科大学百年史』)(13) 『清和』第4号 立命館中学同窓会 大正3年12月
2014.04.22
<懐かしの立命館>小林祝之助の生涯 ―異国の大空に翔けた夢― 後編
3.第1次世界大戦に参戦―仏国陸軍飛行隊
小林祝之助は大正4年6月19日、京都駅を出発、21日に神戸から出港する香取丸に乗船しフランスに旅立った。パリに着いたのは8月6日、23歳となっていた。
小林は日本大使館を訪ねたが、既にフランスは第1次世界大戦下にあり、フランス語ができずに航空術を学ぶことは至難のわざということで、大使から翻意をすすめられた。
しかし小林はあきらめなかった。山名男爵から紹介を受けた滋野清武に初めて会ったのがいつなのかはっきりしないが、大使館を訪ねたあとほどなく滋野を訪ねたと思われる。二人が会った日付がはっきりしているのは10月19日で、磯部鈇吉(注16)とともに会った。かねて滋野が約束していた飛行機工場に案内されることになったのである。当日3人はイッシー・レー・ムリノー飛行場にあるヴォアザン飛行機工場を見学した。
それから20日ほど経った11月10日、日本大使館で大正天皇即位の御大典奉祝の宴があり100名余りの邦人が集い小林も参加した。小林は故郷の友人にその模様を書き送ったが、その中には小原大佐、磯部小佐、滋野男、石橋飛行家、田付代理大使などの名がある。代理大使から尺八と薩摩琵琶をやるように勧められ、その演奏で拍手喝采を浴びたと言っている。このとき磯部は33歳、石橋勝浪は小林と同じ23歳であった。
当初は民間飛行家を目指したようであるが、戦時中の事で民間飛行家は認められなかったため、クラリ伯爵と陸軍大臣ビジョン氏に飛行隊の従軍を申し出た。
10ヵ月ほどフランス語を学び、大正5年6月、陸軍航空局の入学試験に合格し、ビュック陸軍普通学校、コロトア軍事航空技術学校など各地の学校で航空技術を学んだのち、大正6年3月から予備隊に従軍しパリに近いG第30飛行大隊で正規のピロット(パイロット)を命じられ前線の配置に就いた。
彼の任務は
「朝な夕な敵機と敵砲台から撃ち出す雨あられの弾丸中を僕のオブセルヴァートル(同乗者)なる一中尉と共に砲兵狙線の修正、偵察通報、無線電信等の重大任務を帯びて戦線上空を飛ぶこと」であったという。
その時のことであろうか、小林は次のように記している。
「僕がいるこの戦線は、パリに最も近い某地点で今は大攻撃の真最中である。今朝、命令を受けとった僕は、僕のオブセルヴァートルでない少尉と同乗して遠く数千㍍の敵地に、しかも僕達の最も忌み嫌う強烈な追風を背負って特別任務を有する偵察に出かけた。……敵は目早くわが機を見出して砲撃をはじめ、その真黒な煙球がわが機の10㍍、5㍍の前方左右に発射されて爆発するのみならず、四台の敵機は1,000㍍の前方より機翼を揃えて接近してきた。……そのうちに快速の敵機は既に250㍍を距てぬところまで肉薄して盛んに機関銃を浴びせかける。上からも横からもまるで雨のようで到底助からぬと覚悟したが、……今は最後と発動機の電流を切断して昇降の舵を胸まで引きつけて、総ての速力を棄てて自ら下方に墜落したが高度計を見れば40㍍である。敵機はわが機を地上に墜落せしめたものと見て引き上げて行ったので漸く危地を免かれた。……」 (注17)
この頃であろうか、小林は戦いによる負傷からか病を得て数ヵ月入院している。
この頃の航空機について、大正6年1月の『立命館学誌』第7号に校友井上勝好(注18)が「航空機の発達」と題し寄稿している。
そのなかで第1次世界大戦に関して次のように述べている。
「……英仏連合軍ノ飛行機隊ガ常ニ独軍陣地上ニ飛行シテ、偵察ニ攻撃ニ有ユル手段ヲ尽シ、独逸ノ飛行機、飛行船ガ之ニ対抗シテ強襲ヲ敢行シ、互ニ非常ノ成果ヲ齎ラセリ。……今日ニテハ、機体ノ構造漸次強大トナリ、発動機ハ之ニ伴ツテ増大進歩シ、開戦当時百馬力内外ナリシモノ、今ヤ二三百馬力ヨリ五六百馬力ノ強力ニ達シ、搭載力モ次第ニ増加シテ、完全ナル武装ヲ為セル上、空中戦ニ備フルガ為メニハ機関銃ノ装置アリテ、長時間ノ継続飛行モ容易ナルニ至レリ。……連合軍ノ飛行機隊ガ、六七十台空中陣ヲ作リテ、敵軍陣地上ニ飛行シ、爆弾ヲ投下シテ、敵ノ施設物ヲ破壊シ、独軍ノ飛行船ガ遠ク倫敦ヲ襲イテ爆弾ヲ投下セルガ如キ、何レモ直接ニ相当ノ損害ヲ与フルト共ニ、敵膽ヲ寒カラシムル間接ノ効果ハ更ニ偉大ナルモノアリテ倫敦、巴里ニ於ケル恐ツエペリン熱ヲ見ルモ明白ニ之ヲ証明セリ。」
小林は大正6年6月11日(1917.JUIN.11)、念願の飛行免許状を手にした。
第2航空旅団第11飛行大隊付となり、明くる大正7年1月にはスパッド第86中隊に移り伍長から軍曹となった。2月には追撃隊に配属された。
下京区に住んでいた親友の高見孝一にはしばしば手紙を送ってよこしているが、
「今はルノー300馬力を自由に操縦している。これを操縦できるのは日本人では滋野男と長尾中尉と自分だけだ、唯連合国と大和民族のため大いに働きたい」
とのことであった。
そうした戦地ではあったが、小林は詩的な面を持ち合わせ、音楽好きでもあったため、
「今夜の月は実に清しい。塹壕の外の林檎の樹迄クッキリ僕の眼に見える。……僕は独り心行く迄僕の愛人明笛を吹いて静かに故郷の空を仰ぎ見ておる」
などとも送ってきたという。
また、3月15日付けの弟常喜氏あての手紙では、
「老ませし父君始め皆様の御起居や如何に!!絶えて便りに接せざるこそうたてけれ。東風吹きて花の香迷ふ朝夕、胸に懐郷の情迫り慰めん術だになし。されど此の渾々たる花の匂ひ父愛しますと思へばいとも懐かし。吾家を立ちてより已に三歳の春は閲しぬ。かのわが造りおきし庭と共に老います父がみ姿こそそも如何に見ままほしけれ。乞ふ御身よわがこの心察して父が写身恵まれんことを。一度是非共御父君自ら御恵筆あらんことを切望してやまず。 東風吹きて梅か香匂ふ朝な夕な 父慕ひつゝ花めづるかな」
と、父親への思いを綴った。
そして5月23日付けの高見孝一あての手紙が最後の消息となった。
「空中射撃学校にをった僕は、先日無事に修業して昨日当隊付を命ぜられ、この北海地方へやってき空中の撃者になったよ、これからは僕は運ひとつ運ひとつだ、僕が墜すか落されるか、危いことは風前の灯火以上だ、しかし僕達の飛行機は今のところ世界のオーソリティだよ、尚スパードと云ふは一時間の速力約二百九粁米、これに完全に近い機関銃を備へているのだが、むろん一人乗りだ、鳥の如くに小さい飛行機だ、この飛行機に乗り得るものは飛行家の中の飛行家だ、僕はたぶん戦死するものと思っているが本望だ、この上僕が習ふべき飛行機はないのだもの、久しい間の僕の希望の一つは成功したのだもの――、僕がまだ中学にいるころだった、なんでも構はないからどうかして日本一になって見たいものだと希望したことがある、この夢のやうな頑是ない希望が今やっと遂げられたのだ、別段嬉しくもないがそれでも悪い気分はしない、仏蘭西ではスパードのピロット(操縦者)は若き美しい花と見なされているのだから、休暇で巴里へ行ってグランブルバー(京都の京極)をブラつくものなら、巴里婦人らが憧憬の的となる訳だ全く望み次第だ、多分胸間の粋な飛行家の徽章に酔はされるのだろう、諸兄によろしく」
この手紙が高見に届いたのは、小林の戦死した1ヵ月後の7月7日であった。
小林祝之助は大正7年6月7日の戦闘において壮烈な最期を遂げた。渡仏して3年、7月には26歳を迎えようとする若さであった。
小林がスパッド戦闘機で実戦に参加したのはわずか半月ほどのことであったと思われる。
『大阪朝日新聞』および『京都日出新聞』は6月25日の新聞で小林祝之助戦死のハバース社巴里発の記事を掲載した。
「氏は最近航空隊勤務に就きたるものにして六月七日の戦闘に於て戦死したるものなり。当日小林氏は敵の数機と戦ひたるが突然敵の焼夷弾は彼の機体に命中発火せしめたため機は火焔に包まれて墜落せり。彼は些かも躊躇することなく約1万呎の高空に於て空間に飛出せり。彼の身体は地上に落ちて粉鼻せられたるが右は仏国胸甲騎兵によりて拾ひ上げられたり。仏国新聞は一斉に自ら進んで連合国行動の為めに戦へる日本人勇士の驚嘆すべき勇気を称讃せり。而して彼の死体は今や正義と自由との表象たる仏国国旗に包まれて埋葬せられたり」
『京都日出新聞』は続いて26日、29日と小林家の様子や友人高見孝一やゆかりの人の談話など小林祝之助に関する記事を掲載した。
またフランス共和国陸軍省から遺族あてに届いた死亡証明書は京都市役所で訳されたが、操縦軍曹小林祝之助は
「仏国第二飛行隊、戦闘陣地第百十四号ヴィレル、マットレー森林ノ上空ニ於テ西暦千九百十八年/大正七年/六月七日午後六時ニ於テ墜落。モンゴベール邑ニ於テ死亡」
とあった。
父忠一氏は祝之助の戦死の報に接しその思いを歌に託した。
矢面てに立ちて落せる玉の緒も 国のためにと放つけなげさ
まなな子もとこよの国で痛手死す 大和男子の心つくして
凉風も時しきぬれば落にけり ますら健男の子よもうせける
「凉風」は祝之助の号で、愛機の名称でもあった。
それからわずか5ヵ月後の11月11日、ドイツは休戦協定に調印し第1次世界大戦は終結する。
日本人でフランスに渡り飛行隊で戦闘に従軍した者には、小林祝之助のほか滋野清武、磯部鈇吉、馬詰駿太郎、石橋勝浪、茂呂五六らがいた。しかしそのなかで小林祝之助は帰らぬ人となったのである(注19)。
4.その後の小林祝之助
(1) 南座での活動写真上映
大正7年10月28日、四条の南座で活動写真の上映が始まった。「武装せる佛國敵中の佛軍」である。京都日出新聞の10月28日の興行案内によると、「京都洛北鹿ヶ谷出身飛行家故小林祝之助氏戦死実況 名誉の負傷にて帰郷せる馬詰俊太郎氏特に同氏の為に講演す 大活動写真」との広告である。更に31日、1日、2日、3日は2回開演とある。この広告は10月26日から11月5日まで続いている。
10月26日の大阪朝日新聞と京都日出新聞が「写真は全5巻に渉りたる最長尺のものにて最近戦争実写大活動写真」としたほか、京都日出新聞は、演芸欄で27日以降も連日紹介している。東京飛行学校主催で「活動写真は近頃稀な鮮明な写真で、当写真も大使館の都合により11月3日限り(7日間)日延をしないとの事である。尚各在郷軍人、学校生徒、各連隊よりの団体見物もあり31日と11月1日、2日、3日は特に昼夜2回開演する」(10月30日)、「活動写真は非常なる大好評にて連日大入を占めて居る。故小林祝之助氏の飛行機戦死実況が大好評を博して居る。1日は在郷軍人の為め昼の部全部売切の大盛況」(11月2日)などである。その内容の一部は『近代歌舞伎年表 京都編』でも紹介されている(注20)。
11月1日の京都日出新聞は演芸欄・興行欄以外に「敵中の佛軍」の記事を掲載した。
「南座では目下佛国政府撮影に係る『武装せる佛国敵中の佛軍』全5巻なる特別映画を上演して居る。謂ふ迄もなく時局実写物で所有権は佛国大使館、主催者は中央飛行学校とある。……我国最初名誉の空中戦死者として佛国に於て壮烈なる奮闘をなせし京都出身青年飛行家故小林祝之助氏の戦友たる佛国陸軍飛行家馬詰駿太郎氏の同氏に関する真摯な講演も錦上更に華を添ふる慨があった。……此「敵中の佛軍」は其通弊を打破して全国民の自覚し努力しつつある佛の現状を露骨に現はした所に価値がある。近来の意義あり趣味ある映画であった」と評している。
この上映で解説を行った馬詰駿太郎は、南座の活動写真上映に先立ち、帰国後間もなく早稲田大学の科外講義で「仏国飛行機について」と題し講演をしている。翌大正8年5月30日から6月5日までやはり南座で開演された「仏国航空隊活動写真」でも解説をした。内容は仏白国境の惨状実写、大統領ポアンカレ、ホーン総司令官、敵機50台を射落し名誉の戦死を遂げたギンメル大尉などが登場する活動写真であった。
(2) 小林祝之助追悼―立命館中学『清和』の記事―
小林がフランスで戦死したのち立命館の資料にその名が出たのは大正8年3月の『清和』第8号であった。
○清和中学を4年級までやった小林祝之助君は退校後佛国に渡って飛行家となり義勇兵
として戦場に飛翔し多大の功績を揚げたが遂に今春悲壮なる戦死を遂げられた。詳細は
当時の新聞に出ていたから諸君も御存知と思う。茲に謹んで弔意を表したい。君が死の
少し前洛北鹿ヶ谷なる老父を懐うて詠んだ
東風吹きて梅が香匂ふ朝な夕な
父慕ひつゝ花めづるかな
の一首は永久吾人の脳裡を去らない。
次いで大正10年2月の『清和』第10号に、「故小林祝之介氏追悼琵琶歌」が掲載された。
国のほまれ
敷島の大和をのこの外国の 雲井に高く飛び翔り
赤き心にさきがけて その身は花と散りにけり
頃しも大正七年の 六月七日の夕つ方
処は佛蘭西ヴィルコットレー 雲霞の如き敵味方
火花を散らす戦の 上にぞ翔る飛行隊
かずも知られぬ隼の入り乱れたるが如くなり
中にも目立つ操縦の 手並さやかに驀地
敵機追ひ打つスパードの 乗手は日本の勇士にて
開戦以来大空に 樹てし勲功もいと高き
小林凉風と知られたり 追ひつ追はれつ縦横に
飛び交ふ様はさながらに 秋の嵐に紅葉の
葉ひるがへる如くにて 互ひに打出す銃の音
雲をつんざき百雷の 鳴りはためくにさも似たり
勇敢無比の小林は 敵の五六機射落して
尚も追撃なさばやと いと迅速に追ひ翔る
折しもあれや一発の 焼痍弾はスパードの
翼にどっと命中し 炎は忽ち機を包み
あはや墜落なさんとす 早これ迄と覚悟をば
屹と定めて逸はやく 操縦席より身をはずし
万尺高き虚空より ひらりと下に飛び降りぬ
やがて屍は佛蘭西の 胸甲騎兵に見出され
自由の標章三色の 国旗に包み軍装の
儀式もいとど厳に 葬られしぞほまれなる
すめら御国の古への 京の都のみやしろに
神に仕ふる家に生ひ 少壮国の外に出で
義戦に玉と潔く 砕けし君が芳き
名は賀茂の流の末遠く 後の世までも残るらん
後の世までも残るらん
小林君は本校の五年級まで在学し佛国にて壮烈なる戦死を遂げたる事は前号に記したり。
今回君の知己の作りし琵琶歌を海軍少佐飛行家磯部氏(注21)が補正したるを丸山巴水氏が作曲せ
しものを山名氏が所持せらるるを請ひて掲げたり。
(3) 顕彰―小林君之碑
真如堂境内、本堂の南側に1基の石碑が建っている。高さ190cm、幅84cmで、大正14年に建立された「小林君之碑」である。
この碑は、1999年8月3日の京都新聞に「真如堂の小林君之碑」と題し紹介された。
新聞には、大豊神社宮司で祝之助のおいにあたる方が、「寺の周辺に住んでいた幼なじみ
が祝之助の業績を記念するために寄付を募って建てたと聞いています」と話されている。
碑文を書いた杉村勇次郎はのちの昭和3年には京都1区から衆議院議員選挙に出馬、昭和13年から14年にかけて帝国在郷軍人会京都支部長を務めている経歴から、碑の建立時に記念事業会の誰かと関係があったものと思われる。
題額を揮毫した元帥川村景明(1850~1926)は日清・日露両戦争に出征した軍人で、碑が建立された翌大正15年に亡くなっているが、大正8年12月から帝国在郷軍人会会長を務めているので、記念事業会の関係者か杉村勇次郎と関係があったのであろう。
碑文を刻んだ芳村茂右衛門は、石茂の当主で京都の社寺に石燈籠や狛犬、石仏などを数多く残している名匠である。
(4) ポアンカレの勲章
小林祝之助が戦死した翌年の大正8(1919)年、フランス大統領ポアンカレから小林家に勲章と表彰状が授与された。勲章はクロワドゲール、表彰状にはポアンカレのサインがある。
1977年10月23日(関東地区は20日)、NHKテレビの番組でスポットライト「ポアンカレの勲章」が放送された。出演者は祝之助の弟・常喜氏、作家・岡本好古氏、航空評論家・木村秀政氏、落語家・桂枝太郎氏、航空史研究家・平木国夫氏、司会は鈴木健二アナウンサーである。
そのなかで常喜氏が祝之助の人となりを語っている。
「9歳ちがいの兄はやんちゃできかん気。勉強はそっちのけで、いつも、人とかわった突拍子もないことをやる男だった。木登りがすごくうまかった。神戸の方まで自動車の練習にいったりしていた。一面ハイカラというかシャレッ気もあり、又、粋なところもあった。うらから竹を切ってきて尺八や笛を作って吹いたりしたものだった。
(飛行機のりを志したのは) 新しい、人の知らないものにひかれる性質ではあった。当時民間飛行家が京都に飛んできて練兵場で落ちて、それで決心したと聞いている。それで日本では勉強できないのでフランスへ行きたいと言いだした。
みんな反対したが、兄は決心をまげなかった。それで父もついに許すことになった。」
戦争に対する当時の空気はあったにしろ、おそらく小林祝之助は、飛行機に乗りたい、飛行機に乗って大空を飛びたい、その一念でフランスに渡ったのであろう。フランスに渡ってからも、むろん戦争に参加するなかで連合国と大和民族のために働きたいと言っているが、ひたすら飛行機を操縦することに自らの夢を見出していたに違いない。
フランスから勲章を授与されたその年の1月、戦争終結のパリ講和会議が開催されている。平和の時代に大空を羽ばたいていたなら……。
むすび
この数奇な運命をたどった清和中学校、立命館大学に在学したことのある小林祝之助を知ったのは2013年3月であった。
立命館百年史編纂室参与で元常務理事であった吉田幸彦さんから1冊のファイルを渡された。小林祝之助に関する資料であった。
正直なところ驚くべき人生であった。今から100年も前、飛行機自体がようやくこの世に現れた時代に飛行機に乗ることを夢見て、しかもフランスに渡り陸軍飛行隊に入りドイツ軍と戦い空中戦で戦死する。想像もつかない人生であった。
この青年の人生を少しでも書きとめておきたい、限られた資料からではあるが、なにがしかを残したいというのがこの拙稿である。
6月14日、大豊神社において宮司さんからお話をうかがった。資料からは得られなかったお話をお伺いでき、また貴重な資料も拝見させていただいた。ここにあらためてお礼申し上げます。
【注】
(16) 磯部鈇吉(おのきち)。磯部は大正元(1912)年12月、日本航空協会を発足させ、協会は翌年帝国飛行協会と合併した。協会は民間航空の振興を図り、航空に関する訓練・指導を実施、航空思想の普及などを図った。磯部は大正4(1915)年に帝国飛行協会を辞すと8月にフランスに渡り、フランス航空隊パイロットとして第1次世界大戦に従軍した。大正7年11月の大戦終結により日本に帰国した。磯部については、平木国夫『黎明期のイカロス群像』の「日仏2つの空を駆けた飛行家・磯部鈇吉」。また磯部自身の著書『空の戦』(冨山房 1918年)
(17) 『日本航空史 明治・大正編』 日本航空協会 1956年
(18) 井上勝好(1884~1942)は明治39年に京都法政大学を卒業、この記事を書いた時は報知新聞社の政治部記者であった。退社後石原産業で石原廣一郎を補佐し、昭和15年に立命館理事となっている。
(19) フランスにおける小林祝之助については、前掲 平木国夫『鳥人たちの夜明け』、「大阪朝日新聞」大正7年6月25日・26日、「京都日出新聞」大正7年6月25日・26日・29日
(20) 近代歌舞伎年表編纂室『近代歌舞伎年表 京都編』第7巻 八木書店 2001年
(21) 磯部鈇吉は前掲の注(13)
(2013年7月 立命館史資料センター準備室 久保田謙次)