立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2014.04.15

<懐かしの立命館>竹軒西園寺公望と「萬介亭」

 

1.「西園寺公邸址」の碑

 かつて衣笠キャンパスの東、等持院東町に「西園寺公邸址」と刻まれた石碑がありました。キャンパス東門の小道を南に下がった辺りです。

 高さは地上部分100cm、幅・奥行きとも23cmほどで、奥に庭が垣間見える由緒のありそうな古い木造の玄関の前に建っていました。

 刻まれた文字は特徴がありましたが、残念ながら建立者も建立年も書かれていませんでした。その地は西園寺公とどういう関係があったのでしょうか。



2.西園寺公望別邸「萬介亭」

 (1) 『西園寺公望自傳』と『随筆西園寺公』

 その地に西園寺公望邸があったことは、西園寺公自身が語っています。西園寺公望述/小泉策太郎筆記/木村毅編集の『西園寺公望自傳』に、

   竹軒の号はチッケ()ンの料理が好きだから、それにもじって竹軒と

いったのだとなっているが、それほど簡単でもない。京都の等持院辺に

今でも西園寺池という池があるだろう、そこに別荘があって、萬介亭と

称した。萬介則ち竹であり、其の別荘に竹が植えてあったことから、

少年の時自ら竹軒と号したのです。則ちチッケンの料理を知る以前から

だ。

 小泉策太郎はその著『随筆西園寺公』でも萬介亭について述べています。

   竹軒の雅号は、維新一二年前頃から、フランス留学年時に用ひられ

たやうである。……慶応の初年頃、新たに等持院の近傍に創建した別荘

に瀟湘の風露を移して萬介亭と称し、その萬介の竹に因みて竹軒と号し

たのである。

 また同書に所収の「坐漁荘日記」に

   萬介亭は維新前、公の所作。此辺高島鞆之助のかくれ家あり。高島牛肉を持ち来り、云々。是より先、公私かに牛肉

を知れり云々。

(注:小泉策太郎は高島鞆之助としていますが、下記「中川小十郎談」により高島六三と思われます。鞆之助は六三

の弟で、同じ薩摩藩士出身で戊辰戦争に従軍し、のちに第2次伊藤博文内閣の時、西園寺公望が文部および外務大臣

を務め、鞆之助が拓殖務大臣を務めたという関係にありました。)


 (2) 中川小十郎談

 萬介亭については中川小十郎も語っています。

 西園寺公望は昭和15(1940)1124日に亡くなりましたが、翌月126日の朝日新聞に、西園寺公追悼の談話として公の逸話『「竹軒」の由来』が掲載されました。

   西園寺公の逸話、挿話は随分世に伝はってゐるが、まだ世に出ないのに、牛肉をはじめてお食

  べになったといふ話がある。京都の等持院の東の方に公の少年時代の下屋敷があった。邸内に大

  きな池があって、附近の田の灌漑用水になってゐたが、今は住宅地帯になって、その池の面影も

  ない。薮があり、竹が多かったので、その邸を萬亭と名づけた。は中庸にある字で、竹の意

  だが、「まんかいてい」といふ発音が料理屋じみてゐると友人が冷かすので、竹軒と改めた。……

実は右の通りだと公爵の直話であった。

その邸の北方一町ほどのところに薩摩の武士高島六三が住み、……しきりに公に交際を求めて

きた。その六三が「将来大いになすあらんとする者はまづ身体を養はねばならぬ。身体を養ふに

は牛肉におよぶものはない」と説くので、公も御所内の本邸とは違ひ、この下屋敷ならよからう

と、思ひ切って食べられた次第で「そのうまかったことは今に忘れられぬ」と語られた。

(注:カイは竹冠に解という字です。漢籍に通じた西園寺公望のことですから、竹冠に解という

竹の名のが本来の別邸の名であったのではないかと思われます。なお、辞典によるとは集

韻にあるとされています。)

 このとき西園寺公に牛肉を勧めた薩摩藩の武士高島六三は、慶応元年ころ入洛し、現在の衣笠キャンパスの東側あたりに住んでいました。その辺りには薩摩藩の調練場があったのです。西園寺公望と高島六三の交際は、慶応4年に戊辰戦争が起こり西園寺公望が山陰道鎮撫使として山陰に向かったことやそれ以降の西園寺公望の経歴から考えると、慶応年間の頃のことと思われ、牛肉を食したというのもその間のことでしょう。当時はごく一部の人がようやく牛肉を食べるようになった時代でした。

 

3.萬介亭所在地の変遷

 「西園寺公邸址」の碑があった等持院東町は、大正7年以降の町名です。明治22年から大正7年の間は衣笠村等持院字滝ヶ鼻といい、それ以前は葛野郡等持院村といいました。したがって西園寺公が住んだ時期は等持院村といっていたのです。

 その時代の資料は不明ですが、法務局の旧土地台帳によると、萬介亭のあった場所は明治29年に初めて所有者が変わったことがわかり、その後何人かの所有者の変更を経て、昭和12年に臼居万太郎という人の所有になります。

 またその南側には西園寺池という名の溜池があり、昭和5年に等持院村中から六請神社に所有が変わり、その後別の所有者から昭和14年にやはり臼居万太郎氏の所有となっています。もとの溜池の面積は3反余り(3,000㎡ほど)ありました。


 都市計画京都地方委員会の大正11年測図(大正14年製)によりますと、等持院東町に溜池があり、その周囲が竹林で囲まれているところが注目されます。

 竹軒の名は大正時代になってもその名残があったようです。

 なお、中川小十郎が昭和13(1938)年に等持院(衣笠)の地に日満高等工科学校の用地を求め、北大路から移転し開校したのは翌昭和14年の11月のことでした。

 






4.萬介亭のその後

 萬介亭の跡地は昭和に入って臼居万太郎氏の所有となりました。臼居氏の著書『臼居の一族』と、万太郎氏の御子息四郎さんにお話しを聞き、萬介亭のその後を知ることができました。

 著書の一節「北郊の衣笠山麓」には次のように記されています。

 昭和11年に下京区西洞院木津屋橋の店が手狭になってきたので居宅を移すことにして、空気の清澄な衣笠山麓の等持院の地に家屋を建てることにした。

新宅に家族全部で引っ越したのは翌12年の春であった。土地の者は灌漑用の溜池を西園寺池と称していた。

西園寺家がここに下邸を設け公望公が此邸に移ったのは六歳で、大変気に入って十六歳のときまで住み萬解亭と名づけられた。


 そして万太郎氏は前述の中川小十郎の竹軒の由来を引用しています。

 更に万太郎氏は邸内の一隅に御苑内の西園寺家本邸の鎮守社白雲神社の分霊を勧請し、この新邸を時雨庵と命名した。

 邸内からは衣笠山の山容が巍然と雲に聳えていた。皇紀二千六百年の佳節には、衣笠山麓の日満高等工科学校の十時のサイレンも聞こえてきたという。

 また四郎さんのお話によると、一家で昭和11年にこの地を見に来た時は西園寺池があったのですが、昭12年に引っ越してきたときは池が無くなっておりびっくりしたそうです。池は当時西大路通りの市電の軌道工事の残土で埋めたようで、もともと門は道を北にあがってきた正面にあったとのこと。西園寺公が住まわれた家も残っていてそんなに大きな家ではなかったとのことでした。「西園寺公邸址」の碑は邸内の別の場所にあったが、後に万太郎氏が木造の玄関を造り、碑も移して建てたということです。碑はもとから邸内にあって、いつ誰が造ったものかわからないとのことでした。

 


5.竹軒西園寺送別の宴

 話は遡り、明治3年のことです。西園寺公望は様々な号を用い、特に後年の陶庵が有名ですが、幕末からフランスに留学した頃は竹軒という号を使っていました。その由来が等持院村の萬介亭にあったことは前述の通りです。

 西園寺公望は前年の明治29(7月ともいわれます)、京都御所蛤御門近くの本邸に私塾を開きました。立命館です。

 塾は西園寺の名と、当時の錚々たる儒者や文人が教師を務めたため、たいそう評判がよく盛況を極めましたが、西園寺はフランスに留学する志をもっていて、洋行準備のために長崎に遊学することにしたのです。

 明治32月、公望はその名を望一郎と改め、大和、紀伊、大阪を経て長崎へと旅立ちました。

 ここでは、その時の送別会ともいうべき宴について記したいと思います。

 京からは、漢学の先生である伊藤輶斎と井上有季という家臣とともに、馬に乗ってまず伏見に行きました。

 鮒屋という旅亭を兼ねた造酒屋があり、ここで旅の第一夜をすごしたのです。宇治川の豊後橋(現在の観月橋)南詰の辺りです。その日、鮒屋には立命館の賓師が集い、盛大に送別会が行われました。明治3225日のことです。

 宴には富岡鉄斎、淡海槐堂、江馬天江、谷口藹山、松本古堂などが集い、徹夜で気焔を挙げたといいます。

 この時西園寺は竹軒の名で次の詩を読んでいます。

   放酔狂歌幾酒楼 肉屏叢裡足豪遊 志業不識何日就 一剣風霜五大洲

 この送別の宴の様子は、伊藤輶斎が「探勝雑誌」に記しています。

   今茲明治庚午之仲春念五(3225)、與竹軒藤公、有季井上子、将探月瀬之梅芳野之桜、

   梅桜不駢時、帰期元無日、此日先投宿于伏水鮒屋(伏見鮒屋、屏風の寄せ書は此鮒屋にてなるべ

)、蓋三騎也、投宿放馬于京、鮒屋楼上有聴濤楼花酔柳狂業之号、伏水一大旗亭也、送公之賓、

富岡鉄斎、板倉淡海一号槐堂、神山鳳陽、谷口靄山、松本古風俗人、江馬天香(星巌門人此人尤

も学問あり)、群彦来会、通宵之燕、有詩、有画、有弦、有歌、有諧語者有議論者、有起舞者有

酔臥者、嗚呼惜別之盛筵哉、夜将曙衆賓暫瞑

 西園寺は、奈良・紀伊を経て大阪に至る間、竹軒の名で画も描いたようです。

竹軒22歳のことでした。

 

むすび

  金閣寺辺、今も竹林多し、西園寺は竹林中に在りし故、竹林院と呼ばれしと。西園寺を竹林院と称し、別荘を

  萬介亭と称し、公竹軒と号す、自ら其の故なり。(小泉策太郎『随筆西園寺公』)

 西園寺家の菩提寺であった竹林院西園寺は現在は寺町鞍馬口下ルにありますが、室町時代前期までは鹿苑寺(金閣)の地にありました。

 ともあれ西園寺公望の竹好みは一方ならぬものでした。後に西園寺公の京都別邸となった清風荘の表門は割竹張で設えたのをはじめ邸内のあちこちに竹の意匠を用い、庭には黒竹が植えられ、その黒竹で毛筆までつくっていました。坐漁荘もまた随所に竹のモチーフが使われています。


清風荘表門

 こうした西園寺公望の竹に対する思いは、青年期を等持院村萬介亭で過ごしたことによっているのではないかと思われます。竹軒と称した由縁と言えるでしょう。

 

 

 

                    


          



 

≪資料≫

  西園寺公望述/小泉策太郎筆記/木村毅編集『西園寺公望自傳』 講談社 昭和24

  小泉三申全集第三巻『随筆西園寺公』 岩波書店 昭和14

  中川小十郎『「竹軒」の由来』 朝日新聞 昭和15126

  臼居万太郎著『臼居の一族』 臼居万太郎商店 昭和17

  高島健三著『小松原附近郷土史』 平成元年

  立命館大学編『西園寺公望傳』第一巻

 

 なおこの小稿は、2014211日臼居万太郎氏のご親族臼居四郎さん・臼居道子さんに、27日高島六三氏のご親族高島朗さんに、そして228日に北川本家の北川嘉一さんにお話しを伺い執筆したものです。厚くお礼申しあげます。

 

                        〔2014317日 立命館史資料センター準備室 久保田謙次〕

2014.04.09

<学園史資料から>衣笠球場ものがたり

 

はじめに

 このほど衣笠球場の設計図を復元しました。元の設計図は史資料センター準備室で保存していますが、1948(昭和23)531日に作成されたもので、劣化がはげしく判読が困難になっています。かけがえのない資料を永く保存するため、復元することにしたのです(1)。球場の設計図復元を機に、衣笠球場の歴史を紹介します。

 

1.衣笠球場の開設

 正式には「立命館衣笠球場」といいます。衣笠球場は新制大学となった1948年の9月、衣笠キャンパスの北東部に竣工しました。現在の正門を入った南西側です。

 球場の建設計画は、総合グラウンドの施設のひとつとして19477月に打ち出されたのですが、総合グラウンド計画は19484月の新制大学設置計画など教学施設の充実を図る上で問題をはらんだものでした。その経緯の詳細は『立命館百年史 通史二』に述べられていますのでここでは省略します。

 理事会は総合グラウンド計画のうち球場については建設することにし、424日の理事会で施工企業を決定しました(2)

 531日付の設計図はその決定を受けて作成されたものと思われます。

 建設は510日に着工し、当初7月末の竣工予定でしたが、915日に竣工しました。設計図によれば、グラウンド面積11,416.5㎡、センターライン110m、ファウルライン90m、最大収容人員20,000人で、20段の木造スタンドやスコアボード、事務所や選手控室のある立派な球場が完成しました。球場の敷地面積は13,550(44,715)に及ぶ公認野球場です。当時、観光道路(現在の愛称はきぬかけの路)は無く、球場は衣笠山の山麓から松林が続いていました。

 立命館は文部省に提出した事業報告のなかでその利用について次のように述べています。

 「立命館大学は綜合大学の認可を得、且一万五千の学徒、教職員を有するに拘らず見るべき体育施設皆無の事情に鑑みこれが体育施設として利用する外広く一般市民及一般体育団体の体育施設として利用したい所存である。」

 

2.グラウンド開き

 919日に完成記念式典が行われ、京都新聞は同日の記事で球場の完成について、衣笠山を背景とした環境は健康スポーツをする場として適切な場所であり、京都のスポーツ界、府市民のため貢献すると期待しています。

球場は、922日の立命館大学と同志社大学の第1回総合体育定期戦の硬式・軟式野球戦でデビューしました。

翌日23日には、球場完成記念大会として、新制高校野球秋のリーグ戦が行われました。

 第1試合は立命館神山高校―同志社高校、第2試合は立命館高校―平安高校、第3試合は四條商業高校―洛南高校(旧京都二中)、第4試合は西陣商業高校―西京商業高校で、熱戦が繰り広げられましたが、現在は名称が変わっていたり、既に無くなった高校もあります。

 1949年の311日には球場運用のルールである、「立命館衣笠球場管理規程」と「立命館衣笠野球場使用規定」が定められました。

 

3.高等学校と中学校の野球大会開催

 (1) 高校野球

 1950年と1951年は高校野球京都大会のメッカとなりました。

19505月の春季京都府高等学校野球大会第2次戦は12校が参加し熱戦を繰り広げました。この大会には立命館神山高校が出場しましたが、優勝は平安高校でした。同年の夏の京都大会および京津大会も衣笠球場で開催され、83日の京津大会では山城高校が中央八幡高校を下し甲子園に出場しています。

1951年には、春・夏・秋の大会ともに衣笠球場で開催され、春には平安高校が京都商業をノーヒット・ノーランで押え、前年に続いて優勝しました。夏の京都予選も衣笠球場で開催され、730日の決勝戦で平安高校が山城高校を下し春夏連続で優勝しました。平安高校はこの夏の甲子園で優勝し、98日に高松一高を招待し、衣笠球場で優勝記念大会を開催しています。

19525月の春の大会は衣笠球場と平安高校で開催されましたが、立命館が山城高校を破り4年ぶりの優勝を果たし、近畿大会へと進みました。10月の秋季京都大会も衣笠球場で開催され、立命館はこのときは3位となっています。

衣笠球場はその後も高校球児の熱戦の舞台を提供し、1957年の秋季大会まで開催の記録が残っています。この年は第2次戦が1012日から衣笠球場と平安高校で始まり、立命館が東舞鶴を123で破り初優勝しています。

 (2) 中学野球

 『京都市中学校野球50年史』は、京都市中学校野球大会でも衣笠球場を使用したことを

伝えています。

 1951年度の第5回大会から1953年度の第7回大会までの3年間その記録があります。

 1951年度は845日の第2次戦である準々決勝・準決勝・決勝戦を開催しています。決勝戦は藤ノ森中学と下鴨中学の対戦となり、10で藤ノ森中学が優勝しました。

 翌52年度の第6回大会は、88日からやはり第2次戦で3回戦・準々決勝・準決勝・決勝を行いました。準決勝および決勝戦が10日に開催され、立命館中学も準決勝に進みましたが、決勝戦は平安中学対上京中学となり、平安中学が優勝を飾りました。

 1953年度の第7回大会は、729日から11日間にわたり衣笠球場で繰り広げられました。決勝戦は811日、郁文中学対北野中学で争われ、10で郁文中学が栄冠を勝ち取りました。

 翌年の1954年度も衣笠球場の試合が予定されていましたが、天候の都合で衣笠球場での開催は中止になり、四条中学に変更になっています。

 

4.プロ野球と社会人野球開催

 (1) 日本プロ野球

 衣笠球場でのプロ野球の公式戦は、4年にわたり67試合が開催されました。開設された1948年には11月に4試合、1949年には44試合、1950年には17試合、1951年には8月に2試合でした。

 最初の試合は48117日、阪急対南海、急映対中日のダブルヘッダーで、13,000人の観客が入りました。急映対中日戦では小鶴誠と原田督三のホームランが出ています。翌日の金星対大陽戦で金星はスタルヒンが投げています。なお、大陽ロビンスは、1947年には太陽ロビンスでしたが、点をとる球団に、ということから太陽の「、」をとって大陽ロビンスに改名したとのことです。

 1949年には、京都新聞社が立命館と衣笠球場の使用契約を結び、大陽ロビンス(大陽京都ロビンス)の公式戦の主催球場としました。この結果、大陽のゲーム41試合のほか3試合を開催しています。この年は、川上哲治や大下弘、別当薫、鶴岡一人、青田昇、藤村富美男といった往年の名スターが衣笠球場でホームランを放ち、また巨人の別所毅彦もこの球場で勝利投手となっています。713日の阪神対大陽戦では別当・土井垣・田川・藤井・松本と5本のホームランが飛び出し、2万人の観衆が熱狂しました。

 ちなみに開幕初日の42日は1試合で内野席100円・外野席60円、43日はダブルヘッダーのため内野席150円・外野席80円でした。

 1950年にはこれまでの1リーグから2リーグ制となり、セ・リーグの試合が12試合、パ・リーグの試合が5試合行われました。この年大陽ロビンスは松竹ロビンスと名を変え、小西得郎監督が率いてセ・リーグで優勝しています。

 しかし衣笠球場でのプロ野球は1951812日の阪神対松竹、阪神対大洋のダブルヘッダーを最後に幕を閉じます。これは、前年の9月に大阪球場が完成して公式試合が大阪で開催されるようになり、観客が減少したことにもよるようです。

 (2) 女子プロ野球

 1950年には各地に女子プロ野球チームが誕生、最盛期には全国で25チームほどあったようです。

 この年、衣笠球場でも女子プロ野球戦が行われました。京都新聞社の主催で、京都ヴィナス軍と東京エーワン軍の試合です。東京エーワン軍は初の遠征、京都初の女子プロ野球戦です。入場料は50円、試合は守備のエーワン軍、打撃のヴィナス軍と言われましたが、先輩格のエーワン軍がやや有利との予想でした。

 試合は79日、息詰まる接戦の末、追撃するエーワン軍を振り切り97でヴィナス軍が勝利しました。ともに18歳の河口投手の好投と平本遊撃手の攻守が光ったといい、1万を超える観衆に衣笠球場が沸いたとのことです。

 その試合に出場したエーワン軍の主将田中科代子さんは、著書『プロ野球選手はお嬢さま』で次のように語っています。

 「深緑の木々に囲まれた球場は、しっとりとした京都らしい趣きを呈し、一万余りもの観衆が詰めかけていた。東京と京都の女の闘い見たさに、これほどの人々が押し寄せるのか。……セ・パ両リーグのカードだって、観衆一万人以上の試合はそれほど多くなかったからである。」

 衣笠球場での女子プロ野球は、同年の1023日にも開催されました(3)。第1試合は京都ヴィナス対三共レッドソックスで延長の末55の引き分け。第2試合は三共レッドソックス対東京エーワンで、レッドソックスのサヨナラ勝ちでした。第1試合では京都ヴィナス・寺田の、第2試合では三共レッドソックス・中村の本塁打が飛び出しています。

 女子プロ野球は各地で対戦を行いましたが、1951年のシーズン終了後、ノンプロへと移行していきます。

 (3) 社会人野球

 『京都社会人野球大会50回史』によると、京都社会人野球大会は、第8回の1951年春、同年秋の第9回大会、1952年秋の第11回大会で開催されています。

 第8回大会は宇治市の誕生を記念してほとんど宇治で開催されましたが、329日に準決勝のうち1試合を行っています。

 第9回大会は19519月から10月にかけて8試合が組まれ、優勝候補の京都大丸が初戦で敗れる波乱があり、初陣の専売公社が西京貨物に逆転勝ちをおさめて初優勝しました。

 1952年の第11回秋季大会は、921日から23日まで開催され、この大会も専売公社が旋風クラブに延長戦の末53で勝ち、2度目の優勝を遂げています。

 

5.立命館専用球場

 (1) 創立50周年記念式典の開催

 19501015日、秋晴れの衣笠球場で立命館創立50周年記念式典が挙行されました。創立記念日は519日ですが、学生からの学園祭と同時にしたいとの要望により10月の開催となりました。2,300席の大テントが来賓・校友・父母・教職員・学生生徒で埋まり、更に500名の学生生徒が立ち並び、6,000人が集ったともいいます。

末川総長が、50年の歴史の上に我学園はますます50年の歴史に答えるために新しい進歩した歴史をつくらなければならないと式辞を述べました。来賓・卒業生代表・父兄代表・在学生代表の祝辞があり、佐々木惣一元学長や滝川幸辰教授など学園功労者31氏に感謝状を贈呈、永年勤続の教職員が表彰されています。

 (2) 諸活動での使用

 1951122日には学内の各学部対抗野球大会が開かれました。法学部・経済学部・文学部・理工学部・別科の5チームが大接戦を演じ、決勝は経済学部と理工学部の対戦となり理工学部が優勝の栄冠に輝きました。

 本学では主に大学の硬式野球部・軟式野球部や高校の野球部が使用しました。球場の北側には野球部の合宿所「白雲寮」が1952年秋に建てられ、1967年まで使用されています。

1952年には、関西六大学春季リーグの同立戦が59日・11日・12日の3日間にわたり戦われ、連日3,000人を超える観衆が応援を繰り広げましたが、立命館は残念ながら12敗と惜敗しました。

このときの試合には、山城高校を卒業し立命館大学に入学した吉田義男さんが出場しました。吉田さんは1年からレギュラーとなり、衣笠球場で練習をし試合に出場しています。しかし1年で中退し阪神に入団しました。その後名遊撃手として活躍、後に阪神の監督を務めています。同じころ衣笠球場で活躍した岡嶋博治氏が中日に、西尾慈高氏が阪神にやはり中退してプロ野球に進んでいます。

 

6.衣笠球場から中央グラウンドへ

 衣笠球場開設後、プロ野球や社会人野球、そして高校野球などで使用されたのは、当初一般に開放することで公認されたこともありますが、西京極球場が1946年から1950年までアメリカ進駐軍に接収され、使用に大きな制約があったことにもよるでしょう。

 しかし、19518月のナゴヤ球場の火災による大惨事によって木造のスタンドを使用することが禁止され、衣笠球場も一般使用が困難になりました。翌523月、立命館は衣笠球場の使用を学校関係者のみとすることを決めました。56年には球場は正課体育の運動場とし、総合的運動施設を別に設置することが提起されました。

 衣笠球場での最後ともいえるイベントを紹介します。

 それは創立65周年および66周年記念学園祭の体育大会です。65周年記念の体育大会は1965117日に開催されました。末川博総長を名誉会長として、学生と教職員、来賓、生協も参加した全学の大会です。大会には学園祭企画のトップをきって4,000人が参加しました。30種目ほどの競技や演武などが行われ、竜の玉とり競技、タルころがしリレー、恋愛23脚などといった種目もありました。球場を発着とする現在のしょうざんあたりまでの往復5㎞のロードレースもありました。学部対抗は理工学部が優勝し、仮装行列は出町北寮が優勝しています。

 翌年の66周年記念大会は1113日の予定が雨で延び1116日に開催、3,000人が参加しました。学部対抗の800mリレーや男女不問で学生・教職員混合のリレー、合計224名による400m騎馬リレー、体育会の800リレーなどに熱戦が繰り広げられました。

 このようにおよそ20年ほどにわたって利用されてきた衣笠球場でしたが、1967年には柊野に総合グラウンド・野球場が完成、69年には衣笠に体育館が建設されて、衣笠球場はその役割を終えました。跡地には中央グラウンドが出来、体育の正課授業や課外活動、学園祭などに使用されてきました。

 その中央グラウンドも現在は中央広場などに変わり、キャンパス内には球場の面影をたどれるものはありません。キャンパス周辺のNTTの電柱に「衣笠球場」「キヌガサキュウジョウ」のプレートが残るのみです。

 

7.近隣の方々の衣笠球場の思い出

 衣笠球場で同立戦やプロ野球が開催されたころ、近くに住んでおられて観戦に来られた方に思い出を語っていただきました。


 (1) 小泉恵二さん(79)

 「中学生から高校生のころ、自宅から近いこともあり、衣笠球場へはよく行きました。立派な球場でした。

プロ野球も衣笠球場で観ました。その観戦料を母にせがんだり、自分のお小遣いをためたりして捻出したものです。衣笠球場は、大陽ロビンスのホームグラウンドということもあり、ロビンスの試合はよく観ました。小西監督のもと、大岡、小鶴といった選手が揃っていた時には、ロビンスはセントラルで優勝もしました。

 プロ野球ばかりでなく、関西六大学野球の同立戦もよく観に行きました。そのとき、兄が同志社に在学していたのですが、僕は立命を応援していました。立命のキャプテンであるセカンドの鳥本さんは地味ながらも良い選手で、特に応援していました。

 当時の学生野球は、今と比べようもないほどの人気でした。」

 (2) 小泉博さん(73)

 「小学生のころのことですが、衣笠球場で試合の時には、とにかく大変な人の混みようでした。市電わら天神から衣笠球場までの道路(疎開道路)は、舗装されていなかったため(当時はどの道路も大概そうでしたが)、濛々たる土埃だったことが印象に強く残っています。

 大陽ロビンスの応援をしており、小鶴、ピッチャー真田など有名な選手が揃っていました。NHKの解説もしていた「何と申しましょう」という口調が特徴の小西監督の時には、セントラルで優勝もしました。

 当時の学生野球はプロにつぐ人気があり、同立戦もよく観ました。

 衣笠球場といえば、馬術部の馬場が横にあり、立命の学生さん達に遊んでもらった記憶があります。」

 

おわりに

 設計図を復元したのは資料の保存のためでしたが、きっかけは201049日のことでもありました。

 その日、本学を1959年に卒業した岡田忠さん(元朝日新聞編集委員)が衣笠球場の調査のため来室されました。岡田さんは野球部のOBで、「衣笠球場は野球部時代に汗と涙を流したとりわけ思い出深い球場」であったといいます。球場の跡(衣笠キャンパス)を案内し周辺の電柱の「衣笠球場」のプレートの写真を撮っていると、偶然近くに住む高田憲一さんに出会いました。高田さんは子供の頃から衣笠球場の試合や練習をよく見に来ていたとのことで、長年衣笠球場について調べておられ、その資料を見せていただくことになったのです。

 この出会いが消えかかった衣笠球場の設計図を復元するきっかけにもなり、本稿をまとめることとなりました。

 

 (12) 元の設計図は竹中工務店京都支店の作成で、今回の復元も竹中工務店の協力をいただきま

した。球場の施工も竹中工務店でした。

 (3) 開催日と得点が『プロ野球選手はお嬢さま』と異なりますが、京都新聞の記事によりました。

 

 本稿の作成にあたっては、学内の諸資料のほか、

  (1) 岡田忠さんの「私の青春記 衣笠球場のプレート」(2011)

  (2) 高田憲一さん調査による寄贈資料

  (3) 京都府高等学校野球連盟『京都高校野球史』(1967)

  (4) 京都市中学校体育連盟野球専門委員会『京都市中学校野球50年史』(1997)

(5) ベースボール・マガジン社『日本プロ野球大全集』(1985)

  (6) 京都社会人野球連盟『京都社会人野球大会50回史』(1973)  

  (7) 田中科代子『プロ野球選手はお嬢さま:白球に恋した淑女たち』文芸社(2002)

  (8) 京都新聞各関係記事

 などを参照させていただきました。

 添付の図・写真は、

  (1)  1958年度『学生生活』所収の衣笠学舎・衣笠球場

  (2) 開設の頃の衣笠球場 2

  (3)  復元された「立命館衣笠球場設計図」(20143)

 

                    〔201449日 史資料センター準備室 久保田謙次〕

2014.04.02

<学園史資料から>1950年代、学術系サークルで学ぶことへの熱い思い

 

4月。各サークルは新入生の獲得に一所懸命な時期ですね。

2013年3月現在、立命館大学の学術部公認サークルは32。同好会や任意団体を含めると55のサークルが日々自主的な学術研究にいそしんでいます。

今から半世紀前の1950年代、学術系サークルは37ありました。

現在まで脈々と続くサークルもあれば、当時の世相や学問状況を色濃く反映したサークルもありました。また、1950年代は新制大学となって間も無く、講義だけではなく、積極的な自主的活動を通して学問研究に真摯に取り組もうとする熱い思いも垣間見えます。

 今回は、1954年の新入生に向けた一部学術部の紹介冊子と、1951年の二部学術論文集創刊号から当時の熱い思いを振り返ってみましょう。



一部学術部

1954年当時の一部学術部は、広小路学舎では

 「社会科学」「M.E.L.S」「経済学」「経営学」「貿易」「法友会」「民科法律部会」「民科政治部会」「民科歴史部会」「歴史学」「哲学」「唯物論」「ソヴエト」「スペイン語」「エスペラント」「日本文学」「心理学」「YMCA」「雄弁会」「朝鮮文化」「民族学」「中国文学」「カソリック」「東洋史」「史前史」「英米文学」「地理学」の27研究会が活動していました。

また衣笠キャンパスに拠点を置く理工学部は、理工学部自治会所属として、広小路の人文社会系学部とは別個にクラブがありました。1958年の「学生生活」を見ると、

「建設材料」「写真」「数学」「有機化学」「音響工学」「物性論」「内燃機関」「核物理」「弁論部」「朝鮮文化」「社会科学」「ESS」の12の研究会が活動していました。

 

1954(昭和29)年の一部学術部の新入生への紹介パンフレットには、表紙には末川博の言葉が掲げられています。



「学を修めるには冷静で

学を貫くには

情熱をもってすることを要する」

また巻頭には、「研究会で共に学びとれ」と題した末川博の言があり、課外活動で学ぶことの意義を述べています。要点を抜粋してみましょう。

「大学においては、(中略)科学の研究すなわち学問をすることを本来の使命とする。」

「しかし、今日、われわれ人間の生活は、実に複雑になっていて、しかも、人類多年の努力の結果、学問もよほど進んでいる。従ってこれまで集積されている学問を一通り学びとるということだけでも容易な業ではなく、いわんや、それを越えて先人未踏の境地をひらくということは、なみ大抵のことではない。」

「(学問の道をすすめるには)教室における講義をきくだけではなく、みずからの好むところに従って、学友と共に読書し共に討論することが必要であり適切である。すなわち、諸君は、他から詰めこまれるよりも、むしろ自ら学びとるという自主的な研究態度を確立するように、研究会に入って教授のいわば個人的の指導を受けたり学友と共に研究したりする風をわが学園にみなぎらせていただきたい。」

「そして今日諸君の眼の前に無数に提起されている『なぜか』という疑問に解決を与えるように研究を進め」「諸君が諸君の将来を生かすための道を研究会に入ることによって見出すであろうことを信じ(る)」




二部学術部

二部では1950年に「二部学術部」が創設されています。

1958年の「学生生活」を見ると、二部学術部(法・経・文)には「憲法」「司法」「資本論」「会計学」「哲学」「心理学」「社会科学」「日本文学」「中国文学」「日本史」「東洋史」「西洋史」「人文地理学」「ESS」「中国語」「部落問題」「志法会」の17の研究会が、二部理工学部には、「写真」「映画」の2つの研究会が活動していました。

 

写真は、立命館大学二部学術部発行の論文集「ANTITHESE創刊号」(1951年)です。

二部学術部が創設された直後のこの論文集には、夜間で学びながら学術研究を行うことの意義が学生自身によって述べられています



巻頭の「創刊にあたって」で学生委員長は、新制大学の要卒単位は124、1科目4単位のためそれぞれの専門を深く学ぶことができない。だからこそ、学生自らが自主的に研究をしなければならない。また、新制大学の「クラス」は自治組織としては、特に二部は不十分であるがゆえに、同じ事を研究する同志の集まりが重要だ。として自主的な研究への強い意欲を喚起しています。

 さらに「194911月当時わずかに9つの研究会の会員が集まって『運動部をもたない二部の発展は学術研究会より』のスローガンを掲げ(中略)二部学術部を発足してからわずかに1年あまりの期間に研究会も21団体十数百名の会員を擁するに至り、名実ともに二部の推進力となってきた」と学生の学術部発足当時を振りかえっています。


「創刊にあたって」

末川博も学生自身も、学問は講義だけで修めることはできない、だからこそ課外活動において学術研究を自主的にすすめることが、大学で学ぶ者の使命だと確信しています。

1950年代 学術系サークルは37でした。2013年学術系サークルは55に増えています。

当時の熱い思いは、今も脈々と受け継がれているのでしょう。

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