立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2014.06.18
<懐かしの立命館>中川小十郎が寄進した愛宕山の石段
中川小十郎の献納碑
京都の西北にそびえる愛宕山(あたごさん・あたごやま、標高924㍍)は、京都の人々にとって馴染みぶかい「信仰の山」であり、また近年は山登りの人々でにぎわう身近かな山でもある。山頂の愛宕神社へと続く参道の石段の一角に、「中川小十郎」の名前が刻まれた石柱が残されている。山頂へと続く表参道の、水尾へと分かれるところを少し上がった「ハナ売場前」のあたり、神社まで1.1㌔のあたりにこの石柱は残されている。石柱のサイズは一辺24㌢・高さ(地上部)約66㌢で、石段の登り口に建てられた角柱である。石に刻まれた文字を読んでみると、立命館の創立者である中川小十郎が愛宕山の参道に石段を寄進したことを記した「献納碑」であることがわかる。
「 為 中川好菴重行公百年祭
記念参道石階献納
昭和十八年九月二十六日 曾孫中川小十郎 花押 」(現物はタテ書)
と記された碑文から、中川小十郎が、昭和18年(1943)に、曽祖父である中川好菴(こうあん)の没後百年にあたり、その顕彰をおこなうために石段を寄進したことがわかる。
愛宕山の中川好菴
では、中川小十郎の曽祖父の中川好菴とはどのような人物であったのか、その一端を紹介してみよう。
中川小十郎は丹波の馬路(うまじ)村(亀岡市馬路町)の中川禄左衛門の子として生まれた。父の中川禄左衛門は明治維新に際して「山陰道鎮撫総督」の西園寺公望に、「弓箭組(きゅうせんくみ)」のリーダーとして随従して活躍した勤王郷士である。小十郎の実母はさき(咲)と言い、その母方の祖父が中川好菴(重行・しげゆき)である。好菴は愛宕山の塔頭の福寿院(ふくじゅいん)に出仕して寺務に励み、文政13年(1830)7月の「京都大地震」によって愛宕山の社寺が壊滅的な被害を受けた時には、「造営元締」としてその再建事業に尽力したという。天保14年(1843)に亡くなると社殿の奥に好菴の霊が祀られ、この祠は現在も山上の社務所の横に「好菴堂」として祀られている。
愛宕山の石段造営事業
立命館 史資料センター準備室が所蔵する中川家資料のなかに、昭和初期の愛宕神社関係の資料が残されているが、その中に『愛宕神社表参道石段構築寄進書類』としてまとめられた簿冊がある。冒頭には中川小十郎の「寄進申出書」(昭和17年2月18日)があり「児孫ノ輩等相図リテ表参道四十二丁目樒茶屋ノ辺ヨリ黒門ニ至ル間道路嶮峻ノ部分ニ石段約二百五十段ヲ構築シ」と社司に願い出ている。「工事概説」によると、「昭和16年秋故中川好菴大人百年祭記念トシテ愛宕神社表参道嶮峻ノ部分ニ石段構築ノ上寄進」とその目的を記し、5月には京都府市の許可が下り、翌18年8月に起工式をおこない、12月に工事は終了したと記録されている。「昭和16年12月大東亜戦争勃発シテ兵馬倥偬国ヲ挙ゲテ軍旅ニ奔走スルニ至リ・・・時局下困難視セラレタル本工事ガ予定ノ工程ヲ了ヘテ其ノ完成ヲ見タル」とあって、戦時下の困難な状況のなかで工事が完成したことを伝えている。
愛宕山のケーブルも軍需物資として撤去・供出される戦時下、敬神事業の一環としてこの事業が進められた面もあったようである。『神社巡拝講話(愛宕神社の巻)』という大政翼賛会京都支部発行のパンフレット(昭和18年12月)には、立命館大学の太田亮(中川小十郎の招聘した国史教授)の講話も掲載されている。
立命館の生徒たちと愛宕山
愛宕山はまた、立命館の生徒たちにとって、参拝の場所であり、幕営(野外演習の一環で、幕を張って野営すること)の場所として馴染みぶかい山でもあった。学校における軍事訓練としての「教練」の授業が制度化された戦時体制下、愛宕山への「行軍」もその一環であったのだろう。
愛宕山には昭和4年(1929)にケーブルが敷設され、スキー場やホテルもつくられて観光のスポットとなっていたようで、生徒たちにとっては野営訓練の一方で、屋外での幕営を楽しむ側面もあったのかもしれない。
戦前の立命館中学校、立命館商業学校の校内誌である『立命館禁衛隊』には、生徒たちの愛宕山の参拝記や感想文が時折掲載されている。例えば『立命館禁衛隊』第67号(昭和11年9月)は「愛宕幕営号」と題され、「愛宕幕営グラフ」(昭和11年7月8日)として野営訓練の写真が掲載されている。
そのほか、写真につけられたキャプションからも、幕営の様子の一端を伺い知ることができる。
「愛宕山ケーブル終点に到着、粛然と降車前進する健児」
「飯盒炊事、さぁ飯だ。慣れぬ手付で、飯盒炊事を習う健児。和やかな顔、顔、顔」
また、立命館中学校、立命館商業学校の『校歌集』に収録されたなかには、愛宕山が登場する「スピリット」という歌がある。当時の生徒たちによって歌われたのだろうか。
2014.06.13
<学園史資料から>立命館デザインのバッジ
今月の展示は、立命館デザインのバッジです。
数あるバッジ類の中から15点(13種類)を選んで展示しています。
法学部のバッジ、校友会のバッジ、体育会のバッジ、帽章など色も形も様々なバッジたち。
実験の授業でしょうか?学生服を着た学生たちの帽子に立命館の帽章がついているのが確認できます。
ご寄贈頂いた角帽にも、帽章がついています。格好良いですね。
※角帽は展示しておりません。
時代や用途も様々な立命館バッジたち。
史資料センター準備室では、バッジ類の収集も行っております。
お手持ちの資料でご寄贈いただけます方はご連絡くださいますようお願いいたします。
また、お手持ちの資料には、貴重なもの思い出の品でお手元に置いておかれたいものなどもおありのことと思います。ご寄贈ではなくとも、複写・複製の作成等のご相談をさせていただければと考えておりますので、ぜひ情報をお寄せくださいますようお願いいたします。
2014.05.28
<学園史資料から>「立命館大学学生歌」と「寮歌」
立命館大学硬式野球部 優勝おめでとうございます。
http://www.ritsumei.jp/pickup/detail_j/topics/12809/date/5/year/2014
立同戦の季節です。
空はさながら青春の~♪ で始まる「立命館大学応援歌(グレーター立命)」がグラウンドにこだまします。
立命館大学には、これ以外にも「Step to the world!」「青春の息吹」「立命レオ」などの応援歌や「立命健児の歌」などの学生愛唱歌があります。
その中でも、現在の学生にはあまり歌われなくなりましたが、かつて多くの先輩たちが学び舎のそこここで、そして今でも校友の集まりなどで、当時を懐かしみ、同胞であることを心に刻むために歌われる歌があります。
1961(昭和36)年の「学生生活」から抜粋してみましょう。
一、かがやける 明日をのぞみて
若きわれら 理想にもゆる
見よ 強く 生きるわれら
立命 立命
あゝ 未来の力
二、たゆみなき 時のながれに
若きわれら 真理をきわむ
見よ 清く のびるわれら
立命 立命
あゝ 世紀の光
三、わだつみの 像をあおぎて
若きわれら 平和をおもう
見よ 堅く 結ぶわれら
立命 立命
あゝ われらのつどい
一、夕月淡く梨花白く
春宵花の香をこめて
都塵治まる一時や
眉若き子等相集い
希望の光を一にして
厚き四年を契りたり
厚き四年を契りたり
二、柴扉(さいひ)を排せば暁に
君は川流(せんりゅう)我は薪(まき)
他郷憂(う)しと云うなかれ
椎の葉陰に相寄りて
手をとり友と語らえば
春は四年に尽きぬべし
春は四年に尽きぬべし
三、秋陽落ちて野は寒く
たどる帰り路暗くとも
我待つ寮の灯は赤く
朔風天にどよむとも
来る日思えばあかあかと
希望は燃ゆる胸の灯や
希望は燃ゆる胸の灯や
四、学びの道は遠けれど
暮るるに早き春の日や
春風秋雨巡り来て
今此の丘を去らんとす
ああ我が友よ我が丘よ
いつかえりみん想い出ぞ
いつかえりみん想い出ぞ
音声はこちら「立命館大学校友課」http://alumni.ritsumei.jp/song/song_03.html
最後に 立同戦などでおなじみの「応援歌」の合間に歌われる、もう一つの応援歌「立命館大学エール」も掲載しておきましょう。
一、若人の血今日ぞ燃ゆる
命きたえし、胸は今ぞ
大空翔る
ファイト立命、立命 立命
フレー、フレー、我が立命
二、汗にまみれ、土を噛みて
矢並揃えし力の限り
放たんいざや
ファイト立命、立命 立命
フレー、フレー、我が立命
