立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2014.03.19

<懐かしの立命館>出張入試(地方入試)の歴史と当時を伝える関係書類・写真

今年もすべての入学試験・合格発表が終了し、4月の入学式を迎える時期となりました。

2014年度の新入生を募集する立命館大学・立命館アジア太平洋大学の一般入学試験は、全国31会場で実施されました。

今では、全国各地に入学試験会場を設置して入学試験を実施するのは定番と言えることかもしれませんが、かつて「出張入試」と呼ばれた地方試験の実施は、いつ頃から、どのくらいの試験会場数で始まったものなのでしょうか。

 

 古くは、19395月の『立命館日満高等工科学校(注)報告(第1回)』に、「生徒ノ募集ハ全国ニ於テ左記六ケ所ノ試験場ヲ設置シ、専任教授二名宛出張ノ上ソノ試験ヲ行ヘリ」とあり、京都以外に、秋田、東京、高松、松江、福岡の5会場で試験が行われていて、これが「出張入試」の先駆けとされています(『立命館百年史 通史二』491頁)。

 また、1942年に同校が立命館大学専門学部工学科に昇格したときも、京都、東京、福岡で試験が実施されています。

 

現在につながる出張入試の実施は、1956(昭和31)年度(19562月)から新たに始められたとみることができます。

初年度は、札幌(北海道大学一般教養部)、名古屋(名古屋大学教養部)、広島(広島大学理学部および文学部)、福岡(九州大学第一分校)の4会場で実施され、翌57年度には高松(香川大学経済学部)試験場が追加されました。

 

当時、他大学に先駆けて出張入試を行った背景として、当時の校友会報誌『立命』には、次のように書かれています。

「わが学園は、入学志願者を主として京都府下を中心とした近隣諸府県、就中(なかんずく)、学園経営の短期大学部、専門学校別科、高等学校から得ていたが、いまではそれらの比重が相対的には大幅に縮小し、その基盤を全国各地にひろげ、しかもそれは年を逐うて拡大している」

(『立命』4号、立命館大学校友会、19537月)

加えて、1951年から、高等学校の教諭を招いた「進学懇談会」を全国各地で実施し、末川博総長も積極的に出席し、好評だったことも出張入試を実施する大きな要因となったようです。

 

1950年代の志願者数の推移をみてみると、確かに出張入試が行われて以降、志願者数も増えてきたようです。

年度

1951

1952

1953

1954

1955

1956

1957

1958

1959

1960

志願者数

3,439

5,900

6,314

7,820

8,337

6,176

9,077

8,917

10,045

12,858

注:一部(昼間部)・二部(夜間部)の合計

出典:『立命館百年史 資料編二』20

 


では当時の出張の体制、入学試験の実施体制はどのようなものだったのでしょうか。

『通史二』の記載(501頁)には、「教員2名と学部事務職員23名が、入試問題の入った重いジュラルミン・ケースを抱えて汽車に乗り込む風景が1962年度まで毎年繰り返されることになる。」「1963年度入試からは、答案の輸送は業者委託に切り替えられた」ことが説明されています。

 

当時、各試験会場の担当者が携帯して出張したと思われる、「出張試験関係書類」「○○出張試験資料綴」などの資料が、古くは1957(昭和32)年、つまり、出張入試が行われて2年目の資料から、史資料センターに残されています。


1957(昭和32)年出張試験関係書類(広島)>



1965(昭和40)年出張入試実施要項>

(この年度の京都以外の会場は、札幌、東京、金沢、名古屋、広島、高松、福岡、熊本の8会場)


 

<仮受験票発行の記録は大学の便箋に手書きで>

 

 現在の地方入試の出張の体制は、4名以上の職員を班編成して実施しており、各試験会場の担当者は試験執行にかかわるマニュアルを携帯して出張していますが、出張入試が導入された当初から資料として残る、綿密な内容やスケジュールが記された資料綴は、現在にまでそうした業務が継続されていることを意味するのではないでしょうか。

 

当時と現在との実施の仕方の違いにも目が留まります。

 例えば、1965(昭和40)年度の入試で受験生に配付された「受験に関する注意書」をみると、現在の入試とは異なり、「本鈴から60分経過後」の退出が認められていたようです。


1965(昭和40)年度入試「受験に関する注意書」>※画像をクリックすると、別ウィンドウで拡大画像を見て頂けます。



<当時は学部数も限られており、学部ごとに試験会場が割り振られています>

(現在は、文系、理系などの区分です)

 

1964(昭和39)年、1965(昭和40)年の福岡試験会場の様子の写真が残されていますので、そのいくつかを紹介します。

 

<試験会場となった九州大学教養部と試験会場内の様子>

(地図は、出張者の「業務計画書」裏面に書かれていたもの)



<掲示で試験教室などを確認する受験生の様子>

(現在の「受験案内所」と思われます)



<入試本部で作成が必要な掲示物の確認とその作業の様子>

 

その後、1980年代後半になり、立命館大学の志望層の受験機会を保障するという観点から、全国各地で受験できることを目的に、1989年度からそれまでの地方入試を全国的に本格化させていきます。

1990年前後から段階的に拡大していった地方入試は、以降、2月から3月にわたり、立命館の独自入試として全国20前後の試験会場で実施することになりました。

 

今では試験会場の全国化はめずらしいものではなくなっていますが、全国の大学の中では立命館大学の取り組みがその端緒であったのです。

 そして時代が経ても、入学試験の実施にかかわる業務は改善を繰り返しながら継承され、毎年の厳正な入試執行につながっています。

 

 

(注)立命館日満高等工科学校:「満州国」における技術者不足からこれを養成するため、「満州国政府委託生」を受け入れる機関として、立命館は19393月、立命館高等工科学校を立命館日満高等工科学校に改組。北大路に校舎があったが、衣笠に新校舎を建設し、同年11月、衣笠に移転した。

2014.03.10

<懐かしの立命館> 味の記憶・顔なじみであった「芋がゆ」



「まだ余寒の去らぬ冷え冷えとした旧講堂(兼道場)に、担任を中心として級友一同が車座になって、赤飯の折詰め弁当のはしをとったのは、卒業式の終った直後の昼頃であった。

その折詰めの表紙に祝卒業・立命館清和会とあった。

禁衛隊(注)の芋がゆと、祝祭日の紅白の大きな立命のまんじゅうは、顔なじみであった私達に折詰めとは異例のことで大変印象深く、記憶に強く残っている。[中略] 昭和十三年の三月のことであった。」

これは、1981(昭56)年6月の『清和会報』で、1938(昭13)年に卒業された方が自身の思い出を綴られたなかの一節です。

卒業式に「紅白まんじゅう」「赤飯の折詰め」は今ではなじみの光景ですが、当時の生徒達にとって「芋がゆ」が「顔なじみであった」というのはどういうことなのでしょうか。 

『立命館百年史』(通史第一巻)や史資料センター所蔵の写真を調べてみますと、当時、禁衛隊の服務(大学部隊では剣道隊、柔道隊の服務日割等の記録が残されています)が終わった後、構内に設営された給養テントでかゆの馳走を受けていたようです。 

なるほど禁衛隊の服務に従事していた生徒達にとっては、「芋がゆ」は服務後ほっと一息ついて口にした、顔なじみの味だったというわけですね


服務後にかゆを食べる立命館中学校の生徒、昭和初期(写真:史資料センター所蔵資料より)

 

 

ではその「芋がゆ」は、どういうお味だったのでしょう。

残念ながら、史資料センターには、味を再現する資料は残っていませんでしたが、「こういうものだったのでは?」と再現したものがこちらです


お粥にサツマイモの色合いが素朴ながらも鮮やかです。

作り方はいたって簡単なもので、米1:水6の配合に塩を少々入れ、30分ほど弱火で炊き、粥になったところに水にさらしておいた一口サイズのサツマイモを入れ、さらに10分ほど炊き込めば完成です。

塩加減の調整として、ごま塩を振ってもおいしく召し上がって頂けます。 

できあがった芋がゆを、往時の生徒達への想いを馳せつつ、口にしましたところ、体が温まり、なおかつサツマイモの優しい甘みが、ほっこりした心持ちになるお味でした。

年代を問わず召し上がって頂ける優しいお粥です。

肌寒い日、体調の優れない日、ちょっと疲れたとき、ぜひお作りになってみて下さいませ。

注:禁衛隊 1928(昭和3)年昭和天皇即位大礼の際、御所を警備するために立命館独自に創設された軍事組織を模した組織。立命館は当時御所の東隣に学舎(広小路学舎)があった。当時の隊旗は「立命館大学国際平和ミュージアム」に展示されている。

2014.02.25

<学園史資料から>立命館創立35周年記念事業『国宝 御堂関白記』複製刊行について

 2013618日、ユネスコにおいて陽明文庫所蔵の国宝『御堂関白記』が世界記憶遺産として登録され、この登録を記念して東京国立博物館、京都文化博物館などで一般公開が行われました。

立命館は今から80年ほど前の1936(昭和11)年、この『国宝 御堂関白記』を創立35周年記念事業として複製・刊行しています。

以下に、立命館の『国宝 御堂関白記』複製・刊行事業の概要を紹介します。

 

1.『国宝 御堂関白記』複製・刊行の概要

 1935(昭和10)年、立命館は1900(明治33)年の創立から35年を迎え、また創立者で総長であった中川小十郎の古稀を記念し、創立35周年記念事業を行いました。その記念出版事業として、翌1936年に、『国宝 御堂関白記』『立命館三十五周年記念論文集』文学篇・法経篇、『美妙選集』などを相次いで刊行しました。

 『国宝 御堂関白記』の複製刊行については、立命館総長中川小十郎が「近衛公爵家御所蔵 藤原道長公自筆 国宝 御堂関白記複製頒布趣旨書」で、「立命館大学は今般創立三十五周年に当るを以て此れを慶祝すると共に記念の事業として深蔵の古典籍を複製してこれを世に伝へ、又以て学界の研鑽に資することを冀ひ」複製・刊行したと述べています。

 複製の経過は、貴族院議長(のちに総理大臣)であった近衛文麿氏の特別な厚意によって、19362月に宮内省において撮影を行い、東京帝国大学名誉教授文学博士黒板勝美氏並びに京都帝国大学教授文学博士西田直二郎氏により解題・校訂を行いました。影印複製は当時の最新最高の技術をもって便利堂印刷所が行い、5月に完成、7月より頒布を開始しました。

 『御堂関白記』はもと36巻あったと伝えられていますが、藤原道長の自筆で存するものは14巻で、長徳4(998)年、長徳5(999)年、長保2(1000)年、長保6(1004)年、寛弘2(1005)年、寛弘4(1007)年から寛弘9(1012)年の各年、寛仁2(1018)年から寛仁4(1020)年の各年、計14巻で、そのすべてを現物と違わず再現したのです。



2.複製版の頒布、活字本の刊行

 複製版については、「国宝 御堂関白記複製頒布規定」により、1936(昭和11)7月より頒布を開始し、非売品として会員のみに金500円で頒布をしています。続いて活字本を同年10月に刊行しました。

 頒布先についての記録は残っていませんが、複製版は国立国会図書館、国文学研究資料館、国際日本文化研究センター、同志社大学、関西大学、大谷大学、筑波大学、鶴見大学などが所蔵しています。

 また『立命館学誌』第194(19361115)には、ケンブリッジ、オックスフォード、ソロモン、ローマ、ベルリン(またはライプチヒ)、ハーバード、カリフォルニアなどの各大学に寄贈の予定とあり、コロンビア大学には現在も複製版が所蔵されています。


写真:史資料センター所蔵資料より

3.新聞の報道

 当時の新聞の報道によると、大阪毎日新聞(昭和11522)は、「世界最古の日記 御堂関白記 見事複製成る 昭和の代に匂ひ滾るゝ藤原朝文化の精粋 立命館大学から海外大学へ」の見出しで、宮内省図書寮に所蔵されていた近衛家秘蔵の藤原道長自筆の「御堂関白記」が、立命館大学により現物と寸分の相違を見ないまでの複製品として完成し、海外の大学に寄贈するほか、50部に限り一般有志に頒布することになった、と報じました。

 また京都日出新聞(昭和12622)は、中川総長が滞洛中の皇太后陛下を御所に伺候し、創立35周年記念事業で複製刊行した『国宝 御堂関白記』および『槐記注釈』を献上したことを伝えました。

 

4.世界記憶遺産に登録されて

 世界記憶遺産に登録されて各地の博物館で陽明文庫の所蔵する国宝『御堂関白記』が展示されましたが、立命館が複製した『国宝 御堂関白記』も各地で公開されました。

 複製版の製作にあたった便利堂、長浜市の鐘秀館、東近江市の近江商人博物館などです。

 当時は近衛公爵家秘蔵であった『御堂関白記』と立命館の複製事業に改めて思いをいたしてみてはどうでしょうか。

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