立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2014.05.21
<懐かしの立命館>西園寺公望公と清風荘の丹頂鶴
京都田中の西園寺公望公別邸・清風荘は大正2年に改装され、以降昭和7年までの間、西園寺公が使用しましたが、その清風荘では丹頂鶴が飼われていました。
あまり知られていないことですが、西園寺公望公の清風荘での生活の一端が偲ばれますので、いくつかの資料から紹介します。
鶴はいつ頃から飼われ始めたのでしょうか。
実業界で活躍し茶人でもあって西園寺公望公と親交のあった高橋箒庵(本名高橋義雄)は、大正5年11月22日、清風荘に西園寺公望公を訪問しています。
その時の様子を著書『東都茶会記』の「陶庵侯閑居」に記しています。
「扨て此書斎の前なる鳥籠に雌雄の鶴と一羽の雛とが彳むは、一層優美に見えけるが、雛は先頃産まれたるにて巣籠りてより卅一日目に孵化したる由、……此時不図松の木の間を見るに、最前の鶴は程隔たりて、恰も築山の彼方に逍遥するが如く、梅を妻とし鶴を妾としたる孤山処士の昔も偲ばれて、其奥床しさ言はん方なし」
西園寺公と数寄者といわれた箒庵の交流の様子が覗われます。
また、私塾立命館の賓師であった富岡鉄斎は、同じ大正5年の10月24日に西園寺公望公と50年ぶりの再会を果たしますが、それ以降親交を続け、室町一条の自宅から家族を連れて清風荘を何度か訪問しています。
鉄斎の介添えとして同行した謙蔵の奥さんのとし子氏は、清風荘での思い出を語っています。
「清風荘のお庭は清楚であった。……四方山話の末に公は、この間人が鶴をくれたので仕方なしに裏庭に飼っている、ちょっとお目にかけよう、と……(公に)続いて庭におりた父について裏庭の方へと歩いた。比叡山が空高く聳えて、白雲が頂を去来している。小さな家ほどもある円形の金網の中に、二羽の鶴がうららかな日光を浴びて退屈そうに立っていた。「鶴ももう大分寒いだろうと思うけれど」などと語りながら、今度は西の隅の方の小さい田舎風の亭に案内された」(『鉄斎大成2』「父・鉄斎のこと」)
この訪問の年月は記されていませんが、前後の内容から大正5年の再会以降大正8年頃までの間と思われます(注1)。
西園寺公が鉄斎やとし子さんに鶴のことを語り「仕方なしに」と言いながら「大分寒いだろう」などと気遣っている様子も窺え、公の知られざる一面を知ることができます。
さて、長岡京市教育委員会の馬部隆弘氏は「西園寺公望別邸清風荘の執事所蔵文書」(『ヒストリア』第242号 2014年2月)のなかで清風荘の丹頂鶴について注目しています。
鶴舎は「鶴寿庵」と呼ばれたことや、清風荘の執事を務めた神谷千二氏の「日誌」、および坐漁荘の執事であった熊谷八十二の「熊谷日記」から、大正9年4月末に雌雄が邸内で産まれたことや昭和6年以降も二羽が飼われ続けていること、公望公が昭和15年11月に逝去されたあとの昭和16年にも引き続き飼われていたことが紹介されています。
昭和6年以降も、というのは、昭和6年に今出川通りが開通することによって清風荘の南側部分が京都市に提供されたのですが、これに先立ち昭和5年に鶴寿庵の邸内での移転と鶴二羽を一時的に京都市動物園に預けたことが、当時清風荘の執事であった山田由尾氏の西園寺家宛て書簡によって知ることができます(『西園寺公望傳』別巻一)。書簡からは、京都市動物園に預けたのは清風荘庭園の作庭・改修・管理していた小川治兵衛の取り計らいによるとされています。
馬部氏はまた、神谷家文書「昭和拾六年度日誌」により、昭和16年5月7日と11日に鶴が産卵したこと、10月27日に「当邸ニ大正八年以来飼育ノ鶴二羽、本日寄贈セラル」ことを紹介しています。
こうして西園寺公逝去後も飼われていた丹頂鶴でしたが、昭和16年10月27日、二羽の鶴は西園寺八郎氏により京都市動物園に寄贈されました。
そして二羽は戦時中も動物園で飼われましたが、残念なことにそれぞれ昭和20年9月1日と昭和22年1月17日に亡くなりました。子供を残すことはなかったとのことです(注2)。
最後に、神谷千二氏の御親族である神谷厚生様から丹頂鶴のお話をいただきましたのでご紹介します。
「私が3歳の頃まで清風荘に2羽の丹頂鶴が飼われていました。2羽がつがいだったかどうかは定かではありません。
元は今の今出川通の辺りにあったらしいのですが、市電開通後は京大の女子寮の傍に移されました。
その頃、お屋敷の北側を「太田川」という川が流れていました。ここから一部を取水して鶴舎に引き込んでいました。小魚がツルの餌として供せられました。当時は開渠でしたがやがて暗渠となり、今は道路になっています。
太田川の上流に友禅流しの業者が増えて水質が悪くなったので、後には屋敷内でポンプアップするようになりました。
ツルの鳴き声は遠く出町柳あたり迄聞こえたそうです。
鶴舎は5m立方ほどの金網製でした。すぐ傍にクロガキ(別名:トキワガキ)の大木があり、よじ登って実を取って食べたものです。
1941年頃に私が病気になり京大病院に1週間ほど入院しました。
退院したときはもうツルはいなくなっていて大変寂しい思いをしたことを覚えています。
1941年10月27日に岡崎の市立記念動物園に寄贈されました。
その後祖父に手を引かれ何度か動物園へツルに会いにいきました。ツルが心なしか懐かしがってこちらを見ているように思ったものでした。」
(注1) 鉄斎は大正5年11月16日に最初に清風荘を訪問し、その後何度か訪れているようです。翌6
年12月10日にも訪れていますが、このときの訪問がいつであったかはわかりません。大正7年
12月23日には謙蔵を亡くしていますので、その間のことでしょうか。
(注2) 京都市動物園による。
このほど当史資料センター準備室は清風荘の執事を務められた神谷千二氏の御親族である神谷厚生様の御訪問を受け、鶴のお話などをいただきました。
清風荘における西園寺公望公に関心をもってきました当史資料センター準備室は、そのごく一端ですが、西園寺公望公と丹頂鶴の様子を紹介することとしました。
〔2014.5.21 立命館史資料センター準備室 久保田謙次〕
2014.05.16
「資料保存の現場から」映像フィルムの修復・復元
2014年9月に、長岡京キャンパスへの移転を控えた立命館中学校・高等学校では、現在、倉庫などに保管された資料の整理を進めています。
今年1月、立命館中学校・高等学校の倉庫から、映像フィルム(16ミリフィルム)17本が見つかりました。
フィルムが入れられていた封筒に「昭和4年」のメモ書きがあることや、撮影された内容を記した箱に「立命館中学校」「運動会」などの文字があることから、当時の様子を知るものとして貴重な映像が収められていると思われました。
何とかこれらの資料を、現在でも簡単に再生・閲覧が可能な状態にデジタル化できないかと考え、フィルムの修復・復元を専門とされている株式会社 東京光音 様のお力を借りして、復元を行うことにしました。
一部の資料には、カビの発生やフィルム自体の縮小なども見られましたが、カビ除去のクリーニングや修復作業を施していただいたおかげで、全編の収録を行っていただくことができました。
下記の写真は、カビ除去のクリーニング前とクリーニング後を示した一例です。
クリーニング前はほぼ画面の全般にわたってカビが付着していますが、クリーニングでカビが取り除かれ、鮮明な映像に生まれ変わりました。
復元された資料の中には、昭和一桁代の映像とは思えないほど、鮮明な映像が映し出されたものも多く存在しています。
このたび復元され、再生・閲覧可能な状態で現代に蘇った約85年前の立命館の映像資料――。
学園の歴史とともに、受け継がれた貴重な資料を記録に残し、現在と未来につないでいくことが、立命館 史資料センターの役割です。
株式会社 東京光音 様の会社概要や業務内容・実績につきましては、ホームページに紹介があります。
http://www.koon.co.jp/カビ取り前後の映像(約45秒)を比較してご覧いただけます(映像の内容は立命館のものではありません)。
http://www.koon.co.jp/work/news/douga/douga_1.wmv
2014.05.13
<学園史資料から>広小路存心館を模したオルゴールたち
こちらの小さな展示ケースが、現在史資料センター準備室の唯一の展示スペースとなっています。
見て頂きたい資料は沢山あるのですが、なにぶんケースが小さいため、一月一資料のペースで展示を行っております。
今月の展示は、広小路キャンパス時代の存心館を模したオルゴールです。
色や模様が少しづつ違う、オルゴールを3つ展示しています。
底にあるネジを回し、左下に付いた引出しを開けると学生歌が流れてくる仕組みです。
「広小路キャンパスの存心館と学生たち(1979年)」の写真と共に展示しています。
