立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2014.10.16
<学園史資料から>1953(昭和28)年 学生服予約と学費案内
大学から学生に送付される案内は、現在も様々なものがあります。
今から60年前の1953(昭和28)年、当時の学生に送付された書類から2つほど覗いてみましょう。
<学生服と角帽の購入案内>
現在ではあまり見かけない「学生服・角帽」は、昭和28年当時は大学生の一般的な姿でした。立命館大学では「制服」と定めていませんでしたが、多くの学生が着用していたのです。
そのため、入学手続きの案内には、学生服・角帽の次のような申込み用紙が同封されていました。
※下画像をクリックすると別ウィンドウで拡大画面が開きます。
角帽は600円、学生服は6,000円で市販よりも25%安く購入できる予約申込みですね。
「立命館大学 用度室」とあるのは、現在の生活協同組合のように学生生活に必要な品々を安価に取り扱う部署でした。
さらに学生服はサイズについての説明書も同封されています。
※下画像をクリックすると別ウィンドウで拡大画面が開きます。
規格の単位は、吋(インチ=2.54cm)になっています。換算しますと、おおよそ現代の男性用スーツの「A体」と同じ号になります。3号は身長160cm、4号は165cm、5号は170cm、6号は175cmが目安になりましょうか。
文部科学省「学校保健統計調査」によれば、1953(昭和28)年の17歳平均身長は162.9cm、2013(平成25)年は170.7cmですので、当時は3号か4号の注文が多かったのでしょう。
現在なら5号か6号になりますね。
学生服も角帽も、任意の購入でしたから、結局何着注文があったのかはわかりません。
それでも、1954(昭和29)年の卒業アルバムを見ると、ほとんどの学生が学生服を着用していますから、皆予約したのでしょう。
1954年卒業アルバムより
<学費の案内と郵便振込のすすめ>
大学から送られた書類の中で、もう一つ「学費」の案内をご紹介しましょう。
昭和28年当時の学費額は「昭和二十九年度入学の手引」によれば次の通りでした。
※本文に「二十八年度学費は、或は、若干増額されるかもしれない。」とありますが、「二十九年度」の誤植です。
特に毎年度の授業料と維持費は、年3回に分割して納入することが可能で、その第二期目の学費納入案内(昭和28年8月25日付)は次のようなものでした。
この挨拶文に注目すると、
「いつも新学期を迎えられるに当たり学校に納めて頂くことになっています学費につきまして 遠隔地から送金される多数の方々の御便宜を図り、本学では曩に郵便振替貯金の方法による学費納入の取扱を開始しましたところ、幸に多数の方々の御利用を得まして非常に好成績を納めております。この方法は御承知の通り盗難、紛失等の虞れもなく、又払込手数料も当方で負担致します関係上最も安全且有利だと好評を博しておる次第であります」
と郵便振込を薦めていて、振込用紙も同封されていました。
当時の立命館大学は、地方出身学生の比率が高かったこともあり、郷里から送られる学費を、学生自身が大学窓口で支払う事例が多かったのでしょう。
挨拶文に書かれた「盗難、紛失等の虞れ」や「払込手数料」の話は、こうしたことを想像させます。
2014.10.02
<懐かしの立命館>戦前「最後の立同戦」
立同戦観戦の様子※年代不詳
立命館大学硬式野球部(以下、硬式野球部)は1923(大正12)年、井村信正、小山恭二、長村甚一氏らによって創部されました。この時から現在の硬式野球部の歴史が始まっているといえます。その硬式野球部が加盟しているリーグは過去幾多の変遷を経て今日に至っています。
戦前のリーグは1928(昭和3)年「京都五大学野球連盟」として生まれ、1930(昭和5)年には「関西四大学野球連盟」となり、1931(昭和6)年秋には関西大学、関西学院大学、同志社大学、立命館大学、京都帝国大学(現京都大学)、神戸商業大学(現神戸大学)の6校による関西六大学野球連盟へと変遷します。このリーグの内関関戦、立同戦(当時の言い方は同立戦といいますが、立命館大学では立同戦といいます)は伝統戦として定着し、総じて「関関同立」(戦)と称していました。(入試などでよく言われる「関関同立」はもともとこの伝統戦をさしていたといいます。)
しかしその後、この伝統の立同戦は戦争によって取り止めとなります。
1943(昭和18)年4月6日、文部省は「戦時学徒体育訓練実施要綱」にもとづいて東京大学野球連盟と関西大学野球連盟に対して、連盟の解散とリーグ戦を取り止めるよう要請します。この要請を受けて4月11日に東京大学野球連盟は解散を決定し、翌々日の4月13日、関西六大学野球連盟も緊急委員会を開き連盟の解散を決定します。
その4月13日からわずか約2週間後の4月29日14時から西京極球場(現 わかさスタジアム京都)において二校対抗戦として立同戦がおこなわれ、2対1で立命館大学が勝利を飾りました。
廃止が決定してもなお開催できたのは両校の選手や学生、市民の想い、情熱があったのだろうと思います。
そしてこれが戦前「最後の立同戦」となりました。
これ以降、学生達を戦争に動員する体制が急激にすすんでいきます。1943(昭和18)年6月25日、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学徒勤労動員体制が確立します。10月2日には「在学徴集延期臨時特例」が公布され、文科系学生の徴兵猶予が停止、10月12日には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定され、学生の徴兵猶予が停止されて全面的な学徒出陣が推しすすめられていきました。
そして、ご存知のように1943(昭和18)年10月21日、雨降る明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会がおこなわれたことは歴史事実として記憶されています。同時刻、立命館大学(旧広小路キャンパス)でもラジオ中継を聞きながら1500名の出陣壮行会が挙行されました。「最後の立同戦」のわずか6ヶ月後のことでした。
学徒出陣する立命館学生
同志社大学硬式野球部の部史には最後の立同戦の後、野球部の活動はいったん休止することにし「いつまた皆がグランドに集まる日が来るのか、懐かしいユニホームを返して、残った選手はそれぞれの道を歩むことにした。再びボールを追う日があることを念じながら―その希望をもって」(『同志社大学野球部 部史』同志社大学体育会硬式野球部、同志社大学野球部OB会編集・発行)と戦前の部史を終えています。
遠い約束だった伝統の立同戦は敗戦後の1946(昭和21)年5月16日に守られ再開されました。
立同戦観戦の様子※年代不詳
残念ながらこの「最後の立同戦」の詳細な資料(スコアブック、写真、メンバー表、証言等)は立命館史資料センター準備室には残っていません。引き続き多くの資料を収集して戦時下の先輩諸兄の青春像を浮き彫りに出来ればと思っています。
参考
1.『同志社大学野球部 部史』同志社大学体育会硬式野球部、同志社大学野球部OB会編集・発行
2.『立命館百年史通史一』立命館百年史編纂委員会
3.『学制百二十年史』 文部省
4.京都民報 1983.10.23付 1993.11.21付
5.立命館大学硬式野球部HP 硬式野球部の歴史
2014.09.12
<学園史資料から>スポーツの秋
今月の展示は、スポーツの秋と題して、数あるスポーツ関係資料の中から数点をご紹介。
各記念の品や紙資料など、スポーツ関係資料の形は様々です。
スポーツ関係資料には、応援グッズも沢山あります。
こちらは応援グッズの団扇。
団扇に描かれたキャラクターや応援歌に関連した記事はこちら。
<懐かしの立命館>「第三応援歌」はどこへいったのか。
