立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2014.08.01
<懐かしの立命館>1951(昭和26)年8月16日 63年前の大文字観賞会
1950(昭和25)年5月19日に立命館学園は、創立50周年をむかえ初の公選制によって選ばれた末川博総長(当時)が「20世紀のスタートは近代日本のスタートであり、同時に又、立命館学園のスタートであった」と学園の発展を讃えました。
この年から始まった50周年記念事業は、大学院・短期大学校舎建設、鴨川運動場整備、春菜寮開設、北大路運動場拡張など1953(昭和28)年まで続く事業でした。記念事業最初の事業であった大学院校舎は同じ年の10月に竣工しました。
50周年事業が進み始めた翌年の1951(昭和26)年8月10日、理事、教職員各自にはがきの案内が送られました。
拝啓 酷暑の砌 御尊堂愈々御清昌に渉らせられお垚び申し上げます。掲て來る16日は例年のように精霊の送り火として古都の夜をこがす大文字等が点火されることになっています。就いては本館大学院屋上において午後7よりこ小が觀賞の夕べを催したいと存じますので何の取設けも御座いませんが、御繰合わせの上御家族同伴御来駕を賜りたくご案内申し上げます。
京都市上京區廣小路寺町東入中御靈町410 學校法人立命館
昭和26(1951)年8月10日中京局発信
1989年8月16日 衣笠キャンパスから望む大文字の送り火の様子
お盆に入ると連日最高気温36℃以上の猛暑が続いていましたが、16日には前日までの猛暑も少し和らぎ、この日の「大文字観賞の夕べ」には理事、教職員の約250名(約7割)が参加して盛大におこなわれました。参加した理事、教職員にはささやかに団扇とお菓子が配られました。
団扇
菓子(京銘菓松風 庶民の駄菓子かりんとう 南蛮菓子のビスケット)
この夕べに参加した理事、教職員は立命館学園が戦後の新時代に相応しい大学として、国民大衆のための大学として出発点に立ったことを確信し、次の50年後の学園発展を夢見たのかも知れません。大文字観賞の夕べは教職員のひと時の休息とやすらぎを与えました。お土産の団扇とお菓子はその時の具象です。
大文字観賞関係書類と当時配られたお菓子を再現したもの
2014.07.22
<学園史資料から>わだつみ像再建立
今月の展示は、わだつみ像再建立です。
募金活動のために製作された領布グッズと、ミニサイズのわだつみ像を展示しています。
わだつみ像の歴史を振り返る数点の写真とともに展示しています。
過去の記事
<学園史資料から>わだつみ像、バッチ・キーホルダー・盾 1975~1976年
「今日は何の日」12月 わだつみ像
2014.07.16
<学園史資料から>門標「立命館大學」と銘菓「黄檗」
立命館大学衣笠キャンパスの東門に「立命館大學」と書かれた門標が掲げられています。
この門標は縦書きですが、実は同じ書体の門標が京都衣笠体育館の北側と洋洋館北側のきぬかけの路沿い、それに恒心館の北西の通用門に掲げられていてこの3枚は横書です。いずれも立派なブロンズ製です。東門の門標は1981年の衣笠一拠点の際に広小路から移設したものです。
*写真は立命館大学衣笠キャンパス東門の門標
今回は、これらの門標の由来について紹介します。
話は4年前の2010年に遡ります。
書家の青山碧雲という方から1冊の本を寄贈いただきました。『続京都の書』です。(のちに『京都の書』も寄贈いただくことになりました。)
この本は京都の街のあちこちに見られる石碑や看板などの書を探訪して書家の目でその書について解説しているものです。
そのなかで青山氏は「きぬかけの路」を歩いていて「立命館大學」と書かれた銅版を見つけ、いつまでも釘付けになっていた、と言っています。そしてその文字を絶賛しています。「何ていい字なんだろう、凄いなあ」「この書はほとんど完璧に近い字」と評しています。
*写真は立命館大学衣笠キャンパス 京都衣笠体育館北側(きぬかけの路)の門標
この門標を揮毫したのは綾村坦園という書家です。
『立命館学園広報』の1971年6月20日号は立命館創立70周年記念特集号ですが、そのなかの「立命館大学の銘板」に、
『現在の「立命館大学」をはじめ「立命館大学大学院」や「立命館大学理工学部」などの門柱に掲げられているブロンズ製の銘板は、昭和28年に校門の改築に際して作成されたもので、これは日展審査員綾村坦園氏(書道家)の筆になるものである。このうち「立命館大学」名のものは、その書を二期会審査員村上丙氏(彫刻家)によって木型に刻られ、原版として残されている。』
と記されています。
1953年度の理工学部卒業アルバムには、新装なった広小路学舎の校門に「立命館大學」の、衣笠学舎の理工学部校門に「立命館大學理工學部」の門標の写真が掲載されています。
それでは綾村坦園氏はどのような方で、立命館とどのような関わりがあったのでしょうか。
綾村氏は1907年石川県の生まれで京都大学経済学部を卒業し、本名は綾村勝次といいます。坦園は号で、文筆家としても知られ、筆跡鑑定も能くしたとのことです。平安書道会(注1)の第5代会長(1968~1999年)をされた書道家です。京都の在住でしたが1999年に亡くなられています。
その綾村坦園氏が立命館の門標を揮毫するに至った経緯は次のようなことでした。2010年の10月に綾村坦園氏の長女の綾村捷子さんを訪ねてお話しをお聞きしました。
門標を揮毫した経緯ははっきりはわからないけれども、末川博先生(総長)とお付き合いがあり、末川先生から依頼を受けたのでは、とのことでした。綾村氏は末川先生より15歳ほど若いのですが、第三高等学校でともに弁論部であったことからお付き合いがあったといいます。
末川先生が綾村さんのお宅を訪ねて来る時は、かぎやさんの「黄檗」をお土産にもって来られたことがとても印象に残っているとのことでした。
ご自宅には木製の「立命館大學大學院」の門標が所蔵されており、「中川会館」や「経済学部」の門標も見たことがあるということでした。
これまで深草キャンパスに掲げられていた門標「立命館高等学校」「立命館中学校」も綾村坦園氏の揮毫と思われます(注2)。
また既に史資料として所蔵しているなかに「立命館大学経営学部」「立命館大學理工學部」「立命館大學大學院」「立命館大學大學院工學研究科」「立命館高等学校」「立命館中学校」などの門標があります(注3)。
経営学部の開設(1962年)や工学研究科の開設期間(1952~1962年)から考えると、1953年の「立命館大學」のみならず何度かに亘って揮毫されたといえます。
学園の顔のひとつともいえる門標を通じて、綾村坦園氏と立命館の浅からぬ関係が窺えます。また、末川先生のお土産「黄檗」が立命館の門標の由来に登場することも立命館の歴史の一齣(こぼれ話ではありますが)として記憶されてよいかもしれません。
その「黄檗」は粟羊羹に豆の粉をまぶした珍しいお菓子で、唐菓の古風を残した素朴な銘菓です。お茶はもちろんお酒とも一緒に楽しめるお菓子です。
*写真は百万遍かぎや政秋の黄檗
(注1) 平安書道会では、戦前立命館の名誉総長であった織田萬(鶴陰)が第2代会長を、中川小十郎(白雲)
が昭和6年に事業部長となっています。(綾村坦園『平安書道会略史』(1993年)より)
(注2) 2014年9月長岡京市に移転のため現在は別途保管中です。
(注3) 「学」と「學」については各門標のままの表記としました。
今回ホームページ掲載にあたり、改めて綾村捷子様からお話をお聞きしました。お礼申し上げます。
(2014年7月16日 立命館史資料センター 久保田謙次)
