立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2014.04.09

<学園史資料から>衣笠球場ものがたり

 

はじめに

 このほど衣笠球場の設計図を復元しました。元の設計図は史資料センター準備室で保存していますが、1948(昭和23)531日に作成されたもので、劣化がはげしく判読が困難になっています。かけがえのない資料を永く保存するため、復元することにしたのです(1)。球場の設計図復元を機に、衣笠球場の歴史を紹介します。

 

1.衣笠球場の開設

 正式には「立命館衣笠球場」といいます。衣笠球場は新制大学となった1948年の9月、衣笠キャンパスの北東部に竣工しました。現在の正門を入った南西側です。

 球場の建設計画は、総合グラウンドの施設のひとつとして19477月に打ち出されたのですが、総合グラウンド計画は19484月の新制大学設置計画など教学施設の充実を図る上で問題をはらんだものでした。その経緯の詳細は『立命館百年史 通史二』に述べられていますのでここでは省略します。

 理事会は総合グラウンド計画のうち球場については建設することにし、424日の理事会で施工企業を決定しました(2)

 531日付の設計図はその決定を受けて作成されたものと思われます。

 建設は510日に着工し、当初7月末の竣工予定でしたが、915日に竣工しました。設計図によれば、グラウンド面積11,416.5㎡、センターライン110m、ファウルライン90m、最大収容人員20,000人で、20段の木造スタンドやスコアボード、事務所や選手控室のある立派な球場が完成しました。球場の敷地面積は13,550(44,715)に及ぶ公認野球場です。当時、観光道路(現在の愛称はきぬかけの路)は無く、球場は衣笠山の山麓から松林が続いていました。

 立命館は文部省に提出した事業報告のなかでその利用について次のように述べています。

 「立命館大学は綜合大学の認可を得、且一万五千の学徒、教職員を有するに拘らず見るべき体育施設皆無の事情に鑑みこれが体育施設として利用する外広く一般市民及一般体育団体の体育施設として利用したい所存である。」

 

2.グラウンド開き

 919日に完成記念式典が行われ、京都新聞は同日の記事で球場の完成について、衣笠山を背景とした環境は健康スポーツをする場として適切な場所であり、京都のスポーツ界、府市民のため貢献すると期待しています。

球場は、922日の立命館大学と同志社大学の第1回総合体育定期戦の硬式・軟式野球戦でデビューしました。

翌日23日には、球場完成記念大会として、新制高校野球秋のリーグ戦が行われました。

 第1試合は立命館神山高校―同志社高校、第2試合は立命館高校―平安高校、第3試合は四條商業高校―洛南高校(旧京都二中)、第4試合は西陣商業高校―西京商業高校で、熱戦が繰り広げられましたが、現在は名称が変わっていたり、既に無くなった高校もあります。

 1949年の311日には球場運用のルールである、「立命館衣笠球場管理規程」と「立命館衣笠野球場使用規定」が定められました。

 

3.高等学校と中学校の野球大会開催

 (1) 高校野球

 1950年と1951年は高校野球京都大会のメッカとなりました。

19505月の春季京都府高等学校野球大会第2次戦は12校が参加し熱戦を繰り広げました。この大会には立命館神山高校が出場しましたが、優勝は平安高校でした。同年の夏の京都大会および京津大会も衣笠球場で開催され、83日の京津大会では山城高校が中央八幡高校を下し甲子園に出場しています。

1951年には、春・夏・秋の大会ともに衣笠球場で開催され、春には平安高校が京都商業をノーヒット・ノーランで押え、前年に続いて優勝しました。夏の京都予選も衣笠球場で開催され、730日の決勝戦で平安高校が山城高校を下し春夏連続で優勝しました。平安高校はこの夏の甲子園で優勝し、98日に高松一高を招待し、衣笠球場で優勝記念大会を開催しています。

19525月の春の大会は衣笠球場と平安高校で開催されましたが、立命館が山城高校を破り4年ぶりの優勝を果たし、近畿大会へと進みました。10月の秋季京都大会も衣笠球場で開催され、立命館はこのときは3位となっています。

衣笠球場はその後も高校球児の熱戦の舞台を提供し、1957年の秋季大会まで開催の記録が残っています。この年は第2次戦が1012日から衣笠球場と平安高校で始まり、立命館が東舞鶴を123で破り初優勝しています。

 (2) 中学野球

 『京都市中学校野球50年史』は、京都市中学校野球大会でも衣笠球場を使用したことを

伝えています。

 1951年度の第5回大会から1953年度の第7回大会までの3年間その記録があります。

 1951年度は845日の第2次戦である準々決勝・準決勝・決勝戦を開催しています。決勝戦は藤ノ森中学と下鴨中学の対戦となり、10で藤ノ森中学が優勝しました。

 翌52年度の第6回大会は、88日からやはり第2次戦で3回戦・準々決勝・準決勝・決勝を行いました。準決勝および決勝戦が10日に開催され、立命館中学も準決勝に進みましたが、決勝戦は平安中学対上京中学となり、平安中学が優勝を飾りました。

 1953年度の第7回大会は、729日から11日間にわたり衣笠球場で繰り広げられました。決勝戦は811日、郁文中学対北野中学で争われ、10で郁文中学が栄冠を勝ち取りました。

 翌年の1954年度も衣笠球場の試合が予定されていましたが、天候の都合で衣笠球場での開催は中止になり、四条中学に変更になっています。

 

4.プロ野球と社会人野球開催

 (1) 日本プロ野球

 衣笠球場でのプロ野球の公式戦は、4年にわたり67試合が開催されました。開設された1948年には11月に4試合、1949年には44試合、1950年には17試合、1951年には8月に2試合でした。

 最初の試合は48117日、阪急対南海、急映対中日のダブルヘッダーで、13,000人の観客が入りました。急映対中日戦では小鶴誠と原田督三のホームランが出ています。翌日の金星対大陽戦で金星はスタルヒンが投げています。なお、大陽ロビンスは、1947年には太陽ロビンスでしたが、点をとる球団に、ということから太陽の「、」をとって大陽ロビンスに改名したとのことです。

 1949年には、京都新聞社が立命館と衣笠球場の使用契約を結び、大陽ロビンス(大陽京都ロビンス)の公式戦の主催球場としました。この結果、大陽のゲーム41試合のほか3試合を開催しています。この年は、川上哲治や大下弘、別当薫、鶴岡一人、青田昇、藤村富美男といった往年の名スターが衣笠球場でホームランを放ち、また巨人の別所毅彦もこの球場で勝利投手となっています。713日の阪神対大陽戦では別当・土井垣・田川・藤井・松本と5本のホームランが飛び出し、2万人の観衆が熱狂しました。

 ちなみに開幕初日の42日は1試合で内野席100円・外野席60円、43日はダブルヘッダーのため内野席150円・外野席80円でした。

 1950年にはこれまでの1リーグから2リーグ制となり、セ・リーグの試合が12試合、パ・リーグの試合が5試合行われました。この年大陽ロビンスは松竹ロビンスと名を変え、小西得郎監督が率いてセ・リーグで優勝しています。

 しかし衣笠球場でのプロ野球は1951812日の阪神対松竹、阪神対大洋のダブルヘッダーを最後に幕を閉じます。これは、前年の9月に大阪球場が完成して公式試合が大阪で開催されるようになり、観客が減少したことにもよるようです。

 (2) 女子プロ野球

 1950年には各地に女子プロ野球チームが誕生、最盛期には全国で25チームほどあったようです。

 この年、衣笠球場でも女子プロ野球戦が行われました。京都新聞社の主催で、京都ヴィナス軍と東京エーワン軍の試合です。東京エーワン軍は初の遠征、京都初の女子プロ野球戦です。入場料は50円、試合は守備のエーワン軍、打撃のヴィナス軍と言われましたが、先輩格のエーワン軍がやや有利との予想でした。

 試合は79日、息詰まる接戦の末、追撃するエーワン軍を振り切り97でヴィナス軍が勝利しました。ともに18歳の河口投手の好投と平本遊撃手の攻守が光ったといい、1万を超える観衆に衣笠球場が沸いたとのことです。

 その試合に出場したエーワン軍の主将田中科代子さんは、著書『プロ野球選手はお嬢さま』で次のように語っています。

 「深緑の木々に囲まれた球場は、しっとりとした京都らしい趣きを呈し、一万余りもの観衆が詰めかけていた。東京と京都の女の闘い見たさに、これほどの人々が押し寄せるのか。……セ・パ両リーグのカードだって、観衆一万人以上の試合はそれほど多くなかったからである。」

 衣笠球場での女子プロ野球は、同年の1023日にも開催されました(3)。第1試合は京都ヴィナス対三共レッドソックスで延長の末55の引き分け。第2試合は三共レッドソックス対東京エーワンで、レッドソックスのサヨナラ勝ちでした。第1試合では京都ヴィナス・寺田の、第2試合では三共レッドソックス・中村の本塁打が飛び出しています。

 女子プロ野球は各地で対戦を行いましたが、1951年のシーズン終了後、ノンプロへと移行していきます。

 (3) 社会人野球

 『京都社会人野球大会50回史』によると、京都社会人野球大会は、第8回の1951年春、同年秋の第9回大会、1952年秋の第11回大会で開催されています。

 第8回大会は宇治市の誕生を記念してほとんど宇治で開催されましたが、329日に準決勝のうち1試合を行っています。

 第9回大会は19519月から10月にかけて8試合が組まれ、優勝候補の京都大丸が初戦で敗れる波乱があり、初陣の専売公社が西京貨物に逆転勝ちをおさめて初優勝しました。

 1952年の第11回秋季大会は、921日から23日まで開催され、この大会も専売公社が旋風クラブに延長戦の末53で勝ち、2度目の優勝を遂げています。

 

5.立命館専用球場

 (1) 創立50周年記念式典の開催

 19501015日、秋晴れの衣笠球場で立命館創立50周年記念式典が挙行されました。創立記念日は519日ですが、学生からの学園祭と同時にしたいとの要望により10月の開催となりました。2,300席の大テントが来賓・校友・父母・教職員・学生生徒で埋まり、更に500名の学生生徒が立ち並び、6,000人が集ったともいいます。

末川総長が、50年の歴史の上に我学園はますます50年の歴史に答えるために新しい進歩した歴史をつくらなければならないと式辞を述べました。来賓・卒業生代表・父兄代表・在学生代表の祝辞があり、佐々木惣一元学長や滝川幸辰教授など学園功労者31氏に感謝状を贈呈、永年勤続の教職員が表彰されています。

 (2) 諸活動での使用

 1951122日には学内の各学部対抗野球大会が開かれました。法学部・経済学部・文学部・理工学部・別科の5チームが大接戦を演じ、決勝は経済学部と理工学部の対戦となり理工学部が優勝の栄冠に輝きました。

 本学では主に大学の硬式野球部・軟式野球部や高校の野球部が使用しました。球場の北側には野球部の合宿所「白雲寮」が1952年秋に建てられ、1967年まで使用されています。

1952年には、関西六大学春季リーグの同立戦が59日・11日・12日の3日間にわたり戦われ、連日3,000人を超える観衆が応援を繰り広げましたが、立命館は残念ながら12敗と惜敗しました。

このときの試合には、山城高校を卒業し立命館大学に入学した吉田義男さんが出場しました。吉田さんは1年からレギュラーとなり、衣笠球場で練習をし試合に出場しています。しかし1年で中退し阪神に入団しました。その後名遊撃手として活躍、後に阪神の監督を務めています。同じころ衣笠球場で活躍した岡嶋博治氏が中日に、西尾慈高氏が阪神にやはり中退してプロ野球に進んでいます。

 

6.衣笠球場から中央グラウンドへ

 衣笠球場開設後、プロ野球や社会人野球、そして高校野球などで使用されたのは、当初一般に開放することで公認されたこともありますが、西京極球場が1946年から1950年までアメリカ進駐軍に接収され、使用に大きな制約があったことにもよるでしょう。

 しかし、19518月のナゴヤ球場の火災による大惨事によって木造のスタンドを使用することが禁止され、衣笠球場も一般使用が困難になりました。翌523月、立命館は衣笠球場の使用を学校関係者のみとすることを決めました。56年には球場は正課体育の運動場とし、総合的運動施設を別に設置することが提起されました。

 衣笠球場での最後ともいえるイベントを紹介します。

 それは創立65周年および66周年記念学園祭の体育大会です。65周年記念の体育大会は1965117日に開催されました。末川博総長を名誉会長として、学生と教職員、来賓、生協も参加した全学の大会です。大会には学園祭企画のトップをきって4,000人が参加しました。30種目ほどの競技や演武などが行われ、竜の玉とり競技、タルころがしリレー、恋愛23脚などといった種目もありました。球場を発着とする現在のしょうざんあたりまでの往復5㎞のロードレースもありました。学部対抗は理工学部が優勝し、仮装行列は出町北寮が優勝しています。

 翌年の66周年記念大会は1113日の予定が雨で延び1116日に開催、3,000人が参加しました。学部対抗の800mリレーや男女不問で学生・教職員混合のリレー、合計224名による400m騎馬リレー、体育会の800リレーなどに熱戦が繰り広げられました。

 このようにおよそ20年ほどにわたって利用されてきた衣笠球場でしたが、1967年には柊野に総合グラウンド・野球場が完成、69年には衣笠に体育館が建設されて、衣笠球場はその役割を終えました。跡地には中央グラウンドが出来、体育の正課授業や課外活動、学園祭などに使用されてきました。

 その中央グラウンドも現在は中央広場などに変わり、キャンパス内には球場の面影をたどれるものはありません。キャンパス周辺のNTTの電柱に「衣笠球場」「キヌガサキュウジョウ」のプレートが残るのみです。

 

7.近隣の方々の衣笠球場の思い出

 衣笠球場で同立戦やプロ野球が開催されたころ、近くに住んでおられて観戦に来られた方に思い出を語っていただきました。


 (1) 小泉恵二さん(79)

 「中学生から高校生のころ、自宅から近いこともあり、衣笠球場へはよく行きました。立派な球場でした。

プロ野球も衣笠球場で観ました。その観戦料を母にせがんだり、自分のお小遣いをためたりして捻出したものです。衣笠球場は、大陽ロビンスのホームグラウンドということもあり、ロビンスの試合はよく観ました。小西監督のもと、大岡、小鶴といった選手が揃っていた時には、ロビンスはセントラルで優勝もしました。

 プロ野球ばかりでなく、関西六大学野球の同立戦もよく観に行きました。そのとき、兄が同志社に在学していたのですが、僕は立命を応援していました。立命のキャプテンであるセカンドの鳥本さんは地味ながらも良い選手で、特に応援していました。

 当時の学生野球は、今と比べようもないほどの人気でした。」

 (2) 小泉博さん(73)

 「小学生のころのことですが、衣笠球場で試合の時には、とにかく大変な人の混みようでした。市電わら天神から衣笠球場までの道路(疎開道路)は、舗装されていなかったため(当時はどの道路も大概そうでしたが)、濛々たる土埃だったことが印象に強く残っています。

 大陽ロビンスの応援をしており、小鶴、ピッチャー真田など有名な選手が揃っていました。NHKの解説もしていた「何と申しましょう」という口調が特徴の小西監督の時には、セントラルで優勝もしました。

 当時の学生野球はプロにつぐ人気があり、同立戦もよく観ました。

 衣笠球場といえば、馬術部の馬場が横にあり、立命の学生さん達に遊んでもらった記憶があります。」

 

おわりに

 設計図を復元したのは資料の保存のためでしたが、きっかけは201049日のことでもありました。

 その日、本学を1959年に卒業した岡田忠さん(元朝日新聞編集委員)が衣笠球場の調査のため来室されました。岡田さんは野球部のOBで、「衣笠球場は野球部時代に汗と涙を流したとりわけ思い出深い球場」であったといいます。球場の跡(衣笠キャンパス)を案内し周辺の電柱の「衣笠球場」のプレートの写真を撮っていると、偶然近くに住む高田憲一さんに出会いました。高田さんは子供の頃から衣笠球場の試合や練習をよく見に来ていたとのことで、長年衣笠球場について調べておられ、その資料を見せていただくことになったのです。

 この出会いが消えかかった衣笠球場の設計図を復元するきっかけにもなり、本稿をまとめることとなりました。

 

 (12) 元の設計図は竹中工務店京都支店の作成で、今回の復元も竹中工務店の協力をいただきま

した。球場の施工も竹中工務店でした。

 (3) 開催日と得点が『プロ野球選手はお嬢さま』と異なりますが、京都新聞の記事によりました。

 

 本稿の作成にあたっては、学内の諸資料のほか、

  (1) 岡田忠さんの「私の青春記 衣笠球場のプレート」(2011)

  (2) 高田憲一さん調査による寄贈資料

  (3) 京都府高等学校野球連盟『京都高校野球史』(1967)

  (4) 京都市中学校体育連盟野球専門委員会『京都市中学校野球50年史』(1997)

(5) ベースボール・マガジン社『日本プロ野球大全集』(1985)

  (6) 京都社会人野球連盟『京都社会人野球大会50回史』(1973)  

  (7) 田中科代子『プロ野球選手はお嬢さま:白球に恋した淑女たち』文芸社(2002)

  (8) 京都新聞各関係記事

 などを参照させていただきました。

 添付の図・写真は、

  (1)  1958年度『学生生活』所収の衣笠学舎・衣笠球場

  (2) 開設の頃の衣笠球場 2

  (3)  復元された「立命館衣笠球場設計図」(20143)

 

                    〔201449日 史資料センター準備室 久保田謙次〕

2014.04.02

<学園史資料から>1950年代、学術系サークルで学ぶことへの熱い思い

 

4月。各サークルは新入生の獲得に一所懸命な時期ですね。

2013年3月現在、立命館大学の学術部公認サークルは32。同好会や任意団体を含めると55のサークルが日々自主的な学術研究にいそしんでいます。

今から半世紀前の1950年代、学術系サークルは37ありました。

現在まで脈々と続くサークルもあれば、当時の世相や学問状況を色濃く反映したサークルもありました。また、1950年代は新制大学となって間も無く、講義だけではなく、積極的な自主的活動を通して学問研究に真摯に取り組もうとする熱い思いも垣間見えます。

 今回は、1954年の新入生に向けた一部学術部の紹介冊子と、1951年の二部学術論文集創刊号から当時の熱い思いを振り返ってみましょう。



一部学術部

1954年当時の一部学術部は、広小路学舎では

 「社会科学」「M.E.L.S」「経済学」「経営学」「貿易」「法友会」「民科法律部会」「民科政治部会」「民科歴史部会」「歴史学」「哲学」「唯物論」「ソヴエト」「スペイン語」「エスペラント」「日本文学」「心理学」「YMCA」「雄弁会」「朝鮮文化」「民族学」「中国文学」「カソリック」「東洋史」「史前史」「英米文学」「地理学」の27研究会が活動していました。

また衣笠キャンパスに拠点を置く理工学部は、理工学部自治会所属として、広小路の人文社会系学部とは別個にクラブがありました。1958年の「学生生活」を見ると、

「建設材料」「写真」「数学」「有機化学」「音響工学」「物性論」「内燃機関」「核物理」「弁論部」「朝鮮文化」「社会科学」「ESS」の12の研究会が活動していました。

 

1954(昭和29)年の一部学術部の新入生への紹介パンフレットには、表紙には末川博の言葉が掲げられています。



「学を修めるには冷静で

学を貫くには

情熱をもってすることを要する」

また巻頭には、「研究会で共に学びとれ」と題した末川博の言があり、課外活動で学ぶことの意義を述べています。要点を抜粋してみましょう。

「大学においては、(中略)科学の研究すなわち学問をすることを本来の使命とする。」

「しかし、今日、われわれ人間の生活は、実に複雑になっていて、しかも、人類多年の努力の結果、学問もよほど進んでいる。従ってこれまで集積されている学問を一通り学びとるということだけでも容易な業ではなく、いわんや、それを越えて先人未踏の境地をひらくということは、なみ大抵のことではない。」

「(学問の道をすすめるには)教室における講義をきくだけではなく、みずからの好むところに従って、学友と共に読書し共に討論することが必要であり適切である。すなわち、諸君は、他から詰めこまれるよりも、むしろ自ら学びとるという自主的な研究態度を確立するように、研究会に入って教授のいわば個人的の指導を受けたり学友と共に研究したりする風をわが学園にみなぎらせていただきたい。」

「そして今日諸君の眼の前に無数に提起されている『なぜか』という疑問に解決を与えるように研究を進め」「諸君が諸君の将来を生かすための道を研究会に入ることによって見出すであろうことを信じ(る)」




二部学術部

二部では1950年に「二部学術部」が創設されています。

1958年の「学生生活」を見ると、二部学術部(法・経・文)には「憲法」「司法」「資本論」「会計学」「哲学」「心理学」「社会科学」「日本文学」「中国文学」「日本史」「東洋史」「西洋史」「人文地理学」「ESS」「中国語」「部落問題」「志法会」の17の研究会が、二部理工学部には、「写真」「映画」の2つの研究会が活動していました。

 

写真は、立命館大学二部学術部発行の論文集「ANTITHESE創刊号」(1951年)です。

二部学術部が創設された直後のこの論文集には、夜間で学びながら学術研究を行うことの意義が学生自身によって述べられています



巻頭の「創刊にあたって」で学生委員長は、新制大学の要卒単位は124、1科目4単位のためそれぞれの専門を深く学ぶことができない。だからこそ、学生自らが自主的に研究をしなければならない。また、新制大学の「クラス」は自治組織としては、特に二部は不十分であるがゆえに、同じ事を研究する同志の集まりが重要だ。として自主的な研究への強い意欲を喚起しています。

 さらに「194911月当時わずかに9つの研究会の会員が集まって『運動部をもたない二部の発展は学術研究会より』のスローガンを掲げ(中略)二部学術部を発足してからわずかに1年あまりの期間に研究会も21団体十数百名の会員を擁するに至り、名実ともに二部の推進力となってきた」と学生の学術部発足当時を振りかえっています。


「創刊にあたって」

末川博も学生自身も、学問は講義だけで修めることはできない、だからこそ課外活動において学術研究を自主的にすすめることが、大学で学ぶ者の使命だと確信しています。

1950年代 学術系サークルは37でした。2013年学術系サークルは55に増えています。

当時の熱い思いは、今も脈々と受け継がれているのでしょう。

2014.03.19

<懐かしの立命館>出張入試(地方入試)の歴史と当時を伝える関係書類・写真

今年もすべての入学試験・合格発表が終了し、4月の入学式を迎える時期となりました。

2014年度の新入生を募集する立命館大学・立命館アジア太平洋大学の一般入学試験は、全国31会場で実施されました。

今では、全国各地に入学試験会場を設置して入学試験を実施するのは定番と言えることかもしれませんが、かつて「出張入試」と呼ばれた地方試験の実施は、いつ頃から、どのくらいの試験会場数で始まったものなのでしょうか。

 

 古くは、19395月の『立命館日満高等工科学校(注)報告(第1回)』に、「生徒ノ募集ハ全国ニ於テ左記六ケ所ノ試験場ヲ設置シ、専任教授二名宛出張ノ上ソノ試験ヲ行ヘリ」とあり、京都以外に、秋田、東京、高松、松江、福岡の5会場で試験が行われていて、これが「出張入試」の先駆けとされています(『立命館百年史 通史二』491頁)。

 また、1942年に同校が立命館大学専門学部工学科に昇格したときも、京都、東京、福岡で試験が実施されています。

 

現在につながる出張入試の実施は、1956(昭和31)年度(19562月)から新たに始められたとみることができます。

初年度は、札幌(北海道大学一般教養部)、名古屋(名古屋大学教養部)、広島(広島大学理学部および文学部)、福岡(九州大学第一分校)の4会場で実施され、翌57年度には高松(香川大学経済学部)試験場が追加されました。

 

当時、他大学に先駆けて出張入試を行った背景として、当時の校友会報誌『立命』には、次のように書かれています。

「わが学園は、入学志願者を主として京都府下を中心とした近隣諸府県、就中(なかんずく)、学園経営の短期大学部、専門学校別科、高等学校から得ていたが、いまではそれらの比重が相対的には大幅に縮小し、その基盤を全国各地にひろげ、しかもそれは年を逐うて拡大している」

(『立命』4号、立命館大学校友会、19537月)

加えて、1951年から、高等学校の教諭を招いた「進学懇談会」を全国各地で実施し、末川博総長も積極的に出席し、好評だったことも出張入試を実施する大きな要因となったようです。

 

1950年代の志願者数の推移をみてみると、確かに出張入試が行われて以降、志願者数も増えてきたようです。

年度

1951

1952

1953

1954

1955

1956

1957

1958

1959

1960

志願者数

3,439

5,900

6,314

7,820

8,337

6,176

9,077

8,917

10,045

12,858

注:一部(昼間部)・二部(夜間部)の合計

出典:『立命館百年史 資料編二』20

 


では当時の出張の体制、入学試験の実施体制はどのようなものだったのでしょうか。

『通史二』の記載(501頁)には、「教員2名と学部事務職員23名が、入試問題の入った重いジュラルミン・ケースを抱えて汽車に乗り込む風景が1962年度まで毎年繰り返されることになる。」「1963年度入試からは、答案の輸送は業者委託に切り替えられた」ことが説明されています。

 

当時、各試験会場の担当者が携帯して出張したと思われる、「出張試験関係書類」「○○出張試験資料綴」などの資料が、古くは1957(昭和32)年、つまり、出張入試が行われて2年目の資料から、史資料センターに残されています。


1957(昭和32)年出張試験関係書類(広島)>



1965(昭和40)年出張入試実施要項>

(この年度の京都以外の会場は、札幌、東京、金沢、名古屋、広島、高松、福岡、熊本の8会場)


 

<仮受験票発行の記録は大学の便箋に手書きで>

 

 現在の地方入試の出張の体制は、4名以上の職員を班編成して実施しており、各試験会場の担当者は試験執行にかかわるマニュアルを携帯して出張していますが、出張入試が導入された当初から資料として残る、綿密な内容やスケジュールが記された資料綴は、現在にまでそうした業務が継続されていることを意味するのではないでしょうか。

 

当時と現在との実施の仕方の違いにも目が留まります。

 例えば、1965(昭和40)年度の入試で受験生に配付された「受験に関する注意書」をみると、現在の入試とは異なり、「本鈴から60分経過後」の退出が認められていたようです。


1965(昭和40)年度入試「受験に関する注意書」>※画像をクリックすると、別ウィンドウで拡大画像を見て頂けます。



<当時は学部数も限られており、学部ごとに試験会場が割り振られています>

(現在は、文系、理系などの区分です)

 

1964(昭和39)年、1965(昭和40)年の福岡試験会場の様子の写真が残されていますので、そのいくつかを紹介します。

 

<試験会場となった九州大学教養部と試験会場内の様子>

(地図は、出張者の「業務計画書」裏面に書かれていたもの)



<掲示で試験教室などを確認する受験生の様子>

(現在の「受験案内所」と思われます)



<入試本部で作成が必要な掲示物の確認とその作業の様子>

 

その後、1980年代後半になり、立命館大学の志望層の受験機会を保障するという観点から、全国各地で受験できることを目的に、1989年度からそれまでの地方入試を全国的に本格化させていきます。

1990年前後から段階的に拡大していった地方入試は、以降、2月から3月にわたり、立命館の独自入試として全国20前後の試験会場で実施することになりました。

 

今では試験会場の全国化はめずらしいものではなくなっていますが、全国の大学の中では立命館大学の取り組みがその端緒であったのです。

 そして時代が経ても、入学試験の実施にかかわる業務は改善を繰り返しながら継承され、毎年の厳正な入試執行につながっています。

 

 

(注)立命館日満高等工科学校:「満州国」における技術者不足からこれを養成するため、「満州国政府委託生」を受け入れる機関として、立命館は19393月、立命館高等工科学校を立命館日満高等工科学校に改組。北大路に校舎があったが、衣笠に新校舎を建設し、同年11月、衣笠に移転した。

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