立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2014.07.08
<学園史資料から>広小路学舎初期の校地・校舎について
はじめに
立命館史資料センター準備室ではセンターの開設にむけて所蔵史資料の整理を行っています。
資料整理の過程で、これまで使用されなかったのではと思われる広小路学舎の開設期の資料があることが判明し、また、関連する新たな資料を入手しましたので、これらの資料により広小路学舎の初期の校地・校舎について紹介します。
立命館大学の前身である京都法政学校は、1900(明治33)年5月19日に認可され、6月に上京区東三本木の清輝楼に仮校舎を開校しました。しかし、予想を超える入学者が集まりたちまち手狭になり、新校舎を求めて、上京区広小路通寺町東入中御霊町に移転することとなりました。
『立命館要覧』(昭和7年1月現在)は、
「明治34年12月現在敷地の一部である上御霊神社御旅所旧趾を購入し、京都府中学校の不用建物一
棟を払ひ下げ之を移築して仮校舎に充用し、初めて稍学校の体裁を備ふることが出来た。其設備の関係
から云へば、更に38年5月には其敷地を拡げ、旧五條警察署の建築物全部を払下げて移築し、所要の教
室、大講堂、文庫等一通りの設備を整えた……」
としています。
広小路学舎への移転は1901(明治34)年12月末に完了し、京都府への移転届が翌月の1月9日付で提出されました。
開設された広小路学舎の校地や校舎はどのようなものだったのでしょうか。
1.校地(土地)の取得について
創立者中川小十郎は1900(明治33)年10月29日に京都府に上京区土手町の旧府立高等女学校の跡地の借用を願い出ましたが実現せず、広小路の地を取得することとなりました。中川は京都法政学校の移転を計画してから財団法人立命館の設立までの間に、広小路の地に6度にわたり8筆の土地を取得します。
このほど確認できた所蔵資料の売渡証(売渡証書)原本によってそのことがわかります。売渡証には当時の登記所である京都区裁判所が登記手続きをした押印があります。この売渡証は学園史の資料としてこれまで使用されてこなかったのではないかと思われます。
以下はその概要で、町名・地番・地積(面積)・取得年月日・売主・取得金額です(注)。
①中御霊町409番 196.27坪 明治34年10月23日 谷 清五郎氏より
同 410番 215.75坪 同 同
(2筆計 412.02坪(約1,360㎡) 金額 1,000円
②中御霊町 411番 69.74坪 建物付 明治38年6月23日 勝部房吉氏より 750円
③中御霊町413番 91.54坪 建物付 明治38年10月19日 福田弥一郎氏より 1,050円
④中御霊町412番 43.25坪 明治40年11月29日 堤市之助氏より 432円
⑤北ノ辺町398番ノ1 384.11坪 明治42年1月11日 高田はる氏より 960円
⑥中御霊町414番ノ1 26.67坪 明治42年5月6日 宮崎安治郎氏より
同 414番ノ2 34.55坪 同 同
(2筆計 61.22坪) 金額 530円
谷氏は荒神口、高田氏は梶井町在住の所有者ですが、勝部・福田・堤・宮崎の各氏は中御霊町の居住でした。
明治42年までに取得した土地の合計は、1,061.88坪(約3,504㎡)となりました。売買金額は4,722円でした。
なお413番の土地は、夫人の中川好栄の名義で契約・登記し、後の大正2年に中川小十郎に所有権を移転します。
以上、土地の取得を売渡証(売渡証書)によりみてきましたが、別途昨年12月に入手した法務局所蔵の旧土地台帳写しでもその内容は全く一致していて、売渡日を所有権移転登記日としていることが確認できます。更に大正元年の京都地籍図編纂所『京都地籍図』からも上記の地番・面積・所有者の状況が確認できます。
(注) ①原本では、所在地を清和院口寺町東入と表記しているものもあります。地積は○坪○合○勺と漢字で表記されていますが、便宜上○.○坪とし算用数字で表記しました。また、北ノ辺町は地目が畑のため壱段貮畝拾歩と表記されていますが、宅地に地目変更したときの坪表記による地積にしました。
②明治34年の取得面積については、『立命館学報』第二号(大正4年3月)は400有余坪としていますが、『立命館要覧』(昭和13年3月現在)および『立命館創立五十年史』、『立命館百年史 通史一』は677坪としています。
③余談ですが、最初に取得した409番と410番の土地は、明治27年5月から32年1月の間、
幕末から明治にかけて公卿・華族であった飛鳥井雅望の所有地で、飛鳥井雅望は蹴鞠保存会の
師範でもありました。
【資料1】 最初に取得した「土地売渡証」
【資料2】 取得した広小路学舎の土地
2.校舎(建物)の取得と広小路学舎最初の配置図
上記の『立命館要覧』(昭和7年1月現在)は、最初の校舎に関わって「京都府中学校の不用建物一棟を払ひ下げ之を移築して仮校舎に充用し」とあります。『立命館百年史 資料編一』には願出をしていた「京都府庁舎払下ノ件」で1901(明治34)年10月24日に京都府から契約書の差出を求められた資料が掲載されており、『立命館要覧』の記述のもとになった資料といえます。
これまで広小路学舎の建物の配置図は1905(明治38)年のものが数点判明していましたが、今回の整理で開設当初の建物の概要と配置がわかる資料が確認できました。
その資料は、1902(明治35)年7月11日付の「未登記建物所有権保存登記申請書」とその附属図面です。
この資料には中御霊町409番および410番地上に、
木造瓦葺平家建本家 1棟 建坪 123.6坪
附属建物 409番地上 木造瓦葺平家建 湯呑所及通廊下 建坪 5坪
同 木造瓦葺物置 平家 建坪 2.4坪
410番地上 木造瓦葺厠 平家 建坪 5坪
同 木造板葺物置但差掛 建坪 1坪
とあり、建物価格は3,000円となっています。京都府から払い下げを受けた建物を移築し、中川小十郎が保存登記を申請したものです。
【資料3】 広小路学舎最初の校地・校舎配置図
これまで広小路の校舎は、『立命館学報』第二号(大正4年3月)などにより、「明治38年2月に京都府五條警察署旧庁舎の全部払下を受け、その2月より移築工事に着手、5月31日に竣工し」たことが知られていました。これは、明治38年9月に京都法政大学附属の清和普通学校(後の立命館中学)を開設するための校地・校舎の整備でした。
同年の数点の校舎配置図のうち、12月13日付の「私立中学校位置申請書」の「本校位置ノ図」によると、校地面積851.76坪とあり、建物は一部2階建て、部屋の面積が記されているもの17室延べ334.5坪、面積が記載されていない附属建物が数室あります。さらに清和院門東南に運動場が1,020坪あり借地をしたようです。
この「位置ノ図」を今回確認した「売渡証書」と「旧土地台帳」および「地籍図」(『京都地籍図』(大正元年))と比べると、以下のことが分かります。
一つは、明治42年1月に取得する北ノ辺町398番ノ1の土地が「位置ノ図」では既に校地・校舎となっています。このことは、『立命館創立五十年史』が「このための敷地は高田政吉が隣接地を買収して提供し」と記し、また旧土地台帳によれば、当該地は明治38年1月26日に高田ハル(売却時ははる)の名義となっていることから、親族ではないかと思われる高田政吉から後日買収することを前提に借りたのではないかと推測します。
もう1点は、この「位置ノ図」には、同年6月23日と10月19日に取得した411番と413番が校地として記載されていないように思います。というのは、この2筆は、411番が20.53坪、413番が37坪の建物付で取得をしているのですが、「位置ノ図」には反映されていません。
更に拡張整備をはかる計画のなかで、この時点では校地・校舎として反映しなかったのではと思われます。
【資料4】 「私立中学校位置申請書」の「本校位置ノ図」
3.当時の学生生活の一齣
新校舎に移転すると入学希望者は更に増え、1902(明治35)年6月には法律科・政治科合わせて300名の学生が学んでいました。
当時の学生生活はどのようなものだったのでしょうか。京都法政学校の3人の卒業生は次のように語っています。
(1) 第1回の卒業生の西村七兵衛氏
「明治35年5月25日に学術演説会があり、田島博士や仁保博士が講演しました。6月16日からは試問(試験)が始まっていて7月16日まで実施されています。9月11日は開講式(当時は9月が開講)」で、日記は毎日ではありませんが、当時の講義や試験の様子がよくわかります。「10月26日には講堂で討論会が開かれました。……そして明治36年7月12日には卒業証書授与式が行われました。」(「西村七兵衛日記」『立命館・中川小十郎研究会会報九』より)
(2) 同じく第1回卒業生の永澤信之助氏
「それでも独立の校舎が出来たのと昨日の東三本木時代の白木のツクエが広小路に移ってから椅子に早変りして腰かけて勉強出来るということは一つの喜びでした。生徒は小学校の先生や弁護士の事務員が大半でした。……又特異の人は下鳥羽村の田中村長さん(後代議士)が人力車で校内まで乗りつけて来たりしていました。スポーツなどは夜学の為にあまり振いませんでしたが、講義の合間には校庭で相撲をやった位です。……」(「立命館学園新聞」25.5、2号『立命館創立五十年史』)
(3) 第2回卒業生の橋井孝三郎氏
「その内に今の場所に移転してやゝ学校らしい形式を具えた。三本木では生徒間に親しくする機会が少かったが、移転してからは間の時間に廊下や小使室で知り合ひを作る機会が出来た。」そして小使室は爺さんと婆さんの二人が住居にして、「餡パンを売ったりしていたが、学生は其処の火鉢を囲んで餡パンを焙りながら雑談に恥(耽ヵ)った。餡パンの焦げる匂ひが今でも懐かしい。」(「思ひ出すことなど『仰臥乱稿』の一節」『立命館学誌』第五〇号 大正11年3月)
4.結び
1908(明治41)年12月16日、京都法政学校から京都法政専門学校を経て京都法政大学となっていた校舎は不幸にして焼失しました。建物の焼失面積は全焼225坪、そのほか事務所生徒控室などが半焼し、甚大な被害を蒙りました。しかし、相国寺などの仮校舎で授業を続けながら再建に着手、1909(明治42)年5月再築許可願を提出し、同年7月には新校舎に移転しました。敷地約1,305坪(4,306㎡)、建坪約349坪(約1,151㎡)と規模を拡大しての再建となりました(『立命館百年史 通史一』)。
今回確認した売渡証書や旧土地台帳からは、土地については、1909(明治42)年取得の北ノ辺町398番ノ1、中御霊町414番ノ1、同414番ノ2とそれまでに取得した土地を合わせて1,061.88坪(約3,504㎡)の自己所有の校地となり、この校地は1913(大正2)年12月の財団法人立命館の設立、立命館大学への改称の時まで続くこととなります。
そして校地(土地)の名義が中川小十郎個人から財団法人立命館の名義となったのは、1920(大正9)年12月13日のことでした。
【資料5】 再建後の京都法政大学・清和中学校校舎(『清和』第1号 明治44年12月より)
(2014年7月1日 立命館史資料センター準備室 久保田謙次)
2014.06.24
「資料保存の現場から」癒着した写真の剥離・保存
全国各地に入学試験会場を設置して実施する「出張入試」に関する資料が、出張入試が行われて2年目の1957(昭和32)年の資料から、史資料センターに残されていることを以前にこのホームページで紹介しました。
<懐かしの立命館>出張入試(地方入試)の歴史と当時を伝える関係書類・写真
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=41
史資料センター開設に向けて、改めて資料一点一点を確認し整理する中で、1964(昭和39)年の出張入試の資料には、当時の様子を伝える写真が綴じこまれていることがわかりました。
そのいくつかは上記のページで紹介した通りですが、中には完全に癒着していて、はがれない状態になっている写真もありました。写真の紙の表面の薬液がくっついて乾燥してしまっている状態です。
見たところ、試験会場内の様子が撮影されたもののようで、当時の入学試験の様子を知ることのできる写真は現在のところ史資料センターでは発見されていないため、貴重な資料になるものと思われました。
そこで、株式会社東京光音 様に相談・依頼したところ、水による剝離は難しい状態だったようで、専用の薬剤にて癒着部分をきれいにはがしていただくことができました。
写真が一枚ずつの状態になり、史資料センターに戻ってきました。
(写真が出てきた手製簡易アルバム もとはこのような状態でおさめられていたのでしょう)
試験会場内の様子のみならず、出張入試を実施する本部内で、おそらく試験監督者の方に向けて説明を行っていると思われる写真も出てきました。
写真手前には、これから試験会場ごとに配付されると思われる試験問題や解答用紙と思われるものも写っていて、当時の様子が伝わります。
1964(昭和39)年の出張入試で撮られた写真は、「ハーフサイズ」で撮影され、「手札版」で焼き付けられています。
「ハーフサイズ」とは、35mmフィルムの半分のサイズで、1本のフィルムで2倍の枚数が撮影できたことから、フィルムや現像の価格が高かった60~70年代に、一世風靡しました。「手札版」は、大体縦7~8センチ、横10~11センチくらいの小さなサイズで60~70年代には安価な焼付けサイズでした。
翌年1965(昭和40)年の資料に綴じこまれていた写真はサイズが異なり35mmフルサイズになっているようです。
カメラや写真にお詳しい方は、「ハーフサイズ」とか「手札版」は懐かしく思われるかもしれませんね。
写真は、PETフィルムを和紙テープでとめた、癒着をしない保護フィルムに入れ、今後、史資料センターで大切に保存していきます。
株式会社東京光音様の会社概要や業務内容・実績につきましては、ホームページに紹介があります。
2014.06.18
<懐かしの立命館>中川小十郎が寄進した愛宕山の石段
中川小十郎の献納碑
京都の西北にそびえる愛宕山(あたごさん・あたごやま、標高924㍍)は、京都の人々にとって馴染みぶかい「信仰の山」であり、また近年は山登りの人々でにぎわう身近かな山でもある。山頂の愛宕神社へと続く参道の石段の一角に、「中川小十郎」の名前が刻まれた石柱が残されている。山頂へと続く表参道の、水尾へと分かれるところを少し上がった「ハナ売場前」のあたり、神社まで1.1㌔のあたりにこの石柱は残されている。石柱のサイズは一辺24㌢・高さ(地上部)約66㌢で、石段の登り口に建てられた角柱である。石に刻まれた文字を読んでみると、立命館の創立者である中川小十郎が愛宕山の参道に石段を寄進したことを記した「献納碑」であることがわかる。
「 為 中川好菴重行公百年祭
記念参道石階献納
昭和十八年九月二十六日 曾孫中川小十郎 花押 」(現物はタテ書)
と記された碑文から、中川小十郎が、昭和18年(1943)に、曽祖父である中川好菴(こうあん)の没後百年にあたり、その顕彰をおこなうために石段を寄進したことがわかる。
愛宕山の中川好菴
では、中川小十郎の曽祖父の中川好菴とはどのような人物であったのか、その一端を紹介してみよう。
中川小十郎は丹波の馬路(うまじ)村(亀岡市馬路町)の中川禄左衛門の子として生まれた。父の中川禄左衛門は明治維新に際して「山陰道鎮撫総督」の西園寺公望に、「弓箭組(きゅうせんくみ)」のリーダーとして随従して活躍した勤王郷士である。小十郎の実母はさき(咲)と言い、その母方の祖父が中川好菴(重行・しげゆき)である。好菴は愛宕山の塔頭の福寿院(ふくじゅいん)に出仕して寺務に励み、文政13年(1830)7月の「京都大地震」によって愛宕山の社寺が壊滅的な被害を受けた時には、「造営元締」としてその再建事業に尽力したという。天保14年(1843)に亡くなると社殿の奥に好菴の霊が祀られ、この祠は現在も山上の社務所の横に「好菴堂」として祀られている。
愛宕山の石段造営事業
立命館 史資料センター準備室が所蔵する中川家資料のなかに、昭和初期の愛宕神社関係の資料が残されているが、その中に『愛宕神社表参道石段構築寄進書類』としてまとめられた簿冊がある。冒頭には中川小十郎の「寄進申出書」(昭和17年2月18日)があり「児孫ノ輩等相図リテ表参道四十二丁目樒茶屋ノ辺ヨリ黒門ニ至ル間道路嶮峻ノ部分ニ石段約二百五十段ヲ構築シ」と社司に願い出ている。「工事概説」によると、「昭和16年秋故中川好菴大人百年祭記念トシテ愛宕神社表参道嶮峻ノ部分ニ石段構築ノ上寄進」とその目的を記し、5月には京都府市の許可が下り、翌18年8月に起工式をおこない、12月に工事は終了したと記録されている。「昭和16年12月大東亜戦争勃発シテ兵馬倥偬国ヲ挙ゲテ軍旅ニ奔走スルニ至リ・・・時局下困難視セラレタル本工事ガ予定ノ工程ヲ了ヘテ其ノ完成ヲ見タル」とあって、戦時下の困難な状況のなかで工事が完成したことを伝えている。
愛宕山のケーブルも軍需物資として撤去・供出される戦時下、敬神事業の一環としてこの事業が進められた面もあったようである。『神社巡拝講話(愛宕神社の巻)』という大政翼賛会京都支部発行のパンフレット(昭和18年12月)には、立命館大学の太田亮(中川小十郎の招聘した国史教授)の講話も掲載されている。
立命館の生徒たちと愛宕山
愛宕山はまた、立命館の生徒たちにとって、参拝の場所であり、幕営(野外演習の一環で、幕を張って野営すること)の場所として馴染みぶかい山でもあった。学校における軍事訓練としての「教練」の授業が制度化された戦時体制下、愛宕山への「行軍」もその一環であったのだろう。
愛宕山には昭和4年(1929)にケーブルが敷設され、スキー場やホテルもつくられて観光のスポットとなっていたようで、生徒たちにとっては野営訓練の一方で、屋外での幕営を楽しむ側面もあったのかもしれない。
戦前の立命館中学校、立命館商業学校の校内誌である『立命館禁衛隊』には、生徒たちの愛宕山の参拝記や感想文が時折掲載されている。例えば『立命館禁衛隊』第67号(昭和11年9月)は「愛宕幕営号」と題され、「愛宕幕営グラフ」(昭和11年7月8日)として野営訓練の写真が掲載されている。
そのほか、写真につけられたキャプションからも、幕営の様子の一端を伺い知ることができる。
「愛宕山ケーブル終点に到着、粛然と降車前進する健児」
「飯盒炊事、さぁ飯だ。慣れぬ手付で、飯盒炊事を習う健児。和やかな顔、顔、顔」
また、立命館中学校、立命館商業学校の『校歌集』に収録されたなかには、愛宕山が登場する「スピリット」という歌がある。当時の生徒たちによって歌われたのだろうか。
