立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2014.02.25

<学園史資料から>立命館創立35周年記念事業『国宝 御堂関白記』複製刊行について

 2013618日、ユネスコにおいて陽明文庫所蔵の国宝『御堂関白記』が世界記憶遺産として登録され、この登録を記念して東京国立博物館、京都文化博物館などで一般公開が行われました。

立命館は今から80年ほど前の1936(昭和11)年、この『国宝 御堂関白記』を創立35周年記念事業として複製・刊行しています。

以下に、立命館の『国宝 御堂関白記』複製・刊行事業の概要を紹介します。

 

1.『国宝 御堂関白記』複製・刊行の概要

 1935(昭和10)年、立命館は1900(明治33)年の創立から35年を迎え、また創立者で総長であった中川小十郎の古稀を記念し、創立35周年記念事業を行いました。その記念出版事業として、翌1936年に、『国宝 御堂関白記』『立命館三十五周年記念論文集』文学篇・法経篇、『美妙選集』などを相次いで刊行しました。

 『国宝 御堂関白記』の複製刊行については、立命館総長中川小十郎が「近衛公爵家御所蔵 藤原道長公自筆 国宝 御堂関白記複製頒布趣旨書」で、「立命館大学は今般創立三十五周年に当るを以て此れを慶祝すると共に記念の事業として深蔵の古典籍を複製してこれを世に伝へ、又以て学界の研鑽に資することを冀ひ」複製・刊行したと述べています。

 複製の経過は、貴族院議長(のちに総理大臣)であった近衛文麿氏の特別な厚意によって、19362月に宮内省において撮影を行い、東京帝国大学名誉教授文学博士黒板勝美氏並びに京都帝国大学教授文学博士西田直二郎氏により解題・校訂を行いました。影印複製は当時の最新最高の技術をもって便利堂印刷所が行い、5月に完成、7月より頒布を開始しました。

 『御堂関白記』はもと36巻あったと伝えられていますが、藤原道長の自筆で存するものは14巻で、長徳4(998)年、長徳5(999)年、長保2(1000)年、長保6(1004)年、寛弘2(1005)年、寛弘4(1007)年から寛弘9(1012)年の各年、寛仁2(1018)年から寛仁4(1020)年の各年、計14巻で、そのすべてを現物と違わず再現したのです。



2.複製版の頒布、活字本の刊行

 複製版については、「国宝 御堂関白記複製頒布規定」により、1936(昭和11)7月より頒布を開始し、非売品として会員のみに金500円で頒布をしています。続いて活字本を同年10月に刊行しました。

 頒布先についての記録は残っていませんが、複製版は国立国会図書館、国文学研究資料館、国際日本文化研究センター、同志社大学、関西大学、大谷大学、筑波大学、鶴見大学などが所蔵しています。

 また『立命館学誌』第194(19361115)には、ケンブリッジ、オックスフォード、ソロモン、ローマ、ベルリン(またはライプチヒ)、ハーバード、カリフォルニアなどの各大学に寄贈の予定とあり、コロンビア大学には現在も複製版が所蔵されています。


写真:史資料センター所蔵資料より

3.新聞の報道

 当時の新聞の報道によると、大阪毎日新聞(昭和11522)は、「世界最古の日記 御堂関白記 見事複製成る 昭和の代に匂ひ滾るゝ藤原朝文化の精粋 立命館大学から海外大学へ」の見出しで、宮内省図書寮に所蔵されていた近衛家秘蔵の藤原道長自筆の「御堂関白記」が、立命館大学により現物と寸分の相違を見ないまでの複製品として完成し、海外の大学に寄贈するほか、50部に限り一般有志に頒布することになった、と報じました。

 また京都日出新聞(昭和12622)は、中川総長が滞洛中の皇太后陛下を御所に伺候し、創立35周年記念事業で複製刊行した『国宝 御堂関白記』および『槐記注釈』を献上したことを伝えました。

 

4.世界記憶遺産に登録されて

 世界記憶遺産に登録されて各地の博物館で陽明文庫の所蔵する国宝『御堂関白記』が展示されましたが、立命館が複製した『国宝 御堂関白記』も各地で公開されました。

 複製版の製作にあたった便利堂、長浜市の鐘秀館、東近江市の近江商人博物館などです。

 当時は近衛公爵家秘蔵であった『御堂関白記』と立命館の複製事業に改めて思いをいたしてみてはどうでしょうか。

2014.01.21

<懐かしの立命館>衣笠キャンパスと衣笠山

 1939年より始まった衣笠キャンパスの歴史は、常に衣笠山と共にありました。

春・夏・秋・冬、衣笠キャンパスに季節を告げる山景色。 


 

この衣笠山が、食べられるのはご存知ですか?


亀屋重久の京和菓子、その名も『衣笠』です。

特徴的な柔らかい落雁に、小豆のこし餡が入った美味しいお菓子です。

緑の抹茶は衣笠山の松を、白は衣笠山の雪景色を模しているのだそうです。


とても身近で馴染みの山は食べることもできるのです。

故郷への手土産に、学友との語らいのお供に、衣笠キャンパスを思い出しながら、こんなお菓子はいかがですか。


2013.12.17

<学園史資料から>わだつみ像 バッチ・キーホルダー・盾 1975~1976年


1970128日 前年の520日に破壊された「わだつみ像」(注1)は立命館と全国の人々の寄付により再建されました。

しかし、元の場所には設置することができず、1970年~1975年の間、広小路学舎の図書館に保管されていました。520日と128日の「不戦の集い」の時だけ、2体の「わだつみ像」(破壊されたわだつみ像と再建されたわだつみ像)が人々の前に設置されていたのです。(注2)

197512月、この再建された「わだつみ像」を、再度設置(再建立)するために「わだつみ像建立立命館大学実行委員会」が結成され、全立命館人の取り組みとなりました。(注3)

実行委員会は、再建立に必要な経費約400万円を、すべて募金等でまかなうこととし、全国に協力を依頼しました。写真の「バッチ」「キーホルダー」「盾」は募金活動のための頒布グッズとして製作されたものです。

頒布価格は各協力団体に委任されましたが、「わだつみ像建立実行委員会ニュースNo.16」(昭和51522日号)では、「バッチ」は150円、「キーホルダー」は350円、「盾」は3,000円とされています。これ以外にも「ポスター」150円、「ポスターパネル」1,300円、「パンフレット」200円で頒布しています。(注4)

こうした取り組みの結果、1976520日、「わだつみ像」は衣笠学舎中央図書館に再建立されました。以降、19925月に国際平和ミュージアムに移設されるまで、「不戦の集い」は図書館で開催されるとともに、図書館の利用者はいつでも「わだつみ像」を目にすることができるようになったのです。

 関連記事:「今日は何の日」12月 わだつみ像

(注1)「わだつみ像」 言葉の由来

「わだつみ」もしくは「わたつみ」は漢字では「海神」、万葉集や古今和歌集にも出てくる言葉ですが、字のとおり、海を司る神のことです。

 この言葉が「きけわだつみのこえ」として戦没学生の手記の表題になったのは、この手記に寄せられた京都の藤谷多喜雄氏の詩「なげけるか、いかれるか、はた もだせるか、きけはてしなきわだつみのこえ」に由来しています。南や北に散っていった学徒の心を「わだつみ」であらわしたわけです。以来、戦没学生をあらわす言葉として「わだつみ」が使われだし、像も「わだつみ像」と名づけられました。

(『像と共に未来を守れ-わだつみ像再建立記念-』わだつみ像建立立命館大学実行委員会1976520日)p11

(注2)「わだつみ像」が立命館大学に設置された理由、破壊と再建の経過は

『立命館百年史 通史二』 第三章「大学紛争」と立命館学園の課題 第二節立命館における「大学紛争」とその克服 二「わだつみ像」の破壊と再建 

または、大南正瑛/加藤周一編著『立命館大学・学徒出陣50年刊行委員会 わだつみ不戦の誓い』岩波ブックレット339 1994322日をご参照ください。

(注3)「わだつみ像建立立命館大学実行委員会」が発行した「わだつみ像建立を訴える」(1975121日)では、再建立の意義を次のように記載している。

「わだつみ像は1970128日、不戦のつどいの日に、像再建を願う全国の多くの人々の激励や多額の寄金に支えられ、全立命人の努力と制作者本郷新氏の協力によって、再び完全な姿で立命館大学に迎えられ、除幕式が行われた。それから5年間、我々全立命人は、520日と128日が来るたびに、破壊された像とともに新像をおしたてて、反戦・平和の誓いを新たにし、決意を固めてきた。しかし、学園内外の様々な事情により、我々は、新像の建立を今日まで実現できないままに来ている。我々全立命人には、平和と民主主義を願い、像再建に協力してくれた全国の多くの人々の期待にこたえて、一日も早く、像を建立する責任がある。(中略)我々は、その行動の一つとして、ここに、太平洋戦争勃発35周年にあたる来年520日を目指して、わだつみ像を立命館大学内に建立する運動を再開することを呼びかける。」

(注4) 史資料センターでは「バッチ」「キーホルダー」「盾」の内、「キーホルダー」の現物資料がございません。お手持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご寄贈くださいませ。

追記:2015年9月に「わだつみキーホルダー」をご寄贈頂きました。ありがとうございました。

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