立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2013.09.03
「今日は何の日」9月 私塾立命館の創設
現在の立命館は、1869(明治2)年に西園寺公望が京都御苑のなかの西園寺邸に開いた私塾「立命館」に由来します。明治2年秋9月23日に藤原(西園寺)公望が揮毫した「立命館」の扁額があります。西園寺公望21歳の時でした。
西園寺公望は勤王家を養成するため私塾立命館を開きましたが、賓師(先生)として、京都の著名な漢学者・文人などが選ばれました。江馬天江、淡海槐堂、谷口藹山、広瀬青村、松本士龍、神山鳳陽、山中静逸、山本秀夫、富岡鉄斎、橋本蓉塘などです。
「立命」は『孟子』から採られていますが、橋本蓉塘が命名したと言われています。塾の講義では、中国最古の詩集『毛詩』などが取り上げられました。また広瀬青村が塾長を務めたことのある大分・咸宜園には立命館の寮歌のルーツではないかと言われる「休道の詩」が残っています。
塾は大そう評判がよく、塾生は100人ほどいたようで塾舎を建て増ししたといわれます。名前のわかっているなかに西園寺公望が山陰道鎮撫使として丹波馬路村に入ったとき陣営に参加した人の一族と思われる人がいます。
しかし塾は翌年4月23日、西園寺がフランス留学準備のため長崎に遊学している間に、塾生の言動に不安を感じた京都留守官により閉鎖させられました。
西園寺公望は、5月24日付の賓師あての書簡で、閉塾の経緯と無念さを述べています。

西園寺公望のフランス留学時代。西園寺公望は1870年の私塾立命館の閉鎖後フランスに旅立った。
西園寺公望は勤王家を養成するため私塾立命館を開きましたが、賓師(先生)として、京都の著名な漢学者・文人などが選ばれました。江馬天江、淡海槐堂、谷口藹山、広瀬青村、松本士龍、神山鳳陽、山中静逸、山本秀夫、富岡鉄斎、橋本蓉塘などです。
「立命」は『孟子』から採られていますが、橋本蓉塘が命名したと言われています。塾の講義では、中国最古の詩集『毛詩』などが取り上げられました。また広瀬青村が塾長を務めたことのある大分・咸宜園には立命館の寮歌のルーツではないかと言われる「休道の詩」が残っています。
塾は大そう評判がよく、塾生は100人ほどいたようで塾舎を建て増ししたといわれます。名前のわかっているなかに西園寺公望が山陰道鎮撫使として丹波馬路村に入ったとき陣営に参加した人の一族と思われる人がいます。
しかし塾は翌年4月23日、西園寺がフランス留学準備のため長崎に遊学している間に、塾生の言動に不安を感じた京都留守官により閉鎖させられました。
西園寺公望は、5月24日付の賓師あての書簡で、閉塾の経緯と無念さを述べています。
西園寺公望のフランス留学時代。西園寺公望は1870年の私塾立命館の閉鎖後フランスに旅立った。
2013.09.02
「今日は何の日」9月 京大事件と立命館
1933(昭和8)年に京大事件(瀧川事件)が起こりました。
京大事件は京大法学部瀧川幸辰教授の著作『刑法読本』が思想的に偏向しているとの理由で政府が一方的に瀧川教授を休職処分にし、これに対し京大法学部教授会や学生が学問の自由、大学の自治を守ろうとして反対、文部省の措置に抗議して多くの教授・助教授が辞職した事件です。
京都帝国大学は西園寺公望が文部大臣のときに創設を決定し、中川小十郎が初代書記官(事務局長)を務めたことから、京都法政学校(立命館大学の前身)の創立、運営や講義に京都帝大教授が関わるなど立命館と極めて深い結びつきをもっていました。そのため、立命館は京大で免官になった教授・助教授を同年9月16日に公式に招聘することとなったのです。
この招聘は実際にはその前から決められ、9月3日には既に歓迎晩餐会が行われています。
専任教員として招聘されたのは、佐々木惣一、田村徳治、末川博、恒藤恭、佐伯千仭、黒田覚、大岩誠、田中直吉、加古祐二郎、於保不二雄、大森忠夫、中田淳一、森順次、石本雅男、浅井清信、森口繁治、大隅健一郎など17氏に及びました。立命館はこの招聘によってこれ以上ない発展の基礎を築いたといえるでしょう。
佐々木惣一は翌1934(昭和9)年3月から1936(昭和11)年3月まで立命館大学の学長を務めました。また末川博は1945(昭和20)年11月に学長に就任し一時辞職しますが、1949(昭和24)年4月に公選制の総長に就任、1969(昭和44)年4月まで総長を務めます。なお、佐々木惣一は1907(明治40)年から、末川博は1918(大正7)年から立命館で講師を務めており立命館と強い結びつきがありました。

立命館は京大事件で辞職した京大教授らを招聘した。写真は招聘教授歓迎会(1933年9月)前列右から3人目滝川幸辰、4人目佐々木惣一、5人目中川小十郎、7人目末川博
京大事件は京大法学部瀧川幸辰教授の著作『刑法読本』が思想的に偏向しているとの理由で政府が一方的に瀧川教授を休職処分にし、これに対し京大法学部教授会や学生が学問の自由、大学の自治を守ろうとして反対、文部省の措置に抗議して多くの教授・助教授が辞職した事件です。
京都帝国大学は西園寺公望が文部大臣のときに創設を決定し、中川小十郎が初代書記官(事務局長)を務めたことから、京都法政学校(立命館大学の前身)の創立、運営や講義に京都帝大教授が関わるなど立命館と極めて深い結びつきをもっていました。そのため、立命館は京大で免官になった教授・助教授を同年9月16日に公式に招聘することとなったのです。
この招聘は実際にはその前から決められ、9月3日には既に歓迎晩餐会が行われています。
専任教員として招聘されたのは、佐々木惣一、田村徳治、末川博、恒藤恭、佐伯千仭、黒田覚、大岩誠、田中直吉、加古祐二郎、於保不二雄、大森忠夫、中田淳一、森順次、石本雅男、浅井清信、森口繁治、大隅健一郎など17氏に及びました。立命館はこの招聘によってこれ以上ない発展の基礎を築いたといえるでしょう。
佐々木惣一は翌1934(昭和9)年3月から1936(昭和11)年3月まで立命館大学の学長を務めました。また末川博は1945(昭和20)年11月に学長に就任し一時辞職しますが、1949(昭和24)年4月に公選制の総長に就任、1969(昭和44)年4月まで総長を務めます。なお、佐々木惣一は1907(明治40)年から、末川博は1918(大正7)年から立命館で講師を務めており立命館と強い結びつきがありました。
立命館は京大事件で辞職した京大教授らを招聘した。写真は招聘教授歓迎会(1933年9月)前列右から3人目滝川幸辰、4人目佐々木惣一、5人目中川小十郎、7人目末川博
2013.09.01
「今日は何の日」9月 かつて立命館衣笠球場があった
現在の衣笠キャンパスの中央広場あたりには球場がありました。
正式には「立命館衣笠球場」と言い、1948(昭和23)年9月15日に竣工しています。
球場は中堅112m、両翼82mで、約27,000人が収容できる観客席がありました。一般にも開放されプロ野球公式戦や社会人野球でも使用、市民に親しまれた球場でもあったのです。
完成記念大会では、新制高校秋のリーグ戦、立命神山-同志社、立命-平安、洛南-條商、西京-西陣の4試合が行われ(注1)、大学の硬式野球部、準硬式野球部も使用し立同戦や総合体育定期戦なども行われていました。
プロ野球の阪神で活躍し監督も務めた吉田義男さんなども立命館大学1回生のときこの球場で練習をしています。
プロ野球の使用としては、1949(昭和24)年に大陽京都ロビンス(翌年松竹ロビンスに)がフランチャイズ球場として使用し(注2)、1948(昭和23)年から1951(昭和26)年まで66のプロ野球の試合が行われました。1950(昭和25)年には、女子プロ野球結成記念試合の京都・ヴィナス軍対東京・エーワン軍戦が行われています。
しかし1967(昭和42)年に柊野グラウンド野球場が完成し、1969(昭和44)年に体育館が出来ると球場は中央グラウンドとなりその使命を終えました。現在はキャンパス周辺の電柱に「衣笠球場」の名が残っているだけとなっています。
注1:條商は市立四条商業高校、西陣は市立西陣商業高校、洛南は府立洛南高校(旧二中)と思われ、現在の洛南高校ではない。
注2:大陽京都ロビンスは前年太陽ロビンスだったが、点を取る球団に、ということから太陽から大陽となる。

立命館衣笠球場。現在の中央ひろばあたりにあった。立同戦やプロ野球も行われた。
正式には「立命館衣笠球場」と言い、1948(昭和23)年9月15日に竣工しています。
球場は中堅112m、両翼82mで、約27,000人が収容できる観客席がありました。一般にも開放されプロ野球公式戦や社会人野球でも使用、市民に親しまれた球場でもあったのです。
完成記念大会では、新制高校秋のリーグ戦、立命神山-同志社、立命-平安、洛南-條商、西京-西陣の4試合が行われ(注1)、大学の硬式野球部、準硬式野球部も使用し立同戦や総合体育定期戦なども行われていました。
プロ野球の阪神で活躍し監督も務めた吉田義男さんなども立命館大学1回生のときこの球場で練習をしています。
プロ野球の使用としては、1949(昭和24)年に大陽京都ロビンス(翌年松竹ロビンスに)がフランチャイズ球場として使用し(注2)、1948(昭和23)年から1951(昭和26)年まで66のプロ野球の試合が行われました。1950(昭和25)年には、女子プロ野球結成記念試合の京都・ヴィナス軍対東京・エーワン軍戦が行われています。
しかし1967(昭和42)年に柊野グラウンド野球場が完成し、1969(昭和44)年に体育館が出来ると球場は中央グラウンドとなりその使命を終えました。現在はキャンパス周辺の電柱に「衣笠球場」の名が残っているだけとなっています。
注1:條商は市立四条商業高校、西陣は市立西陣商業高校、洛南は府立洛南高校(旧二中)と思われ、現在の洛南高校ではない。
注2:大陽京都ロビンスは前年太陽ロビンスだったが、点を取る球団に、ということから太陽から大陽となる。
立命館衣笠球場。現在の中央ひろばあたりにあった。立同戦やプロ野球も行われた。