立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2013.12.01
「今日は何の日」12月 APUの誕生
2000(平成12)年4月に開学し、その10月末には47ヵ国・地域の国際学生(留学生)421人、国内学生484人、計905人の学生が学ぶ国際的な大学としてスタートしました。
そもそも大分県別府市に設置されたのは、立命館の新たな段階の国際化をはかろうとする政策と大分県の高等教育充実をはかりたいとの強い思いが一致したことによりますが、APUの創設はかつてない大型の公私協力(大分県と別府市)や広範な社会的ネットワークにより実現しました。
現在学生数は、大学院・科目等履修生を含め国際学生2,463人、国内学生3,092人、計5,555人で、80ヵ国・地域の学生が学んでいます(2012年11月1日現在)。
立命館・大分県・別府市の覚書調印式(1995年9月)左から平松大分県知事、大南立命館総長、井上別府市長
2013.11.28
<懐かしの立命館>衣笠キャンパス「体育館」今昔
2013年11月現在、衣笠キャンパスの第一体育館の解体工事が進められ、跡地には新図書館が2015年夏に完成する予定になっています。この第一体育館は、1969年6月に竣工したもので、44年余に渡り正課体育授業や課外活動、式典などに使われてきました。解体にあたり、体育館の歴史を振り返ってみましょう。
<前史-広小路時代の体育館>
立命館大学の広小路時代の体育館は、1958年10月に河原町今出川下ル東入ル(鴨川畔)に竣工しました。当初は法学部・経済学部・文学部の3学部の学生の体育の授業やクラブ活動などに使用され、床面積1,170㎡余で平屋建ての建物でした。
この体育館は、1981年3月、衣笠一拠点完成に伴う広小路学舎閉校の際に京都府に売却した後、京都府立医科大学が現在も引き続き使用していて、広小路時代の建物施設として唯一現役で残っているものです。
<衣笠キャンパスの「体育館」>
衣笠キャンパスの「体育館」は、1969年6月に竣工しました。衣笠一拠点化計画のなか、立命館創立70周年記念事業のひとつとして完成したものです。
1964年1月の全学協議会の教学改革議論を一つの契機として、保健体育教育の改革・展開や体育施設の整備が全学的な課題となり、柊野総合グラウンドの整備により衣笠球場を廃止し、跡地に「体育館」および「中央グラウンド」を整備しました。
衣笠山を背にした体育館は、東に比叡山を始めとした東山三十六峰を望み、西に仁和寺の古塔、南には淀の平野を見渡せる景勝中の景勝の地に位置していました。
「体育館」は2階建てで、延べ床面積約4,770㎡と広小路の体育館に比べ4倍の床面積でした。
竣工記念パンフレットで武藤守一総長事務取扱は、「立命館にはふさわしくないなどと批判か皮肉が出そうなほど立派に竣工し……」今後正課の保健体育や課外としてのクラブ・サークル活動に運用していく重要性を述べています。
<衣笠キャンパスの「第一体育館」と「第二体育館」>
1981年4月、衣笠一拠点事業の最後の建物として存心館・第二体育館・図書館書庫棟が竣工しました。第二体育館の完成によりこれまでの「体育館」は第一体育館と呼ばれるようになって現在に至っています。
<正課授業・課外活動を支え続けた体育館>
翌月5月16日、その第一体育館において、来賓・教職員・学生など1300名の参加により、立命館創立80周年・大学衣笠移転完成記念式典が開催されています。
1969年の竣工以降、1981年の衣笠一拠点完成を経て今日まで、「体育館」は正課体育の授業やクラブ活動のみならず、入学式や卒業式、時に入学試験などにも使用されてきました。クラブ活動としては、バレーボール部など多くのスポーツ系クラブの拠点として使われましたが、他の大学に比べても練習環境として使いやすい体育館であったといいます。
<「京都衣笠体育館」の完成と使命を終えた第一・第二体育館>
学園ビジョンR2020における衣笠キャンパス整備計画の皮切りとして、今年1月これまでの第一体育館と第二体育館を統合する形で「京都衣笠体育館」が竣工し使用が開始されました。新体育館は第二体育館に隣接して建設され、同時に第二体育館も改修し、地下部分は新体育館と一体の施設となり、また1階部分は解体され人工芝の広場となりました。
新体育館は地下2階・地上2階建ての4層で、延べ床面積9,070㎡余に及ぶ(旧第二体育館地階部分を含む)。3つのアリーナのほか、格技場・柔道場も備えています。建設にあたっては、設計に学生の声も反映し、学生が正課・正課外の枠を超え成長していくことが期待されて建設されました。また非常災害時に対応する備蓄倉庫も備え、地域の活性化にも寄与し、環境保護への関心も高めるよう配慮しています。
衣笠山、龍安寺の麓、衣笠キャンパスの西側部分に立命館の新たな体育施設「京都衣笠体育館」が完成しスタートしたのです。
なお、本学の戦後から1990年代までの保健体育教育と体育施設の発展については、『立命館百年史紀要』第八号(2000年3月)所収の芝田徳造名誉教授「立命館大学保健体育教育小史覚書」を参照ください。
2013.11.04
「今日は何の日」11月 末川博学長の誕生
日本全体が戦後改革を進めようとするなか、立命館も戦前の学園運営と決別し新生立命館へと歩みを進めましたが、その歩みは末川博の名と不可分でありました。その存在がなければ立命館はまた違った歩みをしていたでしょう。
敗戦直後の1945(昭和20)年11月6日、立命館理事会は戦後学園改革をスタートするため、法学博士末川博を学長に推薦することを決定、10日には文部大臣の認可により末川博学長が正式に誕生し、1948(昭和23)年には立命館学園の総長に就任します。
末川博は1892(明治25)年、山口県玖珂村(現岩国市)に生まれ、第三高等学校、京都帝国大学法科大学を卒業しています。
末川と立命館の関係は大正時代に遡り、京都帝国大学の講師となる1年前の1918(大正7)年10月から立命館大学の講師を務め、1933(昭和8)年の京大事件で京都帝国大学を辞任した後は大阪商科大学の教授となりましたが、戦後立命館大学学長として迎えられたのです。
その後、戦後の学園運営をめぐり総長就任直後の1948(昭和23)年11月に辞任していますが、翌49年立命館は総長公選制を布いて再び末川を総長に選出しています。以降1969(昭和44)年4月1日に任期を終えるまで、5期20年にわたって総長を務め戦後の学園改革に力を注ぎました。立命館学園の「平和と民主主義」という教学理念や学生とともに立命館の将来を討議するという「全学協議会」制度も末川総長の時代に確立されたのです。
1970(昭和45)年4月2日、末川博は立命館名誉総長となり、その後も立命館の発展のため力を尽くし、1977(昭和52)年2月16日84歳で逝去しています。
末川総長の言葉「未来を信じ 未来に生きる」を刻んだ碑は今も衣笠キャンパスのバスプールに立ち、往時の姿や歩みは「末川記念会館」に展示されています。
末川博総長(1953年当時)
