立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2013.10.16
<懐かしの立命館> 衣笠キャンパスの「図書館」今昔
2013年10月現在、衣笠キャンパスでは正門入ってすぐにある第一体育館の解体工事が始まっています。この場所には2015年秋に新図書館が建設されます。
現在の図書館は、立命館創立70周年記念事業(1970年が70周年となる)として1967年9月25日に竣工しました。竣工当時は、1階2階は完成していましたが、3階は今後全ての学部が衣笠に移転する時のために改修できるようにしていました。
当時の末川博総長は、図書館の竣工にあたって次のような言葉を寄せています。
「学問の研究と人材の育成を使命とする大学にあっては、図書館は、人間の身体でたとえていえば、頭脳のようなものだといってよいかと思います。すなわち、学問の上に立って学問を通して人間をつくるというに当って、物的施設の中枢としては、図書館を挙げることができるでありましょう」
「この図書館の位置する衣笠の校地は、風光の明るくて清い景勝の地でありまして、研究と教育には最もふさわしい好適の環境をなしているのでありますから、私ども学園関係者は、今後、この図書館の機能を十全に発揮して、さらに教学の充実発展を期しなければならないと考えています」
「ところで、この図書館の建設は、(中略)後日この衣笠の校地に大学の全部が集ったときのことを予想しているために、(中略)未完成ともいうべき部分が残っているわけであります。」
「長期の大計画としては、広小路校地の三学部も衣笠校地に移転して、総合大学としての形態も内容もいっそう充実強化したいという構想のもとに(中略)施設を整備してまいります」
この図書館が竣工した当時、衣笠学舎には、経済学部、経営学部、理工学部だけがあり、法学部、文学部、産業社会学部は広小路学舎にあって順次衣笠学舎へ移転を計画していました。1981年に法学部の移転が完了して、衣笠一拠点が完成し図書館は名実共に中央図書館として機能することになったのです。
「新図書館」は「学園ビジョン2020」「衣笠キャンパス整備計画」をご参照ください。
https://www.ritsumei.ac.jp/rs/r2020/campus/kin_campus.html/
図書館の歴史は、「図書館略歴」をご参照ください。
https://www.ritsumei.ac.jp/library/guide/about/history.html/
1967年の図書館と2013年の図書館どんな違いがあるでしょう?
新しい建物ができた時には、必ず建物を撮影した「竣工パンフレット」が作成されます。その竣工パンフレットと同じ地点から2013年10月11日に撮影した写真で比較してみましょう。
外観の比較。竣工当時は周りを見ると「至徳館」や「存心館」「学而館」はまだ建っていません。2013年の写真では奥に学而館が見えますね。周りの植栽も50年近くの歳月を経て大きくなっています。
1967年当時の衣笠キャンパス配置の予想図(当時の「予想図」なので、実際とは異なる)
中央に図書館があり、網掛の校舎だけが建っています。
以学館は1965年、修学館(第一期)が1966年に竣工しています。存心館、学而館はありませんね。
<図書館1F>
1967年当時の平面図
玄関からの比較です。竣工当時は広いホールです。床はリノリウム張り。現在は入館ゲートがあり左手と中央は展示スペース、右手はカウンターですね。床は布タイル。天井照明の位置だけが当時の面影を残します。
玄関入って左手は、当時自習室でした。ただ机と椅子だけが並んでいます。現在は「ぴあら」として様々なメディアを利用した検索やグループワークやプレゼンテーションができますね。「自習」の概念も様変わりです。
2階へあがる階段の部分です。竣工当時は奥がロッカールームでした。当時は現在のような入館ゲートシステムがなかったため、蔵書のセキュリティのためや貴重品の安全のために個人の荷物をロッカーにしまっていました。現在は蔵書検索PCなどのスペースになっていますね。階段と天井照明だけが当時の雰囲気を残しています。
<図書館2F>
1967年当時の平面図
竣工当時は平机と椅子が並んでいました。現在は、平机には衝立が立ち、手前には個人学習用のキャレルディスクができ、学生一人ひとりが集中して学習できるようになっています。
1967年当時の平面図では、「1 学生休憩室」の場所です。当時は「喫煙室」でした。現在キャンパス内全面禁煙ですから、時代を感じさせる1コマです。この場所は現在「グループ閲覧室」と「検索ルーム」になっています。
<図書館3F>
1967年当時の平面図
当時の写真は、図面の「13 ファン室」の前から「15 ホール」に向けて撮影されています。竣工当時はいずれ広小路学舎から移転してくる法・文・産業社会学部の学生のことを考慮して、改修する予定でした。沢山の小部屋がありますね。現在3階は閲覧室で、同じ場所から撮った写真からは当時の面影は全くありません。
2013.10.01
「今日は何の日」10月 昔、秋には運動会があった
本学の運動会は既に1908(明治41)年から開催されていて、1909(明治42)年10月30日の京都法政大学・清和中学校第2回陸上大運動会、翌年同日の第3回大運動会の写真が残っています。
中学校の同窓会誌である『清和』(大正2年12月)には、同年11月2日に第4回陸上大運動会が開催されたとの記事があります。
『立命館学報』第2号(大正4年3月)には、前年の11月1日に岡崎公園にて大学及び中学第5回秋季陸上運動会が開催されたことが記されています。京都市内の小・中学校も招待しており、82の競技が行われ、5千名余の観覧者があったようです。
1917(大正6)年10月31日にはやはり岡崎公園で大学・中学連合の第6回運動会を開催し、107もの競技や時代風刺の仮装行列を行っています。
昭和に入り立命館のグラウンドで初めて運動会が開催されたのは、1929(昭和4)年10月20日でした。この年、立命館のグラウンドが上賀茂(現在の京都産業大学の校地)に完成し、6千の学生生徒が集いました。市内の各小学校・中学校も招待され、模擬店・福引・仮装行列なども行われています。
上賀茂グラウンドでの運動会(1931年)、のちに神山学舎、更に再び上賀茂グラウンドとなった。現在は京都産業大学。
2013.09.04
「今日は何の日」9月 立命館中学校・高等学校の誕生
創立時の名称は私立清和普通学校で、50名の入学者がありました。翌年の中学校令によって私立清和中学校と改称し、その年の12月には、閉校になった他の私立中学(吉田中学校)の多くの生徒を受け入れて生徒総数295名(1~5学年)の大きな中学校になりました。
第1回の卒業生は、1907(明治40)年3月、44名でした(当時の中学は5年制です)。
次いで1913(大正2)年の財団法人立命館の設立とともに立命館中学となり、1928(昭和3)年に立命館中学から立命館中学校になっています。
「清和」というのは広小路学舎の西側にある京都御所の清和院御門に由来します。創立当初は京都法政大学と同じ広小路学舎で学び、1922(大正11)年に、現在は立命館小学校となっている北大路学舎に移転しました。以後1988(昭和63)年まで北大路学舎で66年の歴史を刻み、同年8月29日に深草学舎の開校式を迎えて今日に至っています(なお、2014年9月には長岡京新キャンパスに移転する予定となっています)。
1913年12月財団法人立命館が設立され、大学・中学とも立命館大学、立命館中学となった。広小路学舎正門には「立命館大学」「立命館中学」の門標が掲出された。