立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2014.04.22
<懐かしの立命館>小林祝之助の生涯 ―異国の大空に翔けた夢― 後編
3.第1次世界大戦に参戦―仏国陸軍飛行隊
小林祝之助は大正4年6月19日、京都駅を出発、21日に神戸から出港する香取丸に乗船しフランスに旅立った。パリに着いたのは8月6日、23歳となっていた。
小林は日本大使館を訪ねたが、既にフランスは第1次世界大戦下にあり、フランス語ができずに航空術を学ぶことは至難のわざということで、大使から翻意をすすめられた。
しかし小林はあきらめなかった。山名男爵から紹介を受けた滋野清武に初めて会ったのがいつなのかはっきりしないが、大使館を訪ねたあとほどなく滋野を訪ねたと思われる。二人が会った日付がはっきりしているのは10月19日で、磯部鈇吉(注16)とともに会った。かねて滋野が約束していた飛行機工場に案内されることになったのである。当日3人はイッシー・レー・ムリノー飛行場にあるヴォアザン飛行機工場を見学した。
それから20日ほど経った11月10日、日本大使館で大正天皇即位の御大典奉祝の宴があり100名余りの邦人が集い小林も参加した。小林は故郷の友人にその模様を書き送ったが、その中には小原大佐、磯部小佐、滋野男、石橋飛行家、田付代理大使などの名がある。代理大使から尺八と薩摩琵琶をやるように勧められ、その演奏で拍手喝采を浴びたと言っている。このとき磯部は33歳、石橋勝浪は小林と同じ23歳であった。
当初は民間飛行家を目指したようであるが、戦時中の事で民間飛行家は認められなかったため、クラリ伯爵と陸軍大臣ビジョン氏に飛行隊の従軍を申し出た。
10ヵ月ほどフランス語を学び、大正5年6月、陸軍航空局の入学試験に合格し、ビュック陸軍普通学校、コロトア軍事航空技術学校など各地の学校で航空技術を学んだのち、大正6年3月から予備隊に従軍しパリに近いG第30飛行大隊で正規のピロット(パイロット)を命じられ前線の配置に就いた。
彼の任務は
「朝な夕な敵機と敵砲台から撃ち出す雨あられの弾丸中を僕のオブセルヴァートル(同乗者)なる一中尉と共に砲兵狙線の修正、偵察通報、無線電信等の重大任務を帯びて戦線上空を飛ぶこと」であったという。
その時のことであろうか、小林は次のように記している。
「僕がいるこの戦線は、パリに最も近い某地点で今は大攻撃の真最中である。今朝、命令を受けとった僕は、僕のオブセルヴァートルでない少尉と同乗して遠く数千㍍の敵地に、しかも僕達の最も忌み嫌う強烈な追風を背負って特別任務を有する偵察に出かけた。……敵は目早くわが機を見出して砲撃をはじめ、その真黒な煙球がわが機の10㍍、5㍍の前方左右に発射されて爆発するのみならず、四台の敵機は1,000㍍の前方より機翼を揃えて接近してきた。……そのうちに快速の敵機は既に250㍍を距てぬところまで肉薄して盛んに機関銃を浴びせかける。上からも横からもまるで雨のようで到底助からぬと覚悟したが、……今は最後と発動機の電流を切断して昇降の舵を胸まで引きつけて、総ての速力を棄てて自ら下方に墜落したが高度計を見れば40㍍である。敵機はわが機を地上に墜落せしめたものと見て引き上げて行ったので漸く危地を免かれた。……」 (注17)
この頃であろうか、小林は戦いによる負傷からか病を得て数ヵ月入院している。
この頃の航空機について、大正6年1月の『立命館学誌』第7号に校友井上勝好(注18)が「航空機の発達」と題し寄稿している。
そのなかで第1次世界大戦に関して次のように述べている。
「……英仏連合軍ノ飛行機隊ガ常ニ独軍陣地上ニ飛行シテ、偵察ニ攻撃ニ有ユル手段ヲ尽シ、独逸ノ飛行機、飛行船ガ之ニ対抗シテ強襲ヲ敢行シ、互ニ非常ノ成果ヲ齎ラセリ。……今日ニテハ、機体ノ構造漸次強大トナリ、発動機ハ之ニ伴ツテ増大進歩シ、開戦当時百馬力内外ナリシモノ、今ヤ二三百馬力ヨリ五六百馬力ノ強力ニ達シ、搭載力モ次第ニ増加シテ、完全ナル武装ヲ為セル上、空中戦ニ備フルガ為メニハ機関銃ノ装置アリテ、長時間ノ継続飛行モ容易ナルニ至レリ。……連合軍ノ飛行機隊ガ、六七十台空中陣ヲ作リテ、敵軍陣地上ニ飛行シ、爆弾ヲ投下シテ、敵ノ施設物ヲ破壊シ、独軍ノ飛行船ガ遠ク倫敦ヲ襲イテ爆弾ヲ投下セルガ如キ、何レモ直接ニ相当ノ損害ヲ与フルト共ニ、敵膽ヲ寒カラシムル間接ノ効果ハ更ニ偉大ナルモノアリテ倫敦、巴里ニ於ケル恐ツエペリン熱ヲ見ルモ明白ニ之ヲ証明セリ。」
小林は大正6年6月11日(1917.JUIN.11)、念願の飛行免許状を手にした。
第2航空旅団第11飛行大隊付となり、明くる大正7年1月にはスパッド第86中隊に移り伍長から軍曹となった。2月には追撃隊に配属された。
下京区に住んでいた親友の高見孝一にはしばしば手紙を送ってよこしているが、
「今はルノー300馬力を自由に操縦している。これを操縦できるのは日本人では滋野男と長尾中尉と自分だけだ、唯連合国と大和民族のため大いに働きたい」
とのことであった。
そうした戦地ではあったが、小林は詩的な面を持ち合わせ、音楽好きでもあったため、
「今夜の月は実に清しい。塹壕の外の林檎の樹迄クッキリ僕の眼に見える。……僕は独り心行く迄僕の愛人明笛を吹いて静かに故郷の空を仰ぎ見ておる」
などとも送ってきたという。
また、3月15日付けの弟常喜氏あての手紙では、
「老ませし父君始め皆様の御起居や如何に!!絶えて便りに接せざるこそうたてけれ。東風吹きて花の香迷ふ朝夕、胸に懐郷の情迫り慰めん術だになし。されど此の渾々たる花の匂ひ父愛しますと思へばいとも懐かし。吾家を立ちてより已に三歳の春は閲しぬ。かのわが造りおきし庭と共に老います父がみ姿こそそも如何に見ままほしけれ。乞ふ御身よわがこの心察して父が写身恵まれんことを。一度是非共御父君自ら御恵筆あらんことを切望してやまず。 東風吹きて梅か香匂ふ朝な夕な 父慕ひつゝ花めづるかな」
と、父親への思いを綴った。
そして5月23日付けの高見孝一あての手紙が最後の消息となった。
「空中射撃学校にをった僕は、先日無事に修業して昨日当隊付を命ぜられ、この北海地方へやってき空中の撃者になったよ、これからは僕は運ひとつ運ひとつだ、僕が墜すか落されるか、危いことは風前の灯火以上だ、しかし僕達の飛行機は今のところ世界のオーソリティだよ、尚スパードと云ふは一時間の速力約二百九粁米、これに完全に近い機関銃を備へているのだが、むろん一人乗りだ、鳥の如くに小さい飛行機だ、この飛行機に乗り得るものは飛行家の中の飛行家だ、僕はたぶん戦死するものと思っているが本望だ、この上僕が習ふべき飛行機はないのだもの、久しい間の僕の希望の一つは成功したのだもの――、僕がまだ中学にいるころだった、なんでも構はないからどうかして日本一になって見たいものだと希望したことがある、この夢のやうな頑是ない希望が今やっと遂げられたのだ、別段嬉しくもないがそれでも悪い気分はしない、仏蘭西ではスパードのピロット(操縦者)は若き美しい花と見なされているのだから、休暇で巴里へ行ってグランブルバー(京都の京極)をブラつくものなら、巴里婦人らが憧憬の的となる訳だ全く望み次第だ、多分胸間の粋な飛行家の徽章に酔はされるのだろう、諸兄によろしく」
この手紙が高見に届いたのは、小林の戦死した1ヵ月後の7月7日であった。
小林祝之助は大正7年6月7日の戦闘において壮烈な最期を遂げた。渡仏して3年、7月には26歳を迎えようとする若さであった。
小林がスパッド戦闘機で実戦に参加したのはわずか半月ほどのことであったと思われる。
『大阪朝日新聞』および『京都日出新聞』は6月25日の新聞で小林祝之助戦死のハバース社巴里発の記事を掲載した。
「氏は最近航空隊勤務に就きたるものにして六月七日の戦闘に於て戦死したるものなり。当日小林氏は敵の数機と戦ひたるが突然敵の焼夷弾は彼の機体に命中発火せしめたため機は火焔に包まれて墜落せり。彼は些かも躊躇することなく約1万呎の高空に於て空間に飛出せり。彼の身体は地上に落ちて粉鼻せられたるが右は仏国胸甲騎兵によりて拾ひ上げられたり。仏国新聞は一斉に自ら進んで連合国行動の為めに戦へる日本人勇士の驚嘆すべき勇気を称讃せり。而して彼の死体は今や正義と自由との表象たる仏国国旗に包まれて埋葬せられたり」
『京都日出新聞』は続いて26日、29日と小林家の様子や友人高見孝一やゆかりの人の談話など小林祝之助に関する記事を掲載した。
またフランス共和国陸軍省から遺族あてに届いた死亡証明書は京都市役所で訳されたが、操縦軍曹小林祝之助は
「仏国第二飛行隊、戦闘陣地第百十四号ヴィレル、マットレー森林ノ上空ニ於テ西暦千九百十八年/大正七年/六月七日午後六時ニ於テ墜落。モンゴベール邑ニ於テ死亡」
とあった。
父忠一氏は祝之助の戦死の報に接しその思いを歌に託した。
矢面てに立ちて落せる玉の緒も 国のためにと放つけなげさ
まなな子もとこよの国で痛手死す 大和男子の心つくして
凉風も時しきぬれば落にけり ますら健男の子よもうせける
「凉風」は祝之助の号で、愛機の名称でもあった。
それからわずか5ヵ月後の11月11日、ドイツは休戦協定に調印し第1次世界大戦は終結する。
日本人でフランスに渡り飛行隊で戦闘に従軍した者には、小林祝之助のほか滋野清武、磯部鈇吉、馬詰駿太郎、石橋勝浪、茂呂五六らがいた。しかしそのなかで小林祝之助は帰らぬ人となったのである(注19)。
4.その後の小林祝之助
(1) 南座での活動写真上映
大正7年10月28日、四条の南座で活動写真の上映が始まった。「武装せる佛國敵中の佛軍」である。京都日出新聞の10月28日の興行案内によると、「京都洛北鹿ヶ谷出身飛行家故小林祝之助氏戦死実況 名誉の負傷にて帰郷せる馬詰俊太郎氏特に同氏の為に講演す 大活動写真」との広告である。更に31日、1日、2日、3日は2回開演とある。この広告は10月26日から11月5日まで続いている。
10月26日の大阪朝日新聞と京都日出新聞が「写真は全5巻に渉りたる最長尺のものにて最近戦争実写大活動写真」としたほか、京都日出新聞は、演芸欄で27日以降も連日紹介している。東京飛行学校主催で「活動写真は近頃稀な鮮明な写真で、当写真も大使館の都合により11月3日限り(7日間)日延をしないとの事である。尚各在郷軍人、学校生徒、各連隊よりの団体見物もあり31日と11月1日、2日、3日は特に昼夜2回開演する」(10月30日)、「活動写真は非常なる大好評にて連日大入を占めて居る。故小林祝之助氏の飛行機戦死実況が大好評を博して居る。1日は在郷軍人の為め昼の部全部売切の大盛況」(11月2日)などである。その内容の一部は『近代歌舞伎年表 京都編』でも紹介されている(注20)。
11月1日の京都日出新聞は演芸欄・興行欄以外に「敵中の佛軍」の記事を掲載した。
「南座では目下佛国政府撮影に係る『武装せる佛国敵中の佛軍』全5巻なる特別映画を上演して居る。謂ふ迄もなく時局実写物で所有権は佛国大使館、主催者は中央飛行学校とある。……我国最初名誉の空中戦死者として佛国に於て壮烈なる奮闘をなせし京都出身青年飛行家故小林祝之助氏の戦友たる佛国陸軍飛行家馬詰駿太郎氏の同氏に関する真摯な講演も錦上更に華を添ふる慨があった。……此「敵中の佛軍」は其通弊を打破して全国民の自覚し努力しつつある佛の現状を露骨に現はした所に価値がある。近来の意義あり趣味ある映画であった」と評している。
この上映で解説を行った馬詰駿太郎は、南座の活動写真上映に先立ち、帰国後間もなく早稲田大学の科外講義で「仏国飛行機について」と題し講演をしている。翌大正8年5月30日から6月5日までやはり南座で開演された「仏国航空隊活動写真」でも解説をした。内容は仏白国境の惨状実写、大統領ポアンカレ、ホーン総司令官、敵機50台を射落し名誉の戦死を遂げたギンメル大尉などが登場する活動写真であった。
(2) 小林祝之助追悼―立命館中学『清和』の記事―
小林がフランスで戦死したのち立命館の資料にその名が出たのは大正8年3月の『清和』第8号であった。
○清和中学を4年級までやった小林祝之助君は退校後佛国に渡って飛行家となり義勇兵
として戦場に飛翔し多大の功績を揚げたが遂に今春悲壮なる戦死を遂げられた。詳細は
当時の新聞に出ていたから諸君も御存知と思う。茲に謹んで弔意を表したい。君が死の
少し前洛北鹿ヶ谷なる老父を懐うて詠んだ
東風吹きて梅が香匂ふ朝な夕な
父慕ひつゝ花めづるかな
の一首は永久吾人の脳裡を去らない。
次いで大正10年2月の『清和』第10号に、「故小林祝之介氏追悼琵琶歌」が掲載された。
国のほまれ
敷島の大和をのこの外国の 雲井に高く飛び翔り
赤き心にさきがけて その身は花と散りにけり
頃しも大正七年の 六月七日の夕つ方
処は佛蘭西ヴィルコットレー 雲霞の如き敵味方
火花を散らす戦の 上にぞ翔る飛行隊
かずも知られぬ隼の入り乱れたるが如くなり
中にも目立つ操縦の 手並さやかに驀地
敵機追ひ打つスパードの 乗手は日本の勇士にて
開戦以来大空に 樹てし勲功もいと高き
小林凉風と知られたり 追ひつ追はれつ縦横に
飛び交ふ様はさながらに 秋の嵐に紅葉の
葉ひるがへる如くにて 互ひに打出す銃の音
雲をつんざき百雷の 鳴りはためくにさも似たり
勇敢無比の小林は 敵の五六機射落して
尚も追撃なさばやと いと迅速に追ひ翔る
折しもあれや一発の 焼痍弾はスパードの
翼にどっと命中し 炎は忽ち機を包み
あはや墜落なさんとす 早これ迄と覚悟をば
屹と定めて逸はやく 操縦席より身をはずし
万尺高き虚空より ひらりと下に飛び降りぬ
やがて屍は佛蘭西の 胸甲騎兵に見出され
自由の標章三色の 国旗に包み軍装の
儀式もいとど厳に 葬られしぞほまれなる
すめら御国の古への 京の都のみやしろに
神に仕ふる家に生ひ 少壮国の外に出で
義戦に玉と潔く 砕けし君が芳き
名は賀茂の流の末遠く 後の世までも残るらん
後の世までも残るらん
小林君は本校の五年級まで在学し佛国にて壮烈なる戦死を遂げたる事は前号に記したり。
今回君の知己の作りし琵琶歌を海軍少佐飛行家磯部氏(注21)が補正したるを丸山巴水氏が作曲せ
しものを山名氏が所持せらるるを請ひて掲げたり。
(3) 顕彰―小林君之碑
真如堂境内、本堂の南側に1基の石碑が建っている。高さ190cm、幅84cmで、大正14年に建立された「小林君之碑」である。
この碑は、1999年8月3日の京都新聞に「真如堂の小林君之碑」と題し紹介された。
新聞には、大豊神社宮司で祝之助のおいにあたる方が、「寺の周辺に住んでいた幼なじみ
が祝之助の業績を記念するために寄付を募って建てたと聞いています」と話されている。
碑文を書いた杉村勇次郎はのちの昭和3年には京都1区から衆議院議員選挙に出馬、昭和13年から14年にかけて帝国在郷軍人会京都支部長を務めている経歴から、碑の建立時に記念事業会の誰かと関係があったものと思われる。
題額を揮毫した元帥川村景明(1850~1926)は日清・日露両戦争に出征した軍人で、碑が建立された翌大正15年に亡くなっているが、大正8年12月から帝国在郷軍人会会長を務めているので、記念事業会の関係者か杉村勇次郎と関係があったのであろう。
碑文を刻んだ芳村茂右衛門は、石茂の当主で京都の社寺に石燈籠や狛犬、石仏などを数多く残している名匠である。
(4) ポアンカレの勲章
小林祝之助が戦死した翌年の大正8(1919)年、フランス大統領ポアンカレから小林家に勲章と表彰状が授与された。勲章はクロワドゲール、表彰状にはポアンカレのサインがある。
1977年10月23日(関東地区は20日)、NHKテレビの番組でスポットライト「ポアンカレの勲章」が放送された。出演者は祝之助の弟・常喜氏、作家・岡本好古氏、航空評論家・木村秀政氏、落語家・桂枝太郎氏、航空史研究家・平木国夫氏、司会は鈴木健二アナウンサーである。
そのなかで常喜氏が祝之助の人となりを語っている。
「9歳ちがいの兄はやんちゃできかん気。勉強はそっちのけで、いつも、人とかわった突拍子もないことをやる男だった。木登りがすごくうまかった。神戸の方まで自動車の練習にいったりしていた。一面ハイカラというかシャレッ気もあり、又、粋なところもあった。うらから竹を切ってきて尺八や笛を作って吹いたりしたものだった。
(飛行機のりを志したのは) 新しい、人の知らないものにひかれる性質ではあった。当時民間飛行家が京都に飛んできて練兵場で落ちて、それで決心したと聞いている。それで日本では勉強できないのでフランスへ行きたいと言いだした。
みんな反対したが、兄は決心をまげなかった。それで父もついに許すことになった。」
戦争に対する当時の空気はあったにしろ、おそらく小林祝之助は、飛行機に乗りたい、飛行機に乗って大空を飛びたい、その一念でフランスに渡ったのであろう。フランスに渡ってからも、むろん戦争に参加するなかで連合国と大和民族のために働きたいと言っているが、ひたすら飛行機を操縦することに自らの夢を見出していたに違いない。
フランスから勲章を授与されたその年の1月、戦争終結のパリ講和会議が開催されている。平和の時代に大空を羽ばたいていたなら……。
むすび
この数奇な運命をたどった清和中学校、立命館大学に在学したことのある小林祝之助を知ったのは2013年3月であった。
立命館百年史編纂室参与で元常務理事であった吉田幸彦さんから1冊のファイルを渡された。小林祝之助に関する資料であった。
正直なところ驚くべき人生であった。今から100年も前、飛行機自体がようやくこの世に現れた時代に飛行機に乗ることを夢見て、しかもフランスに渡り陸軍飛行隊に入りドイツ軍と戦い空中戦で戦死する。想像もつかない人生であった。
この青年の人生を少しでも書きとめておきたい、限られた資料からではあるが、なにがしかを残したいというのがこの拙稿である。
6月14日、大豊神社において宮司さんからお話をうかがった。資料からは得られなかったお話をお伺いでき、また貴重な資料も拝見させていただいた。ここにあらためてお礼申し上げます。
【注】
(16) 磯部鈇吉(おのきち)。磯部は大正元(1912)年12月、日本航空協会を発足させ、協会は翌年帝国飛行協会と合併した。協会は民間航空の振興を図り、航空に関する訓練・指導を実施、航空思想の普及などを図った。磯部は大正4(1915)年に帝国飛行協会を辞すと8月にフランスに渡り、フランス航空隊パイロットとして第1次世界大戦に従軍した。大正7年11月の大戦終結により日本に帰国した。磯部については、平木国夫『黎明期のイカロス群像』の「日仏2つの空を駆けた飛行家・磯部鈇吉」。また磯部自身の著書『空の戦』(冨山房 1918年)
(17) 『日本航空史 明治・大正編』 日本航空協会 1956年
(18) 井上勝好(1884~1942)は明治39年に京都法政大学を卒業、この記事を書いた時は報知新聞社の政治部記者であった。退社後石原産業で石原廣一郎を補佐し、昭和15年に立命館理事となっている。
(19) フランスにおける小林祝之助については、前掲 平木国夫『鳥人たちの夜明け』、「大阪朝日新聞」大正7年6月25日・26日、「京都日出新聞」大正7年6月25日・26日・29日
(20) 近代歌舞伎年表編纂室『近代歌舞伎年表 京都編』第7巻 八木書店 2001年
(21) 磯部鈇吉は前掲の注(13)
(2013年7月 立命館史資料センター準備室 久保田謙次)
2014.04.15
<懐かしの立命館>竹軒西園寺公望と「萬介亭」
1.「西園寺公邸址」の碑
かつて衣笠キャンパスの東、等持院東町に「西園寺公邸址」と刻まれた石碑がありました。キャンパス東門の小道を南に下がった辺りです。
高さは地上部分100cm、幅・奥行きとも23cmほどで、奥に庭が垣間見える由緒のありそうな古い木造の玄関の前に建っていました。
刻まれた文字は特徴がありましたが、残念ながら建立者も建立年も書かれていませんでした。その地は西園寺公とどういう関係があったのでしょうか。
2.西園寺公望別邸「萬介亭」
(1) 『西園寺公望自傳』と『随筆西園寺公』
その地に西園寺公望邸があったことは、西園寺公自身が語っています。西園寺公望述/小泉策太郎筆記/木村毅編集の『西園寺公望自傳』に、
竹軒の号はチッケ(キ)ンの料理が好きだから、それにもじって竹軒と
いったのだとなっているが、それほど簡単でもない。京都の等持院辺に
今でも西園寺池という池があるだろう、そこに別荘があって、萬介亭と
称した。萬介則ち竹であり、其の別荘に竹が植えてあったことから、
少年の時自ら竹軒と号したのです。則ちチッケンの料理を知る以前から
だ。
小泉策太郎はその著『随筆西園寺公』でも萬介亭について述べています。
竹軒の雅号は、維新一二年前頃から、フランス留学年時に用ひられ
たやうである。……慶応の初年頃、新たに等持院の近傍に創建した別荘
に瀟湘の風露を移して萬介亭と称し、その萬介の竹に因みて竹軒と号し
たのである。
また同書に所収の「坐漁荘日記」に
萬介亭は維新前、公の所作。此辺高島鞆之助のかくれ家あり。高島牛肉を持ち来り、云々。是より先、公私かに牛肉
を知れり云々。
(注:小泉策太郎は高島鞆之助としていますが、下記「中川小十郎談」により高島六三と思われます。鞆之助は六三
の弟で、同じ薩摩藩士出身で戊辰戦争に従軍し、のちに第2次伊藤博文内閣の時、西園寺公望が文部および外務大臣
を務め、鞆之助が拓殖務大臣を務めたという関係にありました。)
(2) 中川小十郎談
萬介亭については中川小十郎も語っています。
西園寺公望は昭和15(1940)年11月24日に亡くなりましたが、翌月12月6日の朝日新聞に、西園寺公追悼の談話として公の逸話『「竹軒」の由来』が掲載されました。
西園寺公の逸話、挿話は随分世に伝はってゐるが、まだ世に出ないのに、牛肉をはじめてお食
べになったといふ話がある。京都の等持院の東の方に公の少年時代の下屋敷があった。邸内に大
きな池があって、附近の田の灌漑用水になってゐたが、今は住宅地帯になって、その池の面影も
ない。薮があり、竹が多かったので、その邸を萬䉏亭と名づけた。䉏は中庸にある字で、竹の意
だが、「まんかいてい」といふ発音が料理屋じみてゐると友人が冷かすので、竹軒と改めた。……
実は右の通りだと公爵の直話であった。
その邸の北方一町ほどのところに薩摩の武士高島六三が住み、……しきりに公に交際を求めて
きた。その六三が「将来大いになすあらんとする者はまづ身体を養はねばならぬ。身体を養ふに
は牛肉におよぶものはない」と説くので、公も御所内の本邸とは違ひ、この下屋敷ならよからう
と、思ひ切って食べられた次第で「そのうまかったことは今に忘れられぬ」と語られた。
(注:カイは竹冠に解という字です。漢籍に通じた西園寺公望のことですから、竹冠に解という
竹の名の䉏が本来の別邸の名であったのではないかと思われます。なお、辞典によると䉏は集
韻にあるとされています。)
このとき西園寺公に牛肉を勧めた薩摩藩の武士高島六三は、慶応元年ころ入洛し、現在の衣笠キャンパスの東側あたりに住んでいました。その辺りには薩摩藩の調練場があったのです。西園寺公望と高島六三の交際は、慶応4年に戊辰戦争が起こり西園寺公望が山陰道鎮撫使として山陰に向かったことやそれ以降の西園寺公望の経歴から考えると、慶応年間の頃のことと思われ、牛肉を食したというのもその間のことでしょう。当時はごく一部の人がようやく牛肉を食べるようになった時代でした。
3.萬介亭所在地の変遷
「西園寺公邸址」の碑があった等持院東町は、大正7年以降の町名です。明治22年から大正7年の間は衣笠村等持院字滝ヶ鼻といい、それ以前は葛野郡等持院村といいました。したがって西園寺公が住んだ時期は等持院村といっていたのです。
その時代の資料は不明ですが、法務局の旧土地台帳によると、萬介亭のあった場所は明治29年に初めて所有者が変わったことがわかり、その後何人かの所有者の変更を経て、昭和12年に臼居万太郎という人の所有になります。
またその南側には西園寺池という名の溜池があり、昭和5年に等持院村中から六請神社に所有が変わり、その後別の所有者から昭和14年にやはり臼居万太郎氏の所有となっています。もとの溜池の面積は3反余り(3,000㎡ほど)ありました。
都市計画京都地方委員会の大正11年測図(大正14年製)によりますと、等持院東町に溜池があり、その周囲が竹林で囲まれているところが注目されます。
竹軒の名は大正時代になってもその名残があったようです。
なお、中川小十郎が昭和13(1938)年に等持院(衣笠)の地に日満高等工科学校の用地を求め、北大路から移転し開校したのは翌昭和14年の11月のことでした。
4.萬介亭のその後
萬介亭の跡地は昭和に入って臼居万太郎氏の所有となりました。臼居氏の著書『臼居の一族』と、万太郎氏の御子息四郎さんにお話しを聞き、萬介亭のその後を知ることができました。
著書の一節「北郊の衣笠山麓」には次のように記されています。
昭和11年に下京区西洞院木津屋橋の店が手狭になってきたので居宅を移すことにして、空気の清澄な衣笠山麓の等持院の地に家屋を建てることにした。
新宅に家族全部で引っ越したのは翌12年の春であった。土地の者は灌漑用の溜池を西園寺池と称していた。
西園寺家がここに下邸を設け公望公が此邸に移ったのは六歳で、大変気に入って十六歳のときまで住み萬解亭と名づけられた。
そして万太郎氏は前述の中川小十郎の竹軒の由来を引用しています。
更に万太郎氏は邸内の一隅に御苑内の西園寺家本邸の鎮守社白雲神社の分霊を勧請し、この新邸を時雨庵と命名した。
邸内からは衣笠山の山容が巍然と雲に聳えていた。皇紀二千六百年の佳節には、衣笠山麓の日満高等工科学校の十時のサイレンも聞こえてきたという。
また四郎さんのお話によると、一家で昭和11年にこの地を見に来た時は西園寺池があったのですが、昭和12年に引っ越してきたときは池が無くなっておりびっくりしたそうです。池は当時西大路通りの市電の軌道工事の残土で埋めたようで、もともと門は道を北にあがってきた正面にあったとのこと。西園寺公が住まわれた家も残っていてそんなに大きな家ではなかったとのことでした。「西園寺公邸址」の碑は邸内の別の場所にあったが、後に万太郎氏が木造の玄関を造り、碑も移して建てたということです。碑はもとから邸内にあって、いつ誰が造ったものかわからないとのことでした。
5.竹軒西園寺送別の宴
話は遡り、明治3年のことです。西園寺公望は様々な号を用い、特に後年の陶庵が有名ですが、幕末からフランスに留学した頃は竹軒という号を使っていました。その由来が等持院村の萬介亭にあったことは前述の通りです。
西園寺公望は前年の明治2年9月(7月ともいわれます)、京都御所蛤御門近くの本邸に私塾を開きました。立命館です。
塾は西園寺の名と、当時の錚々たる儒者や文人が教師を務めたため、たいそう評判がよく盛況を極めましたが、西園寺はフランスに留学する志をもっていて、洋行準備のために長崎に遊学することにしたのです。
明治3年2月、公望はその名を望一郎と改め、大和、紀伊、大阪を経て長崎へと旅立ちました。
ここでは、その時の送別会ともいうべき宴について記したいと思います。
京からは、漢学の先生である伊藤輶斎と井上有季という家臣とともに、馬に乗ってまず伏見に行きました。
鮒屋という旅亭を兼ねた造酒屋があり、ここで旅の第一夜をすごしたのです。宇治川の豊後橋(現在の観月橋)南詰の辺りです。その日、鮒屋には立命館の賓師が集い、盛大に送別会が行われました。明治3年2月25日のことです。
宴には富岡鉄斎、淡海槐堂、江馬天江、谷口藹山、松本古堂などが集い、徹夜で気焔を挙げたといいます。
この時西園寺は竹軒の名で次の詩を読んでいます。
放酔狂歌幾酒楼 肉屏叢裡足豪遊 志業不識何日就 一剣風霜五大洲
この送別の宴の様子は、伊藤輶斎が「探勝雑誌」に記しています。
今茲明治庚午之仲春念五(3年2月25日)、與竹軒藤公、有季井上子、将探月瀬之梅芳野之桜、
梅桜不駢時、帰期元無日、此日先投宿于伏水鮒屋(伏見鮒屋、屏風の寄せ書は此鮒屋にてなるべ
し)、蓋三騎也、投宿放馬于京、鮒屋楼上有聴濤楼花酔柳狂業之号、伏水一大旗亭也、送公之賓、
富岡鉄斎、板倉淡海一号槐堂、神山鳳陽、谷口靄山、松本古風俗人、江馬天香(星巌門人此人尤
も学問あり)、群彦来会、通宵之燕、有詩、有画、有弦、有歌、有諧語者有議論者、有起舞者有
酔臥者、嗚呼惜別之盛筵哉、夜将曙衆賓暫瞑
西園寺は、奈良・紀伊を経て大阪に至る間、竹軒の名で画も描いたようです。
竹軒22歳のことでした。
むすび
金閣寺辺、今も竹林多し、西園寺は竹林中に在りし故、竹林院と呼ばれしと。西園寺を竹林院と称し、別荘を
萬介亭と称し、公竹軒と号す、自ら其の故なり。(小泉策太郎『随筆西園寺公』)
西園寺家の菩提寺であった竹林院西園寺は現在は寺町鞍馬口下ルにありますが、室町時代前期までは鹿苑寺(金閣)の地にありました。
ともあれ西園寺公望の竹好みは一方ならぬものでした。後に西園寺公の京都別邸となった清風荘の表門は割竹張で設えたのをはじめ邸内のあちこちに竹の意匠を用い、庭には黒竹が植えられ、その黒竹で毛筆までつくっていました。坐漁荘もまた随所に竹のモチーフが使われています。
清風荘表門
こうした西園寺公望の竹に対する思いは、青年期を等持院村萬介亭で過ごしたことによっているのではないかと思われます。竹軒と称した由縁と言えるでしょう。
≪資料≫
西園寺公望述/小泉策太郎筆記/木村毅編集『西園寺公望自傳』 講談社 昭和24年
小泉三申全集第三巻『随筆西園寺公』 岩波書店 昭和14年
中川小十郎『「竹軒」の由来』 朝日新聞 昭和15年12月6日
臼居万太郎著『臼居の一族』 臼居万太郎商店 昭和17年
高島健三著『小松原附近郷土史』 平成元年
立命館大学編『西園寺公望傳』第一巻
なおこの小稿は、2014年2月11日臼居万太郎氏のご親族臼居四郎さん・臼居道子さんに、2月7日高島六三氏のご親族高島朗さんに、そして2月28日に北川本家の北川嘉一さんにお話しを伺い執筆したものです。厚くお礼申しあげます。
〔2014年3月17日 立命館史資料センター準備室 久保田謙次〕
2014.04.09
<学園史資料から>衣笠球場ものがたり
はじめに
このほど衣笠球場の設計図を復元しました。元の設計図は史資料センター準備室で保存していますが、1948(昭和23)年5月31日に作成されたもので、劣化がはげしく判読が困難になっています。かけがえのない資料を永く保存するため、復元することにしたのです(注1)。球場の設計図復元を機に、衣笠球場の歴史を紹介します。
1.衣笠球場の開設
正式には「立命館衣笠球場」といいます。衣笠球場は新制大学となった1948年の9月、衣笠キャンパスの北東部に竣工しました。現在の正門を入った南西側です。
球場の建設計画は、総合グラウンドの施設のひとつとして1947年7月に打ち出されたのですが、総合グラウンド計画は1948年4月の新制大学設置計画など教学施設の充実を図る上で問題をはらんだものでした。その経緯の詳細は『立命館百年史 通史二』に述べられていますのでここでは省略します。
理事会は総合グラウンド計画のうち球場については建設することにし、4月24日の理事会で施工企業を決定しました(注2)。
5月31日付の設計図はその決定を受けて作成されたものと思われます。
建設は5月10日に着工し、当初7月末の竣工予定でしたが、9月15日に竣工しました。設計図によれば、グラウンド面積11,416.5㎡、センターライン110m、ファウルライン90m、最大収容人員20,000人で、20段の木造スタンドやスコアボード、事務所や選手控室のある立派な球場が完成しました。球場の敷地面積は13,550坪(約44,715㎡)に及ぶ公認野球場です。当時、観光道路(現在の愛称はきぬかけの路)は無く、球場は衣笠山の山麓から松林が続いていました。
立命館は文部省に提出した事業報告のなかでその利用について次のように述べています。
「立命館大学は綜合大学の認可を得、且一万五千の学徒、教職員を有するに拘らず見るべき体育施設皆無の事情に鑑みこれが体育施設として利用する外広く一般市民及一般体育団体の体育施設として利用したい所存である。」
2.グラウンド開き
9月19日に完成記念式典が行われ、京都新聞は同日の記事で球場の完成について、衣笠山を背景とした環境は健康スポーツをする場として適切な場所であり、京都のスポーツ界、府市民のため貢献すると期待しています。
球場は、9月22日の立命館大学と同志社大学の第1回総合体育定期戦の硬式・軟式野球戦でデビューしました。
翌日23日には、球場完成記念大会として、新制高校野球秋のリーグ戦が行われました。
第1試合は立命館神山高校―同志社高校、第2試合は立命館高校―平安高校、第3試合は四條商業高校―洛南高校(旧京都二中)、第4試合は西陣商業高校―西京商業高校で、熱戦が繰り広げられましたが、現在は名称が変わっていたり、既に無くなった高校もあります。
1949年の3月11日には球場運用のルールである、「立命館衣笠球場管理規程」と「立命館衣笠野球場使用規定」が定められました。
3.高等学校と中学校の野球大会開催
(1) 高校野球
1950年と1951年は高校野球京都大会のメッカとなりました。
1950年5月の春季京都府高等学校野球大会第2次戦は12校が参加し熱戦を繰り広げました。この大会には立命館神山高校が出場しましたが、優勝は平安高校でした。同年の夏の京都大会および京津大会も衣笠球場で開催され、8月3日の京津大会では山城高校が中央八幡高校を下し甲子園に出場しています。
1951年には、春・夏・秋の大会ともに衣笠球場で開催され、春には平安高校が京都商業をノーヒット・ノーランで押え、前年に続いて優勝しました。夏の京都予選も衣笠球場で開催され、7月30日の決勝戦で平安高校が山城高校を下し春夏連続で優勝しました。平安高校はこの夏の甲子園で優勝し、9月8日に高松一高を招待し、衣笠球場で優勝記念大会を開催しています。
1952年5月の春の大会は衣笠球場と平安高校で開催されましたが、立命館が山城高校を破り4年ぶりの優勝を果たし、近畿大会へと進みました。10月の秋季京都大会も衣笠球場で開催され、立命館はこのときは3位となっています。
衣笠球場はその後も高校球児の熱戦の舞台を提供し、1957年の秋季大会まで開催の記録が残っています。この年は第2次戦が10月12日から衣笠球場と平安高校で始まり、立命館が東舞鶴を12対3で破り初優勝しています。
(2) 中学野球
『京都市中学校野球50年史』は、京都市中学校野球大会でも衣笠球場を使用したことを
伝えています。
1951年度の第5回大会から1953年度の第7回大会までの3年間その記録があります。
1951年度は8月4・5日の第2次戦である準々決勝・準決勝・決勝戦を開催しています。決勝戦は藤ノ森中学と下鴨中学の対戦となり、1対0で藤ノ森中学が優勝しました。
翌52年度の第6回大会は、8月8日からやはり第2次戦で3回戦・準々決勝・準決勝・決勝を行いました。準決勝および決勝戦が10日に開催され、立命館中学も準決勝に進みましたが、決勝戦は平安中学対上京中学となり、平安中学が優勝を飾りました。
1953年度の第7回大会は、7月29日から11日間にわたり衣笠球場で繰り広げられました。決勝戦は8月11日、郁文中学対北野中学で争われ、1対0で郁文中学が栄冠を勝ち取りました。
翌年の1954年度も衣笠球場の試合が予定されていましたが、天候の都合で衣笠球場での開催は中止になり、四条中学に変更になっています。
4.プロ野球と社会人野球開催
(1) 日本プロ野球
衣笠球場でのプロ野球の公式戦は、4年にわたり67試合が開催されました。開設された1948年には11月に4試合、1949年には44試合、1950年には17試合、1951年には8月に2試合でした。
最初の試合は48年11月7日、阪急対南海、急映対中日のダブルヘッダーで、13,000人の観客が入りました。急映対中日戦では小鶴誠と原田督三のホームランが出ています。翌日の金星対大陽戦で金星はスタルヒンが投げています。なお、大陽ロビンスは、1947年には太陽ロビンスでしたが、点をとる球団に、ということから太陽の「、」をとって大陽ロビンスに改名したとのことです。
1949年には、京都新聞社が立命館と衣笠球場の使用契約を結び、大陽ロビンス(大陽京都ロビンス)の公式戦の主催球場としました。この結果、大陽のゲーム41試合のほか3試合を開催しています。この年は、川上哲治や大下弘、別当薫、鶴岡一人、青田昇、藤村富美男といった往年の名スターが衣笠球場でホームランを放ち、また巨人の別所毅彦もこの球場で勝利投手となっています。7月13日の阪神対大陽戦では別当・土井垣・田川・藤井・松本と5本のホームランが飛び出し、2万人の観衆が熱狂しました。
ちなみに開幕初日の4月2日は1試合で内野席100円・外野席60円、4月3日はダブルヘッダーのため内野席150円・外野席80円でした。
1950年にはこれまでの1リーグから2リーグ制となり、セ・リーグの試合が12試合、パ・リーグの試合が5試合行われました。この年大陽ロビンスは松竹ロビンスと名を変え、小西得郎監督が率いてセ・リーグで優勝しています。
しかし衣笠球場でのプロ野球は1951年8月12日の阪神対松竹、阪神対大洋のダブルヘッダーを最後に幕を閉じます。これは、前年の9月に大阪球場が完成して公式試合が大阪で開催されるようになり、観客が減少したことにもよるようです。
(2) 女子プロ野球
1950年には各地に女子プロ野球チームが誕生、最盛期には全国で25チームほどあったようです。
この年、衣笠球場でも女子プロ野球戦が行われました。京都新聞社の主催で、京都ヴィナス軍と東京エーワン軍の試合です。東京エーワン軍は初の遠征、京都初の女子プロ野球戦です。入場料は50円、試合は守備のエーワン軍、打撃のヴィナス軍と言われましたが、先輩格のエーワン軍がやや有利との予想でした。
試合は7月9日、息詰まる接戦の末、追撃するエーワン軍を振り切り9対7でヴィナス軍が勝利しました。ともに18歳の河口投手の好投と平本遊撃手の攻守が光ったといい、1万を超える観衆に衣笠球場が沸いたとのことです。
その試合に出場したエーワン軍の主将田中科代子さんは、著書『プロ野球選手はお嬢さま』で次のように語っています。
「深緑の木々に囲まれた球場は、しっとりとした京都らしい趣きを呈し、一万余りもの観衆が詰めかけていた。東京と京都の女の闘い見たさに、これほどの人々が押し寄せるのか。……セ・パ両リーグのカードだって、観衆一万人以上の試合はそれほど多くなかったからである。」
衣笠球場での女子プロ野球は、同年の10月23日にも開催されました(注3)。第1試合は京都ヴィナス対三共レッドソックスで延長の末5対5の引き分け。第2試合は三共レッドソックス対東京エーワンで、レッドソックスのサヨナラ勝ちでした。第1試合では京都ヴィナス・寺田の、第2試合では三共レッドソックス・中村の本塁打が飛び出しています。
女子プロ野球は各地で対戦を行いましたが、1951年のシーズン終了後、ノンプロへと移行していきます。
(3) 社会人野球
『京都社会人野球大会50回史』によると、京都社会人野球大会は、第8回の1951年春、同年秋の第9回大会、1952年秋の第11回大会で開催されています。
第8回大会は宇治市の誕生を記念してほとんど宇治で開催されましたが、3月29日に準決勝のうち1試合を行っています。
第9回大会は1951年9月から10月にかけて8試合が組まれ、優勝候補の京都大丸が初戦で敗れる波乱があり、初陣の専売公社が西京貨物に逆転勝ちをおさめて初優勝しました。
1952年の第11回秋季大会は、9月21日から23日まで開催され、この大会も専売公社が旋風クラブに延長戦の末5対3で勝ち、2度目の優勝を遂げています。
5.立命館専用球場
(1) 創立50周年記念式典の開催
1950年10月15日、秋晴れの衣笠球場で立命館創立50周年記念式典が挙行されました。創立記念日は5月19日ですが、学生からの学園祭と同時にしたいとの要望により10月の開催となりました。2,300席の大テントが来賓・校友・父母・教職員・学生生徒で埋まり、更に500名の学生生徒が立ち並び、6,000人が集ったともいいます。
末川総長が、50年の歴史の上に我学園はますます50年の歴史に答えるために新しい進歩した歴史をつくらなければならないと式辞を述べました。来賓・卒業生代表・父兄代表・在学生代表の祝辞があり、佐々木惣一元学長や滝川幸辰教授など学園功労者31氏に感謝状を贈呈、永年勤続の教職員が表彰されています。
(2) 諸活動での使用
1951年12月2日には学内の各学部対抗野球大会が開かれました。法学部・経済学部・文学部・理工学部・別科の5チームが大接戦を演じ、決勝は経済学部と理工学部の対戦となり理工学部が優勝の栄冠に輝きました。
本学では主に大学の硬式野球部・軟式野球部や高校の野球部が使用しました。球場の北側には野球部の合宿所「白雲寮」が1952年秋に建てられ、1967年まで使用されています。
1952年には、関西六大学春季リーグの同立戦が5月9日・11日・12日の3日間にわたり戦われ、連日3,000人を超える観衆が応援を繰り広げましたが、立命館は残念ながら1勝2敗と惜敗しました。
このときの試合には、山城高校を卒業し立命館大学に入学した吉田義男さんが出場しました。吉田さんは1年からレギュラーとなり、衣笠球場で練習をし試合に出場しています。しかし1年で中退し阪神に入団しました。その後名遊撃手として活躍、後に阪神の監督を務めています。同じころ衣笠球場で活躍した岡嶋博治氏が中日に、西尾慈高氏が阪神にやはり中退してプロ野球に進んでいます。
6.衣笠球場から中央グラウンドへ
衣笠球場開設後、プロ野球や社会人野球、そして高校野球などで使用されたのは、当初一般に開放することで公認されたこともありますが、西京極球場が1946年から1950年までアメリカ進駐軍に接収され、使用に大きな制約があったことにもよるでしょう。
しかし、1951年8月のナゴヤ球場の火災による大惨事によって木造のスタンドを使用することが禁止され、衣笠球場も一般使用が困難になりました。翌52年3月、立命館は衣笠球場の使用を学校関係者のみとすることを決めました。56年には球場は正課体育の運動場とし、総合的運動施設を別に設置することが提起されました。
衣笠球場での最後ともいえるイベントを紹介します。
それは創立65周年および66周年記念学園祭の体育大会です。65周年記念の体育大会は1965年11月7日に開催されました。末川博総長を名誉会長として、学生と教職員、来賓、生協も参加した全学の大会です。大会には学園祭企画のトップをきって4,000人が参加しました。30種目ほどの競技や演武などが行われ、竜の玉とり競技、タルころがしリレー、恋愛2人3脚などといった種目もありました。球場を発着とする現在のしょうざんあたりまでの往復5㎞のロードレースもありました。学部対抗は理工学部が優勝し、仮装行列は出町北寮が優勝しています。
翌年の66周年記念大会は11月13日の予定が雨で延び11月16日に開催、3,000人が参加しました。学部対抗の800mリレーや男女不問で学生・教職員混合のリレー、合計224名による400m騎馬リレー、体育会の800リレーなどに熱戦が繰り広げられました。
このようにおよそ20年ほどにわたって利用されてきた衣笠球場でしたが、1967年には柊野に総合グラウンド・野球場が完成、69年には衣笠に体育館が建設されて、衣笠球場はその役割を終えました。跡地には中央グラウンドが出来、体育の正課授業や課外活動、学園祭などに使用されてきました。
その中央グラウンドも現在は中央広場などに変わり、キャンパス内には球場の面影をたどれるものはありません。キャンパス周辺のNTTの電柱に「衣笠球場」「キヌガサキュウジョウ」のプレートが残るのみです。
7.近隣の方々の衣笠球場の思い出
衣笠球場で同立戦やプロ野球が開催されたころ、近くに住んでおられて観戦に来られた方に思い出を語っていただきました。
(1) 小泉恵二さん(79歳)
「中学生から高校生のころ、自宅から近いこともあり、衣笠球場へはよく行きました。立派な球場でした。
プロ野球も衣笠球場で観ました。その観戦料を母にせがんだり、自分のお小遣いをためたりして捻出したものです。衣笠球場は、大陽ロビンスのホームグラウンドということもあり、ロビンスの試合はよく観ました。小西監督のもと、大岡、小鶴といった選手が揃っていた時には、ロビンスはセントラルで優勝もしました。
プロ野球ばかりでなく、関西六大学野球の同立戦もよく観に行きました。そのとき、兄が同志社に在学していたのですが、僕は立命を応援していました。立命のキャプテンであるセカンドの鳥本さんは地味ながらも良い選手で、特に応援していました。
当時の学生野球は、今と比べようもないほどの人気でした。」
(2) 小泉博さん(73歳)
「小学生のころのことですが、衣笠球場で試合の時には、とにかく大変な人の混みようでした。市電わら天神から衣笠球場までの道路(疎開道路)は、舗装されていなかったため(当時はどの道路も大概そうでしたが)、濛々たる土埃だったことが印象に強く残っています。
大陽ロビンスの応援をしており、小鶴、ピッチャー真田など有名な選手が揃っていました。NHKの解説もしていた「何と申しましょう」という口調が特徴の小西監督の時には、セントラルで優勝もしました。
当時の学生野球はプロにつぐ人気があり、同立戦もよく観ました。
衣笠球場といえば、馬術部の馬場が横にあり、立命の学生さん達に遊んでもらった記憶があります。」
おわりに
設計図を復元したのは資料の保存のためでしたが、きっかけは2010年4月9日のことでもありました。
その日、本学を1959年に卒業した岡田忠さん(元朝日新聞編集委員)が衣笠球場の調査のため来室されました。岡田さんは野球部のOBで、「衣笠球場は野球部時代に汗と涙を流したとりわけ思い出深い球場」であったといいます。球場の跡(衣笠キャンパス)を案内し周辺の電柱の「衣笠球場」のプレートの写真を撮っていると、偶然近くに住む高田憲一さんに出会いました。高田さんは子供の頃から衣笠球場の試合や練習をよく見に来ていたとのことで、長年衣笠球場について調べておられ、その資料を見せていただくことになったのです。
この出会いが消えかかった衣笠球場の設計図を復元するきっかけにもなり、本稿をまとめることとなりました。
(注1・2) 元の設計図は竹中工務店京都支店の作成で、今回の復元も竹中工務店の協力をいただきま
した。球場の施工も竹中工務店でした。
(注3) 開催日と得点が『プロ野球選手はお嬢さま』と異なりますが、京都新聞の記事によりました。
本稿の作成にあたっては、学内の諸資料のほか、
(1) 岡田忠さんの「私の青春記 衣笠球場のプレート」(2011年)
(2) 高田憲一さん調査による寄贈資料
(3) 京都府高等学校野球連盟『京都高校野球史』(1967年)
(4) 京都市中学校体育連盟野球専門委員会『京都市中学校野球50年史』(1997年)
(5) ベースボール・マガジン社『日本プロ野球大全集』(1985年)
(6) 京都社会人野球連盟『京都社会人野球大会50回史』(1973年)
(7) 田中科代子『プロ野球選手はお嬢さま:白球に恋した淑女たち』文芸社(2002年)
(8) 京都新聞各関係記事
などを参照させていただきました。
添付の図・写真は、
(1) 1958年度『学生生活』所収の衣笠学舎・衣笠球場
(2) 開設の頃の衣笠球場 2点
(3) 復元された「立命館衣笠球場設計図」(2014年3月)
〔2014年4月9日 史資料センター準備室 久保田謙次〕
