立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2013.11.04

「今日は何の日」11月 末川博学長の誕生

1945(昭和20)年11月 末川博先生が立命館大学の学長に就任しました。
 日本全体が戦後改革を進めようとするなか、立命館も戦前の学園運営と決別し新生立命館へと歩みを進めましたが、その歩みは末川博の名と不可分でありました。その存在がなければ立命館はまた違った歩みをしていたでしょう。
 敗戦直後の1945(昭和20)年11月6日、立命館理事会は戦後学園改革をスタートするため、法学博士末川博を学長に推薦することを決定、10日には文部大臣の認可により末川博学長が正式に誕生し、1948(昭和23)年には立命館学園の総長に就任します。
 末川博は1892(明治25)年、山口県玖珂村(現岩国市)に生まれ、第三高等学校、京都帝国大学法科大学を卒業しています。
 末川と立命館の関係は大正時代に遡り、京都帝国大学の講師となる1年前の1918(大正7)年10月から立命館大学の講師を務め、1933(昭和8)年の京大事件で京都帝国大学を辞任した後は大阪商科大学の教授となりましたが、戦後立命館大学学長として迎えられたのです。
 その後、戦後の学園運営をめぐり総長就任直後の1948(昭和23)年11月に辞任していますが、翌49年立命館は総長公選制を布いて再び末川を総長に選出しています。以降1969(昭和44)年4月1日に任期を終えるまで、5期20年にわたって総長を務め戦後の学園改革に力を注ぎました。立命館学園の「平和と民主主義」という教学理念や学生とともに立命館の将来を討議するという「全学協議会」制度も末川総長の時代に確立されたのです。
 1970(昭和45)年4月2日、末川博は立命館名誉総長となり、その後も立命館の発展のため力を尽くし、1977(昭和52)年2月16日84歳で逝去しています。
 末川総長の言葉「未来を信じ 未来に生きる」を刻んだ碑は今も衣笠キャンパスのバスプールに立ち、往時の姿や歩みは「末川記念会館」に展示されています。



末川博総長(1953年当時)

2013.11.03

「今日は何の日」11月 昔の学園祭のこと

 現在の立命館大学学園祭は、BKCが11月上旬、衣笠が11月中旬の土日に開催されています。APUの学園祭である天空祭は10月下旬の土日に開催されています。
 戦後の学園祭は、1947(昭和22)年10月18日・19日に、また1948(昭和23)年の10月14日・15日に開催されていることが、当時の在学生の日記に記されています。
 1950(昭和25)年には、「立命館大学創立五十周年記念学園祭」が10月14日から28日、更に11月中旬の企画と続いて開催されました。体育大会や「同・立野球リーグ戦」も開催されていますが、この年の学園祭は文字通り創立50周年を記念する全学の取組みでした。
 1951(昭和26)年10月5日の「立命館学園新聞」には、「学園祭近づく 各部多彩な催し」の記事が掲載され、10月11日から27日までの間、演劇部、写真部、茶道会、軽音楽部の企画などが紹介されています。同立野球戦、20日には新京極の美松ダンスホールでの大ダンスパーティー、体育祭では仮装行列市中行進などもありました。
 1955(昭和30)年の『学園祭パンフレット』によると、「立命館大学創立55周年」を記念し、11月6日の御所グラウンドでの体育大会に始まり、学芸大会、学術大会、理工大会の企画が15日まで連日繰り広げられています。学術関係では38のサークルの企画、学芸関係では14の催しが紹介され、12日夕刻には広小路学舎の校庭で「ファイアーストームを囲む歌とおどり」が行われました。
 また1990年代半ば頃までは、学園祭は土日だけでなく前後の平日もあり、学園祭実行委員会から大学に申し入れて、教授会などで審議をした上で、全学休講にしていました。例えば1990(平成2)年度の学園祭では11月2日(金)が一部全学部午後半日休講、11月5日(月)が一部全学部全日休講・二部全学部全日休講になっていたのです。



1981年衣笠一拠点完成年度の学園祭夜祭

2013.11.02

「今日は何の日」11月 常に学生とともにあった末川総長

 末川博先生が亡くなられたとき、末川総長の秘書をしていた職員が「学生と総長室」と題して総長室での末川先生について追想しています。
 「総長室は、(広小路学舎の)中川会館の二階の奥まったところにあり、ここを訪れる人の多くが、他大学などで経験される秘書課のないのに、まず驚かれます。学者、文化人から新聞記者、芸能人、一般市民の方々とそれは多方面に亘っていて、何方ともわけへだてなく会われていました。そのため木戸御免、門戸開放もいいところで、その出入りは、まことに激しいものでした。」
 授業料が払えず新学期まで借金させてほしいという学生や、希望した大学に入れなくて悩んでいるなどと相談に来た学生もいたようです。
 男子学生からはオヤジ、オヤジさん、女子学生からはオジイチャンと親しまれていて、地下の学生食堂でよく学生と並んで食事をしていました。後で総長室に学生を呼んだりしていたようです。
 「卒業期が近づくと、総長室には学生の出入りが一段と多くなります。それというのも卒業記念にぜひ色紙に揮毫をと依頼にくるからで、卒業式の日まで間に合わせてあげたいと先生も懸命に筆を持たれるのですが、なにぶんにも沢山のことなので、間に合わない人たちには、後日、郷里や就職のための新任地へお送りしたものです。」
  末川博先生追悼文集編集委員会『追想末川博』(1979年)より抜粋



学生とともに御所を散策する末川博総長(1952年)

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