立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2013.10.01

「今日は何の日」10月 昔、秋には運動会があった

 毎年秋には「学園祭」が開催されますが、かつては運動会(体育祭)も開催されていました。
 本学の運動会は既に1908(明治41)年から開催されていて、1909(明治42)年10月30日の京都法政大学・清和中学校第2回陸上大運動会、翌年同日の第3回大運動会の写真が残っています。
 中学校の同窓会誌である『清和』(大正2年12月)には、同年11月2日に第4回陸上大運動会が開催されたとの記事があります。
 『立命館学報』第2号(大正4年3月)には、前年の11月1日に岡崎公園にて大学及び中学第5回秋季陸上運動会が開催されたことが記されています。京都市内の小・中学校も招待しており、82の競技が行われ、5千名余の観覧者があったようです。
 1917(大正6)年10月31日にはやはり岡崎公園で大学・中学連合の第6回運動会を開催し、107もの競技や時代風刺の仮装行列を行っています。
 昭和に入り立命館のグラウンドで初めて運動会が開催されたのは、1929(昭和4)年10月20日でした。この年、立命館のグラウンドが上賀茂(現在の京都産業大学の校地)に完成し、6千の学生生徒が集いました。市内の各小学校・中学校も招待され、模擬店・福引・仮装行列なども行われています。



上賀茂グラウンドでの運動会(1931年)、のちに神山学舎、更に再び上賀茂グラウンドとなった。現在は京都産業大学。

2013.09.04

「今日は何の日」9月 立命館中学校・高等学校の誕生

 現在立命館の附属校は4中学校・高等学校と1小学校があります。そのうち最初の附属校は、立命館中学校・高等学校で、1905(明治38)年9月10日に誕生しました。
 創立時の名称は私立清和普通学校で、50名の入学者がありました。翌年の中学校令によって私立清和中学校と改称し、その年の12月には、閉校になった他の私立中学(吉田中学校)の多くの生徒を受け入れて生徒総数295名(1~5学年)の大きな中学校になりました。
 第1回の卒業生は、1907(明治40)年3月、44名でした(当時の中学は5年制です)。
 次いで1913(大正2)年の財団法人立命館の設立とともに立命館中学となり、1928(昭和3)年に立命館中学から立命館中学校になっています。
 「清和」というのは広小路学舎の西側にある京都御所の清和院御門に由来します。創立当初は京都法政大学と同じ広小路学舎で学び、1922(大正11)年に、現在は立命館小学校となっている北大路学舎に移転しました。以後1988(昭和63)年まで北大路学舎で66年の歴史を刻み、同年8月29日に深草学舎の開校式を迎えて今日に至っています(なお、2014年9月には長岡京新キャンパスに移転する予定となっています)。



1913年12月財団法人立命館が設立され、大学・中学とも立命館大学、立命館中学となった。広小路学舎正門には「立命館大学」「立命館中学」の門標が掲出された。

2013.09.03

「今日は何の日」9月 私塾立命館の創設

 現在の立命館は、1869(明治2)年に西園寺公望が京都御苑のなかの西園寺邸に開いた私塾「立命館」に由来します。明治2年秋9月23日に藤原(西園寺)公望が揮毫した「立命館」の扁額があります。西園寺公望21歳の時でした。
 西園寺公望は勤王家を養成するため私塾立命館を開きましたが、賓師(先生)として、京都の著名な漢学者・文人などが選ばれました。江馬天江、淡海槐堂、谷口藹山、広瀬青村、松本士龍、神山鳳陽、山中静逸、山本秀夫、富岡鉄斎、橋本蓉塘などです。
 「立命」は『孟子』から採られていますが、橋本蓉塘が命名したと言われています。塾の講義では、中国最古の詩集『毛詩』などが取り上げられました。また広瀬青村が塾長を務めたことのある大分・咸宜園には立命館の寮歌のルーツではないかと言われる「休道の詩」が残っています。
 塾は大そう評判がよく、塾生は100人ほどいたようで塾舎を建て増ししたといわれます。名前のわかっているなかに西園寺公望が山陰道鎮撫使として丹波馬路村に入ったとき陣営に参加した人の一族と思われる人がいます。
 しかし塾は翌年4月23日、西園寺がフランス留学準備のため長崎に遊学している間に、塾生の言動に不安を感じた京都留守官により閉鎖させられました。
 西園寺公望は、5月24日付の賓師あての書簡で、閉塾の経緯と無念さを述べています。



西園寺公望のフランス留学時代。西園寺公望は1870年の私塾立命館の閉鎖後フランスに旅立った。

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