立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2020.10.20
<懐かしの立命館> 記憶に残る 末川総長の言葉から
1950~60年代の立命館大学卒業生や立命館中高卒業生、また現在までの多くの大学卒業生や中高卒業生には、末川総長が語り掛けた言葉が様々に記憶されています。
「未来を信じ 未来に生きる そこに青年の生命がある」
「理想は高く 姿勢を低く」
でも、その記憶は、世代、中高、大学、学部で微妙に異なっていて、校友の方からも正確にはどのように言っていたのだろうか?などの質問が史資料センターに寄せられることがあります。
この項では、みなさんの記憶に残っている様々な「末川博の言葉」の典拠をご紹介させていただきます。
1.未来を信じ 未来に生きる そこに青年の生命がある。
最も多くの校友の記憶に残るのは、この言葉でしょうか。
1953年12月8日に広小路キャンパスに建立された「わだつみ像」の台石に刻まれたこの言葉は、その後、卒業記念色紙や学生に配布された冊子類に度々掲載されました。
1981年の衣笠一拠点時には、バスプールに「未来を信じ 未来に生きる」の記念碑も建立され、2006年制定の『立命館憲章』にも織り込まれ現在まで継承されている言葉です。
①1953年12月建立のわだつみ像台石 碑文(拓本)
「未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだえを象徴するのがこの像である。本郷 新氏の制作。
なげけるか いかれるか はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ
この戦歿学生記念像は広く世にわだつみの像として知られている。
一九五三年一二月八日 立命館大学総長 末川博しるす」
校友が記憶している「未来を信じ」の原点はこの碑文なのですが、それでも「もだせ」(黙ること)が「もだえ」になっていたり、「わだつみの像」と記載されていて、よく記憶されている方からは時々質問をいただきます。
史資料センターでは、「もだえは誤記で正しくはもだせ」「わだつみの像もわだつみ像も間違いではない。現在はわだつみ像と呼称している」と回答しています。
②1961年3月から1964年3月の大学卒業生全員に渡された記念色紙
「未来を信じ、未来に生きる。そこに青年学徒の生命がある。
その貴い未来と生命を、諸君は自ら汚がしてはならず、他から奪われてもならない。これから諸君の進む道は、ジグザグと時には暗く時には険しいこともあろう。だが、諸君がいつも心に太陽をもって希望に燃えながら前進するとき、脚下の大地は揺ぎなく、頭上の星は黎明の近きに輝く、理想は高く姿勢は低く、学習を終生の業として一歩づつ前へ前へと進もう。かくて、諸君の若い生命は、二十一世紀の平和なすばらしい歴史につながる。諸君の自重と自愛を望むや切である。
一九六一年三月二一日 平素諸君に語ったことばをつらねて 末川博」
この色紙はわずか4年間だけのものだったのですが、末川総長が事あるごとに繰り返していたフレーズが入ったもので、記憶にある言葉がほぼ網羅されているものです。
しばしば、校友の方からは「理想は高く 姿勢“を”低く」であったか「理想は高く 姿勢“は”低く」であったかとの問い合わせもありますが、「一般的には 姿勢“を”低くですが、姿勢“は”低くもあります」とお応えしています。「は」はこの色紙の言葉で使われていますね。
2.理想は高く 姿勢を低く
この言葉は、立命館中学校・高等学校卒業生の方のほうが記憶に残っていると思います。
①立命館中学校・高等学校 深草キャンパス正面に掲げられた銘板
「理想は高く 姿勢を低く、大地に足をふんまえて 一歩づつ前へ 前へと進もう。
末川博」
1988年、立命館中学校・高等学校が北大路から深草に移転した際、正面階段中央にこの銘板が掲出されました。10月頃であったといいます。
以来、中学高校の生徒は必ずこの前を通って学校に通っていました。自ずと記憶に残ったことでしょう。
北大路キャンパス時代には末川総長(1977年逝去)がよく生徒に講演をしていたのですが、
深草キャンパス時代の生徒にとっては、この銘板の言葉と先生が語る末川総長の話でその人となりを想像していました。
この銘板は2014年の長岡京キャンパス移転時に正門横に移設されており、現在の生徒達もまた記憶に残してゆく言葉となっています。
②別パターン1
「理想は高く姿勢を低く 大地に足をふんまえて ゆっくりとがっちりと 前へ前へと進もう
未来を信じ未来に生きる 青壮の君におくる 末川博」
③別パターン2
「理想は高く姿勢を低く いつも心に太陽をもって ゆっくりとがっちりと 理論を貫いて実践に生き 実践を通して理論を究め 前へ前へと進もう
未来を信じ未来に生きる 君の洋々たる前途を祝福して 末川博」
②と③は「理想は高く 姿勢を低く」で始まる言葉の別パターンの色紙です。「いつも心に太陽をもって」や「ゆっくりとがっちりと」という末川総長がよく使った言葉が挿入されています。
この言葉を記憶されている方もおられるでしょうね。
3.法の理念は正義であり 法の目的は平和である だが
先の言葉は多くの校友の方の記憶に残っているものと思います。でも特に「法学部」の校友の方が最も記憶しているのは、この言葉でしょう。
①衣笠キャンパス存心館1階ピロティの銘板
存心館入口の銘板
「法の理念は正義であり 法の目的は平和である だが 法の実践は 社会悪と たたかう 闘争である 末川博」
この銘板は、法学部創立80周年記念(ちょうど1981年の衣笠一拠点の時)で、新たな立命館大学衣笠キャンパスのシンボル棟「存心館」の1階ピロティに掲げられたものです。
立命館の前身「京都法政学校」は法科学校として1900年に創立されましたから、法学部は立命館の歴史そのものです。そして末川博は戦前戦後を通じた民法の泰斗でありましたから、立命館大学法学部にとって末川博総長は格別の位置でもあったのです。
現在も存心館1階ピロティにはこの銘板が掲げられ、法を学ぶ学生達に末川の思いを伝えています。
2020年10月23日 立命館 史資料センター 奈良英久
2020.10.6
<懐かしの立命館>付属校初代の制服(明治から大正期)をめぐって
はじめに
1905(明治38)年9月、学園初の付属校として「清和普通学校」(立命館中学校・高等学校の前身)が誕生し、1906(明治39)年4月には清和中学校と変更しました。
1906年11月14日には、廃止となった吉田中学校から200名以上もの生徒が編入学しています。全員が吉田中学校からの編入者であった5年生は、中退者2名をだして翌1907(明治40)年3月31日に付属校第1回卒業生となりました。この吉田中学校から清和中学校編入学までの経過は、史資料センターホームページで<懐かしの立命館>立命館中学校秘話~吉田中学校の顛末記~」に紹介しています。
こうした経緯のある付属校の制服を追ってみました。
1.明治後期の旧制中学校制服
明治時代の旧制中学校で袴姿に制帽姿が見られるのは、旧制高等学校の真似をしていたからのようです(末川博立命館名誉総長の旧制中学校時代の写真からもうかがえます)。この頃は、着物よりも洋服がまだ高価であったため、制服よりも先に制帽を定めていたからと考えられます。そのため、生徒は袴姿に下駄ばきで学生帽という服装が一般にも多く見られていました。
【写真1】 後列中央が山口県岩国中学校時代の末川博 (明治40年)
2.清和中学校第1回卒業生の服装
付属校の制服として残る最も古い写真は、1907(明治40)年3月卒業の清和中学校第1回卒業生集合写真です。清和中学校開設1年目(清和普通学校設立から2年目)での卒業生は制服制帽姿です。吉田中学校はずさんな学校経営によって廃止を命じられましたが、京都府へ提出していた学則には以下のような制服規定が残されています(注1)。
一 帽 色濃紺(菱形)
一 洋服背広ツメ襟、色濃紺地質無地羅紗、無地メルトン若クハ無地へル夏服ハ霜降小倉地トス
但シ、第二年級以下ハ和服(筒袖袴)ヲ着スルコトヲ得
又第三年級以上ト雖モ新入ノ当時十四日間ハ和服(筒袖袴)ヲ着スルヲ得
一 外套 色濃紺地質無地羅紗無地メルトン若クハ無地ヘル
一 靴 色黒半靴(底ノゴム或ハ麻裏ノモノハ用ユルヲ得ズ)
病気ソノ他故アリテ所定ノ着装ヲナスコト能ハザルトキ予メ願ハ出デテ許可ヲ受クベシ、降雨雪ノ時ハ上草履(麻裏或ハ竹ノ皮ニ限ル)ヲ用ユルヲ得
吉田中学校では制服制帽を制定しながらも、経済的負担を軽減するための配慮から2年生以下には年間を通して、また編入学後の生徒には2週間以内で和服通学を認めていました。
これに対して、誕生して間もない清和中学校では、編入学後4か月で卒業を迎えようとする5年生にどのような制服制帽を指導したのでしょうか。
【写真2】 清和中学校第1回卒業生写真
そこで、【写真2】での制服と吉田中学校の規定とを比較すると、まず制帽が菱形ではありません。菱形というのは、当時の大学生たちが被っていた角帽のことで、写真のような形ではありません。被り方にもよりますが、帽子の形も少し異なっているようにも見えます。最後列左端の生徒は着帽していません。
次に、制服の襟は基本形の詰襟です。詰襟制服国内第1号は学習院が採用(1879年)し、その後に全国的に広がり、吉田中学校では清和中学校よりも一足早く1903(明治36)年に制服を採用しています。また、写真では前釦の間隔に差が見られます。五つと七つの違いもあります。最前列右端の生徒は明確に七つ釦です。吉田中学校には釦数が指定されていません。
最前列右端の生徒とその後ろに立つ生徒の足元には白いゲートルが巻かれています。日本でのゲートルは、日露戦争以降に主には陸軍の歩兵の間に広がりましたが、吉田中学校の規定にはないゲートルを、清和中学校では創立当初から義務づけていたのではないかと思われます。
3.付属校の制服規定
付属校として残る最古の服装規定は、清和中学校時代の1907(明治40)年から1909(明治42)にかけて京都府へ提出された「私立清和中学校学則」に記された制服規定です(注2)。内容はかなり吉田中学校と似ています。(筆者注:異なる箇所は次の下線部分です。)
服装
第十三條 本校制定ノ服装ハ左ノ如シ
服
上衣 長ヂャケット形 真鍮製一行 釦五個ヲ附ス
冬ハ紺 夏ハ霜降 地質小倉
外套 黒又ハ紺 地質羅紗 真鍮製釦附
洋袴留帯 革製ノモノ
帽 黒羅紗 海軍形 制定ノ徽章ヲ附ス
ゲートル 陸軍形 地質麻
靴 黒革短靴 陸軍形
第十五條 課業時間外ト雖モ制服制帽若クハ制帽袴ヲ着用セスシテ校内ニ入ルベカラズ
第十六條 校外ニアリテハ制服ヲ着セザルモ制帽ハ必ズ着用スベシ
第十七條 新ニ入学セルモノハ入学後一ヶ月以内ニ制定ノ服装ヲ調フベシ
制服の上衣をヂャケットと表記し、外套(コート)と共に真鍮製5個の釦を定めています。1907(明治40)年に体操の授業担当として陸軍の軍曹と特務曹長であった二人が教員になっていることから、ゲートルと靴に合わせて軍隊を色濃く出してきたのではないかと考えられます。帽子が海軍形であるのは、旧制高等学校も含めて全国的に広がっていた影響なのかもしれません。ゲートルが清和中学校時代から義務づけられていたのならば、付属校設立時から何らかの意図があり、時勢を先取りしていく創立者中川小十郎の影響力も大きかったことが十分に考えられます。
ここで注目したいのは、帽子に徽章を付けるとしていることです。立命館以前の清和のものがあったということになりますが、現在のところ見つかっていません。
この「清和中学校生徒心得」は校則と共に1913(大正2)年にも京都府へ提出されています。ここでは、1909(明治42)年までのものから次の2点だけが変更されています。
上衣 短ヂャケット形
新たに入学セルモノハ入学後二週間以内ニ制定ノ服装ヲ調フベシ
上衣に「短」と表記されていますが、それまでの上衣丈を短いものに変更しています。これは、清和中学校としては最後の卒業となる1913(大正2)年3月の卒業集合写真【写真3】でよくわかります。丈が腰骨より上で切れていて、ベルトもしっかりと写っています。その他にもそれらしき服装が見られます。
【写真3】1913(大正2)年 清和中学校第7回卒業生「清和第3号」より
右端前列の生徒の上着
この1913(大正2)年の12月2日には、文部大臣より財団法人立命館設立が許可されて、校名は私立立命館中学に改称されます。それと同時に制帽徽章が改定されています【写真4】(注3)。入学者の制服準備期間が短くなっているのは、生地が高価なものでなくなり購入しやすくなったことと、学校としての結束力を高めるために制服の統一を急いだのではないかと考えられます。
【写真4】
学校名称改まり大学中学に立命館を冠することになりたれば大学生並に中学生徒制帽前章を左に示したる通りに改め、之を真鍮製にし大学生は角帽中学生は独逸形帽の中央に附し、一見本学々生若くは生徒たることを瞭然たらしむる事にしたり。(注3)。
これを読む限りでは、校名を改称しても先ず制帽徽章だけを改定し、学生生徒に徹底しようとしています。小西重直学監が中心となって立命館中学の学校改革が大きく進められるなか、制服はほぼ定着しているので、制帽によって対外的にも立命館中学の生徒であることを示す象徴的な機能を果たすものとして利用されたようです。
同年にはまた、創立者中川小十郎は中学校の課程を卒業する在学四年以上の生徒で、品行方正、学業優秀の者に対して特別褒賞を贈与すると決めています。1914(大正3)年3月の第8回卒業生(立命館中学としては初)から実施され、生徒たちの正装記念写真が撮られました。この特別褒賞4年間の生徒写真は1917(大正6)年に発表された「立命館中学の過去現在及将来」に掲載され【写真5】、同時に「私立立命館中学生徒心得」の中に服装規定が詳細に記載されて、学校のイメージを広報していきました。
【写真5】 「立命館中学の過去現在将来」に紹介された正装の優秀生徒たち
4.規定にない夏服に見られる立命館中学
制服規定の夏服には霜降とだけしか書かれていませんでした。生地が白っぽい制服になりますが、その数年後に撮影された【写真6】と【写真7】には規定にない珍しい夏服が写っています。
【写真6】 1919(大正8)年の野球部の奈良遠征時
着物に袴でカンカン帽を被る生徒
【写真7】 1922(大正11)年の野球部全国大会出場の服装
中央に座って写る生徒だけが規定の夏服
夏服の規定がありながらも着物に袴、それにカンカン帽や制帽という服装が見られるのは、大正期の立命館中学には厳しい制服規定だけで拘束するのではなく、大正デモクラシーの影響も受けて、まだおおらかな教育がなされていたのだろうと想像されます。
2020年10月6日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
注1;「吉田中学校学則」京都府公文書
注2;「私立清和中学校生徒心得」第二章 服装 京都府公文書
注3;「立命館学報 第1号」 P34 1913 (大正3)年2月発行
注4;「立命館中学の過去現在及将来」 P66 1917(大正7)年3月発行
2020.09.25
<学園史資料から>「命輝く」立命館小学校。その設置準備室の看板
2006年4月に立命館小学校が開校して今年で14年になります。
この看板は、2005年から開校までの1年間に様々な準備の中心となった「設置準備室」のものです。
立命館学園が小学校を開校するのは、創立者中川小十郎の長年の夢でありました。1918(大正7)年に発行された『立命館中学の過去現在及将来』では「小学校より中学校を経て大学予科および本科と系統一貫せる教育機関の形成」をすでに構想(『立命館百年史 通史一』pp.373‐376)していたのです。
それが、おおよそ90年の時を経て北大路キャンパスに実現したのです。
この「立命館小学校設置準備室」は、2005年に設置され、小学校の教育カリキュラムや中学・高等学校への接続教育の仕組み、学年の横だけでなく6年~1年生までの縦のグループ(ハウス制度)を作って学習する仕組みなど様々な先進的効果的な教育の形を検討した組織です。
わずか1年間の「準備室」でしたが、そこでは学園初めての小学校、一貫教育の完成、新しい教育の在り方の検討で、皆、大変な熱意をもって取り組んだそうです。
今回移管された看板も、無事小学校が開校し、看板を下ろす時、その裏面には当時の構成メンバーが記念のサインをしています。
かくて2006年4月、立命館小学校は開校の日を迎え、1年~3年生の児童が入学しました。
「立命館小学校設置準備室」の看板は、学園が続く限り保存されます。熱い思いを込めた人々のサインとともに。
2020年9月25日 立命館 史資料センター 奈良英久