立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2020.07.14

<懐かしの立命館>キャンパスの最寄り駅・バス停今昔

大学への通学には電車・バスを利用したり、バイク・自転車、徒歩で通学するなど様々である。

今春、立命館大学衣笠キャンパスの最寄りの嵐電に立命館大学の名称が入った駅が誕生した。

学生の通学に使われた衣笠キャンパスの最寄りの駅やバス停、朱雀キャンパスのバス停の今昔について紹介する。

 

1. 嵐電「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」駅 

キャンパスの最寄り駅01

【等持院・立命館大学衣笠キャンパス前駅】

2020(令和2)320日、嵐電の等持院駅が「等持院・立命館大学衣笠キャンパス前」駅となった。

先立つ314日の京都新聞は、20日に等持院駅を文字数・音読数国内最長の駅名とする記事を掲載した。文字数では3駅が17字で最長タイであるが、音読数では単独で最長とのことである。

京福電気鉄道株式会社と、学校法人立命館との連携・協力協定締結に伴う新たな駅名となった。

キャンパスの最寄り駅02

【駅名改称による記念切符】

この駅はキャンパスまで徒歩6分、約450m。北野線の白梅町駅から西に一つ目の駅であるから、現在の通学には西方の帷子ノ辻方面からの利用の方が多いであろう。

衣笠キャンパスは1939(昭和14)年に開設した。もっとも衣笠キャンパスという名称は、1965(昭和40)年前後からで、それ以前は等持院学舎といった。

当時から最寄り駅は等持院駅であったが、東側には北野白梅町駅がまだなく、一つ東側は小松原駅で、さらに北野天満宮前の北野駅まで走っていた。市街地から登校する学生は北野駅で嵐電に乗り換え、等持院駅から学校に向かった。

1942(昭和17)4月に専門学部工学科に入学したN君は、市内から市電を乗り継いで、嵐電北野駅から学校に通学している(「戦時下、専門学部工学科N君の学生生活」立命館史資料センターHP https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=177)。  

下の地図は『立命館日満高等工科学校概況(昭和16年度)』に掲載されたものである。

白梅町駅は1943(昭和18)10月に開業、それとともに小松原駅が休止、昭和206月に廃止となった。1958(昭和33)7月には北野駅から白梅町駅間が廃止、白梅町駅は北野白梅町駅となった。

西大路通には市電の電停「平野神社前」が見える。西大路線は1935(昭和10)12月に千本北大路―わら天神間が、1936(昭和11)11月にわら天神―北野白梅町間が開通、更に1943(昭和18)10月に北野白梅町から西ノ京円町まで延伸したことにより西大路九条まで開通した。北大路方面や西大路の南方面からの等持院学舎への通学は、平野神社前を利用したのである。市電は1978(昭和53)年に全廃されたが、この時は既に平野神社前の電停は無かった。

なお、そもそも市電は日本最古の路面電車で、1895(明治28)年に民営の京都電気鉄道により開業、その後1918(大正7)年に全面市営化した。路線は順次拡張していったものである。

キャンパスの最寄り駅03

【昭和16年の等持院学舎案内図】


キャンパスの最寄り駅04

【昔の等持院駅 日満高等工科学校 昭和16年のアルバムより】

 

2. 市バス・JRバス「 立命館大学前 」「 立命館大学前 (キャンパス内) 」

衣笠キャンパス正門北側に、「立命館大学前」のバス停がある。市バス、JRバスのバス停となっている。

このバス停の名称が「立命館大学前」となったのは1986(昭和61)331日。それ以前は「衣笠」であった。広い地域名を表す衣笠より、「立命館大学前」に、と地元の住民や市会議員の賛同を得て改称された。

このバス停(市バス)は大学の構内にある衣笠操車場から発着する。それ以外のバスもあるが。衣笠操車場ができたのは1962(昭和37)年。まだ経済学部や経営学部が広小路から移転してくる以前で、理工学部のみの時代である。バスの操車場が学校のなかにありそこから出入りするのは全国的にも珍しいのではないだろうか。

そもそも衣笠操車場は、1962(昭和37)年に京都市交通局から、立命館大学の移転した馬場の跡地を借用したいとの申し入れがあり、貸与したものである。

この結果、市バスの系統改正があり、12番系統や15番系統が衣笠操車場を起終点とすることになった。また、翌1963(昭和38)年には衣笠以西宇多野方面に通称観光道路(現在の愛称きぬかけの路)が開通した。

 バス停の名称を変えただけではない。1974(昭和49)年以降、本学の公費助成連絡協議会は市バスの増便の運動にも取り組み、京都市に要請し、学生の交通の便を図ってきた。1978(昭和53)年に市電が廃止されると、市バスの増便に一層力を注いだ。またバス停名称が変わった1986(昭和61)年の10月からは西大路通に快速バスが走ることになった。

 そして現在、正門前にあるバス停に加え、構内にもバス停を設置している。

 市バスは、快速ラピッド205が京都駅と結んでおり、JRバスも同じバス停から快速立命ライナーが京都駅と結んでいる。

キャンパスの最寄り駅05

【写真:立命館大学前、立命館大学前(キャンパス内)

 

3. 市バス・JRバス「千本三条・朱雀立命館前」

朱雀キャンパスの開設は2006(平成18)9月であった。最寄り駅にJR二条駅があるが、本稿ではバス停について紹介する。最寄りのバス停は市バス、JRバスとも「千本三条」であったが、開設を迎えるにあたり、バス停の名称変更を京都市交通局及び西日本ジェイアールバスに要請した。

京都市は、要請にあたって地域の理解を得るようにとの条件であったので、地域を回りこれまでの地域名も生かしたバス停に名称変更することを理解していただいた。

当初は「千本三条・立命館朱雀キャンパス前」とする案であったが、文字数に制限があり「千本三条・朱雀立命館前」とすることになった。もう一点、表記だけでなくバスでアナウンスする際の朱雀の読み方、アクセントをどうするかということになった。3音を平坦に読む スザク とするか、第1音節にアクセントを置く ザク とするかであったが、京都市民になじまれている平坦に読むスザクとした。

名称の変更時期について、京都市は年度の途中の9月とすることはできないので、3月のダイヤ改正に合わせてほしいとのことから、開設前の2006(平成18)318日から実施した。JRバスも合わせていただいた。JRバスはそれまで一条通り経由のバスが多かったが、衣笠経由のバスを増便することとなった。

キャンパスの最寄り駅06

【写真:千本三条・朱雀立命館前】

              2020年7月14日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2020.04.01

<懐かしの立命館> 学思そして学思寮

20199月、京都府立京都学・歴彩館において、「戦後京都を設計した男 建築家・富家宏泰生誕100年記念回顧展」が開催されました。

 富家氏は京都の様々な建築の設計を手がけましたが、立命館においても1955年から1988年の間、64棟に及ぶほとんどの校舎・施設の設計を行っています。

 回顧展では、立命館に関わるいくつかの建物(校舎)の写真が展示されるとともに、学思寮を開設したあと末川博総長が「學思」の扁額を富家氏に贈ったことも紹介されました。

小稿では、「學思」の扁額と、学思寮について紹介します。

 

≪扁額「學思」≫

 「学思」という言葉は、『論語』の「為政第二」に由来します。

 「子曰、学而不思則罔。思而不学則殆。」[子曰く、学びて思はざれば則ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則ち殆(あやう)し。]

 教育の場である大学にふさわしい言葉ですが、本学の総長であった末川博先生が揮毫した「學思」の扁額が残されています。

 

(column) 学思そして-001

【「學思」】

 この扁額は、1964(昭和39)年に本学の学生寮である「学思寮」が開設されたことを機に、末川先生から、寮を設計した富家建築事務所の富家宏泰氏に贈られたものです。現在、ご子息の富家大器氏が所蔵しておられます。

 「學思」と「学思寮」に対する末川総長と富家宏泰氏の思いを垣間見たいと思います。

 

≪学思寮の開設≫

 19643月、千本北大路を上がった鷹峯の地に学思寮が開設されました。

 「学思」の名は末川総長が命名しました。

学思寮はこれまでの寮(旧寮)と異なり、集団の中において人間形成を行う教学施設として開設されました。従ってその形態もこれまでの621室から、1室約18(59.4)で寝室・学習室・談話室の3つの機能をもち、各回生2名計8名で構成するという小集団ブロック制をとり、創造的な学生集団を形成していく目的をもった施設でした。

 場所は京都市北区鷹峯南鷹峯町に、地上4階建て、延床面積3,504.26㎡、定員200名の学生寮が完成しました。屋上からは京の街を一望できたといいます。

 当時鷹峯は御土居と山林、畑と谷という地から、住宅が次々と出来てベッドタウンへと変貌していく時期であったようです。そのなかにひときわ立派な4階建ての学思寮がそそり立った(『京都新聞』昭和39819)といいます。

 富家宏泰氏は設計にあたって、住宅金融公庫の融資を受けることとなったため種々の規制を受け、学生寮のあり方の研究から始まり、計画にあたってこれまでの建築規制がいかにこの新しい学生寮のありように不合理であったか、と述べています。その点で今度の平面計画は従来の不合理を取り除いた実験であったと語っています。この規制は平面計画のみならず寮規則にも反映されることになったのです。

 当時、立命館大学の寮は男子寮として吉田寮・百万辺寮・春菜寮・衣笠寮・出町南寮・出町北寮、女子寮として下鴨寮がありました。

1963年度の学生寮の定員は男子寮6寮で240名、女子寮24名でしたが、翌1964年度は学思寮の開設により吉田寮は廃止、春菜寮を下鴨寮とともに女子寮とし、男子寮5寮で373名、女子寮2寮で52名となりました。

それでも1964年度の『学生生活』の寮の紹介によると、10名の入寮希望者に対し1名くらいの割合でしか入寮できない、とされています。

ちなみに、1964年度の寮生活の経費は、舎費(寮費)が学思寮で1,500円、旧寮で260円、そのほか食費(寮では食事がありました)、光熱水費、自治費がかかりました。

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                【学思寮新築竣工記念パンフレット】 

 

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 【学思寮建物の概要】

※図面をクリックすると別ウインドウが開き、大きな画面で見て頂けます。


 

≪寮生活≫

 寮は寮生による自治寮でした。

 寮委員会のもとに文化部・書記局・食堂部・管理厚生部・互助会があり、またAからEまでの5ブロックに分かれそれぞれの委員会がありました。

 こうした組織のもとで、寮生は様々な企画をし、寮生活を謳歌しました。全学的な行事である体育祭や学園祭への参加のみならず、寮独自の講演会や駅伝マラソン大会、寮祭などにも取り組んでいます。「納涼祭」や「立鷹祭」などが開催されました。

 ある年のスポーツ大会では、バレー、卓球、すもうなどが行われ、文化祭典では恋ピューター、エレファントカップル4vs4、合唱、フィーリングカップル5vs5、クイズ100人に聞きました、などの企画があり、さらにブロック対抗歌合戦(課題曲 お嫁サンバ)、ボディビル大会、女装大会などと、盛りだくさんの企画が開かれました。

 学思寮で発行した『軌跡』創刊号(1966)には、鷹峯・新大宮・紫竹付近の新聞販売所・薬局・クリーニング店・酒屋・喫茶店などの広告が掲載されています。

 クリーニング店は学思寮指定であり寮への出張日がありましたし、酒屋は「学思寮の酒屋〇〇商店」とさしづめ御用達、喫茶店はモーニングサービス100円でした。

 こうした広告からも学思寮寮生の生活の一端が窺われます。

 広小路学舎や衣笠学舎への通学には、市バスの釈迦谷口から北1系統、1系統、6系統などがあり、バイクや自転車通学もあったと思われます。

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【学思寮付近の地図―学思寮『納涼祭』1981年より】

 

≪寮の変遷と閉寮≫

 1964年に開設した学思寮も他の寮とともに、196912月から19709月まで、学園紛争中の「寮問題」により一時閉鎖を余儀なくされました。

 そして再開されましたが、下宿が減りアパートやマンションが増加するに伴い相部屋の学生寮が時代にそぐわなくなり、入寮希望者も減少していきます。

 こうした状況を受けて、大学は総合的で体系的な厚生援助の整備充実をはかっていくこととし、学思寮は1988320日に閉寮式典を実施、3月末をもって閉鎖に至りました。

 残る寮生は双ヶ岡寮へ移りましたが、19913月末をもって立命館大学は全寮を廃止しました。

 学思寮の跡地は住宅地に変貌し、今や寮を知ることのできるものはありませんが、衣笠キャンパスでは学思寮から移植した以学館前の八重桜が、今でも春の訪れとともに花を咲かせます。新しい学生を迎えるように。

 (column) 学思そして-005

【以学館前の桜】

 

 

≪寮歌≫

  前口上  大路下鴨集い歩きし雅人(みやびと)の春菜摘みつ

美しき賀茂の流れに育てはぐくみし出町・南北寮

       学びて思わざれば則ち暗く 思いて学ばざれば則ち危し

衣笠・吉田の山なみも露に濡れて花と咲く

                立命館大学 寮歌

  寮 歌  夕月淡く梨花白く 春宵花の香をこめて 

       都塵治まる一時や 眉若き子ら相集い

       希望の光を一にして 厚き四年を契りたり

                 厚き四年を契りたり

 

       『1984年 学思寮新歓ぱんふれっと』より(原文のまま)

 

 

              2020年4月1日 立命館 史資料センター 久保田謙次


2020.03.04

立命館大学衣笠キャンパス 学術・文化資源 紹介 <立命館憲章>

立命館学園は、1900(明治33)年に創立以来100年を超える歴史があります。

2006年、この歴史の中で培われた立命館の精神を『立命館憲章』として制定し、学園の様々な場所に掲出し、様々な冊子に掲載しています。

文面には、建学の精神、教学理念はじめ学園を支えてきた様々な理念、原則、教訓が織り込まれ、二大学五附属校となった立命館学園のアイデンティティとして確立され、立命館の社会的使命を明示しています。

(column) 立命館憲章01

          立命館憲章

立命館は、西園寺公望を学祖とし、一九〇〇年、中川小十郎によって京都法政学校として創設された。「立命」の名は、『孟子』の「尽心章句」に由来し、立命館は「学問を通じて、自らの人生を切り拓く修養の場」を意味する。

 立命館は、建学の精神を「自由と清新」とし、第二次世界大戦後、戦争の痛苦の体験を踏まえて、教学理念を「平和と民主主義」とした。

立命館は、時代と社会に真摯に向き合い、自主性を貫き、幾多の困難を乗り越えながら、広く内外の協力と支援を得て私立総合学園への道を歩んできた。

 

立命館は、アジア太平洋地域に位置する日本の学園として、歴史を誠実に見つめ、国際相互理解を通じた多文化共生の学園を確立する。

  立命館は、教育・研究および文化・スポーツ活動を通じて信頼と連帯を育み、地域に根ざし、国際社会に開かれた学園づくりを進める。

  立命館は、学園運営にあたって、私立の学園であることの特性を活かし、自主、民主、公正、公開、非暴力の原則を貫き、教職員と学生の参加、校友と父母の協力のもとに、社会連携を強め、学園の発展に努める。

 

 立命館は、人類の未来を切り拓くために、学問研究の自由に基づき普遍的な価値の創造と人類的諸課題の解明に邁進する。その教育にあたっては、建学の精神と教学理念に基づき、「未来を信じ、未来に生きる」の精神をもって、確かな学力の上に、豊かな個性を花開かせ、正義と倫理をもった地球市民として活躍できる人間の育成に努める。

  立命館は、この憲章の本旨を踏まえ、教育・研究機関として世界と日本の平和的・民主的・持続的発展に貢献する。

 

           2006721日 学校法人 立命館

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