立命館あの日あの時

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2020.11.27

<懐かしの立命館>(サマリー)「不戦のつどい」「わだつみ像」そして「教学理念」

「不戦のつどい」は⽴命館の教学理念である「平和と⺠主主義」を体現し、未来を創造してゆく若者たちのために平和を守り続けることを約した重要な式典である。それは同時に学園アイデンティティ確⽴過程の振り返りの機会でもある。そしてその象徴が「わだつみ像」である。 
  本稿は、戦後⽇本の歴史の中で、これらが相互連関しながら現在の⽴命館の姿を創って来た事歴を振り返る。 
 
1.「わだつみ像」誕⽣ 
    「わだつみ像」は、1931(昭和 6)年以降のアジア・太平洋戦争末期、ペンを銃に持ち替え戦場へとかり出されて、再び⽣きて帰ることのなかった戦没学⽣たちの「嘆き」「怒り」「苦悩」を象徴した像である。1950 年彫刻家 本郷新の作で戦没学⽣記念像として広く世に知られる。 

サマリー不戦のつどい-1


この像製作の始まりは、1949 年 10 ⽉にさかのぼる。 
当時東京⼤学協同組合出版部から『きけわだつみのこえー⽇本戦没学⽣の⼿記』が刊⾏され、⼤きな社会的反響を得て版を重ねていた。この刊⾏収⼊を基に「⽇本戦没学⽣記念会(わだつみ会)」が発⾜し、その最初の事業のひとつとして戦没学⽣記念像の制作が企画されたのである。 
この書名の「わだつみ」は「わた(海)のかみ」を意味し、同誌刊⾏にあたって書名公募に応じた京都在住の歌⼈で学徒兵の経験を持つ藤⾕多喜雄の短歌から引⽤された。 
 
なげけるか いかれるかはた もだせるか きけはてしなき わだつみのこえ





 製作者である彫刻家本郷新は、「わだつみ像」の製作について「『わだつみのこえ』は、戦没した学生によって、語られ、叫ばれたのでありますが、その内容は、ひとり学生のみに関することではなく、多くの労働者、農民、市民をはじめ、女性によっても叫ばれた、人権の尊厳、生命の価値に関する問題であるという考えでした。それで『わだつみのこえ』を具象化するには、金ボタンの学生姿でなければならないという考え方にはどうしてもなれず、といって、ぼろぼろの軍服を着た、死に瀕する兵隊でも物足りない。そんなことから私は一人の美しい肉体を持った青年の裸体の中に、すべてを内包させようという考え方に落ちつきました。」と語っている。(1953年12月8日 立命館大学建立除幕式での挨拶 より)

「わだつみ像」は東京⼤学構内に設置することで、当時の東⼤総⻑南原繁の内諾を得ていた。台座も⼯学部丹下健三助教授(当時)がデザインし、12 ⽉ 8 ⽇の太平洋戦争開戦記念⽇の除幕に向けて準備されていたが、直前の 4 ⽇になって東⼤最⾼議決機関である評議員会において設置が否決されてしまう。 
「わだつみ会」は設置を求める運動を起こしたが東⼤の拒否の姿勢はかわらず、他の⼤学も設置をひきうけず、像はそれから2年本郷のアトリエに眠り続けることとなった。 

 2.「わだつみ像」⽴命館へ 
⼀⽅で「わだつみ会」の運動はマスコミを通じて報道され、⻘年学⽣に急速に波及し、全国の⼤学・⾼等学校などに「わだつみ会」の⽀部が⽣まれた。 
敗戦から5年、未だ連合軍占領下にあり、戦⽕の記憶冷めやらず、⼆度と再び戦争を起こすまいと誓う世論の中で起こった朝鮮の惨禍に、多くの若者が起こした反戦平和の⾏動だった。 
⽴命館においても「わだつみ会⽴命⽀部」が結成され、運動を進め、「わだつみ像」誘致が開始された。


3.「わだつみ像」建⽴と平和への誓い 
サマリー不戦のつどい-2
  こうした社会背景の中で、「わだつみ像」が製作されてから2年、ようやく⽴命館⼤学広⼩路学舎、研⼼館前に建⽴されることになったのである。 1953 年 12 ⽉ 8 ⽇、「わだつみ像」の建⽴除幕式が執り⾏われた。台座には、表側に「像とともに未来を守れ」の銘板が取り付けられ、裏側には末川総⻑が揮毫した「未来を信じ未来に⽣きる」で始まる⽂が取り付けられた。この銘板は、当時末川総⻑を筆頭に⽴命館が「わだつみ像」に託した
平和への誓いであり学園の在り様を⽰すものとなった。 
建⽴除幕式で学⽣の代表により「不戦の誓い」が読み上げられた。戦争が終わってまだ8年、惨禍の記憶が強く残る中での誓いの⾔葉である。 



不戦の誓い
 わだつみ像よ 
 かつて私たちの先輩は、 愛する⼈々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは⼤陸の荒野に空しい屍をさらしました。 
その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。再び銃をとらず、再び戦いの庭に⽴たぬことを。 
 わだつみ像よ 
  かつて私たちの先輩は、何の憎しみももたぬ他国の⻘年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い⾎を流しました。 その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。 
再び他国の⻘年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。 
 わだつみ像よ 
  かつて私たちの先輩は、魂のふるさとである学園で考える⾃由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校⾨から戦場へ送り出されました。 その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。 
  学問の⾃由と学園の⺠主々義の旗を最後まで⾼く⾼く掲げることを。     ⼀九五三年⼗⼆⽉⼋⽇ 


4.「不戦のつどい」の始まりと教学理念「平和と⺠主主義」 
1954 年 12 ⽉ 8 ⽇、「わだつみ像」建⽴から⼀周年の⽇、第1回「不戦のつどい」が開催された。
それは、「わだつみ像」の前で反戦平和の誓いを胸に刻むつどいで、以来「⼤学紛争」の期間を含めて今⽇まで、⼀度も⽋かさず開催されている。 ⽴命館構成員参加の下で開催される「不戦のつどい」での誓いは、「わだつみ像」とその台⽯に刻まれた⾔葉とともに、後に教学理念「平和と⺠主主義」の確⽴に繋がっていくのである。

 5.「⼤学紛争」、「わだつみ像」破壊・再建・再建⽴ 
  ⽴命館⼤学での「⼤学紛争」は、1968 年 12 ⽉、⽴命館⼤学新聞社での暴⼒事件を直接のきっかけにして噴出したが、それまでの10数年の間に、「不戦のつどい」は⽴命館にしっかりと根を張っていた。それは台⽯の末川総⻑の「未来を信じ 未来に⽣きる」の⾔葉とともに、反戦平和の象徴だけでなく、⽴命館の在り様の象徴となっていた。 

サマリー不戦のつどい-3
 ⽴命館での「⼤学紛争」はわずかなうちに激化し、建物の封鎖・破壊、暴⼒⾏為の常態化を経て講義も⼊試も卒業式も⼊学式すら開催できないまでに荒れ、学内の⺠主的討議では解決できず、ついに警察・機動隊の介⼊という事態に⾄った。「わだつみ像」は、その真只中の 1969 年 5 ⽉ 20 ⽇全共闘を名乗る者により破壊された。 
頭は割られ、腕はもぎ取られ、引き倒された上にペンキで落書きをされている。⽴命館では、こうした⾏為を批判するとともに、わだつみ像再建の取組みを始めた。翌年の 1970 年 12 ⽉ 8 ⽇には⽴命館関係者や全国の⼈々の寄付により再建されたが、再破壊の危険から元の場所には設置することができなかった。
 







6.「⼤学紛争」から学ぶ、そして教学理念「平和と⺠主主義」の確⽴へ 
サマリー不戦のつどい-4
わだつみ像に誓い、四半世紀も「平和」「⺠主主義」を標榜し実践していた⽴命館になぜ「⼤学紛争」が起こったのか?この時の⽴命館総⻑事務取扱(事実上の総⻑)であった武藤守⼀経済学部⻑は、「学園通信」(1969 年 10 ⽉ 5 ⽇)で保護者に向けてこのことを書いているので一部をここに抜粋する。             

 「--- 35年の安保改定以後、国内の⽭盾は拡⼤し、その反映として、それを受け⽌める学⽣の⽴場と⾏動に統⼀性が困難となり、さらに外部からの策動もあって、統⼀とは逆に対⽴と憎しみの度を加えることになりました。このために⽴命館⼤学においても、⺠主的体制をもちながら、⺠主的運営に重⼤な⽀障を来たすこととなり、数年間にわたって全学協議会を開くことができなくなりました。そのために、学⽣諸組織の間の摩擦が次第に激化し、昨年⼗⼆⽉中旬には学園新聞社問題をめぐって、ゲバ棒が公然と現れるに⾄り、総⻑選挙規定の改訂もできなくなりました。(中略) われわれは全共⽃を責め、政府を追求し反対するだけでなく、⾃ら顧みて改⾰すべきことは⼤胆に改⾰するという積極的な姿勢と具体的な⽅針をもたねばなりません。」
その後、全学での討議を経て「⽴命館⼤学の現状と課題について」(1970 年 10 ⽉ 24 ⽇ 学内理事会)が出された。その文書では、「平和と⺠主主義」の教学理念は憲法・教育基本法の理念であって、⽴命館の特⾊として写るのは、歴史の中で、どのようなことがあってもこれを忠実に護ろうと努⼒してきた結果にすぎない。とその原点を明⾔した。 
  以後、⽴命館の発行物、全学協確認等には必ず「平和と⺠主主義」が、⽴命館の原点として記載されるようになり、とりわけ⽴命館の教育の有り様(教学)を語るとき必ず「平和と⺠主主義」が教学理念として記述されるようになったのである。 
  また同時に強調されたのが、「学園の問題は、全学構成員の徹底した⺠主的討議によって解決する。暴⼒は絶対にゆるさない。」という姿勢であり、教学優先の原則であった。

 
 7.⽴命館⼤学国際平和ミュージアムの設⽴と「わだつみ像」    
教学理念「平和と⺠主主義」の具現化の要として設置されたのが、「⽴命館⼤学国際平和ミュージアム」であった。 
 「⽴命館⼤学国際平和ミュージアム」は、1992 年、⽴命館の教学理念「平和と⺠主主義」と平和教育・平和研究の実績を基礎に、戦争体験を語り継ぎ平和を願う市⺠に⽀えられて設⽴された。 
  他に類を⾒ない⼤学⽴の平和博物館は「平和と⺠主主義」を教学理念に掲げる⽴命館学園であるがこそのものである。学園の歴史を⾒つめてきた「わだつみ像」は、こうして「国際平和ミュージアム」に移設され、「不戦のつどい」もここで開催されることとなったのである。 
 
2020 年 12 ⽉ 8 ⽇     
⽴命館 史資料センター

サマリー不戦のつどい-5













平和ミュージアムに移設された「わだつみ像」

2020.11.27

<懐かしの立命館>「不戦のつどい」「わだつみ像」そして「教学理念」


「不戦のつどい」は立命館の教学理念である「平和と民主主義」を体現し、未来を創造してゆく若者たちのために平和を守り続けることを約した重要な式典である。それは同時に学園アイデンティティ確立過程の振り返りの機会でもある。そしてその象徴が「わだつみ像」である。
 本稿は、戦後日本の歴史の中で、これらが相互連関しながら現在の立命館の姿を創って来た事歴を振り返る。

1.「わだつみ像」誕生

 「わだつみ像」は、1931(昭和6)年以降のアジア・太平洋戦争末期、ペンを銃に持ち替え戦場へとかり出されて、再び生きて帰ることのなかった戦没学生たちの「嘆き」「怒り」「苦悩」を象徴した像である。1950年彫刻家 本郷新の作で戦没学生記念像として広く世に知られる。

不戦のつどい-1

この像製作の始まりは、1949年10月にさかのぼる。
当時東京大学協同組合出版部から『きけわだつみのこえー日本戦没学生の手記』が刊行され、大きな社会的反響を得て版を重ねていた。この刊行収入を基に「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」が発足し、その最初の事業のひとつとして戦没学生記念像の制作が企画されたのである。
この書名の「わだつみ」は「わた(海)のかみ」を意味し、同誌刊行にあたって書名公募に応じた京都在住の歌人で学徒兵の経験を持つ藤谷多喜雄の短歌から引用された。


 なげけるか いかれるかはた もだせるか きけはてしなき 

   わだつみのこえ






戦没学生記念像の企画は、1950年4月「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」発足時に発表され、彫刻家本郷新氏により同年8月15日に完成したのだが、この製作中の6月に朝鮮戦争が勃発した。
製作者である彫刻家本郷新は、後に像の製作について次のように語っている。


 「私はかねがね「平和」に関する記念碑を試作してみたいと考えておりましたところ、戦没学生記念会から、是非作ってほしいという依頼をうけました。私が像に着手したのは一九五〇年三月で、朝鮮の戦争は、まだ始まっていませんでした。不戦のつどい-2この像を作るに当たって、私の頭を去来したのは「わだつみのこえ」は、戦没した学生によって、語られ、叫ばれたのでありますが、その内容は、ひとり学生のみに関することではなく、多くの労働者、農民、市民をはじめ、女性によっても叫ばれた、人権の尊厳、生命の価値に関する問題であるという考えでした。それで「わだつみのこえ」を具象化するには、金ボタンの学生姿でなければならないという考え方にはどうしてもなれず、といって、ぼろぼろの軍服を着た、死に瀕する兵隊でも物足りない。そんなことから私は一人の美しい肉体を持った青年の裸体の中に、すべてを内包させようという考え方に落ちつきました。」
「この像は戦場に空しく散り果てた多くの学徒の心理の中で、複雑に交錯している悶えと、なげきと、怒りをシンボライズしています。」
(1953年12月8日 立命館大学建立除幕式での挨拶 より)

「わだつみ像」は東京大学構内に設置することで、当時の東大総長南原繁の内諾を得ていた。台座も工学部丹下健三助教授(当時)がデザインし、12月8日の太平洋戦争開戦記念日の除幕に向けて準備されていたが、直前の4日になって東大最高議決機関である評議員会において設置が否決されてしまう。
「わだつみ会」は設置を求める運動を起こしたが東大の拒否の姿勢はかわらず、他の大学も設置をひきうけず、像はそれから2年本郷のアトリエに眠り続けることとなった。

2.「わだつみ像」立命館へ
一方で「わだつみ会」の運動はマスコミを通じて報道され、青年学生に急速に波及し、全国の大学・高等学校などに「わだつみ会」の支部が生まれた。
敗戦から5年、未だ連合軍占領下にあり、戦火の記憶冷めやらず、二度と再び戦争を起こすまいと誓う世論の中で起こった朝鮮の惨禍に、多くの若者が起こした反戦平和の行動だった。
立命館においても「わだつみ会立命支部」が結成され、運動を進めた。この運動の一環として「わだつみ会立命支部」は立命館関係者の戦没者を追悼することを目的とする「全立命戦没学生追悼慰霊祭」の開催を呼びかけ、学友会や体育会、教職員組合等で実行委員会が組織された。
 12月8日、「全立命戦没学生追悼慰霊祭」が開催され「わだつみの悲劇を繰り返さない決意を新たにし、理性と勇気をもって、いかに嵐が吹く日であろうと、平和の道を歩むことを誓います」と趣意書が読み上げられ、「わだつみ像」を立命館大学に迎えようとの提案が採決されている。
 その日末川総長は「学生諸君を再び戦場に送ることは許さない」と挨拶し、立命館大学の「わだつみ像」誘致が開始された。

かくて1953年11月8日 「わだつみ像」は立命館大学広小路学舎に着く。立命館大学の建立委員会では、11日の昼に京都市中パレードを、夜には「わだつみ像歓迎大会」を実施する。不戦のつどい-3パレードではトラックに乗せたわだつみ像を先頭に、末川総長がオープンカーで続く。河原町通から五条通を抜け烏丸通を回るパレードで、多くの市民の歓迎を受けた。
 夜の「わだつみ像歓迎大会」は他大学の学生も多く参加することになったが、ここで歴史に残る二つの事件が起こる。「荒神橋事件」と「京都市警前事件」である。
 

「荒神橋事件」は、「わだつみ像歓迎大会」に参加するため京都大学から立命館大学に移動していた約120名の学生が、鴨川にかかる「荒神橋」で警官隊の阻止にあい、木製の欄干が壊れて十数名が河原に転落負傷するという事件だった。
 事件発生後「わだつみ像歓迎大会」でこの報告がなされると歓迎集会は抗議集会に切り替えられ、京都市警察本部への抗議デモ実施が採決された。京都大学、同志社大学、京都学芸大学(当時)、立命館大学等の学生約700名が京都市警察で抗議行動をとっている最中、約200名の警官隊が突入し、数名の重傷者を含む約70名の負傷者が出た。これが「京都市警前事件」である。(1948~1954年までは京都市警察があり1955年7月から京都府警察に統合)

 この二つの事件は、当時の世論を二分した単独講和・日米安保両条約の締結、破防法の施行や警察予備隊の発足、朝鮮戦争休戦後の厳しい東西対立という国内外の緊張した情勢の中で起こされたものであった。
 

3.「わだつみ像」建立と平和への誓い

 こうした社会背景の中で、「わだつみ像」が製作されてから2年、ようやく立命館大学広小路学舎、研心館前に建立されることになったのである。

不戦のつどい-4
 1953年12月8日、「わだつみ像」の建立除幕式が執り行われた。
 台座には、表側に「像とともに未来を守れ」の銘板が取り付けられ、裏側には末川総長が揮毫した「未来を信じ 未来に生きる」で始まる文が取り付けられた。
 この銘板は、当時末川総長を筆頭に立命館が「わだつみ像」に託した平和への誓いであり学園の在り様を示すものとなった。







未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。
その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだせを象徴するのがこの像である。本郷 新氏の制作。
    なげけるか いかれるか はたもだせるか
      きけ はてしなきわだつみのこえ
  この戦没学生記念像は広く世にわだつみの像として知られている
   一九五三年一二月八日
立命館大学総長 末川 博 しるす


建立除幕式には、全国から平和を願う2,000名をこえる学生、市民が集い、末川総長、日本戦没学生記念会(わだつみ会)理事長柳田謙十郎氏、像制作者本郷新氏、像命名者藤谷多喜男氏などが列席している。
その折、学生の代表により「不戦の誓い」が読み上げられた。戦争が終わってまだ8年、惨禍の記憶が強く残る中での誓いの言葉である。


不戦の誓い

わだつみ像よ
  かつて私たちの先輩は、
愛する人々から引きさかれ偽りの祖国の光栄の名の下に、或いは南海の孤島に、或いは大陸の荒野に空しい屍をさらしました。
その悲しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。
  再び銃をとらず、再び戦いの庭に立たぬことを。

わだつみ像よ
  かつて私たちの先輩は、
何の憎しみももたぬ他国の青年と偽りのアジア平和の名の下に、愚かな殺し合いの中で尊い血を流しました。
その嘆きのかたみであるあなたの前に私達は誓います。
  再び他国の青年と戦わず、共に組んで世界の平和を守りぬくことを。

 わだつみ像よ
  かつて私たちの先輩は、
魂のふるさとである学園で考える自由も学ぶ権利も奪われ、なつかしい校門から戦場へ送り出されました。
その苦しみのかたみであるあなたの前に私たちは誓います。
  学問の自由と学園の民主々義の旗を最後まで高く高く掲げることを。

                          一九五三年十二月八日


関連記事:<懐かしの立命館>「未来を信じ 未来に生きる」の意味


4.「不戦のつどい」の始まりと教学理念「平和と民主主義」
 
不戦のつどい-5
 1954年12月8日、「わだつみ像」建立から一周年の日、第1回「不戦のつどい」が開催された。
それは、「わだつみ像」の前で反戦平和の誓いを胸に刻むつどいで、以来「大学紛争」の期間を含めて今日まで、一度も欠かさず開催されている。
立命館構成員参加の下で開催される「不戦のつどい」での誓いは、「わだつみ像」とその台石に刻まれた言葉とともに、後に教学理念「平和と民主主義」の確立に繋がっていくのである。
 
 


「わだつみ像」の台石に掲げられた「未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。」という部分に込められた思いに関わって、末川総長は自伝(末川博著『彼の歩んだ道』岩波新書 一九六五年)で次のように述べている

不戦のつどい-6
「それにしても、この間で最も痛惜にたえないのは、若い人たちが戦場にかり立てられて帰ってこないことであり、わけても二十一年前のいわゆる学徒出陣でペンを銃ににぎりかえて学業なかばに悲壮な気持ちで戦列に加わった青年学徒が散り去ったことである。
これらの学徒が高めようとしていた知性を否定され、みがこうとしていた理性をふみにじられる矛盾を止揚しえないままに、その矛盾のなかで散華したのを思うと、断腸の感なきをえない。(中略)
人間の幸福と世界の平和のために貢献しうる学問のみが真に学問と呼ばれるに値する。そして人造りのための教育もまた、このような真の学問の上に立ちながら、愛情と理解と信頼によって行われなければならない。」


学問は人間の幸福と世界の平和への貢献をその使命とし、未来においてそれをなしうるのは、今学問に打ち込む青年であること、だからこそ戦争を廃し、青年の未来を守らなければならないのだというのである。
 50年代の初頭、国内の誰もが平和を願い、民主主義を尊重することを当然と受け止めていた。末川総長もあえて「平和と民主主義」を教学理念であると明言はしていない。
だが、「未来を信じ 未来に生きる」の言葉の意味するところは、後の教学理念を示しているのである。


5.「大学紛争」、「わだつみ像」破壊・再建・再建立

 立命館大学での「大学紛争」は、1968年12月、立命館大学新聞社での暴力事件を直接のきっかけにして噴出したが、それまでの10数年の間に、「不戦のつどい」は立命館にしっかりと根を張っていた。それは台石の末川総長の「未来を信じ 未来に生きる」の言葉とともに、反戦平和の象徴だけでなく、立命館の在り様の象徴となっていた。

不戦のつどい-7
 
立命館での「大学紛争」はわずかなうちに激化し、建物の封鎖・破壊、暴力行為の常態化を経て講義も入試も卒業式も入学式すら開催できないまでに荒れ、学内の民主的討議では解決できず、ついに警察・機動隊の介入という事態に至った。
 「わだつみ像」は、その真只中の1969年5月20日全共闘を名乗る者により破壊された。
頭は割られ、腕はもぎ取られ、引き倒された上にペンキで落書きをされている。

 この事態について、後日製作者本郷新が寄稿している。












不戦のつどい-8
     
               わだつみ像         本郷 新

 正しくは戦没学生記念像―わだつみの声
 この青年像は一九五〇年に制作された
 それは朝鮮の真只中であった
 アメリカ軍占領の時空であった
 
 それから二〇年正しくは一九年後
 1969年 戦争を知らない若い学生の無智と無恥の暴力 
によって破壊
 それはベトナム戦争の真只中であった
 アメリカのスパイ艦と偵察機が朝鮮半島の陸と海を徘
徊する時空であった

 わだつみ像は戦没学徒の反戦平和への叫びを人々の前に訴え続けてきた
 日本の若者も外国の婦人もこの像の前で平和の誓いを新たにしてきた
 だが いまその像の姿はなく
 われわれの目の前には
 風雪二〇年の汗と埃にまみれた一つの石の台座があるだけであるー」
『わだつみ像再建をめざして』(「わだつみ像」再建実行委員会事務局 1970年7月25日)

関連記事:<懐かしの立命館>立命館大学の長い1日 その日「わだつみ像」は破壊された


  立命館では、こうした行為を批判するとともに、わだつみ像再建の取組みを始めた。翌年の1970年12月8日には立命館関係者や全国の人々の寄付により再建されたが、不戦のつどい-9再破壊の危険から元の場所には設置することができなかった。1970年~1975年の間、広小路学舎の図書館に保管され、5月20日と12月8日の「不戦のつどい」の時だけ、二体の「わだつみ像」(破壊されたわだつみ像と再建されたわだつみ像)が人々の前に設置されていた。









不戦のつどい-10


1975年12月、再建された「わだつみ像」を再度設置(再建立)するために「わだつみ像建立立命館大学実行委員会」が結成され、グッズ販売や募金活動を行い、1976年5月20日、衣笠中央図書館に再建立されている。












6.「大学紛争」から学ぶ、そして教学理念「平和と民主主義」の確立へ

 わだつみ像に誓い、四半世紀も「平和」「民主主義」を標榜し実践していた立命館になぜ「大学紛争」が起こったのか?
 
 1945年敗戦直後、立命館は末川博を学長(後に総長)に迎え、憲法や教育基本法の平和主義、民主主義を忠実に守り、主権者である国民に広く開かれた学園をめざした。
 不戦のつどい-11
それは、後に「相対的低学費」と呼ばれる他大学に比して安い学費の設定、現在まで続く市民に高等教育を開放する「立命館土曜講座」、60年代に実施した読売テレビの「テレビ大学講座」など、より多くの国民へ高等教育の機会を保障しようという試みであり、そして「総長公選制度」「全学協議会制度」などの学園構成員全体で学園の方向を決めてゆくという「全学構成員自治」という考え方の実践(後に「立命館民主主義」と呼ばれる)であった。
 これらは相応の批判はあれども、確信をもって進めてきたはずだった。
 その立命館で、全学構成員自治の主体である学生自身の中から、暴力による「学園自治の破壊行為」が発生したのである。


 

大学紛争が激化して間もなくの1969年4月、学園はこれまでの立命館の在り方についての総括を始めた。
 それは正しいと信じて進めた戦後のとりくみの自己批判であり、教訓の抽出であり、その上に立って次の時代に進むための全学の合意と方針の策定であった。

この時の立命館総長事務取扱(事実上の総長)であった武藤守一経済学部長は、「学園通信」(1969年10月5日)で保護者に向けてこのことを書いている。
少し長いが、この時期の「空気」と立命館の考え方が端的に記されているので引用する。

「大学紛争は、全国的な現象であって立命館大学だけのことではなく、根深い問題をも含んでおりますので、われわれとしては当面の対策も重要であるが、同時に根本策についても検討を進めて来ました。これによって、いままでの立命館大学が社会から一定の評価を受けてきた基礎の上に、さらに新しい施策を加えて、今こそ大学改革の先駆的役割を果たしたいと考えております。(中略)
世界のいたる所で思想的・政治的・経済的・軍事的にその他あらゆる面で矛盾や衝突が絶えず生じています。世界はまさに変革期にあるといえます。このような世界の中にある日本でありますから、非常な発展の側面をもちながらも、累積する矛盾の拡大、それが大きな底流となっていることを否定することはできません。(中略)
 このような国の内外の動きをまず敏感に感じとり、不安に思い、それを直接に行動に現わしがちであるのが青年であり学生であります。ただ、それを正しく受け止め、正しく行動に移すかどうか、ここに大きな問題があります。(中略)
矛盾を最も敏感に感じ不安に脅やかされる彼ら自身が、その出身階層に制約されて、意識は観念的に、行動はラジカルに陥り易いという弱点をもっています。(中略)
不戦のつどい-12立命館大学が戦後急速に発展した原因は果たしてどこにあったのでしょうか。平和と民主主義を教学の基本理念としていたこと、民主的体制の確立、経理の公開、低学費、教学の充実などといろいろ挙げ得るでありましょう。いわゆる「立命館方式」といわれるのは、総長選挙への学生参加をはじめ、全学協議会を中心として教職員・学生が一体となり得る全学的な民主的体制があったからであります。このような自他ともに許す民主的立命館にどうして紛争が生じたのでしょうか。(中略)
 それは三十五年の安保改定以後、国内の矛盾は拡大し、その反映として、それを受け止める学生の立場と行動に統一性が困難となり、さらに外部からの策動もあって、統一とは逆に対立と憎しみの度を加えることになりました。このために立命館大学においても、民主的体制をもちながら、民主的運営に重大な支障を来たすこととなり、数年間にわたって全学協議会を開くことができなくなりました。そのために、学生諸組織の間の摩擦が次第に激化し、昨年十二月中旬には学園新聞社問題をめぐって、ゲバ棒が公然と現れるに至り、総長選挙規定の改訂もできなくなりました。(中略)
われわれは全共斗を責め、政府を追求し反対するだけでなく、自ら顧みて改革すべきことは大胆に改革するという積極的な姿勢と具体的な方針をもたねばなりません。立命館大学ではすでに、大学の理念から始まって、教学の内容・条件・体制の全般にわたる改革のための討議資料を全教職員・学生に配布し、全学的討議の中で、新しい大学のあり方、新しい立命館大学のヴィジョン確立のために、目下努力中であります。」

全学での討議は「大学改革のための討議資料」(1969年4月30日 立命館大学(学内)理事会)として提起された。
その後約1年半をかけて、教授会、学友会・自治会、各クラス、職員の職場、教職員組合などでの議論を経て、「立命館大学の改革についての答申」〔一拠点、教学、学生規模、管理運営、財政〕(1970年9月19日長期計画委員会)としてまとめられ、「立命館大学の現状と課題について」(1970年10月24日 学内理事会)が出された。
それは危機を乗り越え、立命館学園の存在理由を再確認したものであった。この文書からその部分を引用しよう。 

不戦のつどい-13

 「二、立命館大学の立場 
 わが学園の現状と将来を考察するためには、まず立命館大学が何を拠り所にし、何を目ざしてきたか、学園の基本的立場を確かめておく必要があります。(中略)本学は戦後一貫して『平和と民主主義』の教学理念を標榜してきました。しかしこれは、なにか他の大学と異なる特別の目標を追求しようとしたのではありません。平和と民主主義のための教育・学問という理想は、敗戦後新しい憲法と教育基本法がつくられた時、戦争と軍国主義の惨苦を体験してきた国民が、過去の歴史の深い反省にたって、これからのわが国教育の根本理念として確認し合ったものです。わが大学が多少ともこの点で特色ある学風をもっているように人々に映るとすれば、それはただ、立命館大学がこの二十年余、そうした国民的理想にもっとも忠実であろうと努力してきた大学の一つであるからに過ぎません。」
 








つまり「平和と民主主義」の教学理念は憲法・教育基本法の理念であって、立命館の特色として写るのは、歴史の中で、どのようなことがあってもこれを忠実に護ろうと努力してきた結果にすぎない。とその原点を明言しているのである。

 以後、立命館の発行物、全学協確認等には必ず「平和と民主主義」が、立命館の原点として記載されるようになり、とりわけ立命館の教育の有り様(教学)を語るとき必ず「平和と民主主義」が教学理念として記述されるようになったのである。
 
 
また同時に強調されたのが、「学園の問題は、全学構成員の徹底した民主的討議によって解決する。暴力は絶対にゆるさない。」という姿勢であり、教学優先の原則であった。
 1970~80年代の学園では、この前提にたって全学協議会に重きを置き、教学条件の改善を中心として、事務の民主化や職員の教育的な役割(1973年度全学協議会)学園規模や学部学生数削減という抜本的改革(1979年度全学協議会)を進めた。特に1983年度の全学協議会では「学ぶ主体」としての学生の教育の在り様が主として議論され、現在の立命館教育の特徴に繋がる教学システムが確立してゆくこととなる。

関連記事:
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<懐かしの立命館>「総長公選制度」と「全学協議会制度」の始まり


7.立命館大学国際平和ミュージアムの設立と「わだつみ像」そして立命館憲章
  
 1970年代80年代の学園は、教学理念「平和と民主主義」を確信をもって推し進め、
全学構成員自治の下、学園の将来像を「長期計画」として討議決定してゆく。
 学園のこの方式は長らく「長期計画委員会方式」と通称され、討議決定までの時間は大変かかるが、決定してからは全学が一致して実現に邁進するという心強い仕組みであった。
 それは、社会が要請する新たな学際分野である「国際関係学部」(1988年)の開設、滋賀県・草津市との連携によるBKCの設置と、理工系の新たな学問領域の開拓を目指した理工学部の拡充移転として結実してゆく。
 
不戦のつどい-14 

その中で、教学理念「平和と民主主義」の具現化の要として設置されたのが、「立命館大学国際平和ミュージアム」であった。
 「立命館大学国際平和ミュージアム」は、1992年、立命館の教学理念「平和と民主主義」と平和教育・平和研究の実績を基礎に、戦争体験を語り継ぎ平和を願う市民に支えられて設立された。

 






1990年の「設立趣意書」には
「今日、人々のなかで戦争体験の記憶がうすれてきています。一方核戦争の恐れや地域紛争など、人類の平和に生きる権利をおびやかす深刻な問題が生まれています。過去の歴史に学びながら現在の状況を科学的にとらえ、未来にむけての平和への道筋を明らかにすることが必要となっています。
 (中略)
立命館大学は、故末川博総長をはじめとする多くの人々の手によって、戦没学生を記念する“わだつみ像”を建立し、「再びペンを銃にかえない」決意を宣言しました。その後、40年近くにわたって“わだつみ像”は、立命館大学の「平和と民主主義」の教育理念のシンボルとなってきました。
「国際平和ミュージアム」は、立命館大学の平和研究・教育の蓄積に支えられ、戦争体験を語り継ぐ運動にこめられた国民的な願いに応えてつくられる博物館です。」

とあり、戦争と平和を教育研究・展示するだけではなく、立命館学園のアイデンティティそのものの具現化であることを示している。

不戦のつどい-15

他に類を見ない大学立の平和博物館は「平和と民主主義」を教学理念に掲げる立命館学園であるがこそのものである。
 学園の歴史を見つめてきた「わだつみ像」は、こうして「国際平和ミュージアム」に移設され、「不戦のつどい」もここで開催されることとなったのである。
 
 








時を経て、2006年。2つの大学・大学院、4つの高等学校、3つの中学校、一つの小学校を擁する総合学園となった立命館は、改めてこれまでの立命館の歩みを振り返り、学園の社会的使命・理念・原則・教訓を全学討議の中で集約し、立命館総合学園の学園アイデンティティを明文化した。それが「立命館憲章」である。

2020年12月8日 
立命館 史資料センター


参考文献:
・立命館百年史編纂委員会『立命館百年史 通史二』p.p.952-963 (学校法人立命館 2006)
・立命館百年史編纂委員会『立命館百年史 通史三』p1228(学校法人立命館 2013)
・立命館大学『未来を拓く ようこそ立命館へ』(立命館大学 2020)
・学校法人立命館 附属校教育研究・研修センター『立命館で学ぶ君たちへ』(学校法人立命館 2020)
・大南正瑛 加藤周一編著『立命館大学・学徒出陣50年刊行委員会 わだつみ不戦の誓い』(岩波ブックレット339 1994)
・パンフレット『わだつみ像再建をめざして』(「わだつみ像」再建実行委員会事務局 1970年7月25日)
・パンフレット「像と共に未来を守れーわだつみ像再建立記念―」(わだつみ像建立立命館大学実行委員会 1976年5月20日)
・立命館 史資料センター「立命館の基礎知識」(『立命館 史資料センター紀要』2号所収 2018)

2020.10.20

<懐かしの立命館> 記憶に残る 末川総長の言葉から

195060年代の立命館大学卒業生や立命館中高卒業生、また現在までの多くの大学卒業生や中高卒業生には、末川総長が語り掛けた言葉が様々に記憶されています。

 

「未来を信じ 未来に生きる そこに青年の生命がある」

「理想は高く 姿勢を低く」

 

でも、その記憶は、世代、中高、大学、学部で微妙に異なっていて、校友の方からも正確にはどのように言っていたのだろうか?などの質問が史資料センターに寄せられることがあります。

 

この項では、みなさんの記憶に残っている様々な「末川博の言葉」の典拠をご紹介させていただきます。

 

1.未来を信じ 未来に生きる そこに青年の生命がある。

 最も多くの校友の記憶に残るのは、この言葉でしょうか。

 1953128日に広小路キャンパスに建立された「わだつみ像」の台石に刻まれたこの言葉は、その後、卒業記念色紙や学生に配布された冊子類に度々掲載されました。

 1981年の衣笠一拠点時には、バスプールに「未来を信じ 未来に生きる」の記念碑も建立され、2006年制定の『立命館憲章』にも織り込まれ現在まで継承されている言葉です。

 


195312月建立のわだつみ像台石 碑文(拓本)

記憶に残る 末川総長の言葉から-1

 「未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだえを象徴するのがこの像である。本郷 新氏の制作。

    なげけるか いかれるか  はたもだせるか きけ はてしなきわだつみのこえ

この戦歿学生記念像は広く世にわだつみの像として知られている。

 一九五三年一二月八日 立命館大学総長 末川博しるす」

 

 校友が記憶している「未来を信じ」の原点はこの碑文なのですが、それでも「もだせ」(黙ること)が「もだえ」になっていたり、「わだつみの像」と記載されていて、よく記憶されている方からは時々質問をいただきます。

史資料センターでは、「もだえは誤記で正しくはもだせ」「わだつみの像もわだつみ像も間違いではない。現在はわだつみ像と呼称している」と回答しています。

 

19613月から19643月の大学卒業生全員に渡された記念色紙

 記憶に残る 末川総長の言葉から2

「未来を信じ、未来に生きる。そこに青年学徒の生命がある。

 その貴い未来と生命を、諸君は自ら汚がしてはならず、他から奪われてもならない。これから諸君の進む道は、ジグザグと時には暗く時には険しいこともあろう。だが、諸君がいつも心に太陽をもって希望に燃えながら前進するとき、脚下の大地は揺ぎなく、頭上の星は黎明の近きに輝く、理想は高く姿勢は低く、学習を終生の業として一歩づつ前へ前へと進もう。かくて、諸君の若い生命は、二十一世紀の平和なすばらしい歴史につながる。諸君の自重と自愛を望むや切である。

 一九六一年三月二一日 平素諸君に語ったことばをつらねて  末川博」

 この色紙はわずか4年間だけのものだったのですが、末川総長が事あるごとに繰り返していたフレーズが入ったもので、記憶にある言葉がほぼ網羅されているものです。

 しばしば、校友の方からは「理想は高く 姿勢“を”低く」であったか「理想は高く 姿勢“は”低く」であったかとの問い合わせもありますが、「一般的には 姿勢“を”低くですが、姿勢“は”低くもあります」とお応えしています。「は」はこの色紙の言葉で使われていますね。

 

 

2.理想は高く 姿勢を低く 

この言葉は、立命館中学校・高等学校卒業生の方のほうが記憶に残っていると思います。

 


①立命館中学校・高等学校 深草キャンパス正面に掲げられた銘板                        

記憶に残る 末川総長の言葉から-3

記憶に残る 末川総長の言葉から-4

「理想は高く 姿勢を低く、大地に足をふんまえて 一歩づつ前へ 前へと進もう。

末川博」

 

1988年、立命館中学校・高等学校が北大路から深草に移転した際、正面階段中央にこの銘板が掲出されました。10月頃であったといいます。

以来、中学高校の生徒は必ずこの前を通って学校に通っていました。自ずと記憶に残ったことでしょう。

北大路キャンパス時代には末川総長(1977年逝去)がよく生徒に講演をしていたのですが、

深草キャンパス時代の生徒にとっては、この銘板の言葉と先生が語る末川総長の話でその人となりを想像していました。

 

この銘板は2014年の長岡京キャンパス移転時に正門横に移設されており、現在の生徒達もまた記憶に残してゆく言葉となっています。

 


②別パターン1 

 記憶に残る 末川総長の言葉から-5

「理想は高く姿勢を低く 大地に足をふんまえて ゆっくりとがっちりと 前へ前へと進もう

未来を信じ未来に生きる 青壮の君におくる 末川博」

 

③別パターン2

記憶に残る 末川総長の言葉から-6

「理想は高く姿勢を低く いつも心に太陽をもって ゆっくりとがっちりと 理論を貫いて実践に生き 実践を通して理論を究め 前へ前へと進もう 

 未来を信じ未来に生きる 君の洋々たる前途を祝福して 末川博」

 

②と③は「理想は高く 姿勢を低く」で始まる言葉の別パターンの色紙です。「いつも心に太陽をもって」や「ゆっくりとがっちりと」という末川総長がよく使った言葉が挿入されています。

この言葉を記憶されている方もおられるでしょうね。

 

 

3.法の理念は正義であり 法の目的は平和である だが 

先の言葉は多くの校友の方の記憶に残っているものと思います。でも特に「法学部」の校友の方が最も記憶しているのは、この言葉でしょう。

 

①衣笠キャンパス存心館1階ピロティの銘板

 

 

存心館入口の銘板

 記憶に残る 末川総長の言葉から-7

 


   法の理念は正義であり 法の目的は平和である だが 法の実践は 社会悪と たたかう 闘争である 末川博」

   

   この銘板は、法学部創立80周年記念(ちょうど1981年の衣笠一拠点の時)で、新たな立命館大学衣笠キャンパスのシンボル棟「存心館」の1階ピロティに掲げられたものです。

   立命館の前身「京都法政学校」は法科学校として1900年に創立されましたから、法学部は立命館の歴史そのものです。そして末川博は戦前戦後を通じた民法の泰斗でありましたから、立命館大学法学部にとって末川博総長は格別の位置でもあったのです。

   現在も存心館1階ピロティにはこの銘板が掲げられ、法を学ぶ学生達に末川の思いを伝えています。

 

                        202010月23日 立命館 史資料センター 奈良英久

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